アプリを開くと、今日の配信はまだ始まっていなかった。
代わりに、前に途中まで聞いたアーカイブを再生する。
イヤホンを耳に差し込むと、すぐにあの声が静かに流れ出す。


『――今日もよく降るねー。
これってもう梅雨じゃね? これが梅雨じゃなかったら梅雨入ったらどうなんのって感じだよなぁ。てなわけで毎日のように配信してるわけだけど、毎回聞いてくれる人いるとしたらマジでありがとー』


軽く弾くような口調。
でもその奥に、どこか誠実な響きがあるのがわかる。


『お、『アメノナカさん』今日もありがとー。アナタだけですよ、毎回コメントくれるのは……ううっ。
えーっと……『毎日だいたい同じ時間に同じ景色を見てます。今まで変わらないのはつまらないと思ってたけど、それがあると落ち着くこともあるんですね』……って。
……あー、それ、すごいわかる。なんか、同じ景色って、安心の形みたいなとこあるよな』


ふっと、歩く足を緩めた。
アメノナカさんってたしか学校に行ってないんだっけ。
変わらないことを「落ち着く」って言えることが、少しだけ、羨ましいと思った。
私だったら、変わらない毎日に、たぶん不安ばかり数えてしまうから。


足元に目を落とすと、雨がアスファルトの歩道をしっとり濡らしていた。
なにもかもが雨に染まった灰色の世界で、傍らに咲く紫陽花の色彩が際立っている。
だけど道行く人は誰もその花を見ようとしない。
足早に過ぎていく人たちのなかで、ほんの一握りだけが、立ち止まりふと目を向ける。
夏生のラジオは、雨の世界の紫陽花かもしれない。
大多数の人にとってはなくても困らないものだけど、それを目にするだけでホッとする人だっているんだ。
――私みたいに。


公園前をちょうど通りかかったから、傘を持ち上げ中を覗いた。
ここからだと滑り台の土管の中がよく見える。
いつもより早い時間だけど夏生はいるだろうか……。
そんな期待は、けれどもすぐに打ち砕かれた。


「いない……」


まだ来ていないってことか、もしくは土曜日だから配信スケジュールが違う?
それとも……もしかして今日は来ない、とか。
ありえる。夏生はてきとうだから、雨の日に絶対ここで配信している、なんて言いきれなかった。
でも……。


スマホ画面を見る。今日の配信はまだない。
少しだけ待とうか……そう思ったけれど、画面の隅に表示された時刻を見てハッとする。
――しまった。雨衣との約束、もうすぐだ。
特に用があるわけでもないのに、雨衣は少しでも遅れると小一時間むくれるのだ。
病院帰りにもう一度寄ってみよう。
私は後ろ髪惹かれる思いで公園を後にした。