殺人事件から二十数年後 別荘廃墟にて
さて、このミステリー「殺人事件ライラック(ブリキの花嫁と針金の蝶々)」は実際にネット上のWeb小説として、「ノベマ!」にて連載されている。
作者は尾崎諒馬である。
そうして実際にネット上に公開されたことで、二人の男が無事に会うことができ、初めて対面している。
「尾崎さんですか? 初めまして、藤沢です」
「藤沢元警部ですね? こちらこそ初めまして、尾崎です」
簡単な――本当に簡単な自己紹介を終えると、二人は車に乗り込んだ。藤沢元警部が運転し、尾崎は助手席に座った。
「警察の人間だったことは確かですが、もう退職してます。それに勿論、藤沢は本名ではないですので」藤沢元警部が言った。
「勿論、承知してます。まあ、私の方も本名は伏せさせてもらいます。藤沢元警部」尾崎がそう返す。
「いや、藤沢さんでお願いします」
「なるほど、警部ではなく警視でしたか? 失礼しました」
「いや、そういう意味じゃなくて――。退職しても守秘義務はありますしね。一応用心してのことですが本名は隠しますし、階級も隠したいのですよ」
「おやおや、信用されてませんね」尾崎が笑った。
「このミステリーに書かれるんでしょ? 最終的に私のことも」藤沢が少しおどおどした態度で訊く。
「さあ、どうでしょう。しかし多少の覚悟はしていただかないと」
「覚悟ですか……。まあそうですね。私も男です。九州男児です。このまま『藤沢という仮名で、警察を退職した男』というのだけ晒すのであれば、ある程度覚悟を決めますよ。私も知りたいことがありますし――」
「わかりました」
そうして二人の男は険しい山道を奥へ奥へと進んでいく。途中、離合も難しい部分が何か所もある狭い道路を小一時間進んでようやく目的地に着いた。
視界が少し開けて路肩に車を停められるスペース――雑草が生い茂っており、もはや駐車場とは言えない――があり、そこに車を停めた。
「あとはしばらく歩かないといけませんね」
舗装されていない砂利道――実際は雑草に覆いつくされた獣道といった道を二人で上っていく。
「もう二十年以上手入れされていないのでちょっと大変ですな」藤沢がハンカチで汗を拭きながらぼやく。
「なつくさや つわものどもが ゆめのあと」尾崎が歌うようにそう言った。
「なるほど 有名な俳句ですね。では――」藤沢も俳句で答える。「むざんやな かぶとのしたの きりぎりす」
「俳句、詳しいですね。その作者は――」尾崎は嬉しそうに笑って「いや、なんかミステリーがありましたね」
「そうそう」藤沢も嬉しそうだった。
「そのミステリーは……」尾崎は少し考えてから「犯人は松尾芭蕉でしたね」
「は?」藤沢は困惑した顔をした。
「いや、藤沢さんが『そうそう』なんていうから……。あ、思い出した。犯人は〇〇〇でしたっけ? ここは九州、邪馬台国のあったところ……。まあ九州とはいっても、南九州ですけどね」
「あ、あの似非ミステリー? いや、そうではなくて。日本を代表する本格ミステリーの――」
「勿論わかってますよ――まあ、そんなにミステリーに詳しいわけじゃないですけど――あれが似非というのも、藤沢さんが、言っている日本を代表する本格ミステリーの方も」
それだけ言うと尾崎は脚を止めた。そして、右側をじっと見ている。
「どうしました?」
「横に側溝があるでしょ?」
「え? ええ、砂利道の右側に――」
「右側――というか横です。私は横の溝をじっと静視してるところです」尾崎が可笑しそうにそう言う。
「ああ、なるほど」藤沢は笑った。
「かぶとの下のキリギリスはただ閉じ込められたわけじゃなくて――」尾崎は相変わらずじっと何かを静視している。「もし、首を挟まれたとしたら……」
「いや、あれは蜂ですね。種類は――やばいなスズメバチじゃないですか」藤沢もびくっとして体を硬直させた。
尾崎の視線の先に大きな蜂――たぶんスズメバチ――がいた。
「うーん、直接見るのは初めてです。動画では見たことあるんですが」
「尾崎さん、スズメバチ見るの初めてですか?」藤沢は不思議に思ったがすぐに理解した。
スズメバチの頭がおかしかった。
「や、もう完全に切り離されている!」尾崎が素っ頓狂な声を上げる。
スズメバチの頭と胴体は完全に分離していたが、蜂は何とかしようともがくように二本の前足で自身の頭をくるくると回転させていた。切り離された蜂の頭も顎がガクガクと動いている。
二十秒ほどそうしていたが、ふいに蜂の胴体は頭をほっぽりだしそのまま飛び去っていった。残された蜂の頭は地面に落ちたが相変わらず顎をガクガクさせている。
「むざんやな 見捨てられたる ハチの頭 字余り」尾崎がぽつりといった。
「誰の?」と藤沢。
「私」と尾崎。
「季語は?」
「さあ」尾崎は笑った。
砂利道を上っていくと別荘――いや、かつて別荘だった廃墟が見えてきた。
「火事で燃えましたよ。全焼でした」藤沢が言った。
「しかし、あれは凄いですね」尾崎が驚いたように呟いた。
「全焼して基礎だけが残っている感じですね。でも――」藤沢も同意する。「凄いと言えば凄いですね」

「まあ、後にしましょう。とにかく基礎が残っていれば間取りくらいはわかるかもしれないし」尾崎はおそらく玄関だったところまで進んでいたが、すぐに少し引き返して右に曲がる。つまり、母屋――今は基礎だけの廃墟だが――の玄関に向かって左へ進んでいく。
「母屋の前はライラックが植えてあったんでしょ?」尾崎が訊く。
「さあ、種類というか名前まではわかりませんが、木が植えてあったかもしれませんね。全部、燃えてしまいましたが」
「紫の花が咲いていた?」
「さあ、どうでしょう。とにかく現場は火事現場ですから」
「まあ、そうでしょうね」尾崎は立ち止まり「離れも燃えてしまって、残っているのは基礎だけですね。あとわかるのは……確かにバケツが何個かありますね。わかるのはそれだけか……」
「まあ、とにかく全焼でしたから。現場検証のあと、近藤グループが取り壊して片付けたはずですが、結構大雑把ですね」
「今、近藤グループと言いましたね」尾崎が笑った。「実際の企業グループ名は違うのに」
「もう、このままあの小説――ミステリー中の固有名詞で通しますよ。私も藤沢だし、あなたも尾崎でしょう?」藤沢も笑った。
「ここは夢の国なんでしょうねぇ、ミステリーという」尾崎がとぼける。
「さあ、どうでしょう」藤沢はちょっと間をおいて「とにかく、ほぼ基礎しか残っていないので、どうしようもないでしょう? これで何かわかりますか?」
「ここ――この離れって密室だったんでしょう?」尾崎が訊く。
「さあ、どうでしょう?」
「藤沢さんの視点――捜査する警察の視点で事件をミステリーとして書いてみたらどうです」
「尾崎さん」藤沢は首を振って「現実の事件はミステリーのようには書けませんよ。ミステリーだと登場人物の事件当日の行動が地の文で『〇〇はどうした』とか書かれるわけですけど、警察の立場、視点でいくと、到着後に残された現場と、あと証人が何と喋ったか、だけで、とてもミステリーのようには――、それに実際には――いや、これはやめておきましょう」
「何を言い掛けたかはわかりませんが、その前はなるほどですね。それは私も同じでね。ただ基礎だけが残った現場を見ても何ともかんとも――。ただ――」
「ただ?」藤沢が訊く。
