祈りの届く距離



「もうええかな」

低いのによく通る声が女の子達の真ん中かから聞こえてきた。

「俺、先生に呼ばれてんねん」

「……え?」「うん、ごめんね」

微妙な空気が流れ、女の子達の輪が崩れる。

ひとりが「場所わかる? 案内しようか?」と言ったが
史郎は「ええわ。この前来た時に、だいたい見て回ったから」と素っ気なくその輪から抜け出した。



様子をぼんやりと眺めていた私も、見ているのがバレるのは少しばかり恥ずかしいので、おもむろに机から小説を取り出す。さっきからずっと読んでいましたよ、と言わんばかりの涼しい顔も忘れずに作る。


しかし史郎が私の席の横を通った時、折りたたまれた紙が机の上に乗った。


「え?」


と顔を上げるともう史郎は教室を出て行っていた。

紙を開くと『豚まんって購買に売ってる?』と書かれており、混乱する。


え? なに? どういうこと?
豚まん、売ってないけど。

あんなに素っ気なくしていた人が渡してくる手紙とは思えないほどの綺麗な字と、そこに添えられたあまり上手ではない豚のイラストが書かれてたものだから、戸惑う。


私はとりあえず追いかけてみようと廊下へ出ると、すぐそこに史郎がいた。


「うわっ、びっくりしたぁ!」

驚いたのは史郎のほうだった。

「私の方がびっくりだよ」

「いや、出てくるかなぁっとは思ってたけど、勢いが思ってた以上で」

「豚まんは売ってないよ。学校出てすぐのコンビニならあるけど」

「ええ〜。まじか」


史郎は演技がかった様子で、おでこに手をやって項垂れた。本当にそれだけを聞きたかったのだろうか。彼の真意が掴めない。

おそらくこの教室の場所だって本当は把握していたはずだし、昇降口から付き添ってくれたのも足を痛めた私を気遣ってのことだろう。


それに彼氏が他の女の子に付き添って歩いていくのを見送って、独りでとぼとぼ教室へ向かうのは心が苦しかったから、私にとって史郎はやっぱり救世主のようだった。


でも不思議なのは、彼にとって私はたまたま助けた同じ学校の生徒のひとりのはずで、二度も助けてもらう義理はない。


昨日のを見て同情してくれているのだとしたら、その必要はないのにとも思う。助けた野良猫を飼えだなんて思わない。

その一度の救いが私の命を繋いだのだから、ただただ感謝するだけだから。


「あのさ……」

史郎が言いかけたのを遮って

「葵ー!」と馴染みの声がした。

史郎が先に「ん?」と振り向く。

「あ、彼氏やん」


「ごめん、葵! 」駆け寄ってきた悠斗は息を切らせて膝に手をついた。


「うん? どうしたの、そんなに慌てて」

「あの後すぐに葵のとこ行こうと思ったんだけど、予鈴なっちゃって、今になった。だって、よく考えたら彼女置き去りにして、他の女の子を保健室に送るのってダメだよなって思って」


悠斗がそう言うのに対して「大丈夫……」と笑みを作った私だったが、「へぇー。そういうの気がつくんやなあ」と史郎が口を挟んだ。

悠斗が史郎の存在にたった今気づいたかのようにはっと顔を向ける。

「えっと、君は……?」

「今日転校して来ました、横溝 史郎です。こちらのお嬢さんは僕が教室まで送り届けたんで大丈夫ですよ」


この人懐っこい関西弁が、突然牙を向いたように鋭く光った。

私は史郎の横腹を小突き「何言ってんのよ。私が教室の場所が分からない史郎を案内したの」と悠斗に訂正する。


「……そう、今日転校してきたんだ。それにしては仲がいいね、知り合い?」


そう言った悠斗の顔が、見たことないくらいに歪んでいた。そっかこの人は怒るとこういう顔をするんだ、と自分と離れた遠いところでそう感じた。