アパートの2階、203号室前、元父親が吹っ飛んだ。


離婚してから、定期的にお金をせびりに来ていた元父親が、家に押し入ろうとドアをこじ開けようとする。


それを私とお母さんとで「お願い、やめて」「早く帰ってよ!」力いっぱいノブを握って追い返そうとしていた。

しかし男の力というのは残酷にも、圧倒的だった。少しのドアの隙間からお母さんの胸ぐらを掴み上げ、思いっきり突き飛ばした。たんぽぽの綿毛がこちらに飛んでくるみたいにお母さんが飛んでくる。


「お願い! やめて!」


そう叫びながらお母さんを受け止めた私は、尻もちをついて後ろに転がる。

「もう、やめて……お願い、お願い、帰ってよ……」

悲痛に声を上げると、元父親は地団駄を踏むようにして怒りを露わにした。


「だったら、早く金出せって」



もう暴力に出られたら、私たちは抵抗する手段がない。お母さんもそう思ったのだろう。


入口に背を向け、私に目配せをする。お金を取ってくる、そう合図されて頷いた時だった。

お母さんと元父親越しに見えた光景を、私は死ぬまで忘れないと思う。


その男はスローモーションのように2階のアパートの柵を飛び越え現れた。陸上選手がハードルを飛び越えるような軽やかさで、柵に手をかけ、勢いのまま元父親を、飛び蹴りにした。


曇天の真昼に、少しだけ晴れ間が見えた。


呆気に取られていると、その男はやけに芝居がかった関西弁で「あ、すみません。やりすぎましたかね」と無様にも目を白黒させている元父親を覗き込んでいる。


その男が救世主なのか、はたまた敵が2人に増えてしまったのか、この数秒で色々と過ぎった。


「あれ、その制服……」


男が着ているのは私と同じ高校の学生服だと、ふと気づいた。それで安心……まではいかないが、親近感ゆえか少しだけ警戒は解ける。

ほっとしたのもつかの間、元父親が情けない姿で男を見上げた。


「お前、なんなんだよ!」


と声を裏返らせるこの人と、血が繋がっているんだと思うと、なんだかガッカリしてしまう。

学生服の男は見下ろしたまま「聞かれて答えるわけないやろ」と鼻で笑い「おっちゃん、もう帰ったら? 格好悪いで、な?」と宥めた。


端正な顔立ちをした学生服の男は、親しみのある関西弁ながらも、有無を言わせない迫力があった。元父親も気圧されたのだろうか、学生服の男と小さく言葉を交わすと、あっさり帰って行った。


ただ、帰り際に私たちの方を睨んだところからして、また来るんだろうと察しはつく。次はこれより酷いだろうとも。

「あれ? 血、出てんで」

「……え?」

「膝、膝。ほら、擦りむいてる」男は自分の膝をとんとんと人差し指で差す。

「あ、ほんとだ」

お母さんが突き飛ばされたのを庇った時に擦りむいたみたいだった。

これくらい、大丈夫。そう言おうとした時、お母さんが「ごめんね。ちょっとまってて葵、すぐ救急箱持ってくるわね」とお母さんがリビングへと駆けていった。

「大丈夫なのに……」


お母さんの骨ばった背中を見送る。
受け止めた時のお母さんの背中は、思っていた以上に細くて、小さくて、哀しかった。

子供の頃はすごく大きくて逞しくて、頼りになるお母さんの背中だったはずなのに。


頼りっぱなしだったんだな。ありがとうの気持ちと、何も出来なくてごめんなさいの気持ちが静かに私の心を締め付けた。



「えーと。んじゃあ、俺行くわ」


ふと顔をあげると、学生服の男が私に向かって片手を上げていた。

「ちゃんと戸締りせんと、またあのおっちゃん入ってくんで」

「あ、うん。ありがとう」

今度は階段からちゃんと降りて、男は下の階に行った。上から見送ると、彼は道の端っこに放り出された紙袋とカバンを拾って、もう一度私に片手を上げ去っていく。