「ゴールデンウィーク、たった三日で終わるなんてつまんない……」
朝の列車で、高嶺由衣が窓の外を眺めながら不満そうにつぶやく。
「まだ前半が終わっただけでしょ?」
「そりゃぁそうですけどぉ〜」
「なら、自主休校にしたらよかったじゃない。いまから家に帰ればゆっくりできるわよ。ねぇ海原くん?」
三藤先輩は、朝から絶好調だ。
まぁ、僕を会話に挟まないでくれると、なおよいのだけれど……。
……その余裕がねぇ。
大人の女は、怪しいって思うんだけどなぁ〜。
「おはようございます」
三藤月子は、駅でわたしに会うと。
いつもどおりきれいにお辞儀をしながら、朝の挨拶をしてくれた、のだけれど。
「あら、珍しいのね」
「えっ?」
いつもなら、サラリと右手で横に流すだけの前髪を。
今朝はやけに熱心に、珍しく手鏡まで使ってしきりに気にしている。
「前髪、切ったんだね」
「ちょ、ちょっと伸びてきたと思って、ついでなので……」
いったい、どんなついでがあったのだろう?
そもそも気にするほど伸びていなかった前髪を、わざわざ揃えたんだよね。
もちろん、そんなことは口にしないよ。でもこれは早速、佳織に報告しないと!
「あぁ、若いっていいなぁ〜」
列車の扉が開くタイミングでつぶやいたひとことは、聞こえなかったのだろう。
逆に隣の女の子は、そのとき。
「切りすぎてないわよね……」
わたしのことなど気にかけず、自分の世界に入り込んでいた。
若いといえば、この子たちのおかげで。
赤根玲香が、本当に明るくなった。
「毎日、帰るのが楽しいんです!」
そういわれるのはなんだか、彼女の通う学校の教師としては複雑だけれど。
色々吹っ切れると人間、あんなにも変われるんだっていういい見本よね。
ただね、海原君。
あなたこれから大変よ。
いったい、どうやって『責任』を取っていくつもりなのかしら?
まぁお手並みじっくり、拝見させていただくわ。
でもいまは、とりあえず。
この、目の前で落ち込んでいる子を、どうにかしてあげないと。
海原君。これはお姉さんとして、貸しにさせてもらうからね!
……高尾先生が、カバンの中をゴソゴソしている気配を感じると。
「はい、あげる!」
「えっ?」
顔を上げると、太陽みたいな笑顔の先生が。
カラフルな表紙の英語のフアッション雑誌を取り出し、わたしの前に差し出している。
「おしゃれするときのね、なにかの参考になればどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
わたしが誰かのために、着飾った私服で出歩くとしたら。
それは、どんなときだろう?
いやむしろ、そんなときはくるのだろうか?
受け取った雑誌には、いまのわたしには目に痛すぎるほどほど。
色とりどりの洋服を着たモデルの写真が、たくさん並んでいる。
連休前の、放課後。
機器室に戻ったときの違和感を、わたしは忘れてはいない。
「目に、大きなほこりが入ったの。なかなか取れなくて、大変だったわ」
都木先輩も春香先輩も、帰りの列車で一緒になった玲香先輩だって。
三藤先輩の、そんなあからさまな嘘は信じていない。
ただ、誰も。
いったいなにがあったのかを、聞かないであげただけ。
「そ、そっか……。部室、もうちょっと掃除しなきゃダメだね」
都木先輩が一番最初に、その嘘に乗ってあげた。
それが、悲しいものでなかったのは。
涙の跡を見ただけで。
誰だって、わかるから。
だから余計に、わたしはなにもいえなかった。
……三日あれば、自分の気持ちが少しは落ち着くかと思った。
だけど、リアルに存在するこの人を前にすると。
なんだか三年経っても、解決しなさそうな気がしてしまう。
乗り換え駅で、高尾先生が。
あの人とアイツとの距離があいた一瞬のあいだを利用して。
わたしにそっと、ささやいた。
「高嶺さんたちが落ち込むほど、世の中は進んでないよ」
「えっ?」
驚くわたしの顔を見て、先生はもうひとこと付け加える。
「あれは、ふたりがようやく『過去』を見つけただけ」
そうやって、ニコリと笑った先生に。
あのとき、聞いておけばよかったことがある。
ただ、そのときのわたしにはまだ。
未来のことなんて、見えてはいなかった……。
……モヤモヤした気持ちが晴れないまま、放課後がやってきて。
全員が機器室に集合すると、微妙な沈黙が流れている。
するとまるでタイミングを見計らっていたかのように、藤峰女王がノックなしに扉を開ける。
「いたいたっ! みんな、ちょっと借りるよっ!」
「えっ、またですか……」
「だって困ってるのよ! 頼りにしてるよ、ミスター・ウナハラ」
能天気な先生が、昼休みに続いて海原を連行していく。
なんかアイツ、完全に女王のオモチャになってるよね……。
ふたりの足音が遠くに消えると。
窓から中庭を眺めていた三藤先輩が、わたしたちに聞いてほしいことがあるとつぶやいた。
はたしてそれを聞いたら、わたしは楽になれるのだろうか?
都木先輩も、春香先輩も。
なぜか緊張気味だけれど、聞く準備ができているようだ。
こういうときに、わたしはふと感じてしまう。
そう、わたしはこの人たちよりも、年下なんだ。
「学年のひとつやふたつ、大人になったらたいして変わらないわよ」
いつだったか高尾先生が、そんなことをいっていたけれど。
いまのわたしには。そこにまだまだ、絶望的な溝があるように思えてならない。
「三藤先輩の自分語り、聞かされるんですかぁ?」
そう、こういうのがまさに強がりだよね。
すでになんか、ちょっと負けた気分になる……。
先輩は、わたしの挑発には答えず。
女のわたしが見ても優雅な仕草で、いつもの指定席に腰をかける。
あまり、認めたくはないけれど。
その立ち居振る舞いはやっぱり……。美しいと思う。
「……連休前のことについて、伝えておきます」
だよね、それだよね……。
わざわざ自分からいわなくても責められないことを、きちんと伝えるあなたを。
悔しいけれど、わたしは少しだけ尊敬する。
だってそうでしょ?
あまり、認めたくはないけれど。
自分にできるかと聞かれたら、わたしは……。
「小一の終わりに、近所で迷子になったことがあってね」
えっ? ここで昔話が始まるの?
もっと、アイツとの今後について聞かされるのかと思っていたわたしには。
ちょっと意外だった。
「……そのとき助けてくてね。会ったのはその一度きり。それをこのあいだようやく、思い出してくれたの」
ほ、本当だ。
高尾先生が正しかった。
ふたりが、ようやく『過去』を見つけたんだ。
聞いてしまえば、なんだそれだけ、という『告白』だけれど。
たくさんの想いが詰まっているのが、嫌でもわかってしまう。
実際には、それほど長いあいだではなかったのだろうけれど。
しばらくのあいだ、誰も口をひらけなかった。
「心配させて、ごめんなさい」
三藤先輩が、謝ることじゃない。
でも、いまのわたしじゃ口にできない……。
もう一度、沈黙が流れた。
「ねぇ、月子? だからなの?」
え、春香先輩。
もしかして、笑ってる?
「……どういうことかしら?」
「月子、だから暗かったんだね〜」
「陽子。わたしって、暗いのかしら?」
「暗いよ〜。だから月子いままで無口だったなんて。暗すぎる〜」
「し、仕方ないでしょ! 海原くんを見つけるまで、誰ともしゃべりたくなかったの!」
「ほら。やっぱり暗い〜!」
親友っていいな、とわたしは思った。
こうやってすべてを、包み込めるんだ……。
「ねぇ月子ちゃん。小一からってさぁ……。もう、高二だよ?」
「都木先輩とは違って、わたしは不器用なんです!」
包容力って、あったかいんだ。すごいな、都木先輩。
……わたしも仲間に、加わりたい。
先輩たちの中に、入りたい。
「えっと……。三藤先輩は、重たすぎます!」
すると先輩は、顔色ひとつ変えずに。
「あら。高嶺さんよりは軽いと思うわよ」
サラリと失礼なことをいう。
「体重のことじゃありませんけど!」
「あら、そんなつもりはなかったのに。認めてしまったわね」
や、やられた……。
「もう、いいからいいから!」
春香先輩が助けてくれて、それから四人で、笑い出して。
ふと、今朝の高尾先生の言葉が頭の中にこだました。
海原と三藤先輩が、もしかして『前に進み出した』のかと。
わたしは不安になって、落ち込んでいたけれど……。
「……高嶺さん『たち』が落ち込むほど」
……え?
もしかして?
それって他にも……。
ところが、タイミングがいいというか、悪いというか……。
ここでアイツが、部室に戻ってきた。
「まったく、藤峰先生の人使いの荒さときたら。……って、あれ? なにかあったんですか?」
三藤先輩、都木先輩、春香先輩の三人の目が。
一斉にわたしを見る。
そうだよね、こういう役目は、わたしの出番だ。
「三藤先輩がね、小さい頃からアンタがどんだけ鈍かったか教えてくれただけ!」
目を丸くしている海原に、残りの仲間も容赦ない。
「女の子をずっと待たすのは、ダメだよー」
「ほんと。本人と再会しても忘れてるなんて、ひどいよねぇ……」
「えっ……。三藤先輩? も、もしかして?」
「ふたりだけの秘密にすると、わたしはいった覚えはなかったのだけれど?」
……まったく。
なんなの、その挑戦的ないいかたは。
まぁきょうのところは、それでもいいよ。『月子』先輩。
……機器室の扉の、反対側で。
わたしは響子に、メッセージを送り終える。
のんびりと、背伸びをすると。
お節介な相方からは、すぐに返信が届く。
「ワクワク。こちらもプロジェクト、順調ナリ」
思わず、スマホの画面を見ながらニヤリとすると。
続けて、今度は。
パンのイラストが送られてきた。
扉の向こう側から、元気な声と悲鳴みたいな声が混じり合って聞こえてくる。
「いいね、こういうの」
思わず、そうつぶやいてから。
なんとなくわたしは、懐かしさにかられて。
外の空気を吸うために、歩き出した。


