部室の開いた窓から、ぼんやりと外を眺める。
 海原(うなはら)はいつごろわたしの所に、くるんだろう?
「あ、わたしの所じゃなくて、『機器室』に、だけどね」
 誰も聞いてないのに、わたしはわたし自身でセリフを訂正する。

 ふと机に目をやると、アイツの席のちょうど前に。
 先日の委員会の資料の束が置かれているのが、目に入る。

 ……きょうのわたしは、どうにかしている。

 一瞬迷ったものの、別に私信ではないのだからと。
 つい一枚だけ、めくってしまった。


「えっ……」
 やっぱり、見なきゃよかった。
 でも、わたしはなぜか。
 それをめくる手を、止められない。

 資料は、とても几帳面にまとめられていて。
 その打ち込まれた文字のあちこちに。わたしの見覚えのある、ややクセの強い字で書き込みが入っている。
 目に入ったものが、ただそれだけなら。
 熱心なメモだねで、わたしは終われたのに。
 アイツの近くには、華奢な達筆が混在していて……。
「前回の進行の課題」
「初回にしては、上出来よ」
「発言時間が平等になるように配慮する」
「遠慮は無用、次からはもっと厳しく」
 そうやってひとつひとつ、アイツのメモに返事が添えてある。

「次回の議題は?」
「先輩の提案通りで構いません」
「去年のままはダメよ、やり直し」
「で、できるだけ早く、考えます」
 ……なにこれ?
 まるであの人との、交換日記じゃん。
 すべての書き込みが、まるで目の前の会話のように、頭の中で再現されてきて。
 思わずわたしは目を背けると、急いで紙束を元に戻す。

「授業のノートよりも、しっかり書き込んであるし……」
 また、口から変な言葉が出てしまって。
 わたしは窓を開けて、すべての空気を入れ替えたくなった。


 窓を開けると、中庭からにぎやかな声が聞こえてくる。
 風にあたるついでにと窓から覗くと、そこには長岡(ながおか)先輩と山川(やまかわ)と、あと。
「えっ……?」
 なぜか、アイツがいる。
 慌てて見てみると、ほかにも三年生らしき男子バレーボール部員たちが集まって。
 アイツを囲んで、なにやら楽しそうに騒いでいる。
 バレー部だけならわかるけど、どうして海原まで輪の中に?
 なぜだか急に、わたしは不安になる。

「いったいどういうこと?」
 なぜか、早く聞きたくなって。
 でも、アイツにそんな気持ちが通じるはずなんてないだろう、そう思ったのに。
 偶然アイツが上を向いて、わたしと目が合うと。
 ……笑顔で大きく、手を振ってくれた。

 突然のことで、わたしは、笑顔を返せない。
 わたしは慌ててその場から離れ、すぐに窓をピシャリと閉めて、カーテンをひく。
 それから急いで、両手で耳を塞いで。
 怖くて部室の端で、うずくまる。
 ま、まさか……。
 アイツはバレー部にいっちゃうの?
 わたしと同じ部活を、辞めちゃうの?

 いきなり、とてつもなく大きな不安の波がやってきて。
 いままで、感じたことのない気持ちがわたしを覆い出す。


 ……それから少しして。
 薄暗くなった、機器室の扉の外から。
 かすかにバタバタと走る音と、聞き慣れた声が聞こえた気がすると。
 その音が、どんどん近づいてくる。
 アイツがきてくれた。
 でもいつもと違って焦っている、おまけに、声が大きい。

 え? どういうことなのこれ?

「バン!」
 大きな音を立てて、部室の扉が開くと同時に。
高嶺(たかね)! 大丈夫か!」
 息を切らしたアイツが、叫んでいる。

 ……あんなにうろたえたアイツの顔を見たのは、初めてだった。


 どうやら、しゃがみこんだわたしの位置が低過ぎて。
 アイツからは見えなかったらしい。
 机の向こうで、首をあちこち振ってわたしを探すその姿がおもしろくて。
 小さくプッと、声が出た。

「そこか! 大丈夫か!」
 わたしを見つけたアイツは。
 必死な顔をして、慌てて駆け寄ると。
 両手で、上からわたしの頭を鷲掴みにして。大声でわたしを呼ぶ。
「おい、高嶺っ! 意識はあるか!」


 ……もし、あのときわたしが。

 そのままアイツの胸の中に飛び込んでいれば、きっと……。

 でも、現実は。
 あぁ……。

「ちょ……。なにしてんのよ!」

 アイツが、いつもいっていた。
 ……わたしって、『黙っていれば、とってもかわいい』。

「手ぇ離してよ! 逆に、あ、頭痛いから!」

 ホント、そうだったかもしれないよね……。


 ……アイツは、山川たちに頼まれて。
 男子バレーボール部の、卒業アルバム用写真のポーズを確認していたらしい。
「体育館だと、女子バレー部とかがいて恥ずかしいからって、いわれてさ」
 ……って、だからってなんで中庭なの?
「それはよくわからん」
 ま、まぁそうか……。
 他の部活だしね、アンタが決めたんじゃないもんね。
「そういえば山川が。お前に頼んだのに断られたって泣いてたぞ」
 うそっ!
 今朝、渡り廊下でわたしが聞き逃していた山川の話しって、それだったんだ!

 アイツは、わたしが見えたから手を振ったのに。
 顔色が悪そうなままスッと視界から消えたから、もしかして部室の中で倒れて頭を打ったのかと驚いて。
 慌ててここに、飛んできた。
 ……これがことの顛末だ。

「アンタさぁ!」
 おかげでわたしは、『安心して』アイツを責められる。
「もしほんとに頭打ってて、あんなに掴まれてたらさ! わたし再起不能になってたじゃん!」
「ごめん、でもな……」
「なによ?」
「し、心配だったんだ……」
「えっ……」

 ようやく立ち上がったわたしは、ゆっくりと顔を上げて。
「だ、だったらさぁ海原……」

 それから海原をじっと見て、いつもよりやさしい声で。
「これからは、部室に先にいかせたりしないでね……」

 どう?
 わたしなりに少しかわいく、いってみたつもり、なんだけど……。


「……へ?」
 なによ、その返事!
 いま絶対、作ったキャラだとか思ってない?

 いまのは、わたしなりに精一杯、本当の気持ちを伝えたのに……。

 あぁ!
 アンタには。
 絶対、わからないかも知れないけどさ!

 少しはそこんトコ、いいかげん理解してよね……。



 ……このとき、わたしは。
 部室の前で、扉を開けられずに固まっていた。

月子(つきこ)が忘れ物なんて珍しいね」
「集会のあいだに読もうと思った書類よ。ちょっと取りにいってきていいかしら?」
 退屈な学年集会の時間に、海原くんに返事を書いておこう。
 そう思って委員会のプリントを、部室に取りに戻ろうとして。
 遠目に、海原くんがいつになく慌てて部室に入っていくのが見えた。

 直後、大きな声が聞こえてきて。
 それから、高嶺さんの叫び声も聞こえてきた。
 いったいあなたたちは、なにをやっているの?
 扉を開ければ、すべてがわかる。
 でも……。
 なんだか高嶺さんに、遠慮した。

「……大丈夫よね、きっと」
 わたしは自分にいい聞かせるようにしてから、扉の前をそっと離れる。


 職員室をとおり過ぎ、一階に降りると。
 無意識のうちに中庭の『花』のほうをみる。
 そろそろ、咲くころか。
 またこの季節がやってくる。そう思うとうれしいような、怖いような気になる。

 わたしは、果たして。
 一歩前に、進めるのだろうか?


 海原くんに見つけて、もらえるのだろうか?


 ……渡り廊下を歩いて、少し変わった場所に植えてある木の前を通り過ぎたとき。
 わたしの前を、静かに風がとおり抜けた。

 なにかに、まるで誘われたような感じがして。
 わたしはその場で一旦立ち止まると、胸の前で両手を広げる。

「海原くん……」
 わたしは左手の人差し指一本で、自分の右手の小指をさすりながら、その感触を確かめる。
 『あのとき』は、三本の指だったよね……。


 まだ、たいした日数も経っていないのに。
 ふと懐かしむように、あのときを思い出したわたしは。
 いまいる場所からは見えないとわかりつつも。
 教室棟の『あの場所』を見上げてみた。

 すると、ふたりだけで共有していた場所の、さらに上。
 大きくて青い空の中に、飛行機雲がひとすじ見えて。

 それからもう一度。

 わたしの前を、静かに風が通り抜けた。