……あぁ!
 最近のわたしは、どうかしている。
 わたしはお風呂上がりの鏡の前で。
 笑顔体操と称して頬を上げ下げしながら、自分自身に問いかける。

 ……原因は間違いなく、海原(うなはら)(すばる)、アイツだ。
 わたしが同じ中学から『丘の上』に進学したのは、積極的理由と消極的理由がある。
 前者は、できるだけ知らない人の多い高校に行きたかったから。そして後者は、よくわからないけれど。そうしないとアイツと違う学校になってしまうからだ。
由衣(ゆい)ちゃん。なんかそれって、理由が逆じゃない?」
 卒業式のときに、少しだけ仲の良かった子に理由を聞かれて答えると、その子は不思議そうな顔をしていた。
「そうかな?」
 まぁ、細かい違いなんてわたしにはあまり気にならない。

 あの中学も、それなりには楽しかった。
 でもこの栗色の髪の毛のせいか、はたまた『黙っていればかわいい』といううれしくない評判のせいか。
 常に女子からは一歩引かれ、男子からは勝手なイメージを押し付けられる。
 そんな日々が正直退屈だったり、窮屈だった。
 うわべだけの付き合いの女友達がいても、とりあえず告白しましたみたみたいな男子がたくさんいても、わたしはちっともうれしくない。
 中学でわたしはどこか、基本『違うところ』にいる人扱いだった。だけど海原だけは、わたしをわたしとして、見てくれた。
 唯一で、一番の理解者だった。

「ねぇ、由衣ちゃん。卒業記念にもうひとつ聞いてもいい?」
「いいけど、なに?」
 その子が、知りたかったのは。
 結局わたしたちが付き合っているのかどうか、ということで。
「ないない……」
 やっぱりその子もつまんないこと考えていたんだなと、少しガッカリした。

 わたしだって、恋をしたことはある。
 でもアイツのほうがマシそうだから、特に進むことはなかった。
 誰かが、アイツも恋してると教えてくれたことがあるけれど。ワタシのほうがマシだろうから、たぶんそれは間違いだろう。

 まだ始まったばかりだけれど、『丘の上』の生活はわたしには色々心地よい。
 明るい校舎も、吹き抜ける風も、いまのところ人間関係も。
 中学より人数が増えた分だけ、あるいは単に皆がより大人になりつつあるからだけなのか、いまいちよくわからないけれど。
 いままでと違う、それだけでもわたしは結構楽しんでいる。

 だけど、海原昴。アイツだけは、どうしても調子が狂う。
 これまでどおり毎朝途中まで一緒で、その先は別々。
 クラスが同じになったのも、いつまでかは知らないけれど席が隣同士なのも、アイツとは近い、ただそれだけ。
 ……それでよかったはずなのに。
 どうしていまのわたしは、こんなに心がざわざわするのだろう?

 海原は、わたしのモノではない。そんなことはわかっていた。
 でも、アイツは高校に入っても変わらず、わたしの『隣』にいてくれるものだと。信じて、心のどこかで疑っていなかったのだろう。
 ただ、きょうのことではっきりした。
 海原は、わたしのモノでもない。

 どうして、三藤(みふじ)先輩のところに行くの?
 いったいいつのまに、都木(とき)先輩と仲良くなってるの?
 春香(はるか)先輩もそう、藤峰(ふじみね)先生だってそう。
 なんであんなにかわいくてすてきな人たちが、アンタを取り囲んでいるの?

 ……わたしだけじゃ、ダメだったの?


「あぁ、なんかわたし。相当痛い女になってるし……」
 思わず鏡に独り言が出てしまう。
 そうだ、わたしは痛い女だ。 

 知らないうちに、アイツはわたしを置いて羽ばたこうとしている。
 わたしは、それについて行けていない。

「あぁ、なにこれ! やっぱ変! すんごく変!」
 わたしが変わればいいの? でもアイツなしでどうやればいい?
 そんなこと、わたし、できるのかな?
 でも、そもそもわたし……。
 変わらなければ、いけないの?

 明日の朝、いままでどおりアイツの隣の席に座れるかな……。
 わたしはベッドに入ると珍しく、いつもは窓枠に載せているぬいぐるみをひとつ手に取り、枕元に置く。えっと、やっぱりもうひとつ、あ、これも追加しよう……。
 いつのまにかわたしは、窓枠にあったすべてのぬいぐるみを移動している。
「なんか病んでるなー、わたし」
 そんなことを思いながら寝つく夜ほど、眠れるはずはなく……。


 ……翌朝、朝食の用意をするお母さんが思わずおかずを落としてしまうほど。
 わたしの両眼には大きな『くま』ができていて。
 いや、驚いたのはそれだけじゃない。
 だって今朝は、いつもより三十分以上早く、自分で起きてきたのだから……。
「いってきまーす」
「い、いってらっしゃい……」
 そういって驚いたままの父母をよそに、わたしは家を出る。

 毎朝歩く道を進み、いつもと同じ駅の改札を抜け、変わらぬ乗車位置で列車を待つ。
 ただ、すべてが「三十分早く」進んだいるだけ。

 もし学校の誰かに聞かれたときは、たまたま今朝は早く目が覚めたからと答えればいい。
 で、誰かっていったい誰?
 この列車には、いつもの誰かさんは乗っていないのに……。いったいわたしは、誰に気を遣っているの?
 普段ならその誰かさんに見えるようにと、無意識のうちに上げていた顔が。……今朝は、どうしても上がらない。
 目の前で扉が開き、うつむいたまま車内へ入る。この列車の車内も、予想どおりガラガラだ。
 三十分違うけれど、いつもの席に座るべきか少し悩みながら通路を進む。

 ……すると、最近覚えたばかりの声が、わたしを追いかけてきた。
高嶺(たかね)さん、おはよう。よければ一緒に、座ってもらっていいかしら?」
 アイツが会いに行っていると聞いてから、わずかだが予想はしていたけれど……。ほんとにこんなことって、あるんだな……。
 三藤(みふじ)月子(つきこ)の呼びかけに一瞬だけ、答えるのが遅くなった。

「気が進まないみたいね、高嶺さん……」
 そんな瞳でわたしを、見ないでほしい。
 寝不足の、こんなにひどい顔のわたしを見て。なにか楽しいですか?
 どうしてこんな顔なのか想像して、うれしいですか?
 なにか、ひとことでもいってやりたい気分だけれど。
 ……でもそんなの、ただのいいがかりでしかない。

 この人を前に笑顔になれるはずもないが、それでいて突っぱねるほど。いまのわたしは強くない。
 仕方なく無言で頷き、隣に座ろうとする。
 するとこの人が、『余計な』ひとことを口走った。


「きょうは晴れているから。奥の窓際へ、どうぞ」
「え?」
 その人はスッと立ち上がり、わたしが奥に入りやすいようにしてくれているけれど……。

「なんなんですか! それ!」
 溜め込んでいた感情のせいで、やや朝の車内にはふさわしくない声になって。数は多くないけれど、周囲の人たちが思わずこちらをみる。
 あぁ、やっちゃった……。
 そりゃぁ驚くよね、もう、なにもかもが嫌になる……。

 対して三藤先輩は、なにもいわない。
 ……いや、いえないのではなく。
 わたしを受け止めようとして、言葉をかけないのだ。

 仕方なく、わたしは窓際に座る。
 何事もなかったかのように、先輩は優雅にわたしの隣に座り直して。背筋を伸ばして見つめ直してくる。
 華奢な手から伸びる、細くて長くて白い指が、美しく膝の上で重ねられていて。
 あぁ、わたしとは違いすぎる……。

 この時期にしては憎たらしいほど、まぶしい朝の太陽が窓から入ってくる。
 まぶしい。
 この人も、太陽もまぶしい。
 どちらも、見られないし、見たくない。


 丁度、長いトンネルに入る。
 窓際に視線を移すと、列車の窓にこちらを引き続き姿勢良く見つめてくる、その姿が反射している。
 目に入るのは、知り合ってまもないわたしでもわかるくらい。
 その人の雰囲気が伝わる、不思議な表情だ。


 ……ふと。
 いまのわたしは、競えるような存在ですらない。
 今度は自然に、素直に受け入れることができた。

 わたしの、完全に負けだ。
 涙さえ流れないほどの、ボロ負けだ。
 わたしは膝の上で両手を握りしめると、一度だけ深呼吸して。

 背筋を伸ばし、両目を大きく開いて。
 小さいながらも力を込めて声を出す。


「ご挨拶が遅くなりました。三藤月子先輩。おはようございます」


 おそらく、これが……。
 いまのわたしにできる、精一杯の抵抗だった。