話しが尽きないのは、心が通い始めたからかもしれない。
「海原くん、きょうはわざわざ来てくれてありがとう」
やや赤い目をしながら、三藤先輩が戻ってくると。
「明日からは登校するから、この後は『学校』とは関係ないお話しをしても、いいかしら?」
僕にそう提案する。
制服姿の先輩と後輩という関係性の僕たちが、あえて学校と関係ない話しをする。なんだか奇妙なことだけれど、よくわからないうちに。どうやら藤峰先生から与えられた僕のミッションは、無事完了したようだ。
もちろん、このふたりの時間を自由に使える贅沢を放り出すほど、僕は野暮ではない。
先輩ともう少し話しができるのは、僕だって大歓迎だ。
「じゃぁ、まずは海原くんからどうぞ」
いきなり、僕ですか……。じゃぁ、えっと。
「あ、僕の家と、結構近所だったんですね」
「そうね、知っているわ」
じゃぁ小学校は? そう聞きかけて。あぁこれも『学校』の話しかもしれないと、僕は慌てて口に出すのを止める。
おそらく、先輩もそれに気付いたみたいで。以降はふたりとも小学校も中学校も幼稚園のことさえも、話題に出さない。
高校生の身分において、学校の話題を塞ぐということは。割となんというか、過去の大部分が閉ざされてしまった気になる。
だから正直、最初は先輩と話が続くのか心配になったのだけれど……。
だがそれは、一瞬の杞憂でしかなかった。
互いに好きだとわかったので、本の話しを始める。
何年生のときに読んだとかではなく、互いが読んだことのない本のあらすじを紹介したり、本の中で好きだったフレーズを紹介したりし合う。
話題としては、たったそれだけだったけれど。
縁側に吹く風が冷たくなる時間まででは語りきれないほどに、いつまでも会話が尽きることはなかった。
「丁度よい機会ですし。お夕飯もいかがかしら?」
そんな三藤母の申し出を断ったのは、僕ではなくて三藤先輩だ。
「また来てもらうから、それでいいいじゃない……」
伏せ目がちにそういうと、先輩は挨拶もそこそこに。自分の母から僕を引き剥がすようにして、僕を家の外に連れ出す。
「……海原くん、きょうはありがとう。いまはそれだけ、伝えたい」
やや物憂げで、ほんのり潤みがちで。
それでいてどこまでも澄んだ紺色のふたつの瞳が。
このときも、僕をしっかりと見つめていた。
「こちらこそ、突然お邪魔して申しわけありませんでした」
「海原くんからではなかったけれど、事前に電話は貰っていたわ」
「そういえばそうでしたね」
藤峰先生が、どんなふうに伝えたのか少し気になったけれど。まぁ聞いても仕方のないことだろう。
「それでは、また明日」
「また明日。おうちまでは、歩いて帰るのよね?」
「はい。並木道に沿って歩けば、すぐに着きますから」
「そうね、いまならよくわかるわ」
「えっ?」
「な、なんでもないわ。……じゃぁまた明日」
僕は、まっすぐ続く桜並木を歩き出す。
先輩が丁寧にお辞儀をしてから、控え目に手を振っているのが見えて。
それからなんとなく気になって、またしばらくして振り向くと。まだ先輩が、こちらを見てくれている。
僕の視力では、そろそろ限界だけれど、道はまだまだまっすぐ続く。
そういえば先輩の視力は、どれくらいまで見えるのだろう?
そう考えると僕は、自分には見えていないけれど、もしかしたらという思いで。歩きながら幾度となく振り返り、先輩に手を振ってみた。
これじゃぁ夏は暑いし、冬は寒いし……。
いつまでも先輩に待っていて貰うのは申しわけないから。次に帰るときは、三藤先輩に玄関に入ってもらってから、僕が出発しよう。
「あれ?」
いったいなぜ僕は、こんなことを考えたのだろう?
……海原くんの姿が、ついに見えなくなってしまった。
そのことだけを考えながら家の中に戻ると、母が明らかに残念そうな顔で、わたしに話しかけてくる。
「本当によかったの? わたしももっとお話ししてみたかったのに」
「いまからだったら、大した料理も出せないでしょ。それなら、別の機会でいいじゃない」
「あら、ということは。『次』があるということかしら?」
「べ、別にそういう意味じゃなくて……」
「じゃぁ、どういう意味かしら?」
母が、意味ありげな顔でわたしを見る。もう! 少しは余韻に浸らせてよね。
一呼吸おいて。
少しだけ遠慮がちに、母がわたしに聞いてきた。
「海原君、だったのよね?」
わたしは小さく頷くと。
ちょっと片付けてきますと伝え、母の前から隠れるように急いで消える。
「あんなに耳を赤くしてしまってまぁ。それにしても……長いような短いような。不思議なご縁もあるものねぇ……」
だから母の独り言は、わたしには聞こえなかったし。
「わたしが、間違える訳ないじゃない」
そんなわたしの独り言も、母には聞こえなかっただろう。
……時刻を日中に戻して。
海原君が既に駅から電車に乗って、月子ちゃんの家へと急いでいたのと同じ頃。
学校から駅へと向かうバスの中で。
わたしの前の席に座る高嶺さんは。
とにかくイライラしているみたいだった。
「まったく! なんなの? いつのまにかアイツ消えちゃったし!」
「う、うん……」
「結局きょうも、二年生わけわかんないし!」
「そ、そうかぁ……」
「で、さぁ! なんで山川が、わたしの前に座ってるわけ?」
比較的空いているスクールバスの車内に、少しだけ大きな声が響く。
「えっと……。た、高嶺さん。たまたまだよ、たまたま。駅まで長いんだし、俺だってバスで座りたいし……」
「……ったく、人の話聞いてる? なんで海原消えちゃってんの?」
「……お、俺にいわれても」
「じゃぁもういいから、うしろ向かないで! 前向いてなよ!」
「え、ええっ……」
そんな理不尽な会話が、目の前で繰り広げられている。
「高嶺さんって、やっぱり面白いよね!」
うずうずして、思わずわたしが声をかけると、驚いて高嶺さんが振り向いた。
「ウソっ、都木先輩! 気付いてなくてごめんなさい!」
「いいのいいの。で、ほらほらー。かわいい一年生がなにかいってるよ〜」
わたしは、隣に座る長岡仁に話しを振る。
「あ、もしかして長岡先輩だったんですか? わたしを褒めて下さったのって!」
「お、おぅ……」
……と、ここまでは良かったのだけれど。
「そうだ、都木先輩!」
「ん? どうかした?」
「海原がどこかに行っちゃったんですけど、なにか知ってませんか?」
……あまりに直球できた質問に、一瞬わたしの表情が固まって。
それを瞬時に見抜いた後輩の両目も、大きく開いて、固まってしまった。


