亮司さんと麦穂さんが会計処理を終えて戻ってきた。金額は無事に整合したらしく、単に麦穂さんがお札を数え間違えていたらしい。「麦穂はおっちょこちょいなんだよ」と亮司さんはため息を吐いていたが、まんざらでもなさそうだ。
キラくんが言っていたもう一人のトガワサンは、想像を超える強烈な男性だった。マスクの肌荒れの話から推測するに、お肌のことに詳しいなら女性なのではと想像していたけれど、あらためて偏見はよくないと自分を恥じた。
ハワイアンカフェMahaloは、亮司さんが経営しているお店らしい。厨房に立って調理をしているのも亮司さんで、ホールはアルバイトにお願いしているそうだ。
ただ、アルバイトが急な用事で来られなくなり、代わりにシフトに入れそうな他のバイトも見つからなかった場合、麦穂さんがピンチヒッターとしてホールに立つこともあるのだとか。
「私は普段、カメラマンなの」
「えっ」
予想外だった。こんな小さなからだで、大きなカメラを背負っているのか。
私の無遠慮な視線はすぐに気づかれてしまい、麦穂さんは力こぶを作ってウインクした。
「売れないカメラマンだけどな」
「亮司くんひどい。たしかに名の売れたカメラマンではないけど、稼ぐ分には困ってないもの。見ててよ、これから出世するんだから」
「おー、期待してる期待してる」
麦穂さんは日頃アシスタントをしていて、すきま時間に結婚式の前撮り撮影などを請け負っているようだ。
私はいたたまれなくなり、ちょっとだけ視線を下にさげた。そんな世界があるなんて、考えたこともなかった。職業として存在していることは知っていても、それはただの事実の断片でしかなかった。そこでは血の通った人間が生き生きと活躍しているというのに。そんなことさえ理解せず、一体私はなにを見てきたのだろう。
「にしても蛍人くんのほうから話があるんだけどって言ってくるの、珍しいよね。訊きたいことがあるんだっけ。どうしたの?」
円卓を四人で囲んでいる。キラくんはオレンジジュースの入ったグラスを両手で抱えながら、感情の読めない瞳でぽつりと言った。
「兄のことが訊きたいんだけど」
亮司さんと麦穂さんが、顔を見合わせる。
「なんだよ、初めてだな」
ぶっきらぼうな亮司さんの返事に、キラくんがうなずいて目を伏せる。
「蛍人は夏樹の話をしたくないんじゃないかと、俺らは思ってたけど」
「あながち間違いじゃない」
「まあ、あいつの話なら掃いて捨てるほどあるぞ? で、なにから訊きたい?」
「あの人、どんな人だった?」
亮司さんと麦穂さんはもう一度顔を見合わせて、難しそうな顔をした。
「軟弱野郎」
「ちょっと亮司くん、それは言い過ぎでしょ」
「めちゃくちゃ優しかった。優しすぎるやつだった、てことだよ」
亮司さんはクラフトビールの栓を抜くと、透明のグラスに注いで一気飲みした。そして、口のまわりについた泡を雑な仕草でぬぐう。
「優しさでさ、全身コーティングされてんの。嘘だろって思って、一枚ずつ剥がしていくじゃん? 剥がしても剥がしても優しいんだよ。つまり、馬鹿なんだよ、夏樹は」
「それって、ぜんぜん『つまり』じゃないよ。もう、亮司くんは夏樹くんのことになると、すぐに照れ隠しするんだから」
「うるせー、そんなんじゃない。だってよ、夏樹が怒ってるところなんて、ほとんど見たことないし。蛍人だってそうだろ?」
キラくんは黙って首肯する。
麦穂さんは不服そうな顔で、缶酎ハイのプルタブに指をかけた。ぷしゅっと空気が抜ける音がしたあと、麦穂さんは缶のふちに唇をつける。
「げ、まずい」そう言って、しかめ面をしている。
「麦穂なに飲んでんの」
「ライチとジンジャー、だって。なんかこれ、薬品の味がする」
「安酒だからだろ。ビール飲む?」
「やだ。苦いから飲みたくない」
麦穂さんは酎ハイの缶を持って厨房に消えてしまった。べつの飲み物と交換するらしい。
麦穂さんのうしろすがたを見送った亮司さんが、椅子の背もたれに体重を預けると、天井を見上げた。
「どんな人だった、か。蛍人、それって案外難しいぞ」
「なんで?」
「まず一言では言い表せないし」
「うん」
「夏樹が蛍人に見せていた顔、麦穂に見せていた顔、俺に見せていた顔は、おそらくまったく同じってわけじゃない」
厨房の業務用冷蔵庫をばたばたとあける騒々しい音が聞こえて、亮司さんは一瞬だけ顔をしかめた。
「意図的に使い分けてたって意味じゃねえよ。人間はそうやって生きてるから、って言えば伝わるか?」
「なんとなく」
「とくに夏樹は気にしいだったから、能天気な蛍人なんかよりもよっぽど、まわりの顔色を窺って生きてたぞ。とにかく、麦穂の意見も訊いてみれば」
そこへ、缶酎ハイを両手に抱えた麦穂さんが小走りで戻ってきた。大きな瞳が輝き、頬が上気している。
「麦穂、それぜんぶ飲む気?」
「選べなかったの。どれも良さそうじゃない?」
「これだからザルは。酒代は払えよ」
「亮司くんのケチ。お店手伝ってあげたのに」
「それについては給料渡してんだろ」
亮司さんは完全に呆れている。麦穂さんは新しく持ってきたお酒を飲みながら、「で、なんだっけ?」と小首をかしげた。
「麦穂は夏樹のことをどんなやつだと思ってた?」
「うーん、大人しい印象かな。亮司くんの言う優しいっていうのも合ってると思うけど。でも、どちらかといえば、大人しい。口数も多くなくて教室の隅でひっそりとしてる感じ。いつも困った顔してた気がする」
「そうだっけ? あいつ、いつも笑ってなかった?」
「亮司くんのまえでは笑ってたのかもよ?」
亮司さんと麦穂さんはああでもないこうでもないとキラくんのお兄さんの思い出話を繰り広げたあと、「言ったろ?」亮司さんがキラくんに声をかけた。
「俺がみてた夏樹と、麦穂がみてた夏樹は、やっぱり微妙に違うわけ」
「なるほど。意味がわかった」
「おう。人間はいろんな顔を持って生きてるからな。どれもその人なんだけど、だからこそ自分が見てるものだけがすべてじゃないんだよな。というか、それこそ蛍人は? 兄貴である夏樹のこと、どう思ってたんだよ」
自分が見ているものだけが、すべてではない。
そのことばが胸に残り、沈んでいく。自分が見ている世界だけを過信していた私は、気づかれないように手を握りしめた。
「優しくて穏やかな人、だな。亮司さんの持つ印象に限りなく近いと思う」
「まあ、だろうな。夏樹はおまえのこと、溺愛しまくってたし。ナナちゃん、俺は蛍人のことを赤ん坊のときから見てるんだよ」
突然話を振られ、私は顔を上げた。黒いサングラスをちょこっと下げて、優しそうな瞳が私を見ていた。
「こいつ、昔からほんとに悪ガキなの。今はどう? 問題起こしてない?」
「起こしてない起こしてない。ナナに余計なこと訊くな」
「相変わらず学校もサボりがちなんだろ?」
「亮司さんには関係ない」
キラくんは不機嫌な顔のまま「お手洗い」と言うと、立ち上がって店の奥に消えてしまった。学校、の単語に心臓がちくちくと痛み、目を瞑りたくなる。
ふと、亮司さんと麦穂さんの視線が自分に集まっていることに気がつき、私は肩を揺らした。
「わりいな、そういうつもりで言ったんじゃねえんだ」
私が首をかしげると、亮司さんは苦笑いする。
「学校のこと。ナナちゃんのことを言ったつもりじゃねえんだ、まじで」
「亮司くんはデリカシーがなさすぎ」
そうか、この二人はもう、私が不登校だということを知っているんだ。そう思い至ったとき、肩の力がふっと抜けるのを感じた。
「いえ、違うんです、私もすみません。キラくんは学校に行ったり、行かなかったり、らしいんですけど、学年が違うのでよくわからないんです」
「ああ、そっか。同い年じゃねえのか」
「はい。あと、すみません、ご挨拶できてなくて。今更ですが、都川奈々子といいます。今日はおいしいごはんをありがとうございました」
ぺこりと頭を下げたら、ふふふ、と麦穂さんのくすぐるような笑い声が降ってきた。顔を上げたら、そこには二人の穏やかな眼差しがある。
こういう大人もいるんだ。漠然と、そう思った。
「蛍人くんはどう? 彼、何を考えてるかわかりにくいでしょ」
「えっ、そうですね。でも、とても優しい、です」
「それはよかった。蛍人くんの優しさはわかりづらいからね。わかってくれる人がいて、よかった」
二人にとってのキラくんは、友人の弟という枠を超えている。肉親のように影から見守ってきたのだろうと思う。
「この二人にへんなこと吹き込まれなかった?」
お手洗いから戻ってきたキラくんの眉間には、縦皺が刻まれている。
「おまえなあ、俺らのことなんだと思ってんだよ」
「べつに」
キラくんは椅子に座ると長い足を組んだ。そしてため息とともに「あのさ」と迷いが滲む声で言う。
「兄はなんでひきこもったの」
「まったくわからん」
間髪入れずに亮司さんが答える。
新しい酎ハイのプルタブに指を引っかけた麦穂さんは、考え込むような顔をしている。
「おまえら家族にわからなかったことが、俺らにわかると思うか?」
「俺も父も母もわからないから、逆に質問してるんだよ」
「まじでわからん。俺が訊きたいくらいだわ」
麦穂はどう、振られた麦穂さんはなんともいえない表情だ。ほんとうにわからないらしい。
「あんなふうになったのは高校生になってからだから、高校でなにかトラブルがあったのかなって私は想像してたんだけど。でも、とくにきな臭い話は出てこなかったんでしょ?」
「ああ。それに、俺らの友だちで夏樹と同じ高校にいったやつはいないからな。だから、あいつの学校での様子は知らねえんだよ」
お互いに新しい環境に身を置いて、近からず遠からず会ったり会わなかったりしているうちに、すっかり見知らぬ人になっていた。そういうことが、あるらしい。
私もそうなのだろうか、と自問する。不登校になるまえの私と、なってからの私は、似通っているように見えて別人なのだろうか。別人だとしたら、昔の私は存在しないのだろうか。
しかし、そんな私のぼんやりとした考えを断ち切るみたいに、亮司さんが悲しそうにつぶやいた。
「別人みたいになっちまったけどさ、俺はずっとあいつの中にあいつを探してたよ。棘だらけのコーティングを剥がしていけば、まだ優しい夏樹がいるんじゃないか、ってさ」
「いたの? その、優しい兄は」
「わからないまま消えちまった。蛍人はどう思う」
「俺も結局わからないままだったよ」
オレンジジュースのグラスについた水滴が、表面をなぞるように伝って下に落ちる。まるでだれかの涙みたいだと思った。
キラくんが言っていたもう一人のトガワサンは、想像を超える強烈な男性だった。マスクの肌荒れの話から推測するに、お肌のことに詳しいなら女性なのではと想像していたけれど、あらためて偏見はよくないと自分を恥じた。
ハワイアンカフェMahaloは、亮司さんが経営しているお店らしい。厨房に立って調理をしているのも亮司さんで、ホールはアルバイトにお願いしているそうだ。
ただ、アルバイトが急な用事で来られなくなり、代わりにシフトに入れそうな他のバイトも見つからなかった場合、麦穂さんがピンチヒッターとしてホールに立つこともあるのだとか。
「私は普段、カメラマンなの」
「えっ」
予想外だった。こんな小さなからだで、大きなカメラを背負っているのか。
私の無遠慮な視線はすぐに気づかれてしまい、麦穂さんは力こぶを作ってウインクした。
「売れないカメラマンだけどな」
「亮司くんひどい。たしかに名の売れたカメラマンではないけど、稼ぐ分には困ってないもの。見ててよ、これから出世するんだから」
「おー、期待してる期待してる」
麦穂さんは日頃アシスタントをしていて、すきま時間に結婚式の前撮り撮影などを請け負っているようだ。
私はいたたまれなくなり、ちょっとだけ視線を下にさげた。そんな世界があるなんて、考えたこともなかった。職業として存在していることは知っていても、それはただの事実の断片でしかなかった。そこでは血の通った人間が生き生きと活躍しているというのに。そんなことさえ理解せず、一体私はなにを見てきたのだろう。
「にしても蛍人くんのほうから話があるんだけどって言ってくるの、珍しいよね。訊きたいことがあるんだっけ。どうしたの?」
円卓を四人で囲んでいる。キラくんはオレンジジュースの入ったグラスを両手で抱えながら、感情の読めない瞳でぽつりと言った。
「兄のことが訊きたいんだけど」
亮司さんと麦穂さんが、顔を見合わせる。
「なんだよ、初めてだな」
ぶっきらぼうな亮司さんの返事に、キラくんがうなずいて目を伏せる。
「蛍人は夏樹の話をしたくないんじゃないかと、俺らは思ってたけど」
「あながち間違いじゃない」
「まあ、あいつの話なら掃いて捨てるほどあるぞ? で、なにから訊きたい?」
「あの人、どんな人だった?」
亮司さんと麦穂さんはもう一度顔を見合わせて、難しそうな顔をした。
「軟弱野郎」
「ちょっと亮司くん、それは言い過ぎでしょ」
「めちゃくちゃ優しかった。優しすぎるやつだった、てことだよ」
亮司さんはクラフトビールの栓を抜くと、透明のグラスに注いで一気飲みした。そして、口のまわりについた泡を雑な仕草でぬぐう。
「優しさでさ、全身コーティングされてんの。嘘だろって思って、一枚ずつ剥がしていくじゃん? 剥がしても剥がしても優しいんだよ。つまり、馬鹿なんだよ、夏樹は」
「それって、ぜんぜん『つまり』じゃないよ。もう、亮司くんは夏樹くんのことになると、すぐに照れ隠しするんだから」
「うるせー、そんなんじゃない。だってよ、夏樹が怒ってるところなんて、ほとんど見たことないし。蛍人だってそうだろ?」
キラくんは黙って首肯する。
麦穂さんは不服そうな顔で、缶酎ハイのプルタブに指をかけた。ぷしゅっと空気が抜ける音がしたあと、麦穂さんは缶のふちに唇をつける。
「げ、まずい」そう言って、しかめ面をしている。
「麦穂なに飲んでんの」
「ライチとジンジャー、だって。なんかこれ、薬品の味がする」
「安酒だからだろ。ビール飲む?」
「やだ。苦いから飲みたくない」
麦穂さんは酎ハイの缶を持って厨房に消えてしまった。べつの飲み物と交換するらしい。
麦穂さんのうしろすがたを見送った亮司さんが、椅子の背もたれに体重を預けると、天井を見上げた。
「どんな人だった、か。蛍人、それって案外難しいぞ」
「なんで?」
「まず一言では言い表せないし」
「うん」
「夏樹が蛍人に見せていた顔、麦穂に見せていた顔、俺に見せていた顔は、おそらくまったく同じってわけじゃない」
厨房の業務用冷蔵庫をばたばたとあける騒々しい音が聞こえて、亮司さんは一瞬だけ顔をしかめた。
「意図的に使い分けてたって意味じゃねえよ。人間はそうやって生きてるから、って言えば伝わるか?」
「なんとなく」
「とくに夏樹は気にしいだったから、能天気な蛍人なんかよりもよっぽど、まわりの顔色を窺って生きてたぞ。とにかく、麦穂の意見も訊いてみれば」
そこへ、缶酎ハイを両手に抱えた麦穂さんが小走りで戻ってきた。大きな瞳が輝き、頬が上気している。
「麦穂、それぜんぶ飲む気?」
「選べなかったの。どれも良さそうじゃない?」
「これだからザルは。酒代は払えよ」
「亮司くんのケチ。お店手伝ってあげたのに」
「それについては給料渡してんだろ」
亮司さんは完全に呆れている。麦穂さんは新しく持ってきたお酒を飲みながら、「で、なんだっけ?」と小首をかしげた。
「麦穂は夏樹のことをどんなやつだと思ってた?」
「うーん、大人しい印象かな。亮司くんの言う優しいっていうのも合ってると思うけど。でも、どちらかといえば、大人しい。口数も多くなくて教室の隅でひっそりとしてる感じ。いつも困った顔してた気がする」
「そうだっけ? あいつ、いつも笑ってなかった?」
「亮司くんのまえでは笑ってたのかもよ?」
亮司さんと麦穂さんはああでもないこうでもないとキラくんのお兄さんの思い出話を繰り広げたあと、「言ったろ?」亮司さんがキラくんに声をかけた。
「俺がみてた夏樹と、麦穂がみてた夏樹は、やっぱり微妙に違うわけ」
「なるほど。意味がわかった」
「おう。人間はいろんな顔を持って生きてるからな。どれもその人なんだけど、だからこそ自分が見てるものだけがすべてじゃないんだよな。というか、それこそ蛍人は? 兄貴である夏樹のこと、どう思ってたんだよ」
自分が見ているものだけが、すべてではない。
そのことばが胸に残り、沈んでいく。自分が見ている世界だけを過信していた私は、気づかれないように手を握りしめた。
「優しくて穏やかな人、だな。亮司さんの持つ印象に限りなく近いと思う」
「まあ、だろうな。夏樹はおまえのこと、溺愛しまくってたし。ナナちゃん、俺は蛍人のことを赤ん坊のときから見てるんだよ」
突然話を振られ、私は顔を上げた。黒いサングラスをちょこっと下げて、優しそうな瞳が私を見ていた。
「こいつ、昔からほんとに悪ガキなの。今はどう? 問題起こしてない?」
「起こしてない起こしてない。ナナに余計なこと訊くな」
「相変わらず学校もサボりがちなんだろ?」
「亮司さんには関係ない」
キラくんは不機嫌な顔のまま「お手洗い」と言うと、立ち上がって店の奥に消えてしまった。学校、の単語に心臓がちくちくと痛み、目を瞑りたくなる。
ふと、亮司さんと麦穂さんの視線が自分に集まっていることに気がつき、私は肩を揺らした。
「わりいな、そういうつもりで言ったんじゃねえんだ」
私が首をかしげると、亮司さんは苦笑いする。
「学校のこと。ナナちゃんのことを言ったつもりじゃねえんだ、まじで」
「亮司くんはデリカシーがなさすぎ」
そうか、この二人はもう、私が不登校だということを知っているんだ。そう思い至ったとき、肩の力がふっと抜けるのを感じた。
「いえ、違うんです、私もすみません。キラくんは学校に行ったり、行かなかったり、らしいんですけど、学年が違うのでよくわからないんです」
「ああ、そっか。同い年じゃねえのか」
「はい。あと、すみません、ご挨拶できてなくて。今更ですが、都川奈々子といいます。今日はおいしいごはんをありがとうございました」
ぺこりと頭を下げたら、ふふふ、と麦穂さんのくすぐるような笑い声が降ってきた。顔を上げたら、そこには二人の穏やかな眼差しがある。
こういう大人もいるんだ。漠然と、そう思った。
「蛍人くんはどう? 彼、何を考えてるかわかりにくいでしょ」
「えっ、そうですね。でも、とても優しい、です」
「それはよかった。蛍人くんの優しさはわかりづらいからね。わかってくれる人がいて、よかった」
二人にとってのキラくんは、友人の弟という枠を超えている。肉親のように影から見守ってきたのだろうと思う。
「この二人にへんなこと吹き込まれなかった?」
お手洗いから戻ってきたキラくんの眉間には、縦皺が刻まれている。
「おまえなあ、俺らのことなんだと思ってんだよ」
「べつに」
キラくんは椅子に座ると長い足を組んだ。そしてため息とともに「あのさ」と迷いが滲む声で言う。
「兄はなんでひきこもったの」
「まったくわからん」
間髪入れずに亮司さんが答える。
新しい酎ハイのプルタブに指を引っかけた麦穂さんは、考え込むような顔をしている。
「おまえら家族にわからなかったことが、俺らにわかると思うか?」
「俺も父も母もわからないから、逆に質問してるんだよ」
「まじでわからん。俺が訊きたいくらいだわ」
麦穂はどう、振られた麦穂さんはなんともいえない表情だ。ほんとうにわからないらしい。
「あんなふうになったのは高校生になってからだから、高校でなにかトラブルがあったのかなって私は想像してたんだけど。でも、とくにきな臭い話は出てこなかったんでしょ?」
「ああ。それに、俺らの友だちで夏樹と同じ高校にいったやつはいないからな。だから、あいつの学校での様子は知らねえんだよ」
お互いに新しい環境に身を置いて、近からず遠からず会ったり会わなかったりしているうちに、すっかり見知らぬ人になっていた。そういうことが、あるらしい。
私もそうなのだろうか、と自問する。不登校になるまえの私と、なってからの私は、似通っているように見えて別人なのだろうか。別人だとしたら、昔の私は存在しないのだろうか。
しかし、そんな私のぼんやりとした考えを断ち切るみたいに、亮司さんが悲しそうにつぶやいた。
「別人みたいになっちまったけどさ、俺はずっとあいつの中にあいつを探してたよ。棘だらけのコーティングを剥がしていけば、まだ優しい夏樹がいるんじゃないか、ってさ」
「いたの? その、優しい兄は」
「わからないまま消えちまった。蛍人はどう思う」
「俺も結局わからないままだったよ」
オレンジジュースのグラスについた水滴が、表面をなぞるように伝って下に落ちる。まるでだれかの涙みたいだと思った。
