キラくんとの待ちあわせ場所は、私の家から百メートルほど離れたところにある児童遊園だった。
親は外出する私を不安そうに観察していたけれど、なにも言わずに見送った。彼らは今日、どこかへドライブにいくようで、朝から張り切って支度をしていたので、それどころではなかったのかもしれない。
直前まで自分がほんとうに外出できるのかひやひやしていたけれど、玄関のドアをあけたときには覚悟が決まっていた。そとは社会の匂いがする。排気ガス、花壇、土、柔軟剤、煙草、香水、飲食店。あらゆる匂いが混ざりあっている。
私は薄手のネイビーのニットに、ブラックのジーンズを履いた。だぼだぼのウエストをベルトで調整して、余ったベルトの端を邪魔にならない位置で固定する。ライトグレーのスニーカーは履き慣れたもので、爪先の部分が黒っぽく汚れていることに気がついた。べつの靴にすればよかった、と若干後悔するものの後の祭りだ。長すぎる髪はポニーテールで縛っても邪魔だったのでお団子にしてみたけれど、アンバランスな大きな塊ができあがっただけだった。
「ナナ」
公園のベンチに腰掛けるキラくんが、ふわりと表情をゆるめた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
「いや、きたばかり。今日はごはん食べた?」
「食べてないです」
「了解。じゃあ食べにいこ。ハワイアンとか、いやじゃない?」
「わあ、いいですね。いきたいです」
立ち上がったキラくんはあたりまえのように私の手を取ると、秋風に吹かれながらゆっくりと歩き出した。私はつながれた手をみつめ、胸の奥で焦がれているなにかを感じつつ、これはなんだろうと考えてみる。考えはじめると胸が痛くて仕方がなくて、やめだ、やめ、とかぶりを振る。
「実はこれからいく店、予約してあって」
「そうなんですか! なんだかいつもすみません、ありがとうございます」
「や、そういうのじゃなくて。俺の兄の友人の店なんだよ。なんか余計なこととか言われるかもしれないけど、そうだったらごめん。先に謝っとく」
大通りに出たら、バス停に並んだ。運良く待たずにバスがやってきたので、前方の乗車口から乗り込んだ。運賃は一律だったので、行き先を告げずに交通系の電子マネーで支払いをする。
キラくんが迷いもなく二人掛けの座席に座ったので、私もそのとなりにそっと腰を下ろした。バスが揺れるたびに肩や腰が軽くぶつかるように触れる。キラくんは無言で車窓から景色を眺めていた。私はその横顔を盗み見しつつ、見覚えのない街並みを進んでいくバスにどぎまぎしていた。
バスに乗るのは、ひきこもるようになってから初めてのことだった。バスを使って向かうよ、と事前に告知されることもないまま乗車し、ベルトコンベアで運ばれるみたいに私の知らないどこかへ、揺さぶられて進んでいる。家にとじこもっていたときは、バスなんてぜったいに乗れる気がしなかったのに。キラくんは私のこころのカチカチな部分にぬるま湯をかけてほぐし、懐柔してしまうようだった。
「次で降りるから」
窓からそとを眺めていたはずの瞳が、こちらに向けられていた。私はうなずくと、膝の上で指を折りたたみ、きゅっと握りしめる。
「そんな緊張しなくていいって」キラくんが含み笑いする。
そうだよね、へんに肩に力がはいりすぎているな、と私も恥ずかしくなって、顔ごと通路のほうに背けた。
バスが徐々にスピードを落とし、乗車を待つ人が並んでいない停留所で停車する。タイヤが道路にこすれる音がした。通路側にいる私から座席を立ち、降車待ちをしている列に並ぶ。キラくんが私のうしろに立ったとき、その背丈のある大きな影に包まれ、視界が暗くなった。
「こっち」
バスを降りた途端、キラくんの手が触れる。たぶん、そこにはとくべつな意味はなくて、ひきこもっていた私がそとの世界に怯えなくて済むように、そうしてくれているのだと察する。
葉っぱがかさかさに乾いた低木の街路樹を横目に、道幅がそれほど広くない歩道を歩く。二人横並びであればちょうど収まるけれど、前から人がきたらスペースを確保しなければならないくらいの、必要最低限の道幅。そとは必要最低限のことばかりで、余白はあまり存在しない。
「あれだよ」
キラくんが空いているほうの手で、前方を指す。
灰色のコンクリートでできた四角い建物で、一階部分が店舗のようだった。木製の扉のとなりには黒い表札のようなものが吊り下がっていて、ペンキでMahaloと書かれている。
キラくんはドアノブをぐいと引くと、私を店内に導いた。
「いらっしゃいませ。あっ」
口が「あ」のかたちのまま、固まっている。その女性はキラくんと私を交互に見ると、「こんにちは」と頬をゆるめる。うつくしい人だった。
「お久しぶりです」
「ふふ、ほんとね。今日はごはんも食べていくんだよね?」
「そのつもり」
「かしこまりました。奥の席でいいよね? クローズまであと一時間あるけど」
「うん、わかってる。ごはん食べながら待つから」
さくら色のエプロンをつけた女性は「はい、わかりました」とほほえむと、べつの客のオーダーを取りに行ってしまった。肩の上で蜂蜜色のボブが軽やかに揺れていて、落っこちてしまいそうなくらい大きな瞳は洋風の人形のようだ。背は私より低いけれど、びっくりするくらい腰の位置が高い。
「いまの女性が、キラくんのお知りあいですか?」
「まあ、そう。知りあいの一人」
扉で仕切られた奥の部屋はこぢんまりとしていて、ひかりの強くない照明にぼうっと照らされ、なんだか秘密基地みたいだと思った。
「なに食べる? 俺はロコモコ丼の予定」
立てかけてあるメニュー表をテーブルの上にひらいて、私のほうにみせてくれる。私はじっくりと吟味した結果、どれも心惹かれたけれど、結局キラくんと同じロコモコ丼に決めた。
キラくんは席を立つと、二人分のオーダーを伝えにいってしまった。勝手知ったる店、らしい。遠くから注文を伝えるキラくんのいつもの声と、男性のよく通る声が聴こえる。だれだろう、と耳を澄ませるけれど、話の内容までは詳細に聞き取れない。悪趣味なことをしている気がして、私はすぐに盗み聞きをやめた。
「勝手に連れてきてごめんね」
「そんなことないです、嬉しいです」
「今日はここでごはん食べて、店がクローズしたら、俺の知りあいをナナに紹介するつもりなんだよ」
そこまでは把握していなかったので目をまるくしたら、キラくんはバツが悪そうに「ごめん」と言う。
「や、いやとかじゃないですよ」
「まあ、そうかもしれないけど。あらかじめ伝えると、ナナがますます緊張しちゃうかと思って。そんなに大したことじゃないから」
「あの、お兄さんのお友だち、なんですよね?」
ならお兄さんのお話をしてもいいんですか、と付け加えるように尋ねる。キラくんは虚をつかれたようだったけれど、すぐに「あー、うん、もちろん」と照れくさそうに言った。
運ばれてきたロコモコ丼はほっぺたが落ちそうなくらいおいしくて、黙々と食べているうちにボウルは空っぽになってしまった。
ふと、毎日欠かさず食事を用意してくれる親のことが思い浮かぶ。完食することはほとんどない。まずいわけでもない、幼いころから慣れ親しんだ、のっぺりとした味。変わらない親を身勝手に恨む自分がいた。
これはひょっとして親を傷つける行為なのではないか。やましさがむくむく顔を出す。純粋な申し訳なさと、もっとやれと囃したてる悪意がチェーンのように連なって、じゃらじゃらと音を鳴らしている。
「ナナ、あのさ」遮るような声に救いを求める。
はい、と視線を向ければ、キラくんが眉毛をほんのすこし下げて、こちらの様子を窺っていた。
「俺さ、かなり勝手なことしてるって、自覚、ちゃんとあるから」
「え」
「俺の都合で振り回してごめん」
どうして急に、とつぶやきかけた声が口腔内で消える。椅子に座るキラくんのうしろに、さきほどの女性の店員が立っていたからだ。
「ごめんなさい、お邪魔しちゃった?」
私はぶんぶんと首を横に振ったけれど、キラくんは眉間に皺を寄せて「わかってるくせに言うなって」と低い声を出す。ふてくされているのかもしれなかった。
「ふふ、そんなこわい顔しないで。あのね、さっきクローズしたから」
「ああ、そう」
「あらためまして、あなたがナナちゃん、ですよね? 私、野瀬麦穂っていいます。はじめまして」
むぎほさん、と声に出してみたら、「ぎ」と「ほ」のつながりを流暢に発音できなくて赤面した。麦穂さんはいやな顔もせず、朗らかに私を受け入れてくれているようだった。私にはそれがとても不思議に思えた。
「言いにくい名前よね。自分でもそう思うの。学生のころは先生泣かせだった。うんざりしてね、親に名前の由来を訊いてみたんだけど」
麦穂さんは私の隣の椅子を引き、座る。キラくんは相変わらず眉を寄せていたけれど、私は近い距離にいるうつくしい人にどきどきしていてそれどころではない。麦穂さんからは、完熟した桃のようなあまい香りがする。
「フィンセント・ファン・ゴッホ、って知ってる?」
「えっと、はい。『ひまわり』とか『星月夜』を描いた、有名な画家ですよね」
「そう、そう、そのゴッホ。彼が描いた『刈り入れ』という作品があるんだけど、知ってる?」
私は首を横に振る。麦穂さんはあんまりメジャーではないから、とたおやかに言う。
「それがね、麦の収穫を描いている作品なの。一面の麦畑でね、穂が金色に輝いていて、でもどこかもの悲しくて。私の印象だけれど。それで、父がその絵に惚れていて、そこから名前をもらったんだって」
「すてきですね」
「と思うでしょ? でもねえ、『刈り入れ』って死のイメージらしいのよ。この世に生を受けたばかりのぴかぴかの赤子にそんな名前つける? 深く考えなかったんだって。まったく呆れちゃうよねえ」
麦穂さんはそこまで言い切ると、突然立ち上がって「会計しめるの忘れてた!」慌ただしく足音を立てて戻ってしまった。
「あの人、おしゃべりなんだよ。いまみたいなきっかけとか、それがなければこっちが静止しない限り、ああやってずーっとしゃべんの。まじ勘弁」
キラくんはため息をつくと、麦穂さんが運んできてくれたオレンジジュースを飲んでいる。私も自分のまえに置かれたオレンジジュースを、透明のストローでちびちびと飲んだ。
「麦穂さんも、お兄さんのご友人なんですか?」
「まあ、そう。詳しくはないけど、中学校が同じだったらしい」
そのとき、麦穂さんとはべつの足音がきこえた。その人物は次第に近づいてきて、「よお、蛍人!」キラくんの肩に筋骨隆々の腕を回す。
「やめろ、馬鹿」
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは。こっちは七歳もオニイチャンなんだぞ。すっかり生意気になりやがって」
「うっさい。ナナがドン引きしてるだろ。気づけよ」
赤いアロハシャツにスキンヘッド、黒光りするサングラスをかけた大柄の男性は、悪びれもなく「わりいわりい」と言うと、私のほうにからだをむけた。
たしかに私は思い切り引いていた。
「ナナちゃん、だよな? もう一人のトガワサン。蛍人から聞いてるかわかんねえけど、俺は外川亮司です。同じトガワだから紛らわしいし、亮司さんとか、亮司くんでもいいし、いっそ呼び捨てでも……」
「とにかく亮司さんは黙って」
キラくんがぴしゃりと言い放つ。
すると今度は店の奥のほうから「亮司くーん、金額が合わないのー、ヘルプヘルプー」と麦穂さんの高い声が聞こえてきた。亮司さんは「またかよ、麦穂のやつ」と言いつつも、素直に呼ばれたほうへ向かっている。
二人が離れると、ふたたび静かになった。
「あの人、あー亮司さんのほう、ああみえて兄の幼なじみで、唯一無二の親友」
「……キラくんのお兄さんって、なんというか、チャラチャラした感じの人だったんですか?」
「ぜんぜん。あの人が派手だからそう思われるのは仕方ないけど、実際あの人がチャラつくようになったのは、高校を卒業してからだから。ずっと黒髪で大人しかったのに、卒業した途端、髪の毛もろともぜんぶ吹っ飛んだんじゃね」
「おい、蛍人。人のことを毛根ないハゲ扱いしてんじゃねーぞ」
親は外出する私を不安そうに観察していたけれど、なにも言わずに見送った。彼らは今日、どこかへドライブにいくようで、朝から張り切って支度をしていたので、それどころではなかったのかもしれない。
直前まで自分がほんとうに外出できるのかひやひやしていたけれど、玄関のドアをあけたときには覚悟が決まっていた。そとは社会の匂いがする。排気ガス、花壇、土、柔軟剤、煙草、香水、飲食店。あらゆる匂いが混ざりあっている。
私は薄手のネイビーのニットに、ブラックのジーンズを履いた。だぼだぼのウエストをベルトで調整して、余ったベルトの端を邪魔にならない位置で固定する。ライトグレーのスニーカーは履き慣れたもので、爪先の部分が黒っぽく汚れていることに気がついた。べつの靴にすればよかった、と若干後悔するものの後の祭りだ。長すぎる髪はポニーテールで縛っても邪魔だったのでお団子にしてみたけれど、アンバランスな大きな塊ができあがっただけだった。
「ナナ」
公園のベンチに腰掛けるキラくんが、ふわりと表情をゆるめた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
「いや、きたばかり。今日はごはん食べた?」
「食べてないです」
「了解。じゃあ食べにいこ。ハワイアンとか、いやじゃない?」
「わあ、いいですね。いきたいです」
立ち上がったキラくんはあたりまえのように私の手を取ると、秋風に吹かれながらゆっくりと歩き出した。私はつながれた手をみつめ、胸の奥で焦がれているなにかを感じつつ、これはなんだろうと考えてみる。考えはじめると胸が痛くて仕方がなくて、やめだ、やめ、とかぶりを振る。
「実はこれからいく店、予約してあって」
「そうなんですか! なんだかいつもすみません、ありがとうございます」
「や、そういうのじゃなくて。俺の兄の友人の店なんだよ。なんか余計なこととか言われるかもしれないけど、そうだったらごめん。先に謝っとく」
大通りに出たら、バス停に並んだ。運良く待たずにバスがやってきたので、前方の乗車口から乗り込んだ。運賃は一律だったので、行き先を告げずに交通系の電子マネーで支払いをする。
キラくんが迷いもなく二人掛けの座席に座ったので、私もそのとなりにそっと腰を下ろした。バスが揺れるたびに肩や腰が軽くぶつかるように触れる。キラくんは無言で車窓から景色を眺めていた。私はその横顔を盗み見しつつ、見覚えのない街並みを進んでいくバスにどぎまぎしていた。
バスに乗るのは、ひきこもるようになってから初めてのことだった。バスを使って向かうよ、と事前に告知されることもないまま乗車し、ベルトコンベアで運ばれるみたいに私の知らないどこかへ、揺さぶられて進んでいる。家にとじこもっていたときは、バスなんてぜったいに乗れる気がしなかったのに。キラくんは私のこころのカチカチな部分にぬるま湯をかけてほぐし、懐柔してしまうようだった。
「次で降りるから」
窓からそとを眺めていたはずの瞳が、こちらに向けられていた。私はうなずくと、膝の上で指を折りたたみ、きゅっと握りしめる。
「そんな緊張しなくていいって」キラくんが含み笑いする。
そうだよね、へんに肩に力がはいりすぎているな、と私も恥ずかしくなって、顔ごと通路のほうに背けた。
バスが徐々にスピードを落とし、乗車を待つ人が並んでいない停留所で停車する。タイヤが道路にこすれる音がした。通路側にいる私から座席を立ち、降車待ちをしている列に並ぶ。キラくんが私のうしろに立ったとき、その背丈のある大きな影に包まれ、視界が暗くなった。
「こっち」
バスを降りた途端、キラくんの手が触れる。たぶん、そこにはとくべつな意味はなくて、ひきこもっていた私がそとの世界に怯えなくて済むように、そうしてくれているのだと察する。
葉っぱがかさかさに乾いた低木の街路樹を横目に、道幅がそれほど広くない歩道を歩く。二人横並びであればちょうど収まるけれど、前から人がきたらスペースを確保しなければならないくらいの、必要最低限の道幅。そとは必要最低限のことばかりで、余白はあまり存在しない。
「あれだよ」
キラくんが空いているほうの手で、前方を指す。
灰色のコンクリートでできた四角い建物で、一階部分が店舗のようだった。木製の扉のとなりには黒い表札のようなものが吊り下がっていて、ペンキでMahaloと書かれている。
キラくんはドアノブをぐいと引くと、私を店内に導いた。
「いらっしゃいませ。あっ」
口が「あ」のかたちのまま、固まっている。その女性はキラくんと私を交互に見ると、「こんにちは」と頬をゆるめる。うつくしい人だった。
「お久しぶりです」
「ふふ、ほんとね。今日はごはんも食べていくんだよね?」
「そのつもり」
「かしこまりました。奥の席でいいよね? クローズまであと一時間あるけど」
「うん、わかってる。ごはん食べながら待つから」
さくら色のエプロンをつけた女性は「はい、わかりました」とほほえむと、べつの客のオーダーを取りに行ってしまった。肩の上で蜂蜜色のボブが軽やかに揺れていて、落っこちてしまいそうなくらい大きな瞳は洋風の人形のようだ。背は私より低いけれど、びっくりするくらい腰の位置が高い。
「いまの女性が、キラくんのお知りあいですか?」
「まあ、そう。知りあいの一人」
扉で仕切られた奥の部屋はこぢんまりとしていて、ひかりの強くない照明にぼうっと照らされ、なんだか秘密基地みたいだと思った。
「なに食べる? 俺はロコモコ丼の予定」
立てかけてあるメニュー表をテーブルの上にひらいて、私のほうにみせてくれる。私はじっくりと吟味した結果、どれも心惹かれたけれど、結局キラくんと同じロコモコ丼に決めた。
キラくんは席を立つと、二人分のオーダーを伝えにいってしまった。勝手知ったる店、らしい。遠くから注文を伝えるキラくんのいつもの声と、男性のよく通る声が聴こえる。だれだろう、と耳を澄ませるけれど、話の内容までは詳細に聞き取れない。悪趣味なことをしている気がして、私はすぐに盗み聞きをやめた。
「勝手に連れてきてごめんね」
「そんなことないです、嬉しいです」
「今日はここでごはん食べて、店がクローズしたら、俺の知りあいをナナに紹介するつもりなんだよ」
そこまでは把握していなかったので目をまるくしたら、キラくんはバツが悪そうに「ごめん」と言う。
「や、いやとかじゃないですよ」
「まあ、そうかもしれないけど。あらかじめ伝えると、ナナがますます緊張しちゃうかと思って。そんなに大したことじゃないから」
「あの、お兄さんのお友だち、なんですよね?」
ならお兄さんのお話をしてもいいんですか、と付け加えるように尋ねる。キラくんは虚をつかれたようだったけれど、すぐに「あー、うん、もちろん」と照れくさそうに言った。
運ばれてきたロコモコ丼はほっぺたが落ちそうなくらいおいしくて、黙々と食べているうちにボウルは空っぽになってしまった。
ふと、毎日欠かさず食事を用意してくれる親のことが思い浮かぶ。完食することはほとんどない。まずいわけでもない、幼いころから慣れ親しんだ、のっぺりとした味。変わらない親を身勝手に恨む自分がいた。
これはひょっとして親を傷つける行為なのではないか。やましさがむくむく顔を出す。純粋な申し訳なさと、もっとやれと囃したてる悪意がチェーンのように連なって、じゃらじゃらと音を鳴らしている。
「ナナ、あのさ」遮るような声に救いを求める。
はい、と視線を向ければ、キラくんが眉毛をほんのすこし下げて、こちらの様子を窺っていた。
「俺さ、かなり勝手なことしてるって、自覚、ちゃんとあるから」
「え」
「俺の都合で振り回してごめん」
どうして急に、とつぶやきかけた声が口腔内で消える。椅子に座るキラくんのうしろに、さきほどの女性の店員が立っていたからだ。
「ごめんなさい、お邪魔しちゃった?」
私はぶんぶんと首を横に振ったけれど、キラくんは眉間に皺を寄せて「わかってるくせに言うなって」と低い声を出す。ふてくされているのかもしれなかった。
「ふふ、そんなこわい顔しないで。あのね、さっきクローズしたから」
「ああ、そう」
「あらためまして、あなたがナナちゃん、ですよね? 私、野瀬麦穂っていいます。はじめまして」
むぎほさん、と声に出してみたら、「ぎ」と「ほ」のつながりを流暢に発音できなくて赤面した。麦穂さんはいやな顔もせず、朗らかに私を受け入れてくれているようだった。私にはそれがとても不思議に思えた。
「言いにくい名前よね。自分でもそう思うの。学生のころは先生泣かせだった。うんざりしてね、親に名前の由来を訊いてみたんだけど」
麦穂さんは私の隣の椅子を引き、座る。キラくんは相変わらず眉を寄せていたけれど、私は近い距離にいるうつくしい人にどきどきしていてそれどころではない。麦穂さんからは、完熟した桃のようなあまい香りがする。
「フィンセント・ファン・ゴッホ、って知ってる?」
「えっと、はい。『ひまわり』とか『星月夜』を描いた、有名な画家ですよね」
「そう、そう、そのゴッホ。彼が描いた『刈り入れ』という作品があるんだけど、知ってる?」
私は首を横に振る。麦穂さんはあんまりメジャーではないから、とたおやかに言う。
「それがね、麦の収穫を描いている作品なの。一面の麦畑でね、穂が金色に輝いていて、でもどこかもの悲しくて。私の印象だけれど。それで、父がその絵に惚れていて、そこから名前をもらったんだって」
「すてきですね」
「と思うでしょ? でもねえ、『刈り入れ』って死のイメージらしいのよ。この世に生を受けたばかりのぴかぴかの赤子にそんな名前つける? 深く考えなかったんだって。まったく呆れちゃうよねえ」
麦穂さんはそこまで言い切ると、突然立ち上がって「会計しめるの忘れてた!」慌ただしく足音を立てて戻ってしまった。
「あの人、おしゃべりなんだよ。いまみたいなきっかけとか、それがなければこっちが静止しない限り、ああやってずーっとしゃべんの。まじ勘弁」
キラくんはため息をつくと、麦穂さんが運んできてくれたオレンジジュースを飲んでいる。私も自分のまえに置かれたオレンジジュースを、透明のストローでちびちびと飲んだ。
「麦穂さんも、お兄さんのご友人なんですか?」
「まあ、そう。詳しくはないけど、中学校が同じだったらしい」
そのとき、麦穂さんとはべつの足音がきこえた。その人物は次第に近づいてきて、「よお、蛍人!」キラくんの肩に筋骨隆々の腕を回す。
「やめろ、馬鹿」
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは。こっちは七歳もオニイチャンなんだぞ。すっかり生意気になりやがって」
「うっさい。ナナがドン引きしてるだろ。気づけよ」
赤いアロハシャツにスキンヘッド、黒光りするサングラスをかけた大柄の男性は、悪びれもなく「わりいわりい」と言うと、私のほうにからだをむけた。
たしかに私は思い切り引いていた。
「ナナちゃん、だよな? もう一人のトガワサン。蛍人から聞いてるかわかんねえけど、俺は外川亮司です。同じトガワだから紛らわしいし、亮司さんとか、亮司くんでもいいし、いっそ呼び捨てでも……」
「とにかく亮司さんは黙って」
キラくんがぴしゃりと言い放つ。
すると今度は店の奥のほうから「亮司くーん、金額が合わないのー、ヘルプヘルプー」と麦穂さんの高い声が聞こえてきた。亮司さんは「またかよ、麦穂のやつ」と言いつつも、素直に呼ばれたほうへ向かっている。
二人が離れると、ふたたび静かになった。
「あの人、あー亮司さんのほう、ああみえて兄の幼なじみで、唯一無二の親友」
「……キラくんのお兄さんって、なんというか、チャラチャラした感じの人だったんですか?」
「ぜんぜん。あの人が派手だからそう思われるのは仕方ないけど、実際あの人がチャラつくようになったのは、高校を卒業してからだから。ずっと黒髪で大人しかったのに、卒業した途端、髪の毛もろともぜんぶ吹っ飛んだんじゃね」
「おい、蛍人。人のことを毛根ないハゲ扱いしてんじゃねーぞ」
