それから、キラくんは感情のこもっていない声で、淡々と他人事のように語った。
七歳年上の兄はとても優しい人で、歳の離れた弟であるキラくんをたいそうかわいがってくれたこと。目に入れても痛くないほどのかわいがりっぷりで、兄の友人たちは呆れつつも見守ってくれたこと。
子どものころのキラくんの遊び相手は、同い年の子どもではなく、もっぱら兄の友人たちだったこと。兄は友だちも多く、勉強もそれなりに出来、スポーツも困らない程度にはたしなんでいたこと。
両親のまえでも兄は優等生で、問題児だったキラくんよりも期待されているようにみえたこと。
高校に入学してしばらくしてから、兄がひきこもるようになったこと。当時小学三年生だったキラくんは、理由がわからず、困惑したこと。自室でこもりつづけているうちに出席日数不足で留年、退学となり、そのころには穏やかだった兄の人相が変わりはじめていたこと。
大声をあげる、壁を殴って穴をあける、親が用意した食事をお盆ごとひっくり返す、窓ガラスを蹴って割る。その暴力がいつ自分たちに向くのか、両親は戦々恐々としていたこと。
「兄が十八になった冬だった。その日は日曜で、親も仕事が休みだし俺も学校がないから、三人でリビングにいた。意味もなくテレビをみていた気がする。そんなとき二階から兄が降りてきて、リビングに緊張が走ったのを覚えてる。兄はリビングの扉をあけて、旅行にいきたいから金を貸してくれといった」
「……旅行に?」
「不自然だよな。ずっとひきこもって会話自体を拒絶してたのに、まともな口をひらいたと思ったら旅行にいく、ってさ。でも、みんな疲弊してた。わけのわからなくなった兄が、やっとそとに出てくれることに安堵したってのもたぶんある。父は行き先だけ訊くと十万円を握らせた」
「十万?」
「十八の無職に渡す額じゃないよな。父がどんな意図でそうしたのか、俺は知らない。兄は北海道にいくと言ってた。子どものころ、家族旅行でいった札幌と小樽にいきたいと、はっきり言っていた」
深いところに眠っている記憶を手繰り寄せるみたいに、窓からどこか遠くのほうを眺めながら、キラくんが頬杖をつく。横顔に陽のひかりがあたり、白く浮き上がっている。
私はからになった山菜蕎麦のうつわを置き、わずかに残った蕎麦つゆと溶け切らなかったわさびが黒々と渦を巻いている中央あたりを見下ろした。
「でも、兄は結局、札幌にも小樽にもいかなかった。兄が行方不明になり、警察に捜索願を出して、まあいろいろ情報を集めてもらってわかったことだけど。兄は新千歳空港ではなく、たんちょう釧路空港に降り立っていたらしい」
「土地勘がないから適当なことは言えないんですけど、どちらも北海道、ですよね?」
「そう。でも、札幌と釧路って陸路だと三百キロくらい離れてるんだよ。俺も兄がいなくなって初めて知ったんだけど」
三百キロといわれてもピンとこなかったが、東京からだとおおよそ名古屋の手前くらいまでの距離らしい。札幌と小樽が目的地なら、たしかに釧路の空港でわざわざ降りることに疑念が残る。
「なんで釧路にいったのかはわからない。家族旅行で道東にいったことはないし、縁もゆかりもない。それなのに兄は釧路を選んで、釧路市内のホテルで一泊してた。その翌日、港の岸壁でうろうろしてる兄のすがたが目撃されてる。十二月に、上着も着ないでパーカーでうろついていたから、釣り人に不審に思われていたらしい」
「それで、お兄さんは」
「いまも消息不明」
沈黙に包まれる。タイミングを見計らったように、店員が食後のほうじ茶を運んできた。茫然としたまま湯呑みを口につけたので、熱湯にちかい温度のお茶が突然流れ込んできて、喉が焼ける。むせる私をキラくんが気遣わしげに窺う。
「ナナ、大丈夫?」
キラくんが冷めたおしぼりを私に差しだす。お礼を言って受けとって、口のまわりをぐるりと拭いた。
私は頭のなかでこんがらがっている事象を、落ちついてひとつずつ解きほぐしていく。
キラくんには七歳年上のお兄さんがいる。温厚だったお兄さんは不登校になり、高校を留年し、結果的に退学した。そのうち人格が変わり、理由もわからないまま、さいはての地でゆくえをくらました。
キラくんは、そのお兄さんのことを私に教えてほしいと言っている。
「あの」おそるおそる、尋ねる。
「もちろんおわかりだと思うんですけど、私とキラくんのお兄さんのあいだに面識はないです」
「だろうな」
「なのに、私がどうやって、お兄さんのことをキラくんに教えるんですか?」
私は至極まっとうなことを言ったと思う。なのにキラくんはなぜか困り果てた、といわんばかりの表情を受かべている。話がみえずに困っているのは私のほうだと思うけれど、キラくんの表情を目にすると、なんだか残酷なことをしている気分になってしまう。
四日間みっちりと勉強を教えてくれたのだ。その対価がこれだとしたら、あまりにも釣りあっておらず、キラくんが損をする未来がみえて、焦りにも似た気持ちが込み上げてくる。
「……俺は、いまから、ナナを傷つけることを言うかもしれない」
「そんなの大丈夫ですよ。教えてください」
「じゃあ」
キラくんが、熱いほうじ茶のはいった湯呑みを音もなくテーブルに置いた。
「俺は、不登校になる気持ちがわからない」
その目は逃げもせず、まっすぐと、私だけを視界に映している。
「試験をすっぽかすから追試の常連だし、出席日数も褒められたものじゃない。学校は面倒だけど、べつにいける」
「はい」
「そういう俺を快く思っていないクラスメイトがいることも知ってるけど、気にしない。それぞれちがう人間だと割り切っているし。そんなのでいちいち精神を害していたら、やってられないって俺は思うから。だから、不登校だって俺のなかでは、そういうやつもいるよな、くらいの認識でしかなかった」
「……はい」
「だけど、それだと、兄が苦しんだ意味がわからないなと、思って。兄は兄だから、で単にちがいを認めて、受け入れてしまえば、俺は楽だけど、兄は浮かばれないのかもしれない。もう少し、兄のうちがわに踏みこむべきなんじゃないかと、思って」
「……」
「でも、俺には理解できない。俺はどちらかといえば家よりもそとにいるほうが好きだし、ずっとこもるなんてどういう気持ちなのか見当もつかない。だから」
私はキラくんがなにを望んでいるのかを、不明瞭なかたちでキャッチした。それを咀嚼し、そしてその先のことばを引きとった。
「同じ不登校の私だったら、なにか理解できるものがあるんじゃないか、ということですか?」
キラくんは申し訳なさそうに首肯する。
「ナナと兄が不登校になった理由が同じだなんて思っていない。ただ、苦しみかそれに似たものがそこに存在していて、それがきっかけで家のそとに出られなくなる、というプロセスが仮にあるのだとしたら。トリガーになるのが何なのか、そこにどんな感情の変遷があるのか、知りたいと、俺は、思って」
キラくんは真面目な人なのかもしれない。茶髪だし常にピアスだけど、彼から発せられることばはいつも思慮深く、節々にどことなく気配りを感じる。
もしかしたらキラくんが私の不登校を理解してくれるんじゃないか、と淡い期待を抱いていなかったと言ったら、嘘になる。そんな浅ましい自分が心底いやになる。
でも、寄り添うことと理解することはイコールではないのだ。理解できなくても寄り添えるし、理解したところで寄り添えないときもある。キラくんはキラくんにできる最善の範囲で、私と接してくれていたのだ。だとしたら、私のやるべきことはひとつだけだ。
「お役に立てるかわからないですけど、大丈夫です。そのお願い、引き受けます」
「ごめん。だけど、不登校の話をさせるのはふつうに酷だと思うから。それに、べつに、根掘り葉掘り訊きたいわけじゃないんだ」
「わかってるつもりです。私もまだ、うまくお話しできない内容があると思います。触れられたくないことも、あるかも、しれない。だから一度に、ではなく、段階を追って、でもいいですか?」
キラくんはいつもの声色で、ありがとう、と囁く。「う」は消え入るようにかすかで、私はキラくんを安心させたくて笑みを浮かべてみせた。
大丈夫。私は傷ついていない。こんな私でも恩返しができるのかもしれない、キラくんにとって価値があるのかもしれないと思ったら、もう、居ても立っても居られない。
山菜蕎麦の代金はキラくんが払ってくれた。というより、鞄から財布を出しても支払わせてくれなかった。しつこく割り勘を希望したけれど、キラくんは頑として譲らなかった。キラくんなりに、後ろめたさを感じているのかもしれない。だとしても、私はよかったのに。
わかれぎわ、もしよければ明日会わないかとキラくんはひかえめに誘いを持ちかけてきた。万が一、私がそとに出られなかったとしたら、それはそれでいいという優しさを添えて。私はあいたいです、と答えようとして、咄嗟にあいましょう、に言い換えた気がする。なぜそうしたのか、自分でもよくわからなかった。あいたいです、と、あいましょうのあいだに、どれほどの差異が存在しているのか考えないようにした。
帰宅したら、リビングでくつろいでいた両親は喫驚していた。父はコーヒーカップを片手に持ったまま、硬直している。
どこへいってたの、心配してたのよ、でも制服を着ているってことは学校へいったの、なにかメモくらい残してくれないと、ごはんは食べたの、ねえ、ナナちゃん。
背中に追いかけてくる母の声に適当に返事をしながら、階段を駆け上がって部屋の扉をしめた。階下の声はもうきこえない。私は鞄を床に置き、ベッドの側面を背もたれにしてしゃがみこんだ。
「はあ」
肺に溜まっていた空気を一気に吐き出した。さきほどまで会っていたキラくんのすがたを思い浮かべる。そして、会ったことのないお兄さんのすがたを想像する。
背が高くて、髪は茶色で、キラくんとはあまり似ていない顔立ちで、でもキラくんと同じ輝く瞳がある。子どものキラくんを抱き上げ、存分に愛を伝える。やめろよ、と抵抗しつつも嬉しさを隠しきれないほっぺをゆるませるキラくんと、そんなキラくんをあますことなく慈しむ眼差し。注がれる愛情で溺れそうなくらい、幸せに満ちあふれた歳の離れた兄弟。溺れたのは、どっちだったのだろう。
そこまで想像して、こんなものは妄想にすぎないのだからと、思考をシャットダウンする。
私はもう一度息をつくと、鞄からスマートフォンを取り出した。キラくんからメッセージが届いていた。私は迷うことなく既読をつけ、承諾の意を示す適当なスタンプを送る。スタンプはすぐに既読になる。それだけで相手がそばにいると錯覚する。勘違いも甚だしい。中毒みたいなものだと失笑する。
なにもかも失ったつもりでいて、みっともなくもがいて、失いたくないと叫ぶどころか、新たなつながりを求めようとしている。六畳一間の子ども部屋にこもりながら、薄汚れた窓のそとの世界を恐れつつも、私はなにかを渇望している。人とのつながりか、それだけでは飽き足らず親愛か、信頼か、はたまた、それとも。
けれども、と頭のなかで悪魔が囁く。それだけでは生きていけない。大人になれば自分でお金を稼がないといけない。勉強もできない、学校にもいけない、まともに家から出られないおまえに一体なにができる、と嘲笑う声がきこえてきて耳を塞ぐ。つながりなんてきっかけがあれば簡単に断ち切れる。またそんなものに縋るのか。それが儚いものであることを、おまえが一番よくわかっているだろう? 雑音に支配された脳みそがひりひりする。やめてくれ、やめてほしいのに、私はまた自分を痛めつける。
七歳年上の兄はとても優しい人で、歳の離れた弟であるキラくんをたいそうかわいがってくれたこと。目に入れても痛くないほどのかわいがりっぷりで、兄の友人たちは呆れつつも見守ってくれたこと。
子どものころのキラくんの遊び相手は、同い年の子どもではなく、もっぱら兄の友人たちだったこと。兄は友だちも多く、勉強もそれなりに出来、スポーツも困らない程度にはたしなんでいたこと。
両親のまえでも兄は優等生で、問題児だったキラくんよりも期待されているようにみえたこと。
高校に入学してしばらくしてから、兄がひきこもるようになったこと。当時小学三年生だったキラくんは、理由がわからず、困惑したこと。自室でこもりつづけているうちに出席日数不足で留年、退学となり、そのころには穏やかだった兄の人相が変わりはじめていたこと。
大声をあげる、壁を殴って穴をあける、親が用意した食事をお盆ごとひっくり返す、窓ガラスを蹴って割る。その暴力がいつ自分たちに向くのか、両親は戦々恐々としていたこと。
「兄が十八になった冬だった。その日は日曜で、親も仕事が休みだし俺も学校がないから、三人でリビングにいた。意味もなくテレビをみていた気がする。そんなとき二階から兄が降りてきて、リビングに緊張が走ったのを覚えてる。兄はリビングの扉をあけて、旅行にいきたいから金を貸してくれといった」
「……旅行に?」
「不自然だよな。ずっとひきこもって会話自体を拒絶してたのに、まともな口をひらいたと思ったら旅行にいく、ってさ。でも、みんな疲弊してた。わけのわからなくなった兄が、やっとそとに出てくれることに安堵したってのもたぶんある。父は行き先だけ訊くと十万円を握らせた」
「十万?」
「十八の無職に渡す額じゃないよな。父がどんな意図でそうしたのか、俺は知らない。兄は北海道にいくと言ってた。子どものころ、家族旅行でいった札幌と小樽にいきたいと、はっきり言っていた」
深いところに眠っている記憶を手繰り寄せるみたいに、窓からどこか遠くのほうを眺めながら、キラくんが頬杖をつく。横顔に陽のひかりがあたり、白く浮き上がっている。
私はからになった山菜蕎麦のうつわを置き、わずかに残った蕎麦つゆと溶け切らなかったわさびが黒々と渦を巻いている中央あたりを見下ろした。
「でも、兄は結局、札幌にも小樽にもいかなかった。兄が行方不明になり、警察に捜索願を出して、まあいろいろ情報を集めてもらってわかったことだけど。兄は新千歳空港ではなく、たんちょう釧路空港に降り立っていたらしい」
「土地勘がないから適当なことは言えないんですけど、どちらも北海道、ですよね?」
「そう。でも、札幌と釧路って陸路だと三百キロくらい離れてるんだよ。俺も兄がいなくなって初めて知ったんだけど」
三百キロといわれてもピンとこなかったが、東京からだとおおよそ名古屋の手前くらいまでの距離らしい。札幌と小樽が目的地なら、たしかに釧路の空港でわざわざ降りることに疑念が残る。
「なんで釧路にいったのかはわからない。家族旅行で道東にいったことはないし、縁もゆかりもない。それなのに兄は釧路を選んで、釧路市内のホテルで一泊してた。その翌日、港の岸壁でうろうろしてる兄のすがたが目撃されてる。十二月に、上着も着ないでパーカーでうろついていたから、釣り人に不審に思われていたらしい」
「それで、お兄さんは」
「いまも消息不明」
沈黙に包まれる。タイミングを見計らったように、店員が食後のほうじ茶を運んできた。茫然としたまま湯呑みを口につけたので、熱湯にちかい温度のお茶が突然流れ込んできて、喉が焼ける。むせる私をキラくんが気遣わしげに窺う。
「ナナ、大丈夫?」
キラくんが冷めたおしぼりを私に差しだす。お礼を言って受けとって、口のまわりをぐるりと拭いた。
私は頭のなかでこんがらがっている事象を、落ちついてひとつずつ解きほぐしていく。
キラくんには七歳年上のお兄さんがいる。温厚だったお兄さんは不登校になり、高校を留年し、結果的に退学した。そのうち人格が変わり、理由もわからないまま、さいはての地でゆくえをくらました。
キラくんは、そのお兄さんのことを私に教えてほしいと言っている。
「あの」おそるおそる、尋ねる。
「もちろんおわかりだと思うんですけど、私とキラくんのお兄さんのあいだに面識はないです」
「だろうな」
「なのに、私がどうやって、お兄さんのことをキラくんに教えるんですか?」
私は至極まっとうなことを言ったと思う。なのにキラくんはなぜか困り果てた、といわんばかりの表情を受かべている。話がみえずに困っているのは私のほうだと思うけれど、キラくんの表情を目にすると、なんだか残酷なことをしている気分になってしまう。
四日間みっちりと勉強を教えてくれたのだ。その対価がこれだとしたら、あまりにも釣りあっておらず、キラくんが損をする未来がみえて、焦りにも似た気持ちが込み上げてくる。
「……俺は、いまから、ナナを傷つけることを言うかもしれない」
「そんなの大丈夫ですよ。教えてください」
「じゃあ」
キラくんが、熱いほうじ茶のはいった湯呑みを音もなくテーブルに置いた。
「俺は、不登校になる気持ちがわからない」
その目は逃げもせず、まっすぐと、私だけを視界に映している。
「試験をすっぽかすから追試の常連だし、出席日数も褒められたものじゃない。学校は面倒だけど、べつにいける」
「はい」
「そういう俺を快く思っていないクラスメイトがいることも知ってるけど、気にしない。それぞれちがう人間だと割り切っているし。そんなのでいちいち精神を害していたら、やってられないって俺は思うから。だから、不登校だって俺のなかでは、そういうやつもいるよな、くらいの認識でしかなかった」
「……はい」
「だけど、それだと、兄が苦しんだ意味がわからないなと、思って。兄は兄だから、で単にちがいを認めて、受け入れてしまえば、俺は楽だけど、兄は浮かばれないのかもしれない。もう少し、兄のうちがわに踏みこむべきなんじゃないかと、思って」
「……」
「でも、俺には理解できない。俺はどちらかといえば家よりもそとにいるほうが好きだし、ずっとこもるなんてどういう気持ちなのか見当もつかない。だから」
私はキラくんがなにを望んでいるのかを、不明瞭なかたちでキャッチした。それを咀嚼し、そしてその先のことばを引きとった。
「同じ不登校の私だったら、なにか理解できるものがあるんじゃないか、ということですか?」
キラくんは申し訳なさそうに首肯する。
「ナナと兄が不登校になった理由が同じだなんて思っていない。ただ、苦しみかそれに似たものがそこに存在していて、それがきっかけで家のそとに出られなくなる、というプロセスが仮にあるのだとしたら。トリガーになるのが何なのか、そこにどんな感情の変遷があるのか、知りたいと、俺は、思って」
キラくんは真面目な人なのかもしれない。茶髪だし常にピアスだけど、彼から発せられることばはいつも思慮深く、節々にどことなく気配りを感じる。
もしかしたらキラくんが私の不登校を理解してくれるんじゃないか、と淡い期待を抱いていなかったと言ったら、嘘になる。そんな浅ましい自分が心底いやになる。
でも、寄り添うことと理解することはイコールではないのだ。理解できなくても寄り添えるし、理解したところで寄り添えないときもある。キラくんはキラくんにできる最善の範囲で、私と接してくれていたのだ。だとしたら、私のやるべきことはひとつだけだ。
「お役に立てるかわからないですけど、大丈夫です。そのお願い、引き受けます」
「ごめん。だけど、不登校の話をさせるのはふつうに酷だと思うから。それに、べつに、根掘り葉掘り訊きたいわけじゃないんだ」
「わかってるつもりです。私もまだ、うまくお話しできない内容があると思います。触れられたくないことも、あるかも、しれない。だから一度に、ではなく、段階を追って、でもいいですか?」
キラくんはいつもの声色で、ありがとう、と囁く。「う」は消え入るようにかすかで、私はキラくんを安心させたくて笑みを浮かべてみせた。
大丈夫。私は傷ついていない。こんな私でも恩返しができるのかもしれない、キラくんにとって価値があるのかもしれないと思ったら、もう、居ても立っても居られない。
山菜蕎麦の代金はキラくんが払ってくれた。というより、鞄から財布を出しても支払わせてくれなかった。しつこく割り勘を希望したけれど、キラくんは頑として譲らなかった。キラくんなりに、後ろめたさを感じているのかもしれない。だとしても、私はよかったのに。
わかれぎわ、もしよければ明日会わないかとキラくんはひかえめに誘いを持ちかけてきた。万が一、私がそとに出られなかったとしたら、それはそれでいいという優しさを添えて。私はあいたいです、と答えようとして、咄嗟にあいましょう、に言い換えた気がする。なぜそうしたのか、自分でもよくわからなかった。あいたいです、と、あいましょうのあいだに、どれほどの差異が存在しているのか考えないようにした。
帰宅したら、リビングでくつろいでいた両親は喫驚していた。父はコーヒーカップを片手に持ったまま、硬直している。
どこへいってたの、心配してたのよ、でも制服を着ているってことは学校へいったの、なにかメモくらい残してくれないと、ごはんは食べたの、ねえ、ナナちゃん。
背中に追いかけてくる母の声に適当に返事をしながら、階段を駆け上がって部屋の扉をしめた。階下の声はもうきこえない。私は鞄を床に置き、ベッドの側面を背もたれにしてしゃがみこんだ。
「はあ」
肺に溜まっていた空気を一気に吐き出した。さきほどまで会っていたキラくんのすがたを思い浮かべる。そして、会ったことのないお兄さんのすがたを想像する。
背が高くて、髪は茶色で、キラくんとはあまり似ていない顔立ちで、でもキラくんと同じ輝く瞳がある。子どものキラくんを抱き上げ、存分に愛を伝える。やめろよ、と抵抗しつつも嬉しさを隠しきれないほっぺをゆるませるキラくんと、そんなキラくんをあますことなく慈しむ眼差し。注がれる愛情で溺れそうなくらい、幸せに満ちあふれた歳の離れた兄弟。溺れたのは、どっちだったのだろう。
そこまで想像して、こんなものは妄想にすぎないのだからと、思考をシャットダウンする。
私はもう一度息をつくと、鞄からスマートフォンを取り出した。キラくんからメッセージが届いていた。私は迷うことなく既読をつけ、承諾の意を示す適当なスタンプを送る。スタンプはすぐに既読になる。それだけで相手がそばにいると錯覚する。勘違いも甚だしい。中毒みたいなものだと失笑する。
なにもかも失ったつもりでいて、みっともなくもがいて、失いたくないと叫ぶどころか、新たなつながりを求めようとしている。六畳一間の子ども部屋にこもりながら、薄汚れた窓のそとの世界を恐れつつも、私はなにかを渇望している。人とのつながりか、それだけでは飽き足らず親愛か、信頼か、はたまた、それとも。
けれども、と頭のなかで悪魔が囁く。それだけでは生きていけない。大人になれば自分でお金を稼がないといけない。勉強もできない、学校にもいけない、まともに家から出られないおまえに一体なにができる、と嘲笑う声がきこえてきて耳を塞ぐ。つながりなんてきっかけがあれば簡単に断ち切れる。またそんなものに縋るのか。それが儚いものであることを、おまえが一番よくわかっているだろう? 雑音に支配された脳みそがひりひりする。やめてくれ、やめてほしいのに、私はまた自分を痛めつける。
