遮光カーテンのすきまから、細く朝陽が伸びていた。私は寝ぼけ眼をこすりながら、枕のとなりに置いてあるスマートフォンの画面に触れる。午前六時。
 逆算すると、連続して三時間寝れたことになる。ほっと胸を撫でおろし、お腹のあたりでぐちゃぐちゃになっていた掛け布団を引き上げて、口元まで持っていった。布団のなかは熱がこもっている。ふたたび瞼を閉じてみるが、眠りは訪れそうにない。はじめから期待はしていなかったので、私は遮光カーテンを横に引いた。
 耳をそばだててみるが、音はない。父も母もそれぞれの寝室で寝ているらしい。大抵の金曜日は飲み会らしく、ふたりとも土曜日は平日よりも遅く起床する。
 四日間、上級生の男の子が家にきて、勉強を教えてくれたんだよと言ったら、ふたりはなんて言うだろうか。当惑して、顔を見合わせるすがたが目に浮かぶ。そしてきっと、学校の勉強がわからないってどういうこと、と困りはてた顔をするのだろう。
 優秀な遺伝子がかけあわさって、優秀な子どもが産まれる、とは限らないらしい。競馬においても、血統は重要ではあるものの、名馬の子が必ずしも名馬になるわけではない、と不登校になるまえに本で知った。システマチックだと思い込んでいたが、遺伝子とは案外いいかげんで、いたずらなところがあるらしい。もちろん私は馬ではないけれど、すくなくとも人間の私は親に比べて劣っている。

 両親が起きてくるまえに家を出ることにした。まだ朝焼けが残るグラデーションの空で、遠くのほうには澄んだ橙が置いてきぼりになっている。指定のスクールバッグの肩紐を握る手が汗ばんでくる。土曜日のこの時間、まだ街は眠りについていて、人はまばらだけれど、数少ない人とすれ違うたびに心臓がはち切れそうになる。
 そとに出るのはまだこわい。課題を提出する、期日までに出さないと留年する、という条件がなければ、きっと家から一歩も出られなかった。なんて皮肉なんだろうとひとりで嘲笑する。自分でとじこもって、そとの世界にいけなくなったのに、そのくせそとの世界とのつながりが完全に遮断されないように、細い糸をつかんで足掻きつづけている。
 マスクはつけない、と昨日思い切ったけれど、存在しないはずのみんなからの視線が気になって、視線は薄汚れたアスファルトばかり追いかけている。たまに落ちている煙草の吸い殻やプラスチックの破片なんかを目でたどりながら。ときおり前方から足音が聞こえてきて、大袈裟なまでに肩が跳ね上がる。ただの通行人にいちいち反応して、ますます自分に失望する。

 裏門をくぐり、保健室に向かった。昨晩担任の教師とメールでやりとりし、そこで落ちあうことになったからだ。教室や職員室、部活動の空間を指定されなかったあたり、担任なりの配慮なのかもしれない。

「あら、都川さん。土曜日の朝からえらいわねえ」

 ノックをして保健室に入室したら、簡易ベッドのシーツを整えている養護教諭と目があった。おはようございます、と小声で挨拶すれば、にっこりと笑みが返ってくる。

「担任の先生から話はきいてますよ。そのうちお見えになられると思うから、都川さんはそこのソファに座って待っていてね」
「はい」

 メロン色のソファは病院の待合室にありそうなタイプで、座席はかたく、腰を下ろせばぎしぎしと軋んだ。
 私は鞄のチャックを引き、なかからクリアファイルを取りだした。朝、なんども確認をしたので、枚数はまちがいなく揃っていると思う。クリアファイルを持つ手から、血の気が引いていく感覚がある。緊張していることを悟る。
 唐突にがらがらと扉を引く音がきこえて、背の低い男性教師が顔を出した。

結城(ゆうき)先生、毎度保健室をお借りしてしまい、すみません」
「いえいえ、藤川(ふじかわ)先生。都川さんならもうきていますから、こちらに」

 担任が私のほうをちらりと見て、うなずく。そして私の緊張を解こうとしたのか、担任はぎこちなく頬を持ち上げた。ほうれい線にくっきりと皺が刻まれる。分厚い眼鏡の奥には、肯定的な眼差しがある。

「都川さん、おはようございます」
「お、はようございます」
「こんなに早く課題が終わるなんて、正直びっくりしましたよ。がんばったんですね」
「家庭教師に教えてもらいながら、解きました」

 自力で解いたわけではないことを、言い訳のように付け加える。担任は首を左右に振る。

「それでも取り組んだことがすばらしいですよ。では、受け取りますね」

 クリアファイルを渡せば、担任が中身をぱらぱらとみて「すべて揃っていますね」と言う。私のからだの強張りがとける。ちゃんと提出できた、その手応えが足元からじわじわと込み上げてくる。

「採点は追試のときと同様、各教科の先生方が行うので、結果はまた連絡します」
「はい」
「都川さん。このタイミングでこんなことをいうのはルール違反かもしれないけど、保健室登校の件、考えてくれましたか?」

 私は曖昧な表情をつくって、俯いた。

 裏門を出たら、黄色い葉っぱが空から降ってきた。扇のかたちのようで、てっぺんが二手に分かれている。紅葉した銀杏の葉だとわかり、私はきょろきょろとあたりを見渡した。
 十メートル先にある街路樹が、立派な銀杏だった。幹も枝も太く、金色の葉をたっぷりたくわえている。その下に、キラくんが立っていた。キラくんは銀杏を見上げて目を細めていたけれど、ローファーがアスファルトにこすれる音が聴こえたのか、その視線が私のすがたをとらえた。

「まだ電話してないですよ」

 キラくんはやんわりとはにかむ。

「これから学校にいくって連絡してくれたから、ちょうどこれくらいの時間だとナナを拾えるかと思って」

 なぜか泣きたくなる。キラくんのほうへ向かう足取りが、徐々に早歩きになる。キラくんの一歩前で立ち止まり、両方のこぶしをぎゅっと握りしめる。

「課題、提出しました」
「うん」
「結果は後日連絡がくるって」
「うん」
「あの、私、ほんとうに、ありがとうございました」

 深々と頭を下げたら、うなじのあたりに「俺は大したことしてないし」とおかしそうな声がかかる。鼻がつんと痛み、私は制服の青シャツでまなじりをぐいと拭いた。

「それで、あの、さっそくなんですけど、キラくんのお願いをきかせてください」
「もう?」
「恩がありすぎて、抱えつづけるのは耐えられないので、はやくなんとかしたいんです」
「ナナらしいなあ。まあ、とにかく顔あげて」

 おそるおそる顔を上げたら、キラくんが自然な動作で私の手をとった。目を見開いたら、キラくんがくるりと背を向ける。

「ごはんでも食べながら話そ」

 ゆるくつながれた手をぼんやり眺めながら、私はキラくんの細い背中を追いかけた。大きい銀杏の奥には若い銀杏並木があり、ひらひらと舞いおちる黄金色の葉っぱを浴びながら、私たちは歩きつづけた。
 途中、近くにある蕎麦屋でよいかと尋ねられ、いいですと答えた気がしたけれど、これもまた夢かもしれなかった。夜はうまく眠れないのに、日中は夢と現実のはざまで、行ったり来たりしているような不思議な感覚のなかにいる。

「勝手に蕎麦屋に連れてきちゃったけど、もしかしてお腹すいてない? あと、アレルギーとか」

 掘り炬燵の蕎麦屋さんでテーブル越しに向かいあいながら、今更だけど、とキラくんが気まずそうに口を開く。

「いいえ、朝ごはん、食べてないんです。だから、その、いまのいままで絶食なので。大丈夫です。あっ、アレルギーもないです。とにかく大丈夫です」
「それのなにが大丈夫なんだよ」

 若干呆れまじりの声がする。キラくんは手際よく注文を終えると、運ばれてきた焦茶色の湯呑みを私のまえに置いた。中身をうえから覗きこめば、深い色味の緑茶が揺れている。ほんわかと湯気がたっていて、湯呑みを両手で支えたらほっとした。

「ここ、うちの近所なんだけど、なかなかうまいんだよ」
「楽しみです。あの、ほんとうに高校の近隣にお住まいなんですね」
「学校からみえるよ、俺の実家」

 そんなに近いと朝も余裕があっていいですね、遅刻多いからあんまり意味ないかも、ええーじゃあなんでこの学校に入学したんですか、ああそれは……。

「天ざる蕎麦と、山菜蕎麦をお持ちしました」

 そこで会話は中断し、運ばれてきた蕎麦をふたりですすった。山菜の歯ごたえが絶妙で、絡みあう蕎麦も芳しい香りが鼻からぬける。絶品だ。

「おいしい」

 目を丸くすれば、キラくんも首を縦に振った。

「で、なんだっけ。なんでこの高校に入学したのか、だっけ?」

 からりと揚がった海老の天ぷらをていねいに箸で口に運びながら、キラくんがそういえば、と口火を切った。

「登校時間がかからないから、も理由のひとつではあるんだけど。一番は、俺の兄が通ってたからかな」
「お兄さん、いらっしゃるんですね」
「ん。七歳上のね」
「年が離れているんですね」
「そう」

 山菜蕎麦を半分くらい食べたところで、ぬるくなった緑茶を飲んだ。普段食べる量が少ないので、食べきれるか自信がなかったけれど、喉ごしもよく食べやすいので、このぶんだと残り半分もいけそうだ。

「お兄さんが通っていた高校だから、憧れみたいなものがあったんですか?」
「そんなんじゃない」

 さつまいも、白身魚、茄子、ししとうの天ぷらを食べおえて、キラくんが箸を置いた。そしてキラくんと私の中間に置いてある、なみなみと白湯の入ったうつわをとり、蕎麦つゆに注いでいる。

「憧れは一ミリもなかった。ただ、どんなものなのか知りたかった。兄の軌跡を追いかけた、と言えばやや適切? 入学して、こんなもんか、と思った。その時点で目的は達成したから、あとは惰性で登校してるようなもん」

 キラくんはこれまであまり自分の話をしてこなかった。だから、こうしてぽつりぽつりと自分のことを話すすがたが物珍しく、奇妙にも思えた。

「軌跡をたどればなにかわかるかと、根拠なんてないから限りなく0パーセントに近い勝算で同じ高校に通ってみたけど、まあ、わかるはずがないよな。べつの人間なんだし」

 頭のなかに疑問符が浮かぶ。キラくんはそんな私を見て、あやふやな笑みを貼りつける。それもまた見たことのない表情で、私は唇を結んだまま正面のキラくんを見つめている。

「ナナにお願いしたかったことは」

 その形のよい唇が紡ぎだすことばを、私は待った。

「俺の兄について教えてほしい。それだけ」

 そして、肩透かしをくらった気分になった。