キラくんは毎日、午前十時にインターホンを鳴らした。制服すがたのときもあれば、私服を着ているときもあった。たまに登校しているのかもしれない。キラくんはあまり自分の話をしなかった。
 私は毎日お風呂にはいるようになった。食欲はあまりないけれど、義務的にごはんを口に運べるようになりつつある。睡眠については相変わらず苦戦中で、睡眠薬は常に枕元に置いてある。けれども以前よりは体調がよく、親がいない時間帯には、自分の部屋を出てリビングで過ごすことも増えた。リビングにいたところで、ソファに横になってただ天井を見上げているだけだけれど、部屋にこもりっぱなしの日々を思えば確実な進歩だった。小さな箱庭でひっそりと息をひそめて、限られた酸素を吸って生きていたのに、気がつけば自分のまわりに風が通るようになっている。

「それ、いつもつけてんの」

 キラくんが家にくるようになって四日目に、彼は緩慢な動作で指先を持ち上げると、私のマスクを指さした。いつか指摘されるかもしれないと覚悟していたので、なかば諦めの気持ちで私は肩をすくめた。

「家でひとりのときはつけてないですよ」
「俺がいるから? なにか気にしてんの」
「肌荒れがひどいんです。ひとさまにお見せできるような状態じゃないので」

 朝、洗顔をすることも、夜、お風呂にはいることも、私には不可能だった期間が長すぎた。上積みされていった汚れはひどいもので、最近は顔を洗えているのでだいぶましにはなってきたものの、まだ肌荒れはおさまっていない。表面の肌は赤く、ゴワゴワしていて、乾燥気味なところは皮がむけており、皮脂の多い場所にはニキビもあった。
 高校生にもなると、メイクを覚えてかわいらしく身なりを整えている人がたくさんいる。一方の私は顔の治安もよくなく、髪の毛は伸び放題で、猫背で固定された背中はずっと小さくまるまっている。

「そんなの俺は気にしないけど」
「そう言われる気がしてました。だけど、その、なんかむりで」
「いまのナナは自己肯定感がゼロ以下を突破中だから。とにかく抵抗感があるんだろ?」

 よくご存じで、と苦笑いをうかべる。この数日間でずいぶんと私のことを知られてしまっている。今更隠すものなんてないのだろうけれど、自分のなかにある引っ掛かりの正体がつかめなくて首をかしげる。

「知りあいが」ぽつりとことばが届く。

「知りあいのトガワが、あー、ナナじゃないほうのトガワサンが、肌荒れを治したいなら、手っ取り早くマスクをはずした方がいいって言ってた」
「えっ、それは、知りませんでした」
「なんか刺激? になるらしい。俺は詳しくないけど。だから、それでもはずしたくないなら、それがナナの気持ちだから強制はしないけど、気にしてるのが肌荒れなら、治す一択に動いたほうが効率的なんじゃね。まあ、俺はほんとうに気にしないから」

 私はすうと息を吸いこんだ。マスクのなかは蒸れて、じっとりしていた。温度のない指先をマスクの輪っかにかける。キラくんは私のほうをみていない。あえて目をあわさないようにしてくれているのだと悟る。
 思いきって取りはらったら、ひんやりと澄んだ空気が頬を撫でた。私は白いマスクをぐしゃぐしゃに丸めて、テーブルの下にあるゴミ箱に投げ入れる。

「えっと、勉強! します!」
「ん、やろ」

 頬を両手でパンと軽く叩いたら、キラくんがくすくすと肩を揺らした。リビングの空気をそっとふるわせる、やわらかい笑い声だった。

「はい、じゃあナナのやる気があるうちにやっちゃお。今日は昨日のつづきでいい?」
「いいです、お願いします!」

 キラくんはおしゃべりなほうではない。それでも、ここ数日でわかったことがいくつかある。
 たとえば、麦茶よりも緑茶のほうがすきなこと。お茶よりも果実のジュースを好むこと。炭酸飲料はあまり飲まない。私は透明のグラスにオレンジジュースを注ぎ、キラくんの手元にあるコースターに置いた。
 お礼を言うとき、キラくんはほんの一瞬だけ目線をあげて、まぶしそうに目を細める。「ありがとう」の「う」はほとんど聞こえずに、ささやかなことばはあっという間に空間に溶けていく。
 声量もふつうよりは小さめ。耳をすませないと聞きとれないほどではないけれど、必要最低限のからだの機能だけ使って生きているような印象を受ける。
 なにかを考えるとき、シルバーピアスに触れる癖がある。しかし、触れているのはわずかな時間だけで、すぐに我に返ったようにぱっと手を離す。
 三月三十一日生まれだから、私とほとんど歳が変わらない、みたいなことをキラくんは主張していたけれど、私からしたらキラくんはやけに大人びている。同級生の男の子たちのすがたを思い浮かべてみても、一回りも二回りも年齢がちがうような気がしてくる。

「ナナは世界史も得意だな」

 できあがった答案用紙を点検しながら、キラくんが感心したように言う。

「俺が教えることなんて実際あんまりなかった。かなり忘れてただけで、糸口さえみつかれば、あっという間に頭の中に年表ができあがってたよ」
「えっ、そうでしょうか」
「それ。ナナって、えっ、が口癖だよな」

 指摘されて狼狽する。話すべき事柄をさがすも思いあたらず、言い淀んでいたところで、キラくんが大きく伸びをした。

「そんな慌てたり動揺しなくていいのに。すぐ返事しなきゃ、とか、なにを言われてるか理解しなきゃ、とか、たぶん思ってるんだろうなと想像してるけど」

 なにも言えずに閉口する。キラくんは伸びをしたまま、あちらのほうを向いてあくびをした。

「じゃ、つづきやろうか。それとも休憩する?」
「つづき、で」
「了解」

 キラくんのなかで、さきほどの話題は完全に終了したようだった。
 私は「えっ」が多いらしい。わざと口にしていることばではなく、突然話しかけれたときや、話しかけられた内容が予想外のものであったとき、条件反射的に出ている自覚はあった。そうなったのは不登校以後のことだから、どうやら私は自分が思っている以上に自分への自信がなくなっているらしい。否、自信なんてものはなく、むしろ不信感で満ちていて、端をつつけばぐらりと揺れて崩壊しそうなくらいには。
 仮に追試の課題をクリアできたとしても、私がひきこもりになった根本的な部分は解決できていない。そのことについて思考を巡らせようとすると、てのひらに嫌な汗がにじんで胸に疼痛が走る。

「ナナ?」

 いまはただ、目の前のことをいっこずつ片づける。自分に言い聞かせて、必死にうなずいてみせる。

「すみません、ぼうっとしてました。つづきやります! よろしくお願いします」

 どれくらい時間が経過したのか、ペンを走らせているうちに、ペンに触れている中指が鈍く痛みはじめた。ペンを置き、ひらいた手をしげしげと眺めながら、ペンだこなんて久しぶりにできたなと、いびつな出っ張りをべつの指の腹で押してみる。
 西の空が赤くなりはじめていた。東の空は暗いブルーのヴェールがかかり、白い月がぽつんと浮かんでいる。遠いところから、寝床に帰る鳥たちの鳴き声が聴こえてくる。
 キラくんはすべてのプリントに目を通し、慎重に枚数を数え、束ねたそれを私の前に置いた。

「おわった。おつかれさま」

 おつかれさま、を反芻している私の顔がよほどまぬけだったのか、キラくんは口角を持ち上げてみせた。

「これで、ぜんぶ?」
「うん、おわり」
「……信じられない」
「四日で終わったな。上出来」
「よっかで、おわった」
「そう。最後、提出する必要があるけど」

 キラくんがスマートフォンをポケットから取り出して、その画面を私のまえに突きつけた。デフォルトのカレンダーのアプリで、現在の日付のところに赤いマルがついている。

「今日は金曜日。もうすぐ校舎は閉門の時間だから、今日は出しにいけないけど、明日ならワンチャンあり」
「でも、明日って土曜日ですよね」

 夢からさめていない気がする。よく働かない頭で、呆然としたまま問いを投げかける。頭のなかは薄靄がかかっていて、吐き出す息も真冬の朝みたいに白く、喉元にまとわりつく。

「ナナの担任って卓球部の顧問なの、知ってた?」
「あ」
「卓球部は土曜日も練習してるから、たぶん学校にくると思う。顧問きてないと部活できない規則だし」
「だから、あす」
「そう。勢いのあるうちに。あと月曜だと週始まりの会議があるから、担任も時間に余裕がないはず」

 キラくんがグラスを片手で持ち、底から二センチほど残っていたオレンジジュースをきれいに飲んだ。上下する喉仏をみながら、私はまだ夢のなかにいる気がしていた。

「メールしとけばいいんじゃね。担任に」
「そう、ですね」
「ナナ。俺、待ってるから」

 それは真剣な眼差しだった。ひかりを集めた榛色の瞳が、きらきらと瞬いている。

「仮に提出できなくても責める気はない。そうだとしてもそれがナナで、そんなことでナナ自身が損なわれるわけじゃないから。ただ、俺は待ってる。明日、もし提出できたら、俺に電話して。提出できなかったとしても、なんらかの手段で俺に教えて」

 待ってる、の響きがすとんと胸におちる。そのまま沈下して、からだの奥のほうへと馴染んでいく。
 どうやら私は追試の課題を終えたらしい。追試では、ほとんどの教科で二割も取れなかったのに。配られた課題をひらき、問一を凝視しても、なにが問われているかさえわからなかったのに。さらにいえば本も読めなくて、現代文の課題の文章すら頭にはいらなかったのに。
 いま、自分の身に一体なにが起きているんだろう。まるで魔法にかかったかのようだ。だとしたら、これはどんな魔法だろう。幻覚? 錯乱? もっとべつのもの? だれか教えてほしい。
 キラくんから問題の答えを教えてもらうことはなかった。彼はあくまで答えに辿りつくための道標を教えたり、必要な定理や知識を補填してくれただけだった。無理のない範囲で、けれども私にとことん考えさせる。それがキラくんの教えかたで、気がつけばあれほど苦しかったタスクが完了していた。

「じゃあ、またね」

 キラくんはひらりと片手をあげると、いつものように家を出ていく。いつものように、と考えている自分に気がつき、そんな自分に思わず呆れてしまう。
 かちゃん、と音をたててとじた玄関の鍵をしめた。ドアがしまる間際、明るい茶髪がふわりと揺れて、あの瞳が私をじっと見つめている気がした。
 気が張っていたのか、すとんとその場に崩れ落ちた。もう一度、ペンだこのできている指に視線を落とし、血の通った手をひらけば、シャープペンシルの黒鉛で黒光りしている。その手で顔を覆い、体育座りをした膝と膝のあいだにうずくまった。
 指のすきまから、フローリングの木目がみえる。それは、日に焼けて色褪せている。窓のそとでは太陽が沈み、欠けた月がてっぺんにのぼっている。夜だ。私はいつまでこうしているのか。足先が凍てついて、爪の下の皮膚が青白い。遠くにあるスマートフォンが、輪郭のぼやけた光源になっている。私はそっと立ち上がった。
 かさついた足の裏がフローリングをなぞる。スマートフォンの通知がひかっている。ナナ元気なの、その文字をみて、逡巡したのち画面を暗くする。
 私はテーブルに置いたままの課題をクリアファイルに戻し、胸に抱きかかえて自分の部屋に帰っていった。