「ナナって呼ばれてんの?」

 約束どおり午前十時にインターホンを鳴らした先輩が、リビングのテーブルで頬杖をつきながら私に訊く。

「えっ、なんで」
「だってほら、あれ」

 指先が固定電話のある棚を指している。写真立てがいくつか飾ってあって、テニス部の集合写真の右上には「ナナせんぱい、総体おつかれさまでした!」の桃色のポスカの字。部活動を引退するとき、当時親しくしていた後輩がくれたものだった。

「そうですね、ナナって呼ばれることが多いです」
「ふうん。なんて呼べばいいかわからないから、俺もナナって呼ぼうかな。ナナさんのほうがいい? ナナちゃん、だとちゃらくね」
「ええと、ふつうに都川、じゃだめなんですか」
「知りあいにトガワって人がいんの。漢字は内外の外に川、なんだけど。紛らわしいからさ」
「そうだったんですか。じゃあナナでお願いします。私のほうこそ先輩のことなんてお呼びしましょうか。やっぱり、キラ先輩?」
「あー、先輩は微妙かも」

 彼の目の前に麦茶の入ったグラスを置けば、彼はお礼を言ってグラスのふちに唇をつけた。

「俺の誕生日って三月三十一日なんだよね」

 そして、突拍子もないことば。ぽかんと口を開けたら、私に向けて微笑が返ってくる。それは笑っているか笑っていないかわからないくらいの、はざまにある小さなほほえみで、たとえるなら春の雨のようなやわらかさがあった。

「同級生も一個下の下級生も、俺にとっては年齢の違いってあんまりないんだよ。だから、先輩とか言われると、なんか微妙」
「じゃあキラさん?」
「さん、よりは、くん、のほうがいい」

 それはちょっといくらなんでも、そうは言っても先輩なんだし、と口ごもっていたが、話しても平行線をたどる一方だったので、結局キラくんとお呼びすることになった。
 体育会系の部活動で上下関係を叩き込まれた私としては、背中に蛇が這うような気持ち悪さが残るけれど、ご本人の希望であれば仕方ない。学校内ではキラ先輩って呼んでもいいですか、へんに目をつけられたくないし、と言おうとして、自分が不登校であることに気がつき、無性におかしくなった。

「ナナって慕われてんのな、後輩に」
「えっ、どうしてですか」
「さっきの写真。ナナせんぱい、て書いてあるから、後輩から贈られたものだろ? こまかくデコレーションしてあって、手が込んでるじゃん」
「ああ、そうですね。でも、どうなんでしょうね」

 仄暗い気持ちがこころの奥のほうで揺れる。細波が立ち、首筋がひんやりとした。
 自分のグラスの麦茶を覗き込めば、マスクをつけたうつろな女子高生が映っている。

「慕われてたと思ってました。でも、たまたまその後輩のインスタの別アカ見つけちゃって。写真があったんですよ。高校生になった私の同期と中三の後輩たちが勢揃いの、テニス部ごはん会っぽいやつが」

 グラスを傾けたら波紋が広がる。私は焦点をどこに定めるでもなく、なんとなく見下ろしている。
 なんで私、自分のだめな話ばかり、この人にしているんだろう。この人は、なんでこんな話に耳を傾けてくれるんだろう。

「そこに、書いてあったんですよ。ナナせんぱいは高校で落ちこぼれて不登校!」
「まじで?」
「まじです。笑ってる絵文字を送ってる子もいました。私、不登校になってすぐのころ、部活でペア組んでた仲良い子にだけ高校を休んでること、ぽろっと言ったんですけど」

 不登校のことを知っていたのは千波だけだ。私の通う高校には同じ中学出身の生徒はおらず、共通の知りあいもいなかった。

「その子には、疲れたから学校休んでるって言っただけなんですよ。成績不振のことはなにも。いずれにせよ、その子から不登校のことは伝わったんだなってわかったんですけど。誰かが落ちこぼれって言いはじめたんでしょうね」
「ペアの奴かもしれないし、その後輩かもしれないし、はたまたべつの誰か」
「はい」

 マスクをそっと下げて、麦茶を口にふくんだ。そのとき、喉がカラカラに乾いていたことに気がついた。

「ナナ最近どう、ていまも連絡くるんですよ。そのペアだった子から。返信はずっとしてない。したほうがいいのかなと思うんですけど、なんだか私、よくわからなくなって」
「……」
「ずっと目を閉じて生きていたのかなって。で、目が開いたんだと思ったら、こわくて仕方がなくて」

 後輩のインスタグラムの投稿は、たしかにショックだった。目にした瞬間、世界から色と音が消え失せて、私は空洞を抱きこんだまま、しばらく呆然とした。
 けれどそのうち、私はなにもみえていなかったんじゃないかということに思い至った。これまでみえていなかった部分が浮き上がってきて、膨れ上がり、それは雪崩となって私を押し流していく。

「写真、なんで飾ってんの」
「キラくんに言われるまで、写真立ての存在をすっかり忘れてたんです。リビングで過ごす時間は短いし」

 いつも自分の部屋にこもっているから、とはなぜか言えなかったけれど、私が言わなくても見透かされている気がした。
 キラくんはそっと立ち上がると、棚のまえで立ち止まり、写真立てをていねいに倒した。

「ほかにみたくないのある?」

 喉の奥がしびれてくる。ふるえる唇が熱くて、なにかを誤魔化すみたいに瞬きを繰り返す。

「ぜんぶ」掠れ声が出た。

 キラくんは「了解」とだけ言うと、ぱたん、ぱたん、と写真立てを倒していく。傷つかないように、細心の注意を払いながら。
 視界がぼやけていく。不意に伝った涙がマスクに吸い込まれていく。

「これに向きあえるようになったとき、また立てなおせばいいんじゃね」
「そんなの逃げじゃないですか」
「そうかもな。でもいまのナナはきっと、頭のなかがとっ散らかってるんだろ? そういうときはみなくていいんじゃない。すぐ整理できる人もいれば、時間がかかる人もいる。べつにわるいことじゃない」
「みなくていいなんて、むり、だと思います。みんな、逃げちゃだめって言うじゃないですか。困難に背を向けるな、立ち向かえって」
「みんなってだれ?」

 キラくんが固定電話のある棚を離れ、こちらに戻ってくる。椅子に座り、テーブルのうえに広げた課題を興味深そうに眺めている。

「それ、は」
「たぶんね、逃げるなと叱咤激励する人もいるし、逃げていいよと見守る人もいるんだよ。どっちでもよくねって笑う人もいる。みんなはいなくて、みんなはナナの頭のなかにしかいない。いろんな人がいて、いろんなことを言う。だから、あとはナナが選ぶんだよ」
「わたしが、えらぶ」
「ん。でも、いまのナナは選べないから苦しくなってるんだろ? そういうときは逃げる逃げない以前に、みなくていい。決断をしなくていい。なにも考えられないなら、俺はナナのかわりにナナのことを決めるのは無理だけど、優先順位をつけてあげることくらいはできるから」
「キラくんが?」
「そう。で、いまナナがやりたいことは、なんとかして課題を終わらせること。ちがう?」

 鼻をすすったら、キラくんがやんわりと目尻をゆるめた。私のほうは見ずに、プリントを一枚ずつめくって、内容に目を通している。
 涼しい眼差しだった。私は初めてキラくんの目をみた。色素の薄い榛色だ。この人、目の中に陽のひかりがあるみたい。もしくは真昼の月。あるいは完全に夜の帳が下りるまえの、点滅するような星々。

「ざっとみたけど、これなら一週間もかからずに終わりそう。がんばる必要はあるけど。やる?」
「やります!」
「いい返事。まあ息切れしない程度にやろ」

 どうやら試験はいつも満点だと言っていたのは、あながち嘘ではないらしい。一学年上だからかもしれないけれど、キラくんに解けない問題はなかったし、教えるのもじょうずだった。
 壊滅的に勉強ができない私を責めることもなければ、励ますこともなく、キラくんはとにかく冷静だ。なんでこんな問題ができないんだ、と驚くこともなければ、笑うこともない。キラくんはあくまで、私がどの段階で躓いているのかをひとつずつ探っているようだった。
 ここがわからないなら、高校一年生のときに習ったこの部分に立ち返る必要がある。それでも難しいなら、これは中学三年生で習うあの定理を理解していないということだよ、といった具合に、分析して原因を突きとめていった。

「私、中学の内容はできてるつもりでした。高校受験でも通用したから、その気になってました」
「暗記はできてたんじゃない。むしろもともとはそっちが得意そう。ただ、本質の理解にまでは至ってなかっただけで」

 落ちこむ私にキラくんが落ちついた声色で返してくる。
 自惚れていたのだ。自分はただしい努力をして、それに見合った実力を身につけてきたと勘違いしていた。現実の私は中学の学習範囲も体系的には学べておらず、高校の勉強は真っ白いノートを焼きはらったみたいにあちこち焼け野原。留年しないためにその場しのぎで課題を解くことさえもままならない。まえを向こうとすると、いつのまにか一歩前に大岩がある。それをアイスピックでがりがり削るみたいな、先のみえない作業。過去のおこないがすべて跳ねかえって、現在に地続きしている。

「ぜんぶできるのかな」弱音がこぼれる。

 キラくんはできるともできないとも言わない。「不安を潰したいなら、目の前のことをいっこずつ片づけていくしかない」と言う。そのことばは雫のように落ちて、まるい波紋をつくりながら隅々まで浸透していく。
 やるしかない。やらない限り、私の不安は消えない。長いことそれさえできなかったけれど、だれかがとなりにいてくれれば、着手自体はできそうだ。着手の結果、課題の達成にまで辿りつけるかどうかはわからないけれど、さきの見通しを立てずにいっこずつ片づけてみよう。大量の洗濯物を地道に畳んでいって、気がつけばすべて畳みおわっていればいい。
 あふれた涙をパーカーの袖でぬぐう。キラくんは相変わらずなにも反応せず、ペンを持つ私が答えを導き出すのを待っている。どれだけ時間がかかろうが、微動だにせず待ちつづけている。そうまでして私にしたいキラくんのお願いってなんだろう。でもいまはまだ、それを考えるときじゃない。

「この問題、できた、かも。どうです、か?」

 キラくんは私の出した答えに目を通し、ふっと吐息のような笑みをこぼす。

「あってるよ」

 熱い思いが込み上げてくる。マスクのしたで、いつぶりか知れない笑顔が浮かんでいる自信がある。はずせばいいのに、かたくなに手放すことのできないマスク越しに、キラくんのシャープな横顔がみえる。口許がゆるやかに弧を描いていて、心なしか満足そうだ。