「あ」

 追試の結果を確認しにいった学校の廊下で、例の上級生と鉢合わせた。ブルーのワイシャツを第二ボタンまであけて、その上にアイボリーのゆったりとしたセーターを着ている。

「どうも」上級生がぶっきらぼうに言う。

 私も無言で会釈だけ返したら、気まずい沈黙が流れる。上級生はふうと息を吐いた。

「試験の結果、どうだった?」

 上級生の視線がつむじあたりに注がれているのを感じながら、下を向いたままの私は口をひらく。

「一科目を除いて全滅です。あ、厳密には全滅とは言わないか、でもほぼ、ほぼ全滅。なので、さっき課題が大量に出ました」
「どんまい。課題の期日は?」
「来週末です」
「あー、やばそう。それ終わんないやつ。むしろ生き残った一科目はなんだったの」

 淡々としているけれど、そのことばにはほんのりと温度がある。長らく家族以外と会話らしい会話を交わしていない私は、おそらく挙動におかしな点が散見しているだろうけれど、目の前に立っている上級生からはとくに言及がない。
 俯いていた顔をそっと上げた。

「日本史です」

 へえ、と形のよい唇が動く。

「勉強してたんだ」
「あ、いえ、家に歴史漫画や偉人の伝記が結構あって、親がすきで。私も昔よく読んでいたから。そのときの蓄積で、かろうじてパスできただけで」
「なるほどね」

 これから帰るのだと言う彼と、なぜか肩をならべて廊下を歩き、目立ちにくい裏門から外に出た。彼は追試を全科目パスしたらしい。私は風でマスクがずれないよう、ワイヤー部分を鼻にしっかりとあて直した。
 雨予報のはずだが、空は灰色の厚い雲に覆われているものの持ちこたえている。しっとりとした風が睫毛をふるわせた。

「課題、ちゃんとやんないと留年するよ」
「そうですよね。でも恥ずかしながら、課題の内容が私にはさっぱりで。ネット駆使して答えをつくってもバレバレですよね」
「うまく誤魔化せないなら、後ろめたいことはやめたほうがいいのでは」

 問題児っぽい雰囲気を醸し出しているのに、言っていることは意外とまともで閉口する。
 これからどうしようか。そもそも私は、なぜよく知らない上級生とふつうに会話しているんだ、と寝不足の頭が混乱する。

「明日は? 学校いくの?」

 なんてことのない問いに、思わず立ち止まる。
 さきほど面談した担任の教師は、保健室登校でもいいから、と私に登校を勧めてきた。受けるはずの授業の課題をこなせば、登校日数としてカウントしてあげるとかなんとか。そんな簡単に言ってくれるなと怒鳴りたくなった。情けなくて苦しかった。

「うーん、まだ迷ってるんですけど、たぶん、いかない、かな」
「ずっといってないの?」
「ええと、はい。やっぱり、わかりますよね」
「まあ、そんな感じする。じゃあ家にこもってひとりで追試の課題やるつもりなんだ、ますますやばそう」

 その見立てはきっと正しい。高校一年生で習う基礎的な範囲からやり直さないといけないかもしれない。それをあの眠れない部屋で、一週間ひとりきりで格闘するのか。終わりがみえない。私はうなだれた。
 今度こそ留年回避は厳しいかもしれない。やはり高望みだったのだ。なんとか手を伸ばして、たまたま指先に引っかかって、そうして高校への入学切符を手に入れることができただけ。ここは身の丈に合っていない、そう思いたかった。だめな自分を納得させたかった。

「どうせ俺も学校にはいかないから、勉強教えてあげてもいいけど」
「はい?」

 素っ頓狂な声が出る。なに言ってるんだろうこの人。目の前が揺れているのか、自分のからだが揺れているのかわからない。ぐらぐら左右に揺れている。

「えっ、待ってください。少し考える時間をください。いや、んん? え?」
「もう一回言おうか?」
「いえ、その大丈夫です。そんなことより、あの、すみません。ちょっとこれから私、すごく失礼なことを先輩に対して言うかもしれないんですけど」
「どうぞ」
「先輩も追試組ですよね。申し訳ないですけど、勉強できるんですか。あと、大して親しくもない後輩に、初っ端から親切心を振りまいてるの、逆に怪しいです。なにか魂胆があるなら先に教えてください。それから家庭教師代としてお支払いできるものはないので、先輩は今年度たぶん受験生ですよね? 先輩の時間の浪費でしかないと思います」

 久々に一気に喋ったので酸欠で、頭が痛くなってきた。
 隣にいる長身の男子生徒は、どうやら歩幅を合わせてくれているらしく、股下の長い足はやけにゆっくりとした歩調だ。申し訳ない気持ちが胸もとまでせり上がってくる。

「あー、ひとつずつ答えればいい?」
「その、すみません、質問が多くて、しかも失礼で」
「たしかに俺は追試の常連だけど、いつも満点だよ。学校の試験で点を落としたことはないから、学力面は問題ないはず。怪しいの指摘はそのとおりで、勉強を教えるかわりにひとつお願いがある。変なことじゃない。お金はもちろんいらない。プロじゃないし。志望校は常にA判定だけど、仮に落ちてもどうとでもなると思っているから、べつに。答えになってる?」

 互いに立ち止まった。雨の匂いをふくんだ風が吹いている。
 ふたりの間にあった谷には、いつの間にか頑丈な吊り橋がかかっている。橋を渡るべきか思案する。考えても答えは出ないし、そういえば私の思考回路はとっくに焼き切れていたので考えるだけ無駄だった。

「……お願い、って?」
「いま言うと気が散って勉強に集中できないだろうから、課題が終わったら話すよ。誓って言うけど、危害を加えるようなものじゃない」
「ええと、よくわかりました。あの、でも私、外とか出られないかもしれないんですけど」

 言葉尻がふるえた。目の奥がカッと熱くなる。涙は出ないけれど、呼吸が乱れはじめる。息が苦しい。肺が潰れて悲鳴をあげる。苦しくて、私はいまもずっと溺れつづけている。
 なにも言葉が返ってこないので、私は喉のあたりで詰まっている思いを少しずつ吐露していく。

「追試のときと今日は、なんとか家を出られたんです。なんだろうな、結局、行かなきゃ留年確定だから、かも。自分でもわからない。でもそれ以外の日に、どこかで会って勉強は、自信がない、です」

 弱い部分をさらけ出したことばが、刃となって自分の心臓を抉ってくる。何度も刺されてこころは絶叫する。それは自傷行為に似ていて、私はそれをいつまでもやめることができない。
 こんなに繰り返して一体なにになるんだろう。ほんとうは自分が悪くないって思いたい。自分のことを傷つけたくない。悪くない悪くない、嘘、私が悪いに決まってる。それなのに受け入れられない。苦しい、生きていくって苦しい。すべてが痛い。
 そんな自分を晒しておいて、結局のところ私は、誰かがゴミまみれの自分のまえで立ち止まってくれることを待っていた。真っ暗なゴミ山のなかから、私をみつけてくれることを期待していた。もう一度だけ、私を未来行きの列車に乗せてほしい。今度はまちがえないから。いや、まちがえたってなにを、どこから? 生まれる段階からやり直さないといけなくなりそう。無理だ、そんなの。愚かさに絶望したい。

「じゃ、俺がそっちの家にいけばいいんじゃない?」

 突然あっさりした声が降ってきて、私は耳を疑った。

「変な気を起こしたりはしないし。外いけないなら、俺が家にいけばいい話じゃん」

 いとも簡単に、私のつくった二重三重の境界線をジャンプして超えてくる。対岸にいたのに、気がつけば吊り橋を渡って手の届きそうなところにいて、深い谷を気怠そうに覗きこみながら早くいこ、と手招きしてくる。
 なんなの、この人。頭のねじが飛んでしまっているんじゃないかと疑う。

「まあ考えといてよ。課題にも提出期限があるから、じっくり考える暇はないだろうけど。スマホある?」

 慌ててうなずいたら、「俺の連絡先登録しとくから、決まったら連絡してもらえれば」そう言ってさっさと私のスマートフォンを細長い指で操作する。
 未読で溢れかえっているメッセージアプリに、新しく友だち登録されたその人のアイコンはどこかの海だった。空と海の境界線が曖昧で、白い光につつまれている知らない海。

 彼の家は高校の近くにあるらしく、その場でわかれて帰路についた。ぼんやりしていたので、どうやって歩いて帰ったのか記憶にない。だれもいない家について、玄関で黒いローファーを脱ぎ捨てた。
 自分の部屋に戻ってしまったら、またひきこもって社会を拒絶してしまいそうで、私は居心地のわるいリビングに立ちつくしている。手に持っていた鞄がどん、と床に落ちる。その拍子に、鞄のポケットにあったスマートフォンが床に転げ落ちた。
 腕を伸ばして拾い上げる。中学生のころにすきだったファッションブランドからの通知がきている。秋物セール、最大三十パーセントオフ、会員限定価格あり! 意味のない通知を消して、今度こそ必要なものを探し出そうとメッセージアプリをひらいた。
 彼の名前は 吉良蛍人(きらけいと)、らしい。

「都川奈々子といいます。今日はありがとうございました。それと、失礼なことを質問して申し訳ありませんでした。課題、教わりたいです。平日であればいつでも大丈夫です。よろしくお願いします」勢いに任せて送信ボタンを押下する。

 驚くべき速さで既読がついて、クマが手でまるをつくっているスタンプと「あしたの十時頃にいくわ」のメッセージが届いた。
 これは詐欺だ、そうに決まっている。こんな都合のいい話があるわけない。狐につままれた気分のまま、それでも私は今日もお風呂場にいき、シャワーを浴びることができた。シャンプーは二回目で泡立った。数ヶ月ぶりにトリートメントを使おうと思えた。腰のあたりまである濡れた黒髪をしぼって、タオルで水気を拭きとった。夢をみているのかもしれない。