暗闇の中にいた。

 いつからいるのかはわからない。ただ、もうずっと、自分は暗幕に包まれるように真っ暗な場所にいて、道もないので足を踏み出すことさえできなかった。
 髪は伸び、髭も伸び、頬はこけ、手足の肉も落ち、生きているか死んでいるかわからないあたりを永遠にさまよっていた。これがいつまでつづくかなど、おそらく自分を含めてだれも知る由もなかった。
 その場で立ち尽くし、ときおりしゃがみこみ、見えない足元の闇をひとつずつ数えている。数えているうちに留年し、なにもみえなくなっているあいだに退学になり、自分の世界は完全にとじた。
 だれの声も聴こえないし、だれの声も聞きたくないし、だれの顔もみえないし、だれの顔も眺めたくない。だれとも話したくないから、だれにも話しかけないでほしかった。放っておいてほしかった。

 ぼんやりと灯りがさして、思わず顔を上げる。
 北風と波飛沫に頬を打たれて立ち止まる。
 適当に切ったざんばら髪を適当な帽子で隠して、震える手で剃った髭は剃り残しがあって、ここへついてから食事をとったためか土気色の顔は肌色になった。それでも暗闇の中にいたのに、突然薄明の青白い光に包まれた。
 地平線。空。海。容赦のない風。
 ああ、生きている。自分は生きているのだと実感する。手に感覚が戻り、足が動いていることを自覚し、役に立たない頭に血が巡る。
 生きている。なんで自分は生きている?

 ふと、見覚えのある写真が落ちていることに気がついた。雑誌のしおりがわりに挟んだのだろう。そんなことさえ忘れてしまっていたけれど、幼い弟と撮った写真だった。そこには知らない笑顔がある。あのころの自分は、もうどこにもいない。
 北海道特集、と表紙に書かれた雑誌が落ちた。落ちた拍子に、薄い写真が風に舞い上がって、つめたい海に攫われていった。
 そのまま、這いつくばって下を覗きこむ。黒い海。底の見えない凍える海。
 海面に浮かんでいる写真には、だれよりも大事な弟の笑顔があって、そこには間違いなく幸せが存在していた。それは自分が破り捨てたはずの、幸福。
 性懲りも無く手を伸ばす。枯れたと思っていた涙が瞳の表面に盛り上がる。落ちていく涙を荒波が呑んでいく。その先はふたたび暗闇だ。

 たいせつなひと。どうか、僕を許さないで。