手と足の爪を短く切り、伸び放題の黒髪は前髪ごとうしろで束ね、荒れた肌を隠すようにマスクをつけた。制服の青シャツに袖を通し、濃紺の指定スカートを履く。ウエストはゆるく、握り拳ひとつぶん余っていたので、箪笥にあった適当なベルトでプリーツのうえから締め上げた。そういえば季節は秋なのだということに気がつき、クリーニングの札がついたままの白いニットベストをクローゼットから引っ張り出す。防虫剤のにおいがした。
そとの世界に踏み出すのがこわい。だれも私のことをみないでほしい。だれもが当然のように生活を送っているのに、私だけ社会のレールからはずれている。脱線して、もとのレールに戻れない。正しく列車に乗ったみんながどんどん遠ざかる。でも、みんなってだれ?
飼い犬を散歩させている主婦も、早朝ランニングに励む中年男性も、重そうなランドセルを背負って列をつくる小学生も、杖を片手に散歩する腰の曲がった老人も、私の部屋の曇った窓からみえる人たちは、みんな。みようと思えばたくさんのみんながいる。見渡せば外の世界は人ばかり。みんなができていることが、私にはできない。死にたくなるけれど、死ぬために痛い思いをするのはこわい。時がとまってほしいけれど、停止しているのは私の頭のなかだけ。
手を叩いた瞬間になにもかも終わらせてほしい。はい、おしまい。都川奈々子の人生はおしまい。もうなにも感じないしみえないし聴こえないので大丈夫ですよ、おつかれさまでした。ではさようなら。生まれ変わることもありません。二度手を叩く、パンパン。なにも変わらない。消えてなくなりたい。こんな自分だいきらい。
高校に到着する。夏休み以前には通っていたことを思い出すと、口から内臓を吐き出しそうだ。
校舎の廊下は人の気配がなく、しんと静まりかえっている。ときおり授業中の教師の声が大きく反響し、救急車が走り去っていくように消失する。
向かったのは保健室で、入室するのは入学以来はじめてのことだった。クリーム色の引き戸に手をかけて「失礼します」蚊の鳴くような声が出る。
すぐに「こんにちは、都川さんですよね?」と養護教諭らしき女性が顔を出す。化粧気はなく、皺のない白衣に身を包み、暗髪をうしろの高い位置でお団子にしている。私は小さくうなずいた。
「ごめんなさいね。事前にメールで説明があったと思うんだけど、今日は授業の兼ねあいで別室の確保ができなくて」
目を合わせることもできず、白衣のお腹あたりに視線をさまよわせている自分がみじめだ。しかし養護教諭は気にするそぶりを一切みせず、てきぱきと指示を出す。
「パーテーションで仕切ってある向こうがわで受けてもらうことになります。実は今日、同じようにテストを受ける生徒がもう一人いるんだけどね」
ぎくりと肩が揺れる。クラスメイトだったらどうしよう、と頭をよぎった不安も、その先に続くことばで立ち消える。
「まあ彼は三年生だから。試験問題も違うしね。開始と終了は別々にこちらで管理するので、個別に声をかけますね。トイレは大丈夫?」
もう一度うなずけば、養護教諭は私をパーテーションの奥に案内した。四畳ほどのスペースに机が二台、人がひとり通れるくらいの間隔をあけて置かれている。窓際の机で試験問題を広げ、だるそうにシャープペンシルを持っている生徒が顔を上げた。
「ああ中断させてごめんなさいね、キラくん。もうひとり、受験者が来たからよろしくね」
「ああ、はい。で、この試験はあと何分」
「えーと、あなたの現代文は残り三十分」
「これ、もういい。次の古典を受けたいんですけど」
この高校では珍しい、校則違反の茶髪だ。問題児の気配がぷんぷんすると思っていたら、茶髪からみえる耳たぶに鈍く光るシルバーピアスがあり、私は確信した。教師に対して敬語を使えていないし、制服もさりげなく着崩している。私とはちがう理由で追試を受けるんだろう。そう思ったとき、自分とその上級生のあいだに深い谷がみえた。
上級生の古典と私の英語の試験が同時にスタートする。開始の合図と同時に、答案用紙にさらさらとシャープペンシルを走らせる音が聞こえてくる。
「追試パスする気あんの」
試験開始から二十五分が経過したころ、突然横から声をかけられた。
「真っ白じゃんそれ」
「えっ」
「追試ってボーダー二割なんだけど、知らない?」
「え」
「各科目二十点は取らないといけないんだよ。落とした科目は補習か課題」
パーテーションで仕切った向こうから「キラくん私語厳禁!」と鋭い声が飛んでくる。彼は面倒くさそうに「もう終わった、俺帰る」そう言って答案用紙を指先でつまんで立ち上がった。
私は当てずっぽうの答えで答案用紙を埋めつくして、試験監督の養護教諭に頭を下げてから保健室を出た。採点が終わり次第、また連絡がくると言う。どの科目も二割を取れているとはとても思えなかった。
帰宅したとたん部屋にひきこもる。幼いころにあてがわれた六畳一間はずっと私だけの空間だ。鼻がまがりそうな異臭が残留している。窓をあけるために遮光カーテンを引いたら、クレセント錠は埃まみれだった。ティッシュペーパーでべとついた汚れを拭きとり、窓を数センチだけあけてみる。秋の涼しい風がレースのカーテンを揺らした。
仕事を終えて家に戻ってきた両親は、変わらない様子の私をみて明らかに落胆した。私はふたたび部屋にとじこもり、亀が甲羅に引っこむみたいに外界から身を守る。なにから自分を守っているのかさえよくわからない。
だれにもみられなくないし、いますぐ消えてしまいたいし、これ以上自分からも他人からも失望されたくない。矛盾した気持ちが込みあげてきて口角が歪み、小刻みにふるえる。ほんとうは期待されたかった。そんな自分でありたかった。誇れる自分が欲しかったけれど、そんなものはどこにも存在しない。歪み切った自己愛と、意思に反して機械のように動きつづける肉体しかない。
これは病気なのだろうか。テレビの社会問題特集などで取り上げられる鬱とか、適応障害とか、そのたぐいのもの。そうだったらいいなという気持ちと、精神病患者になる自分を認めたくない気持ちが入り混じって暴発する。だめな自分を病気のせいにしてみたい。自分のせいじゃないって病気にすべてを預けたい。でも、診断名がついたら、今度こそだめ人間のレッテルを貼られた気分になりそう。そうなったら私は立ち直れない。
しかし、私はだめ人間への道を着実に歩んでいる。乗っていたはずの未来への列車は遠ざかり、ゴミ山行きの快速電車に乗っている。停車駅など現れない。ぬるぬるしたプラスチック容器とか、ジュースがこびりついた空き缶とか、腐った果物の皮とかと一緒にがたごと揺られている。どうせゴミになるなら、社会の害悪になる前に燃やしてほしい。最後に有害物質を吐き出して燃えつきて、ひっそりと灰になりたい。
世間には不治の病や自分にはどうしようもない理由で苦しんでいる人がたくさんいるのに。まわりからみたらちっぽけなところで躓いて、大袈裟に騒ぎ立てて、立ち直れなくなって、なにもかも拒絶して、ほんとうに救いようのないバカだ。こんなこともできなくてごめんなさい。こんなことで塞ぎこんでごめんなさい。こんなことで親を困らせてごめんなさい。こんなことで……。
涙が次から次へとあふれ、埃まみれのフローリングに落ちる。泣いて、泣いて、泣きつづけて、また夜が明けた。
そとの世界に踏み出すのがこわい。だれも私のことをみないでほしい。だれもが当然のように生活を送っているのに、私だけ社会のレールからはずれている。脱線して、もとのレールに戻れない。正しく列車に乗ったみんながどんどん遠ざかる。でも、みんなってだれ?
飼い犬を散歩させている主婦も、早朝ランニングに励む中年男性も、重そうなランドセルを背負って列をつくる小学生も、杖を片手に散歩する腰の曲がった老人も、私の部屋の曇った窓からみえる人たちは、みんな。みようと思えばたくさんのみんながいる。見渡せば外の世界は人ばかり。みんなができていることが、私にはできない。死にたくなるけれど、死ぬために痛い思いをするのはこわい。時がとまってほしいけれど、停止しているのは私の頭のなかだけ。
手を叩いた瞬間になにもかも終わらせてほしい。はい、おしまい。都川奈々子の人生はおしまい。もうなにも感じないしみえないし聴こえないので大丈夫ですよ、おつかれさまでした。ではさようなら。生まれ変わることもありません。二度手を叩く、パンパン。なにも変わらない。消えてなくなりたい。こんな自分だいきらい。
高校に到着する。夏休み以前には通っていたことを思い出すと、口から内臓を吐き出しそうだ。
校舎の廊下は人の気配がなく、しんと静まりかえっている。ときおり授業中の教師の声が大きく反響し、救急車が走り去っていくように消失する。
向かったのは保健室で、入室するのは入学以来はじめてのことだった。クリーム色の引き戸に手をかけて「失礼します」蚊の鳴くような声が出る。
すぐに「こんにちは、都川さんですよね?」と養護教諭らしき女性が顔を出す。化粧気はなく、皺のない白衣に身を包み、暗髪をうしろの高い位置でお団子にしている。私は小さくうなずいた。
「ごめんなさいね。事前にメールで説明があったと思うんだけど、今日は授業の兼ねあいで別室の確保ができなくて」
目を合わせることもできず、白衣のお腹あたりに視線をさまよわせている自分がみじめだ。しかし養護教諭は気にするそぶりを一切みせず、てきぱきと指示を出す。
「パーテーションで仕切ってある向こうがわで受けてもらうことになります。実は今日、同じようにテストを受ける生徒がもう一人いるんだけどね」
ぎくりと肩が揺れる。クラスメイトだったらどうしよう、と頭をよぎった不安も、その先に続くことばで立ち消える。
「まあ彼は三年生だから。試験問題も違うしね。開始と終了は別々にこちらで管理するので、個別に声をかけますね。トイレは大丈夫?」
もう一度うなずけば、養護教諭は私をパーテーションの奥に案内した。四畳ほどのスペースに机が二台、人がひとり通れるくらいの間隔をあけて置かれている。窓際の机で試験問題を広げ、だるそうにシャープペンシルを持っている生徒が顔を上げた。
「ああ中断させてごめんなさいね、キラくん。もうひとり、受験者が来たからよろしくね」
「ああ、はい。で、この試験はあと何分」
「えーと、あなたの現代文は残り三十分」
「これ、もういい。次の古典を受けたいんですけど」
この高校では珍しい、校則違反の茶髪だ。問題児の気配がぷんぷんすると思っていたら、茶髪からみえる耳たぶに鈍く光るシルバーピアスがあり、私は確信した。教師に対して敬語を使えていないし、制服もさりげなく着崩している。私とはちがう理由で追試を受けるんだろう。そう思ったとき、自分とその上級生のあいだに深い谷がみえた。
上級生の古典と私の英語の試験が同時にスタートする。開始の合図と同時に、答案用紙にさらさらとシャープペンシルを走らせる音が聞こえてくる。
「追試パスする気あんの」
試験開始から二十五分が経過したころ、突然横から声をかけられた。
「真っ白じゃんそれ」
「えっ」
「追試ってボーダー二割なんだけど、知らない?」
「え」
「各科目二十点は取らないといけないんだよ。落とした科目は補習か課題」
パーテーションで仕切った向こうから「キラくん私語厳禁!」と鋭い声が飛んでくる。彼は面倒くさそうに「もう終わった、俺帰る」そう言って答案用紙を指先でつまんで立ち上がった。
私は当てずっぽうの答えで答案用紙を埋めつくして、試験監督の養護教諭に頭を下げてから保健室を出た。採点が終わり次第、また連絡がくると言う。どの科目も二割を取れているとはとても思えなかった。
帰宅したとたん部屋にひきこもる。幼いころにあてがわれた六畳一間はずっと私だけの空間だ。鼻がまがりそうな異臭が残留している。窓をあけるために遮光カーテンを引いたら、クレセント錠は埃まみれだった。ティッシュペーパーでべとついた汚れを拭きとり、窓を数センチだけあけてみる。秋の涼しい風がレースのカーテンを揺らした。
仕事を終えて家に戻ってきた両親は、変わらない様子の私をみて明らかに落胆した。私はふたたび部屋にとじこもり、亀が甲羅に引っこむみたいに外界から身を守る。なにから自分を守っているのかさえよくわからない。
だれにもみられなくないし、いますぐ消えてしまいたいし、これ以上自分からも他人からも失望されたくない。矛盾した気持ちが込みあげてきて口角が歪み、小刻みにふるえる。ほんとうは期待されたかった。そんな自分でありたかった。誇れる自分が欲しかったけれど、そんなものはどこにも存在しない。歪み切った自己愛と、意思に反して機械のように動きつづける肉体しかない。
これは病気なのだろうか。テレビの社会問題特集などで取り上げられる鬱とか、適応障害とか、そのたぐいのもの。そうだったらいいなという気持ちと、精神病患者になる自分を認めたくない気持ちが入り混じって暴発する。だめな自分を病気のせいにしてみたい。自分のせいじゃないって病気にすべてを預けたい。でも、診断名がついたら、今度こそだめ人間のレッテルを貼られた気分になりそう。そうなったら私は立ち直れない。
しかし、私はだめ人間への道を着実に歩んでいる。乗っていたはずの未来への列車は遠ざかり、ゴミ山行きの快速電車に乗っている。停車駅など現れない。ぬるぬるしたプラスチック容器とか、ジュースがこびりついた空き缶とか、腐った果物の皮とかと一緒にがたごと揺られている。どうせゴミになるなら、社会の害悪になる前に燃やしてほしい。最後に有害物質を吐き出して燃えつきて、ひっそりと灰になりたい。
世間には不治の病や自分にはどうしようもない理由で苦しんでいる人がたくさんいるのに。まわりからみたらちっぽけなところで躓いて、大袈裟に騒ぎ立てて、立ち直れなくなって、なにもかも拒絶して、ほんとうに救いようのないバカだ。こんなこともできなくてごめんなさい。こんなことで塞ぎこんでごめんなさい。こんなことで親を困らせてごめんなさい。こんなことで……。
涙が次から次へとあふれ、埃まみれのフローリングに落ちる。泣いて、泣いて、泣きつづけて、また夜が明けた。
