翌朝はよく晴れていた。
陽光が積雪した路面に反射し、白銀色に光っていて眩しい。昨晩のうちに除雪されたものの、残った雪が夜風で冷やされてカチカチに凍りついていた。滑らないよう慎重に足を運んでいたら、キラくんの手が私の手を取った。
あれ、と立ち止まる。亮司さんや麦穂さんの目が気にならないのだろうかと訝しげに見上げてみたら、キラくんはなにも言わずに手を引いて歩き出した。
私たちのすがたに気がついているであろう亮司さんも、麦穂さんも、なにも言わずにスケートリンクみたいな舗道をペンギン歩きで進んでいる。
だだっ広い港の隅っこのほうに細々と車を停めて、岸壁に向けて黙々と歩いている。のぼりはじめたばかりの朝陽は、朝焼けを通り越して白く発光していた。
「三人とも、落ちないように気をつけろよ」
柵のような落下防止策が施されていない、剥き出しの岸壁。漁は休みなのか、はたまた禁漁中なのか、人影のない港を進む私たちを、北風が打ちつけてくる。
ようやく岸壁のところまで辿りついたときには、背中にうっすらと汗をかいていた。手袋をつけた手と手がつながる。震えている手は私のものだろうか、それともキラくんのものだろうか。
「ここが、最後に夏樹が目撃された場所」
低い声で、亮司さんが言う。麦穂さんは落っこちそうなくらい大きな瞳を細めて、どこまでもつづく地平線を眺めている。
一方の亮司さんは、あまり見ないようにしているようだった。
「俺は先に車に戻ってるから。麦穂はどうする?」
「寒いし、私も亮司くんと戻ろうかな。二人は?」
「俺はもうしばらくここにいるよ」
「私も残ります」
気をつけろよ、と背中に声がかかる。うなずいて、つながった手に力をこめて、唇を引き結んだ。
「やっぱ寒いな」
うん、と首を縦に振る。
風が強いため、波が荒い。しぶきがあがって、細氷みたいに空中できらめいて、やがて跡形もなく散っていく。磯のにおいが鼻腔を抜けていく。
だれもいない、十二月の冬の港。
「こんなところで、上着も着ないでパーカーでうろついていた、か」
「……」
「美郷さんが言ってた意味がわかるな」
夏樹くんは本気だったのだと囁いた美郷さんの、洗練された指先とシャープな横顔を思い出す。その悲しげな双眸が見ていた景色が、これだったとしたら。
「兄が死んだんだろうってことくらい、わかってたよ」
「……うん」
「ただ、俺は、救えなかった自分を責めた。あのとき声をかけていたら、あのとき縋りついていたら、あのとき泣き喚いてでも兄を止めていたら……」
すう、と鼻から息を吸って、ゆっくりと口から吐く。キラくんの息が白く空へのぼっていく。
雲ひとつない、薄く青みがかった空だった。どこまでも遠く広がっていて、透き通っている。そのどこかにキラくんのお兄さんの円が浮かんでいるだろうか。目を凝らしてみるけれど、寒さと眩しさで涙がにじむ。
「やっとわかった」
吹っ切れたような声だった。
「どうやっても、たとえ過去に遡っても、俺にできたことはなくて、兄はひとりでここに来たんだろうな」
「うん」
「救うことはたぶんできなかった。兄はぜんぶひとりで背負って、ひとりで決めて、ひとりで旅立った。俺にできることはなくて、俺のせいで兄が、夏樹が、死んだわけでは」
「キラくんのせいじゃないよ」
キラくんにみせてもらった写真を思い出す。そこに写っていたお兄さんのすがたが、輪郭から徐々に浮かび上がってくる。大切な弟を気遣いながら、カメラに向かって儚い笑みを浮かべていたお兄さん。
そのお兄さんが写真から飛び出して、私たちのまえで困った顔をして肩をすくめて、そしていってしまう。私たちには手の届かない、遥か彼方へ。
「キラくんのせいじゃない」
ぜったいに、と付け加えたら、キラくんが私の肩に顔を埋めた。うん、とくぐもった声が届く。
「こんなことに気づくのに、こんなに時間がかかった。ナナまで巻き込んで」
「こんなこと、なんかじゃないよ」
「うん」
「そんなんじゃない。すごく、すごく大切なことだよ」
私の知りうるすべてのことばを総動員したところで、キラくんの心を軽くすることはできないだろう。だから、私は倒れ込んでくるキラくんのからだを受け止めて、そうして抱きしめた。
「私、巻き込まれたなんて思ってないよ」
「うん」
「自分から望んでここにきたの」
キラくんが言ったじゃないか。ナナはナナのすきなようにやればいい、ってキラくんが言ったのだ。だから、私は自分のこころの声に従った。
「一緒に来られてよかったと思ってるよ。だから、謝るのはナシだよ」
「うん、ありがとう」
ナナがいてくれてよかった、という声が耳をくすぐった。そのまま抱きしめ返されて、私の顔がキラくんの分厚いダウンに埋まる。
「期末試験、がんばってくれてありがとう。ナナががんばったから、ここへこられた」
「あれこそキラくんのおかげだよ。保健室で自習してるだけだったら、赤点の教科、間違いなくあっただろうな」
「うん」
「……私、ね。だからというわけではないんだけど、学校、いこうと思ってるの」
いまはここにいないキラくんのお兄さんが、キラくんの肩越しにみえる向こうで、やわらかく笑っているような気がする。半透明のすがたで、陽炎みたいにゆらめきながら、それでいいんだよと花開くような笑みで。
「保健室じゃなくて、教室に登校しようと思ってる」
旅の途中で麦穂さんが言っていた。学校は選択肢を増やす場だと思うと。
私には将来の夢なんてないし、やりたいことも、自分が向いていることもまだわからないけれど、いつか見つかるかもしれない。いまはまだ学校という狭い世界にいるけれど、その先に進んだらもう少し視野が広がって、自分のほんとうの気持ちが見えてくるかもしれない。
「大学進学を目指して、挑戦してみようと思う」
いまの学力では到底難しいことくらい承知している。それでも、自分自身を諦めないために。
大学にいって人生が劇的に変わるなんて都合のいい話はもちろんないと思うけれど、そこへいくことで選択肢が増えるかもしれない。選び取れる未来の幅が広がるかもしれない。その可能性に賭けてみたい。
「もちろんまだ、こわいけど、ね」
教室に足を運ぶなんて、あの入口の扉をあけるなんて、そして同級生と同じ箱で一日中過ごすなんて、怖くて足がすくむ。それでも私はまだ投げ出したくない。
ひきこもりつづける毎日はもういやだ。
「そのナナの思い描く未来のなかに、俺はいるの?」
顔を上げたら、優しい眼差しがあった。榛色の瞳のなかに、空と海の境界がぼやけた地平線がうつっている。ひかりをとじこめて、瞬いている。
「それはその、むしろお願いします」
こっちからお願いしたいくらいです。
たどたどしく答えたら、晴々とした笑顔が返ってきた。
「俺もさ、大学いくつもりだから。兄は俺と同じ歳の頃にこの場所を訪れて、生きることをやめたんだろうけど。俺はまだ、やめるつもりないから」
「うん」
「ナナと一緒にいたい。いいよね?」
許可なんていらないのに、その優しさに溺れて窒息してしまいそうだ。
心配なこと、こわいこと、心臓がはち切れそうになること、まだたくさんあるけれど、私はもうひとりじゃない。ひとりじゃないなら、うつむかずに前を向いて生きていける気がする。根拠なんてないけれど、ほんの少しだけ自分に自信を持ってみたい。
私たちは持ってきたブランケットを下に敷いて、そこに座り、凍えそうな白い海を眺めていた。
キラくんはお兄さんとの思い出を静かに語ってくれた。亮司さんや麦穂さんも知らないようなことを、楽しかったことからそうではなかったことまで、余すことなく教えてくれた。
話しているうちにキラくんの蒼白な顔に赤みがさし、強張っていた頬はゆるみはじめる。
そうして、手をつないでもう一度立ち上がった。細かい氷が付着したブランケットを拾って、つめたい冬の風になびかせながら、亮司さんと麦穂さんが待っているレンタカーへと足を進める。
キラくんは二度と振り返らなかった。後ろ髪を引かれる思いで、何度も首を捻って岸壁を確認していたのは私だけだった。
キラくんのポケットから、見覚えのある写真が音もなく落ちる。学生証に挟んでいたお兄さんとのツーショットの写真が、風に乗ってあおられて、どこまでも遠いところへ飛んでいく。
キラくんは一瞥しただけで、追いかけなかった。それがキラくんの出した答えだった。
「おー、おつかれ。もういいのか?」
車に乗り込んだら、運転席にいる亮司さんが振り返って、サングラスの下の優しい瞳で笑う。助手席にいる麦穂さんも凪いだ眼差しだ。
「うん、もういい。満足した。亮司さんも麦穂さんもありがとう」
「俺はいいんだよ。またきたくなったら、みんなで一緒にいけばいいんだし」
「私も。じゃあ、このあとどうする? 夏樹くんが立ち寄ったと思われる場所に寄りつつ、派手に観光しちゃう?」
キラくんは笑って「いいね」と言った。未練なんてなにも残っていないような笑顔だった。
「その前に腹減ったわ。なんか食いたい」
「わかる、北海道っぽいのがいいなあ。海鮮丼とかお寿司とか、食べたくない?」
海鮮だめな人、手を挙げて! 麦穂さんのはつらつとした声が車内に響き渡る。その明るさに救われる。
そのとき、上着のポケットに入れっぱなしだったスマートフォンが小さく振動した。なんの気もなく引っ張り出して、視線を画面に落とし、ふうと息を吐く。
千波からの「ナナ元気にしてる? 大丈夫?」の通知が目に飛び込んできて、ぎゅっと目をつむった。でも瞳をとじたのは一瞬だけで、すぐに目を開き、指先でその通知をタップした。
途端に既読がつく。溜まって、溢れかえっていた大量の未読のメッセージにさっと目を通す。私はもう狼狽えない。となりの座席からキラくんの手が伸びてきて、私の頭を軽くぽんぽんと撫でた。
古ぼけたレンタカーが四人を乗せて、まだ見ぬ未来へと、迷うことなく疾走していく。
陽光が積雪した路面に反射し、白銀色に光っていて眩しい。昨晩のうちに除雪されたものの、残った雪が夜風で冷やされてカチカチに凍りついていた。滑らないよう慎重に足を運んでいたら、キラくんの手が私の手を取った。
あれ、と立ち止まる。亮司さんや麦穂さんの目が気にならないのだろうかと訝しげに見上げてみたら、キラくんはなにも言わずに手を引いて歩き出した。
私たちのすがたに気がついているであろう亮司さんも、麦穂さんも、なにも言わずにスケートリンクみたいな舗道をペンギン歩きで進んでいる。
だだっ広い港の隅っこのほうに細々と車を停めて、岸壁に向けて黙々と歩いている。のぼりはじめたばかりの朝陽は、朝焼けを通り越して白く発光していた。
「三人とも、落ちないように気をつけろよ」
柵のような落下防止策が施されていない、剥き出しの岸壁。漁は休みなのか、はたまた禁漁中なのか、人影のない港を進む私たちを、北風が打ちつけてくる。
ようやく岸壁のところまで辿りついたときには、背中にうっすらと汗をかいていた。手袋をつけた手と手がつながる。震えている手は私のものだろうか、それともキラくんのものだろうか。
「ここが、最後に夏樹が目撃された場所」
低い声で、亮司さんが言う。麦穂さんは落っこちそうなくらい大きな瞳を細めて、どこまでもつづく地平線を眺めている。
一方の亮司さんは、あまり見ないようにしているようだった。
「俺は先に車に戻ってるから。麦穂はどうする?」
「寒いし、私も亮司くんと戻ろうかな。二人は?」
「俺はもうしばらくここにいるよ」
「私も残ります」
気をつけろよ、と背中に声がかかる。うなずいて、つながった手に力をこめて、唇を引き結んだ。
「やっぱ寒いな」
うん、と首を縦に振る。
風が強いため、波が荒い。しぶきがあがって、細氷みたいに空中できらめいて、やがて跡形もなく散っていく。磯のにおいが鼻腔を抜けていく。
だれもいない、十二月の冬の港。
「こんなところで、上着も着ないでパーカーでうろついていた、か」
「……」
「美郷さんが言ってた意味がわかるな」
夏樹くんは本気だったのだと囁いた美郷さんの、洗練された指先とシャープな横顔を思い出す。その悲しげな双眸が見ていた景色が、これだったとしたら。
「兄が死んだんだろうってことくらい、わかってたよ」
「……うん」
「ただ、俺は、救えなかった自分を責めた。あのとき声をかけていたら、あのとき縋りついていたら、あのとき泣き喚いてでも兄を止めていたら……」
すう、と鼻から息を吸って、ゆっくりと口から吐く。キラくんの息が白く空へのぼっていく。
雲ひとつない、薄く青みがかった空だった。どこまでも遠く広がっていて、透き通っている。そのどこかにキラくんのお兄さんの円が浮かんでいるだろうか。目を凝らしてみるけれど、寒さと眩しさで涙がにじむ。
「やっとわかった」
吹っ切れたような声だった。
「どうやっても、たとえ過去に遡っても、俺にできたことはなくて、兄はひとりでここに来たんだろうな」
「うん」
「救うことはたぶんできなかった。兄はぜんぶひとりで背負って、ひとりで決めて、ひとりで旅立った。俺にできることはなくて、俺のせいで兄が、夏樹が、死んだわけでは」
「キラくんのせいじゃないよ」
キラくんにみせてもらった写真を思い出す。そこに写っていたお兄さんのすがたが、輪郭から徐々に浮かび上がってくる。大切な弟を気遣いながら、カメラに向かって儚い笑みを浮かべていたお兄さん。
そのお兄さんが写真から飛び出して、私たちのまえで困った顔をして肩をすくめて、そしていってしまう。私たちには手の届かない、遥か彼方へ。
「キラくんのせいじゃない」
ぜったいに、と付け加えたら、キラくんが私の肩に顔を埋めた。うん、とくぐもった声が届く。
「こんなことに気づくのに、こんなに時間がかかった。ナナまで巻き込んで」
「こんなこと、なんかじゃないよ」
「うん」
「そんなんじゃない。すごく、すごく大切なことだよ」
私の知りうるすべてのことばを総動員したところで、キラくんの心を軽くすることはできないだろう。だから、私は倒れ込んでくるキラくんのからだを受け止めて、そうして抱きしめた。
「私、巻き込まれたなんて思ってないよ」
「うん」
「自分から望んでここにきたの」
キラくんが言ったじゃないか。ナナはナナのすきなようにやればいい、ってキラくんが言ったのだ。だから、私は自分のこころの声に従った。
「一緒に来られてよかったと思ってるよ。だから、謝るのはナシだよ」
「うん、ありがとう」
ナナがいてくれてよかった、という声が耳をくすぐった。そのまま抱きしめ返されて、私の顔がキラくんの分厚いダウンに埋まる。
「期末試験、がんばってくれてありがとう。ナナががんばったから、ここへこられた」
「あれこそキラくんのおかげだよ。保健室で自習してるだけだったら、赤点の教科、間違いなくあっただろうな」
「うん」
「……私、ね。だからというわけではないんだけど、学校、いこうと思ってるの」
いまはここにいないキラくんのお兄さんが、キラくんの肩越しにみえる向こうで、やわらかく笑っているような気がする。半透明のすがたで、陽炎みたいにゆらめきながら、それでいいんだよと花開くような笑みで。
「保健室じゃなくて、教室に登校しようと思ってる」
旅の途中で麦穂さんが言っていた。学校は選択肢を増やす場だと思うと。
私には将来の夢なんてないし、やりたいことも、自分が向いていることもまだわからないけれど、いつか見つかるかもしれない。いまはまだ学校という狭い世界にいるけれど、その先に進んだらもう少し視野が広がって、自分のほんとうの気持ちが見えてくるかもしれない。
「大学進学を目指して、挑戦してみようと思う」
いまの学力では到底難しいことくらい承知している。それでも、自分自身を諦めないために。
大学にいって人生が劇的に変わるなんて都合のいい話はもちろんないと思うけれど、そこへいくことで選択肢が増えるかもしれない。選び取れる未来の幅が広がるかもしれない。その可能性に賭けてみたい。
「もちろんまだ、こわいけど、ね」
教室に足を運ぶなんて、あの入口の扉をあけるなんて、そして同級生と同じ箱で一日中過ごすなんて、怖くて足がすくむ。それでも私はまだ投げ出したくない。
ひきこもりつづける毎日はもういやだ。
「そのナナの思い描く未来のなかに、俺はいるの?」
顔を上げたら、優しい眼差しがあった。榛色の瞳のなかに、空と海の境界がぼやけた地平線がうつっている。ひかりをとじこめて、瞬いている。
「それはその、むしろお願いします」
こっちからお願いしたいくらいです。
たどたどしく答えたら、晴々とした笑顔が返ってきた。
「俺もさ、大学いくつもりだから。兄は俺と同じ歳の頃にこの場所を訪れて、生きることをやめたんだろうけど。俺はまだ、やめるつもりないから」
「うん」
「ナナと一緒にいたい。いいよね?」
許可なんていらないのに、その優しさに溺れて窒息してしまいそうだ。
心配なこと、こわいこと、心臓がはち切れそうになること、まだたくさんあるけれど、私はもうひとりじゃない。ひとりじゃないなら、うつむかずに前を向いて生きていける気がする。根拠なんてないけれど、ほんの少しだけ自分に自信を持ってみたい。
私たちは持ってきたブランケットを下に敷いて、そこに座り、凍えそうな白い海を眺めていた。
キラくんはお兄さんとの思い出を静かに語ってくれた。亮司さんや麦穂さんも知らないようなことを、楽しかったことからそうではなかったことまで、余すことなく教えてくれた。
話しているうちにキラくんの蒼白な顔に赤みがさし、強張っていた頬はゆるみはじめる。
そうして、手をつないでもう一度立ち上がった。細かい氷が付着したブランケットを拾って、つめたい冬の風になびかせながら、亮司さんと麦穂さんが待っているレンタカーへと足を進める。
キラくんは二度と振り返らなかった。後ろ髪を引かれる思いで、何度も首を捻って岸壁を確認していたのは私だけだった。
キラくんのポケットから、見覚えのある写真が音もなく落ちる。学生証に挟んでいたお兄さんとのツーショットの写真が、風に乗ってあおられて、どこまでも遠いところへ飛んでいく。
キラくんは一瞥しただけで、追いかけなかった。それがキラくんの出した答えだった。
「おー、おつかれ。もういいのか?」
車に乗り込んだら、運転席にいる亮司さんが振り返って、サングラスの下の優しい瞳で笑う。助手席にいる麦穂さんも凪いだ眼差しだ。
「うん、もういい。満足した。亮司さんも麦穂さんもありがとう」
「俺はいいんだよ。またきたくなったら、みんなで一緒にいけばいいんだし」
「私も。じゃあ、このあとどうする? 夏樹くんが立ち寄ったと思われる場所に寄りつつ、派手に観光しちゃう?」
キラくんは笑って「いいね」と言った。未練なんてなにも残っていないような笑顔だった。
「その前に腹減ったわ。なんか食いたい」
「わかる、北海道っぽいのがいいなあ。海鮮丼とかお寿司とか、食べたくない?」
海鮮だめな人、手を挙げて! 麦穂さんのはつらつとした声が車内に響き渡る。その明るさに救われる。
そのとき、上着のポケットに入れっぱなしだったスマートフォンが小さく振動した。なんの気もなく引っ張り出して、視線を画面に落とし、ふうと息を吐く。
千波からの「ナナ元気にしてる? 大丈夫?」の通知が目に飛び込んできて、ぎゅっと目をつむった。でも瞳をとじたのは一瞬だけで、すぐに目を開き、指先でその通知をタップした。
途端に既読がつく。溜まって、溢れかえっていた大量の未読のメッセージにさっと目を通す。私はもう狼狽えない。となりの座席からキラくんの手が伸びてきて、私の頭を軽くぽんぽんと撫でた。
古ぼけたレンタカーが四人を乗せて、まだ見ぬ未来へと、迷うことなく疾走していく。
