ホテルのレストランで食事券を四枚提出し、案内された席に腰を下ろした。各々食べたいものを注文する。亮司さんはほんとうにお酒を飲まないつもりらしく、クランベリージュースを頼んでいた。
「麦穂は飲めば。ザルだし」
「ザルとか関係ないし。ドライバーになる可能性が一ミリでも残ってる以上、やめておくよ。明日は出発が早いんでしょう?」
麦穂さんはジンジャーエールを勢いよく飲んでいる。かわいらしい見た目に反して、実は豪快な人だと思う。
キラくんはマンゴージュース、私はりんごジュースをちびちび飲んでいた。
「なー、蛍人。おまえ、いつまであの写真をアイコンにしてんの?」
「ああ、すっかり忘れてた」
感情の読めない瞳でキラくんが淡々と答える。亮司さんは苦笑いすると、私のほうを向いてひかえめに笑いかけてきた。
「ナナちゃん。こいつのメッセージアプリのアイコン、わかる?」
「海ですよね?」
はじめてキラくんの連絡先を登録したときの記憶がよみがえる。私のスマートフォンを気怠そうに操作して自分の連絡先を登録したキラくんと、いまこうして旅に出ているなんて不思議な縁だ。
「そうそう、海。あれって夏樹がいなくなった港の写真なんだよ。たしかおまえの親が夏樹を探しにいったとき、撮ったやつじゃなかったっけ」
「そう」
「ええー、そうなの? 私も知らなかったよ、蛍人くん」
麦穂さんがあからさまに仰天している。キラくんは不意に片頬を持ち上げて笑った。
「夏樹がいなくなった場所なんて、俺は直視できねーよ」
「兄が死んでるかもしれないから?」
核心をつくことばに亮司さんが息を飲み、泣き笑いのような顔になる。
物心つくまえから近くにいた幼なじみの失踪に、亮司さんが傷ついていないわけがないのだ。その切ない顔つきから逃れるように、私はストローに口をつけた。
「俺は兄が死んだんだろうって、思ってる。納得できるかできないかはべつにして。薄情だって思う?」
「思うわけねえだろ。でも、死とか軽々しく口に出すなよ。しんどいだろ」
「そうかなあ?」
そう言ったのは麦穂さんで、麦穂さんは二人の昏い眼差しを真正面から受け止めつつ、こてんと首を傾げた。
「私は死ぬことって、思いつめるほどしんどいことでもない気がするんだけどな」
おかわりしたジンジャーエールをひとくち飲んだ麦穂さんが、華奢なてのひらをテーブルの上に置いた。
小指にはきらめく細身の指輪がついている。おそらくプラチナで、中央にはお花をモチーフにした黄金色の宝石が輝いていた。
「私ね、人生って線みたいなものだなと思ってたの。ある日生まれて、それが点になって、そこからずーっと線がつづく。そして突然ぶつっと切れる」
「おい、ぶつってなんだ。もう少しましな表現あるだろ」
「だって『ぶつっ』じゃない? その人がいつ死ぬかなんて、本人含めだれも知らないもん」
だけどね、と麦穂さんが伏せた睫毛はとても長くて、その繊細な動きを私はじっとみていた。
生きること。死ぬこと。いきものである以上、例外なくだれもに到来する、やむを得ないもの。経験するまでどんなものかわからないのに、経験したときにはすでに終わっていて二度と起こらない、そういう訪れ。
「最近は、線じゃなくて円なのかなと思う。点で生まれて、あっちこっち寄り道しながら線を描いて、最後は生まれた点のところに戻って死ぬの。線だと思ってたものが、円になって終わるのよ」
「そりゃあ、いろんな円がありそうだ」
「そうなの。3.14159……を地で行く人もいるかもしれない。私なんてぐっちゃぐちゃの毛糸の塊みたいな、いまはまだ、丸にもならなさそうなかんじ。でもね、いろんな色があって、なにひとつとして、同じものなんてないのよ」
麦穂さんが顔を上げて、情けない顔をしている亮司さんに向かって、安心させるようにほほえんだ。
「だから、世界には亡くなった人のたくさんの円というか、丸みたいな、かたちがあるの。カラフルで、個性がひかっていて、全部きれい。青空に浮かんでるのかもね。それってなんだかすてきじゃない?」
「……これだから芸術家は」
「そう思ったら、私は自分の名前の由来も、まるごと愛せる気がしたのよ」
私は空に浮かぶたくさんのかたちを想像してみる。まる、さんかく、しかく。ハートだったり、星だったり、かたちを成していないものだったり。赤で青で黄で緑で、色鮮やかな空。
それはわるくないかもしれない。運ばれてきた和風ハンバーグをナイフとフォークで切り分けながら、自分にしかわからないくらいの笑みを浮かべた。
「じゃあ夏樹はどんな色だと思う?」
「うーん、透明?」
亮司さんが吹き出し、げらげらとお腹を抱えて笑った。ナプキンで口元を拭きながら、笑いによるものなのかそれともべつか、涙を目尻に浮かべている。
「で、亮司くんがすき勝手に色を染めていくの」
「俺そんなひどい?」
「ひどくはないんじゃない? 夏樹くんも仕方ないなあって呆れつつ、うれしそうに受け入れそう」
「あー、あいつならありえる」
亮司さんがヒレステーキ、麦穂さんが茄子とトマトの入ったペスカトーレ、キラくんがチキンソテーを食べている、釧路の夜。
「すっごく遠回りしてるなってときは、たぶん東京タワーの上に途方もなく大きい虹でもかけてるのよ」
「七色で?」
「わかんないよー? 国によっては虹を二色、三色、四色、もっと多いと八色で認識してるらしいから」
お酒も飲んでいないのに狂ったように笑って、何度も乾杯して、すきなだけごはんを食べながら、ふと我に返ると私の頬も笑いすぎて筋肉痛みたいになっている。
キラくんはそんな私たちをしょうがないな、と言わんばかりの目で、でも温かく見守っていた。
食事を終えた私たちは、レストランのまえで解散した。亮司さんと麦穂さんは、これから夜の散歩にいくらしい。私とキラくんは自分たちの部屋に戻った。
それぞれ歯磨きを済ませて、持参した部屋着に着替えて、窓辺の席でくつろいでいる。シャワーを浴びたいけれど、食べ過ぎてお腹が苦しくて、いまはひとまず動かないでじっとしていたい。そんな気分だった。
「ほんとにお喋りだよな、麦穂さん」
「ふふ、そうだね。でも私はとても楽しかったよ」
「そりゃよかった」
キラくんが長い足を組み、窓の外をぼうっと眺めている。
街灯が少なくて、暗闇のなかで一本一本が目立って浮き上がっている。ほんの少し窓を開けたら、鼻をつく海風のにおいが流れ込んできた。さすがに寒くてすかさず窓を閉めたら、キラくんがやんわりと目尻を下げた。
雪はやんでいた。
「太平洋側の道東って、道内だと雪が少ない地域らしい」
「これでも?」
「十二月にしては降ってるほうみたい」
「そうなんだ」
キラくんが前屈みになり、私の頬に触れた。それはなにかを確かめるみたいに動き、唇に触れ、そのまま離れた手が今度は私の手をつかんだ。
「私のクマ、まだひどい?」
「そんなことない。顔色もよくなった」
「じゃあキラくんのおかげだ」
ふふ、と肩を揺らして笑う。そして空いているほうの手を伸ばして、自分からキラくんの手に触れた。
傷ひとつない、つややかな手だ。血管がそっと浮き上がっていて、照明に照らされて艶かしくもみえる。へんな雰囲気になりそうで目を逸らした。旅の目的を忘れたくなかった。
「ナナに初めて会ったとき」
ぽつり、ぽつりと、雪みたいなことばが降ってくる。
「助けてって言われてる気がした」
「そうだったんだ」
「兄のすがたと重なって、目が離せなかった」
「うん」
「だけど、結局のところ、救われてたのは俺のほうなんだといまは思ってる」
手を引かれて、シングルベッドになだれ込んだ。とくになにもしない。ただ互いの背中に腕を回して、沈黙に身を任せていた。
細く見えた背中は大きく広くて、肩幅も私なんかよりはしっかりとあって、今更そんなことに気がつく自分に飽き飽きして、そうして目を閉じた。
「救われたのは、私のほう。キラくんが、私を家からそとの世界へ連れ出した」
「それは違うよ、ナナ」
頭上に掠れた声が落ちてくる。くすぐったくて身をよじれば、ほっとするような声色で笑われた。
「たまたま会っただけだよ、俺たちは。あの保健室で。ナナが自分でそとに出たんだよ」
「あ」
「追試を受けようと、自分から家を出た。俺はなにもしてない。ナナが諦めなかったから、つながった。ぜんぶナナの力だよ」
そんなに自分を過小評価しなくていい、とキラくんは囁いた。
そうか、私は自分の意思で家を出たのだ。留年になるのがこわいとか、退学がおそろしいとか、将来に怯える気持ちがきっかけではあったものの、自分で一歩足を踏み出した。
私は、自分でできたのだ。
そう思ったとき、目頭が熱くなった。キラくんの胸元に顔をぐいと押しつければ、キラくんが頭をぽんぽんと撫でてくれた。
私にはなんにもないと人生に絶望していたけれど、そとに出ることができたじゃないか。なにもできないことに息苦しさを感じていたけれど、私にもできることがあった。
やらなければならないことに着手できず、布団にうずくまっていた夜。目も手で覆って、耳も塞いで、口も固く結んで、みないように聞かないように言わないようにとじこもった日々。お風呂場で号泣した、あのとき。不安でたまらなくて、足元から崩れ落ちそうになっていた、高校二年生の私。
私を家から出したのはキラくんではなく、私自身だったのだ。
「ひとりで生きていくのは……ひとりで閉じこもるのは、こわい」
「そうだろうな」
「そうならない私でありたい」
「うん。少しずつでいいんだよ」
「できるかな」
「きっと。もし塞ぎ込みそうになったら、そのときは助けを求めればいい。助けを求めることは、みっともないことじゃない」
相槌を打ち、キラくんにしがみつく腕に力を込めた。からだがくっついて、溶け合ってしまいそうだと思った。
あれほど昼寝をしたのに、またうとうと瞼が重くなる。うっすらと開いたキラくんのひだまりのような瞳も、心なしか眠そうに見える。
「朝シャンでいいか……」
キラくんがつぶやき、苦笑いを浮かべる。私もうなずき、ゆったりとまどろんだ。
眠りに落ちるのは一瞬だった。
夢もみないような、静かな眠りにつくといい。夢をみるなら、キラくんと手をつなぐような、幸せな夢であるといい。
「麦穂は飲めば。ザルだし」
「ザルとか関係ないし。ドライバーになる可能性が一ミリでも残ってる以上、やめておくよ。明日は出発が早いんでしょう?」
麦穂さんはジンジャーエールを勢いよく飲んでいる。かわいらしい見た目に反して、実は豪快な人だと思う。
キラくんはマンゴージュース、私はりんごジュースをちびちび飲んでいた。
「なー、蛍人。おまえ、いつまであの写真をアイコンにしてんの?」
「ああ、すっかり忘れてた」
感情の読めない瞳でキラくんが淡々と答える。亮司さんは苦笑いすると、私のほうを向いてひかえめに笑いかけてきた。
「ナナちゃん。こいつのメッセージアプリのアイコン、わかる?」
「海ですよね?」
はじめてキラくんの連絡先を登録したときの記憶がよみがえる。私のスマートフォンを気怠そうに操作して自分の連絡先を登録したキラくんと、いまこうして旅に出ているなんて不思議な縁だ。
「そうそう、海。あれって夏樹がいなくなった港の写真なんだよ。たしかおまえの親が夏樹を探しにいったとき、撮ったやつじゃなかったっけ」
「そう」
「ええー、そうなの? 私も知らなかったよ、蛍人くん」
麦穂さんがあからさまに仰天している。キラくんは不意に片頬を持ち上げて笑った。
「夏樹がいなくなった場所なんて、俺は直視できねーよ」
「兄が死んでるかもしれないから?」
核心をつくことばに亮司さんが息を飲み、泣き笑いのような顔になる。
物心つくまえから近くにいた幼なじみの失踪に、亮司さんが傷ついていないわけがないのだ。その切ない顔つきから逃れるように、私はストローに口をつけた。
「俺は兄が死んだんだろうって、思ってる。納得できるかできないかはべつにして。薄情だって思う?」
「思うわけねえだろ。でも、死とか軽々しく口に出すなよ。しんどいだろ」
「そうかなあ?」
そう言ったのは麦穂さんで、麦穂さんは二人の昏い眼差しを真正面から受け止めつつ、こてんと首を傾げた。
「私は死ぬことって、思いつめるほどしんどいことでもない気がするんだけどな」
おかわりしたジンジャーエールをひとくち飲んだ麦穂さんが、華奢なてのひらをテーブルの上に置いた。
小指にはきらめく細身の指輪がついている。おそらくプラチナで、中央にはお花をモチーフにした黄金色の宝石が輝いていた。
「私ね、人生って線みたいなものだなと思ってたの。ある日生まれて、それが点になって、そこからずーっと線がつづく。そして突然ぶつっと切れる」
「おい、ぶつってなんだ。もう少しましな表現あるだろ」
「だって『ぶつっ』じゃない? その人がいつ死ぬかなんて、本人含めだれも知らないもん」
だけどね、と麦穂さんが伏せた睫毛はとても長くて、その繊細な動きを私はじっとみていた。
生きること。死ぬこと。いきものである以上、例外なくだれもに到来する、やむを得ないもの。経験するまでどんなものかわからないのに、経験したときにはすでに終わっていて二度と起こらない、そういう訪れ。
「最近は、線じゃなくて円なのかなと思う。点で生まれて、あっちこっち寄り道しながら線を描いて、最後は生まれた点のところに戻って死ぬの。線だと思ってたものが、円になって終わるのよ」
「そりゃあ、いろんな円がありそうだ」
「そうなの。3.14159……を地で行く人もいるかもしれない。私なんてぐっちゃぐちゃの毛糸の塊みたいな、いまはまだ、丸にもならなさそうなかんじ。でもね、いろんな色があって、なにひとつとして、同じものなんてないのよ」
麦穂さんが顔を上げて、情けない顔をしている亮司さんに向かって、安心させるようにほほえんだ。
「だから、世界には亡くなった人のたくさんの円というか、丸みたいな、かたちがあるの。カラフルで、個性がひかっていて、全部きれい。青空に浮かんでるのかもね。それってなんだかすてきじゃない?」
「……これだから芸術家は」
「そう思ったら、私は自分の名前の由来も、まるごと愛せる気がしたのよ」
私は空に浮かぶたくさんのかたちを想像してみる。まる、さんかく、しかく。ハートだったり、星だったり、かたちを成していないものだったり。赤で青で黄で緑で、色鮮やかな空。
それはわるくないかもしれない。運ばれてきた和風ハンバーグをナイフとフォークで切り分けながら、自分にしかわからないくらいの笑みを浮かべた。
「じゃあ夏樹はどんな色だと思う?」
「うーん、透明?」
亮司さんが吹き出し、げらげらとお腹を抱えて笑った。ナプキンで口元を拭きながら、笑いによるものなのかそれともべつか、涙を目尻に浮かべている。
「で、亮司くんがすき勝手に色を染めていくの」
「俺そんなひどい?」
「ひどくはないんじゃない? 夏樹くんも仕方ないなあって呆れつつ、うれしそうに受け入れそう」
「あー、あいつならありえる」
亮司さんがヒレステーキ、麦穂さんが茄子とトマトの入ったペスカトーレ、キラくんがチキンソテーを食べている、釧路の夜。
「すっごく遠回りしてるなってときは、たぶん東京タワーの上に途方もなく大きい虹でもかけてるのよ」
「七色で?」
「わかんないよー? 国によっては虹を二色、三色、四色、もっと多いと八色で認識してるらしいから」
お酒も飲んでいないのに狂ったように笑って、何度も乾杯して、すきなだけごはんを食べながら、ふと我に返ると私の頬も笑いすぎて筋肉痛みたいになっている。
キラくんはそんな私たちをしょうがないな、と言わんばかりの目で、でも温かく見守っていた。
食事を終えた私たちは、レストランのまえで解散した。亮司さんと麦穂さんは、これから夜の散歩にいくらしい。私とキラくんは自分たちの部屋に戻った。
それぞれ歯磨きを済ませて、持参した部屋着に着替えて、窓辺の席でくつろいでいる。シャワーを浴びたいけれど、食べ過ぎてお腹が苦しくて、いまはひとまず動かないでじっとしていたい。そんな気分だった。
「ほんとにお喋りだよな、麦穂さん」
「ふふ、そうだね。でも私はとても楽しかったよ」
「そりゃよかった」
キラくんが長い足を組み、窓の外をぼうっと眺めている。
街灯が少なくて、暗闇のなかで一本一本が目立って浮き上がっている。ほんの少し窓を開けたら、鼻をつく海風のにおいが流れ込んできた。さすがに寒くてすかさず窓を閉めたら、キラくんがやんわりと目尻を下げた。
雪はやんでいた。
「太平洋側の道東って、道内だと雪が少ない地域らしい」
「これでも?」
「十二月にしては降ってるほうみたい」
「そうなんだ」
キラくんが前屈みになり、私の頬に触れた。それはなにかを確かめるみたいに動き、唇に触れ、そのまま離れた手が今度は私の手をつかんだ。
「私のクマ、まだひどい?」
「そんなことない。顔色もよくなった」
「じゃあキラくんのおかげだ」
ふふ、と肩を揺らして笑う。そして空いているほうの手を伸ばして、自分からキラくんの手に触れた。
傷ひとつない、つややかな手だ。血管がそっと浮き上がっていて、照明に照らされて艶かしくもみえる。へんな雰囲気になりそうで目を逸らした。旅の目的を忘れたくなかった。
「ナナに初めて会ったとき」
ぽつり、ぽつりと、雪みたいなことばが降ってくる。
「助けてって言われてる気がした」
「そうだったんだ」
「兄のすがたと重なって、目が離せなかった」
「うん」
「だけど、結局のところ、救われてたのは俺のほうなんだといまは思ってる」
手を引かれて、シングルベッドになだれ込んだ。とくになにもしない。ただ互いの背中に腕を回して、沈黙に身を任せていた。
細く見えた背中は大きく広くて、肩幅も私なんかよりはしっかりとあって、今更そんなことに気がつく自分に飽き飽きして、そうして目を閉じた。
「救われたのは、私のほう。キラくんが、私を家からそとの世界へ連れ出した」
「それは違うよ、ナナ」
頭上に掠れた声が落ちてくる。くすぐったくて身をよじれば、ほっとするような声色で笑われた。
「たまたま会っただけだよ、俺たちは。あの保健室で。ナナが自分でそとに出たんだよ」
「あ」
「追試を受けようと、自分から家を出た。俺はなにもしてない。ナナが諦めなかったから、つながった。ぜんぶナナの力だよ」
そんなに自分を過小評価しなくていい、とキラくんは囁いた。
そうか、私は自分の意思で家を出たのだ。留年になるのがこわいとか、退学がおそろしいとか、将来に怯える気持ちがきっかけではあったものの、自分で一歩足を踏み出した。
私は、自分でできたのだ。
そう思ったとき、目頭が熱くなった。キラくんの胸元に顔をぐいと押しつければ、キラくんが頭をぽんぽんと撫でてくれた。
私にはなんにもないと人生に絶望していたけれど、そとに出ることができたじゃないか。なにもできないことに息苦しさを感じていたけれど、私にもできることがあった。
やらなければならないことに着手できず、布団にうずくまっていた夜。目も手で覆って、耳も塞いで、口も固く結んで、みないように聞かないように言わないようにとじこもった日々。お風呂場で号泣した、あのとき。不安でたまらなくて、足元から崩れ落ちそうになっていた、高校二年生の私。
私を家から出したのはキラくんではなく、私自身だったのだ。
「ひとりで生きていくのは……ひとりで閉じこもるのは、こわい」
「そうだろうな」
「そうならない私でありたい」
「うん。少しずつでいいんだよ」
「できるかな」
「きっと。もし塞ぎ込みそうになったら、そのときは助けを求めればいい。助けを求めることは、みっともないことじゃない」
相槌を打ち、キラくんにしがみつく腕に力を込めた。からだがくっついて、溶け合ってしまいそうだと思った。
あれほど昼寝をしたのに、またうとうと瞼が重くなる。うっすらと開いたキラくんのひだまりのような瞳も、心なしか眠そうに見える。
「朝シャンでいいか……」
キラくんがつぶやき、苦笑いを浮かべる。私もうなずき、ゆったりとまどろんだ。
眠りに落ちるのは一瞬だった。
夢もみないような、静かな眠りにつくといい。夢をみるなら、キラくんと手をつなぐような、幸せな夢であるといい。
