知ってた。少し前から、お互いの矢印が相手に向いていて、自分たちが想いあっていることに気がついていた。知っていたのだ。
 嘘。実はほんのちょっぴり疑ってた。気持ちが舞い上がっているのは自分だけなのではないか。踊らされているだけなのではないか。キラくんが大切で、いとおしくて、失いたくなくて、だから拒否されて傷つきたくないから、愚かな感情に蓋をした。臆病な自分にうんざりした。

「すきな子にそっぽ向かれてるの、堪えるんだけど」

 寝転がった姿勢でおそるおそる横を向いたら、キラくんは隣のシングルベッドに腰かけたまま、私を穏やかな瞳で見ていた。
 こんなときまで余裕があるなんてずるいなと思う。でも、それがキラくんなのだとも思う。

「……いつから?」
「わりと初期から」
「えっ、初期?」
「ナナは?」

 そう問いかけられて、胸が詰まる。
 焦がれるような気持ちに包まれて、心臓なんて破裂寸前で、けれどそんな私を少し高いところから「冷静になれ」と嗜めている自分もいて、わけがわからない。

「気がついたら、そうなってました」

 これが私の精一杯だ。

「すきです。同じ部屋なんて、むり」
「それはもう聞いてあげられないお願いだな。ごめんね?」

 それのなにが「ごめんね?」だ。
 キラくんは息を吐きながら、同じようにシングルベッドに横たわった。ベッドとベッドの間隔は狭く、人がひとりかろうじて通れるくらいのすきましかない。
 その空間に、キラくんの手が伸びた。通路側で寝転がっていた私の手に、となりのベッドにいるキラくんの大きな手が重なる。

「……前から思ってたけど、キラくんって手足長いよね」

 そして、意味のないことば。
 あたりまえのように手をつないできたのに、どうやら今日は緊張してだめらしい。引っ込めようとしたけれど、その手に力がこもった。

「こうしていれば、寝られるかもよ」
「緊張してむりだと思う」
「意外といける、たぶん。目を閉じてみて」

 瞼をおろせば、そこにあるのはいつもの暗闇だ。

「ナナは人肌があったほうが、眠れるタイプだと思うけどな」

 なにを根拠に? でも、いまはキラくんの鋭い勘に従って、導かれるまま眠ってしまいたい気もする。
 釧路旅行のことをあれこれ考えたせいで、ここ数日の私の眠りはかなり浅かった。そんなことさえキラくんに見抜かれ、気を遣われてしまっていたことに呆れる。
 おそらくキラくんはそんなこと、気にするな、ってあっけらかんと言うのだろうけれど。

「ナナ」

 キラくんの声がエコーがかかったように響く。
 大体、手をつないだくらいで眠れるわけがない。私の不眠は折り紙つきだ。
 寝るまえにあったことが、起きたときにも存在しているとは限らない。そのことについて考えはじめると、私は不安でたまらなくなる。

「きっと眠れるから、眠りに落ちるまえに、耳だけ傾けていてよ」

 キラくんの声が、どことなく遠い。

「俺は最初、自分が兄に言いたかったことばをナナに言ってたんだと思う。でも、すぐに理解した。兄は兄で、ナナはナナ。ふたりはべつの人間で、それで……」

 眠るまえにあったことが、目が覚めたときには失われているかもしれない。だから、私にとって睡眠は大事なことで、その睡眠を預けることができる人なんて……。

「……兄もナナも自分からそとの世界に足を踏み出したけど、兄は死に向かっていったのに対して、ナナは未来を諦めないために家を出た。だから、俺は……」

 なにか、大切なことを言われている気がする。聞き逃してはいけないことを聞いている気がする。
 だけど、全身は石になったみたいに動かなくて、瞼もやけに重くて。私の意識はどんどん落ちていく。

「大丈夫。夢もみないくらい、深い眠りにつけるよ」

 たからもののように私の髪に触れる、キラくんのうつくしい指先の感触だけが残った。


 幼いころ、怖い夢にうなされて飛び起きたときは、母の寝室に枕を持っていった。母は寝ぼけ眼を擦ってセミダブルベッドのスペースを確保して、べそをかいている私を枕ごと招き入れた。
 時計の針はとっくに深夜零時をまわっていた。母も仕事で疲れていただろうに。不安がる私を邪険に追い払ったり邪魔者扱いすることは決してなく、かといって愛情たっぷりな抱擁を受けた記憶もないけれど、ただ私を待ってくれていた。
 父も、母も、表情が乏しい人だと思う。感情のセンサーが故障していて、あるいは途中の回路が断線していて、喜怒哀楽がうまく反応しないような大人だとずっと思ってきた。
 大人になったら自分もそうなるのだろうか。想像してみたけれど、落ち着いた大人の自分を想像できず、子どもの私は首を傾げた。
 ただ、そんなことをしているうちに、隣で寝息を立てる母から体温が伝わってきて、なんだか無性に安心して眠れることができたのだった。
 そんな記憶をどうして忘れていたのかはわからないけれど、目が覚めた私ははっきりと思い出していた。慌ててカーテンのほうに視線をやれば、そこは真っ暗で、血の気が引いていく。

「起きた?」

 キラくんは窓辺の椅子に座って、文庫本を読んでいた。

「待ってくださいいま何時」
「十八時。夕飯まであと一時間というところ」
「どうしよう寝過ぎた、ごめんなさい」

 キラくんは目尻をゆるめると、首をそっと横に振る。
 でも、キラくんが気にしなくていいと言ったって、私が気にしてしまう。

「もともと初日はゆっくりする予定だったし」
「それは」
「ナナが寝られたなら、いいんだよ」

 そこで私はひとつの予感にぶち当たり、そろそろと上体を起こすとキラくんを見据えた。

「もしかして、このため? 相部屋にしたの」

 キラくんはなにも答えずにほほえんでいる。麦穂さんと同室だと、私が寝られないかもしれない、とキラくんは思ったの?
 泣きそうになり顔を歪める。キラくんは立ち上がって私のところまで来ると、頭を軽くぽんぽんと撫でて、洗面所のほうへ消えてしまう。ぱたんと扉が閉じた途端、私は自分の顔を両手で覆った。
 夢も見なかった。雫がどこまでも落ちていって、深いところでぴちゃんと水たまりに合流したとき、私の意識はなくなった。ぐっすり寝る、を通り過ぎて、死んだように寝ていた。こんなふうに眠ったのは久しぶりなので、慢性的な頭痛は波を引き、頭はすっきりと澄み渡っている。

「ナナ、水飲む?」

 洗面所から出たキラくんが、ホテルのサービスのペットボトルを片手に持っている。うなずいたら、私が飲みやすいように蓋をゆるめて渡してくれた。
 そういうところだ、とむくれる。

「ありがとう」

 喉を潤すミネラルウォーターはつめたい。蓋をしめたら、流れるような動作でキラくんがペットボトルを受け取る。腰のあたりの高さまでしかない冷蔵庫の扉をあけ、横に倒して収納した。
 ふたたびありがとう、を言う。キラくんは口の端を少しだけ持ち上げた。

「キラくん」
「ん?」
「私が眠るまえ、話しかけてくれてなかった?」

 どんなことを言おうとしてくれてたの、と問いかけようとして、キラくんのとぼけた表情に口をつぐむ。

「そうだっけ? 忘れた」

 これはずっとはぐらかす気だ。
 まあいいや、とため息を吐く。スリッパをつっかけて、洗面所へと向かう。
 鏡越しに寝癖のついた自分がこちらをみている。ほっぺにシーツの跡までついていた。頭を抱えたくなる。とりあえず顔を洗い、ドライヤーで髪を乾かした。ポケットに入れっぱなしだった色つきリップは、寝ているうちに体温で溶けたのか角がふやけていた。
 キラくんは窓辺で文庫本のつづきを読んでいる。

「なにを読んでるんですか」

 気を抜くと敬語になってしまう。キラくんは視線を上げ、表紙を見せてくれた。
 あ、と乾いた声がもれる。

「知ってる?」
「うん」

 知ってるもなにもすきな本だ。ただ、ひきこもっているときは、読めなかった小説。不登校の描写があり、それが自分のすがたと重なって苦しくなったのだった。

「キラくんってそういう小説も読むんだ」
「意外?」
「うん」
「幅広くなんでも読むほうだと思うけど」

 一体、どんな気持ちで。
 胸が締めつけられ、私はそれを誤魔化すように首を左右に振ると、キラくんの正面の椅子に座った。キラくんは文庫本にしおりを挟むと、膝の上に置いた。
 カーテンからみえる景色は黒々としている。背の低い建物が並んでいて、海に近いせいか潮で錆びついている。建物の上を風が縦横無尽に行き来していて、びゅうびゅうと風の音が鳴る。
 川沿いの橙色の街灯がぼんやり灯っていて、闇に包まれた海へと川がゆったり流れている。川向かいからは坂になっていて、小高い丘のようなところにあかりを灯した一軒家が立ち並んでいた。
 ふと、「なんでこの場所を選んだんだろう」とひとりごちていた。あ、と口を手で覆うも、キラくんは咎めることもなく静かな目を細めるだけだ。 

「兄はこのホテルの六階に宿泊したらしい」
「そう、だったんだ」
「ここから景色見て、なにを考えてたんだろうな」

 キラくんも同じことを想像していたのだと悟る。
 ことばを交わさないまま、時計の針だけが刻々と進み、気がつけば約束の十九時まであと十分という頃に、部屋のドアをノックする音が響いた。
 キラくんと私は目配せをし、窓際の椅子から立ち上がる。キラくんは丸テーブルに広げていた館内案内やらルームサービスのチラシやらのすきまから、名刺サイズの夕食券を二枚抜き取った。

「おー、おつかれ。おまえら、観光した?」

 ドアを開けたところには黄色いアロハシャツに綿のパーカーを羽織った不審人物にも見えかねない亮司さんと、メイクをさりげなく施した麦穂さんが立っていた。

「してない」
「あー、そうなの?」
「休憩した。亮司さんと麦穂さんは」

 カーペットを靴で歩き、エレベーターホールに向かう。四つの影が照明に照らされて、黄ばんだ壁の上でゆらゆら揺れている。

「麦穂は一時間半くらい昼寝した」
「寝たらすっきり! そのあと亮司くんと一緒にそとにいったんだよね。でもこのへんって、あんまりめぼしい場所はないのね」
「でも麦穂はあちこち立ち止まって、シャッター切りまくってたじゃん」
「そりゃもう、写真家の目線では宝の山だもの」

 川沿いを散歩したり、さびれた繁華街でスープカレーを食べたり、くすんだ黄色い壁の商業施設でお土産を物色したり、二人きりで観光を満喫したようだった。

「駅前っていったら、栄えてるってふつう思っちゃうじゃない」
「そりゃ東京とか、地方都市の感覚だ」
「そうみたいなの。でもねえ、そこがよかった。人がはけている感じがね、いいのよ。以前北海道を旅行したときは、春の函館も夏の富良野も秋の層雲峡も冬のニセコも、どこへ行っても観光客でごった返しだったなあ」