降雪のなか、細岡展望台にいく人は誰もいないらしい。道は空いていたけれど、そのぶん除雪が追いついていない路面にひやひやしながら、私たちは展望台に到着した。
「ここからは釧路湿原が綺麗に見えるんだよ。まあ雪降ってるから視界が悪くて駄目かもしれないけど」
駐車場から少し歩いたところにひらけた場所があり、細岡展望台と書かれた木製の看板が立っていた。私は雪に足を取られながらも前に進み、木製の柵に両手を置いた。
「うわあ」
思わず声が漏れた。降りつづける雪で水平線がぼんやりにじんでいるけれど、信じられないくらい広大な景色が広がっていて、冬の寒さも忘れて私は立ち尽くしていた。
私たち以外、人の気配はない。動物たちも息を潜めている。冬眠しているのかもしれない。植物は枯れ、種を土に潜り込ませて、じっと春を待っている。白い湿原も、凍りついた川も、ただ黙っている。
世界からすべての音が消えたと思ったら、雪の降る淡い音だけが耳のうしろをくすぐった。
「夏樹くん、どんな気持ちで眺めてたんだろうな」
麦穂さんが囁いた声は、あっという間に雪の音に紛れて聴こえなくなる。
一体、どんな気持ちで。たったひとりで、どんなことを思ったのだろう。ことばに詰まる。
麦穂さんも、キラくんも、私も、無言で遥か向こうに広がる雄大な景色を見下ろしていたけれど、突如亮司さんが「そろそろ戻らないと雪がやばい」と言い出し、慌てて車に戻った。
「からだが冷えてかなわん」
亮司さんはそう言うと暖房の温度を上げ、路面の状態が悪化する前に車を発進させた。
天候も崩れているので無理に観光はせず、一旦ホテルにチェックインしようという話になった。亮司さんは、あえてキラくんのお兄さんが宿泊したホテルを予約したらしい。
道中、トイレ休憩のためにコンビニに寄った。東京では見かけない、白地にオレンジ色のマークのコンビニで、お手洗いは男女共用のものがひとつしかなかったため、交代で使用することになった。
麦穂さんがお手洗いにいっている間、突然亮司さんが「ホテル、四人部屋がなかったんだよ」と言い出し、キラくんと私は目を見開いた。
「だから、二人部屋を二つ予約したから。まー、普通に考えて、男部屋と女部屋って感じになるんじゃねえかと」
「あれ、亮司さんと麦穂さんって、お付き合いされてるんじゃないんですか?」
どうやら私はとんでもない勘違いをしていたらしい。
えっ、とか、あっ、とか言いながら動揺している亮司さんを、キラくんが後部座席から冷めた目で見ている。
「ナナ、二人はまだ付き合ってないよ」
「……まだ?」
「おいやめろ蛍人おまえ余計なこと言うな」
「この人、ずーっと片思いしてんの。でもさ、そろそろ告白すればよくない」
途端に亮司さんが萎れてしまった。風船の空気がしゅうしゅうと抜けるみたいに小さくなり、ハンドルに突っ伏している。
「自信ねえんだもん」
「ぜったいいけるってまわりからも散々言われてんじゃん」
「そうだけど。麦穂とは中学から友だちで、ここでフラれたらどうするよ。友だちでもなくなったら、一緒にいられなくなるじゃねえか」
「ナナ、この人は一途に想い続けて拗らせてんの」
私はしょんぼりしている亮司さんに声をかけ、一生懸命励ました。
大丈夫ですよ、お二人って両思いっぽいですもん! いや、長年の付き合いでもないのに勝手なことは言えない。うーん、それなら。麦穂さん、よく亮司さんのこと見てますよ! ただ見てるだけかもしれない? でも。
「放っておきなよ、ナナ。亮司さんって中身はチャラついてないから、こうなんだよ」
「なんだかごめんなさい、亮司さん」
「いいんだ、ナナちゃん、不甲斐なくて俺は……」
そうこうしているうちに麦穂さんが戻ってきて、車はふたたび発車した。
キラくんは、亮司さんと麦穂さんがいるまえでは、私の手を取らない。みられるのが恥ずかしいからなのかもしれないけれど、私は少しだけ寂しさを覚えた。
「おー、もうすぐ釧路駅だな。そうしたら、ホテルはすぐだわ」
市街地の大きい通りだときれいに除雪されていることが多く、路面は凍結気味だったけれど、だいぶ運転がしやすいらしい。亮司さんの肩の強張りがゆるゆると解けていくのがみえた。
駅から川のほうへ向かって一本大通りが走っていて、宿泊するホテルはその通り沿いに建っていた。川沿いの専用駐車場にレンタカーを駐車させ、それぞれ荷物を持って車を降りる。
ざく、ざく、と足音が重なり合い、泥の混じった濁った雪道は大小様々な足跡まみれになった。
「亮司さん」
「なんだ、蛍人」
チェックインの手続きをしている亮司さんに、キラくんがだるそうに近寄っていく。私と麦穂さんは離れたところにあるソファで、荷物番をしていた。
「ナナちゃん、寒そうに見えるけど大丈夫?」
「大丈夫です。ちょっと油断してて、薄い肌着を着てきてしまったので、部屋で厚手のものに交換しようと思います」
「うん、うん、それがいいね。にしても朝も早かったし、眠くならない? 私は欠伸が止まらないよ」
ぐっと天井にこぶしを突き上げて、麦穂さんが伸びをしている。そして欠伸を噛み殺すと、とろんとした目を両手で押さえている。相当眠いらしい。
「楽しみで、あんまり寝られなかったの」
子どもみたいな理由がかわいらしくて、くすくすと肩を揺らして笑っていたら、ややふてくされた顔の亮司さんと澄ました顔のキラくんが戻ってきた。
「麦穂」
「はあい。なあに?」
「おまえは俺と相部屋」
「あら、そうなの」
「で、蛍人とナナちゃんで一部屋。ナナちゃん、嫌だったら遠慮なく言ってほしいんだけど」
私は嫌ですとも嫌じゃないですとも言えず、「えっとなんでも大丈夫です」とか「せっかくの機会なので勉強を教わろうと思います」とか、頓珍漢な返事をしてしまった。完全に墓穴を掘った気がする。
一体なんのマネだろうと思い、キラくんの横顔を斜め下から盗み見したら、視線に気がついたキラくんがちらりと私を見下ろして、ほんの少しだけ舌を出してみせた。
キラくん、亮司さんにけしかけたな……。
「ナナちゃん、こいつにへんなことされたら、我慢せずに言えよ。頼むから」
「え? あ、はい、わかりました」
「くそ、こんなん、ナナちゃんの親御さんに申し訳が立たねえ……」
肩を落とした亮司さんと眠そうな麦穂さんが、七〇三号室に消えていく。
キラくんは七〇四号室のドアのところで立ち止まると、カードタイプのルームキーをかざした。鍵が外れる音が聞こえたら、キラくんがドアをあける。
「ナナ、どうぞ」
「え、あ、はい。じゃなくて、うん、ありがとう」
なんでこんな状況になったんだろう。私はさっきから頭が真っ白だけど、キラくんはどこ吹く風だ。
「キラくんって緊張とかしないんですか」
「敬語」
「緊張しないの」
「するよ?」
ぜったい嘘だ。なにこれ、なんなんだこの差は。
私は熱を持った頬をつねってみたけれど、余計に熱くなっただけだった。半ば涙目でスーツケースを部屋のなかに運び、窓際の椅子に座る。
キラくんは余裕な面持ちのまま、私の向かいの椅子に腰を下ろすと、膝の上に置いたリュックの中身を整理している。こうして見ると、あらためて身軽な荷物だ。
「今日は夕食まで自由時間だって。夕飯はホテルのレストランで、予約時間は十九時らしい。だから、それまでフリー」
「ソウデスカ」
「ナナ、怒ってる?」
「キラくん、おちょくってるでしょ」
睨んだら、思い切り笑われた。この人、いつの間にこんなふうに、手放しで笑うようになったんだろう。鎧をすべて脱ぎ捨てて、なんでも受け止めるからって両手を開いて、見透かした瞳で笑うのだ。
「ナナ眠い? もし眠いなら、休んでから町のほうに行くのもありだと思ってる」
「私? 私はそれほどでは。麦穂さんはとても眠そうだったよね」
「隈」
キラくんの細長い指が、自身の目の下をとんとんと叩く。
「……隈、ひどい?」
「ひどいってほどではないけど。ナナってたぶん不眠症だろ?」
ふみんしょう。口の中でつぶやいてみる。その響きはしっくりこないけれど、長いこと睡眠薬を手放せていないのは確かだ。
「これでもだいぶ寝れるようになったよ」
「うん、そうだろうと思う」
キラくんは私のことをよく見ている。観察されていると感じたことはないけれど、私の些細な変化に敏感なことくらいはさすがの私でも気づく。
「少し休も。寝れなくてもいいけど、横になるだけでも結構楽になったりするし」
「だけど、寝るために釧路にきたわけじゃないよ。せっかくだから、そとに」
そとへ行って、キラくんのお兄さんの軌跡をたどりたい。時間は限られているのだ。
そう訴えようとして、片手ひとつで遮られる。キラくんの長い腕がこちらのほうへ伸びて、私の髪に触れた。そのまま髪を耳にかけて、ほほえむ。
「時間ならあるから平気」
「でも」
「明日の朝、兄が最後に目撃された港へいこうと思ってる。亮司さんもそのつもりで、今晩は酒を控えて明日の運転に備えるって言ってくれてる」
「……」
「だから、いいんだよ」
なにがいいのかわからなかったけれど、なぜかキラくんの輪郭がぼやけて二重にみえる。ナナが泣くことじゃないのに、と声が耳の奥で反響している。
私の情緒は安定していない。
「あのさ、へんなことはするつもりないから。なにを勘違いしてるか知らないけど、俺だってずっと緊張してる。ほら」
その手が私の震える手をつかみ、キラくんの胸元へと持っていく。チャコールの質の良いニット越しに速い鼓動が伝わってきて、私は目を丸くする。
「ほんとだ」
「たぶん俺がナナをいっぱいいっぱいにさせてるんだよね? 兄のことまで背負わせたくないし、ナナはナナのままでいてほしい。ふつうに観光して、おいしいもの食べて……旅行気分で」
その手が私の手を引き、ふたりで立ち上がる。キラくんは私をシングルベッドの端に座らせた。自分はもうひとつのシングルベッドに腰かけて、両手をひらりと上げる。
「なにもしない」
「安全アピール? なにそれ私、そんなこと意識してない」
「さっきから怒ってる?」
「怒ってない。怒ってないけど、大事な旅行でへんに意識してる自分がいやになる」
私だって亮司さんと同じだ。
スリッパを脱ぎ捨てて、そのままベッドに仰向けに横になった。白い天井が視界に広がり、背中がシミひとつないシーツに沈み込む。
「ナナ」
私は頑なに唇を噛みしめる。
キラくんはやわらかい声色で、大切なものを扱うみたいに囁いた。
「すきだよ」
「ここからは釧路湿原が綺麗に見えるんだよ。まあ雪降ってるから視界が悪くて駄目かもしれないけど」
駐車場から少し歩いたところにひらけた場所があり、細岡展望台と書かれた木製の看板が立っていた。私は雪に足を取られながらも前に進み、木製の柵に両手を置いた。
「うわあ」
思わず声が漏れた。降りつづける雪で水平線がぼんやりにじんでいるけれど、信じられないくらい広大な景色が広がっていて、冬の寒さも忘れて私は立ち尽くしていた。
私たち以外、人の気配はない。動物たちも息を潜めている。冬眠しているのかもしれない。植物は枯れ、種を土に潜り込ませて、じっと春を待っている。白い湿原も、凍りついた川も、ただ黙っている。
世界からすべての音が消えたと思ったら、雪の降る淡い音だけが耳のうしろをくすぐった。
「夏樹くん、どんな気持ちで眺めてたんだろうな」
麦穂さんが囁いた声は、あっという間に雪の音に紛れて聴こえなくなる。
一体、どんな気持ちで。たったひとりで、どんなことを思ったのだろう。ことばに詰まる。
麦穂さんも、キラくんも、私も、無言で遥か向こうに広がる雄大な景色を見下ろしていたけれど、突如亮司さんが「そろそろ戻らないと雪がやばい」と言い出し、慌てて車に戻った。
「からだが冷えてかなわん」
亮司さんはそう言うと暖房の温度を上げ、路面の状態が悪化する前に車を発進させた。
天候も崩れているので無理に観光はせず、一旦ホテルにチェックインしようという話になった。亮司さんは、あえてキラくんのお兄さんが宿泊したホテルを予約したらしい。
道中、トイレ休憩のためにコンビニに寄った。東京では見かけない、白地にオレンジ色のマークのコンビニで、お手洗いは男女共用のものがひとつしかなかったため、交代で使用することになった。
麦穂さんがお手洗いにいっている間、突然亮司さんが「ホテル、四人部屋がなかったんだよ」と言い出し、キラくんと私は目を見開いた。
「だから、二人部屋を二つ予約したから。まー、普通に考えて、男部屋と女部屋って感じになるんじゃねえかと」
「あれ、亮司さんと麦穂さんって、お付き合いされてるんじゃないんですか?」
どうやら私はとんでもない勘違いをしていたらしい。
えっ、とか、あっ、とか言いながら動揺している亮司さんを、キラくんが後部座席から冷めた目で見ている。
「ナナ、二人はまだ付き合ってないよ」
「……まだ?」
「おいやめろ蛍人おまえ余計なこと言うな」
「この人、ずーっと片思いしてんの。でもさ、そろそろ告白すればよくない」
途端に亮司さんが萎れてしまった。風船の空気がしゅうしゅうと抜けるみたいに小さくなり、ハンドルに突っ伏している。
「自信ねえんだもん」
「ぜったいいけるってまわりからも散々言われてんじゃん」
「そうだけど。麦穂とは中学から友だちで、ここでフラれたらどうするよ。友だちでもなくなったら、一緒にいられなくなるじゃねえか」
「ナナ、この人は一途に想い続けて拗らせてんの」
私はしょんぼりしている亮司さんに声をかけ、一生懸命励ました。
大丈夫ですよ、お二人って両思いっぽいですもん! いや、長年の付き合いでもないのに勝手なことは言えない。うーん、それなら。麦穂さん、よく亮司さんのこと見てますよ! ただ見てるだけかもしれない? でも。
「放っておきなよ、ナナ。亮司さんって中身はチャラついてないから、こうなんだよ」
「なんだかごめんなさい、亮司さん」
「いいんだ、ナナちゃん、不甲斐なくて俺は……」
そうこうしているうちに麦穂さんが戻ってきて、車はふたたび発車した。
キラくんは、亮司さんと麦穂さんがいるまえでは、私の手を取らない。みられるのが恥ずかしいからなのかもしれないけれど、私は少しだけ寂しさを覚えた。
「おー、もうすぐ釧路駅だな。そうしたら、ホテルはすぐだわ」
市街地の大きい通りだときれいに除雪されていることが多く、路面は凍結気味だったけれど、だいぶ運転がしやすいらしい。亮司さんの肩の強張りがゆるゆると解けていくのがみえた。
駅から川のほうへ向かって一本大通りが走っていて、宿泊するホテルはその通り沿いに建っていた。川沿いの専用駐車場にレンタカーを駐車させ、それぞれ荷物を持って車を降りる。
ざく、ざく、と足音が重なり合い、泥の混じった濁った雪道は大小様々な足跡まみれになった。
「亮司さん」
「なんだ、蛍人」
チェックインの手続きをしている亮司さんに、キラくんがだるそうに近寄っていく。私と麦穂さんは離れたところにあるソファで、荷物番をしていた。
「ナナちゃん、寒そうに見えるけど大丈夫?」
「大丈夫です。ちょっと油断してて、薄い肌着を着てきてしまったので、部屋で厚手のものに交換しようと思います」
「うん、うん、それがいいね。にしても朝も早かったし、眠くならない? 私は欠伸が止まらないよ」
ぐっと天井にこぶしを突き上げて、麦穂さんが伸びをしている。そして欠伸を噛み殺すと、とろんとした目を両手で押さえている。相当眠いらしい。
「楽しみで、あんまり寝られなかったの」
子どもみたいな理由がかわいらしくて、くすくすと肩を揺らして笑っていたら、ややふてくされた顔の亮司さんと澄ました顔のキラくんが戻ってきた。
「麦穂」
「はあい。なあに?」
「おまえは俺と相部屋」
「あら、そうなの」
「で、蛍人とナナちゃんで一部屋。ナナちゃん、嫌だったら遠慮なく言ってほしいんだけど」
私は嫌ですとも嫌じゃないですとも言えず、「えっとなんでも大丈夫です」とか「せっかくの機会なので勉強を教わろうと思います」とか、頓珍漢な返事をしてしまった。完全に墓穴を掘った気がする。
一体なんのマネだろうと思い、キラくんの横顔を斜め下から盗み見したら、視線に気がついたキラくんがちらりと私を見下ろして、ほんの少しだけ舌を出してみせた。
キラくん、亮司さんにけしかけたな……。
「ナナちゃん、こいつにへんなことされたら、我慢せずに言えよ。頼むから」
「え? あ、はい、わかりました」
「くそ、こんなん、ナナちゃんの親御さんに申し訳が立たねえ……」
肩を落とした亮司さんと眠そうな麦穂さんが、七〇三号室に消えていく。
キラくんは七〇四号室のドアのところで立ち止まると、カードタイプのルームキーをかざした。鍵が外れる音が聞こえたら、キラくんがドアをあける。
「ナナ、どうぞ」
「え、あ、はい。じゃなくて、うん、ありがとう」
なんでこんな状況になったんだろう。私はさっきから頭が真っ白だけど、キラくんはどこ吹く風だ。
「キラくんって緊張とかしないんですか」
「敬語」
「緊張しないの」
「するよ?」
ぜったい嘘だ。なにこれ、なんなんだこの差は。
私は熱を持った頬をつねってみたけれど、余計に熱くなっただけだった。半ば涙目でスーツケースを部屋のなかに運び、窓際の椅子に座る。
キラくんは余裕な面持ちのまま、私の向かいの椅子に腰を下ろすと、膝の上に置いたリュックの中身を整理している。こうして見ると、あらためて身軽な荷物だ。
「今日は夕食まで自由時間だって。夕飯はホテルのレストランで、予約時間は十九時らしい。だから、それまでフリー」
「ソウデスカ」
「ナナ、怒ってる?」
「キラくん、おちょくってるでしょ」
睨んだら、思い切り笑われた。この人、いつの間にこんなふうに、手放しで笑うようになったんだろう。鎧をすべて脱ぎ捨てて、なんでも受け止めるからって両手を開いて、見透かした瞳で笑うのだ。
「ナナ眠い? もし眠いなら、休んでから町のほうに行くのもありだと思ってる」
「私? 私はそれほどでは。麦穂さんはとても眠そうだったよね」
「隈」
キラくんの細長い指が、自身の目の下をとんとんと叩く。
「……隈、ひどい?」
「ひどいってほどではないけど。ナナってたぶん不眠症だろ?」
ふみんしょう。口の中でつぶやいてみる。その響きはしっくりこないけれど、長いこと睡眠薬を手放せていないのは確かだ。
「これでもだいぶ寝れるようになったよ」
「うん、そうだろうと思う」
キラくんは私のことをよく見ている。観察されていると感じたことはないけれど、私の些細な変化に敏感なことくらいはさすがの私でも気づく。
「少し休も。寝れなくてもいいけど、横になるだけでも結構楽になったりするし」
「だけど、寝るために釧路にきたわけじゃないよ。せっかくだから、そとに」
そとへ行って、キラくんのお兄さんの軌跡をたどりたい。時間は限られているのだ。
そう訴えようとして、片手ひとつで遮られる。キラくんの長い腕がこちらのほうへ伸びて、私の髪に触れた。そのまま髪を耳にかけて、ほほえむ。
「時間ならあるから平気」
「でも」
「明日の朝、兄が最後に目撃された港へいこうと思ってる。亮司さんもそのつもりで、今晩は酒を控えて明日の運転に備えるって言ってくれてる」
「……」
「だから、いいんだよ」
なにがいいのかわからなかったけれど、なぜかキラくんの輪郭がぼやけて二重にみえる。ナナが泣くことじゃないのに、と声が耳の奥で反響している。
私の情緒は安定していない。
「あのさ、へんなことはするつもりないから。なにを勘違いしてるか知らないけど、俺だってずっと緊張してる。ほら」
その手が私の震える手をつかみ、キラくんの胸元へと持っていく。チャコールの質の良いニット越しに速い鼓動が伝わってきて、私は目を丸くする。
「ほんとだ」
「たぶん俺がナナをいっぱいいっぱいにさせてるんだよね? 兄のことまで背負わせたくないし、ナナはナナのままでいてほしい。ふつうに観光して、おいしいもの食べて……旅行気分で」
その手が私の手を引き、ふたりで立ち上がる。キラくんは私をシングルベッドの端に座らせた。自分はもうひとつのシングルベッドに腰かけて、両手をひらりと上げる。
「なにもしない」
「安全アピール? なにそれ私、そんなこと意識してない」
「さっきから怒ってる?」
「怒ってない。怒ってないけど、大事な旅行でへんに意識してる自分がいやになる」
私だって亮司さんと同じだ。
スリッパを脱ぎ捨てて、そのままベッドに仰向けに横になった。白い天井が視界に広がり、背中がシミひとつないシーツに沈み込む。
「ナナ」
私は頑なに唇を噛みしめる。
キラくんはやわらかい声色で、大切なものを扱うみたいに囁いた。
「すきだよ」
