優しいキラくんは、言いたくないことならもちろん話さなくてよいと言った。キラくんがそうやって逃げ道を用意してくれることはわかっていたので、私は目をとじてじんわりと微笑んだ。
「明確なターニングポイントみたいなものがあったわけではないんですけど」
今度はカフェラテを注文しながら、私は遥か向こうにある記憶を手探りで呼び起こす。
「ずっと、それなりの大学にいって、それなりの会社で働く、みたいなイメージがあったんです。なんとなくそれを追いかけてた」
「うん」
「だけど、それが自分のしたいことなのかわからなくなったんです。うち、父が銀行員で母が証券会社に勤めていて、二人ともバリバリ働いてるんですけど」
運ばれてきたカフェラテを受け取って、ミルクとエスプレッソが混ざり合う境界線に視線を落とした。
「自分もそうなるんだろうなって思ってたんです。憧れじゃなくて、自然に感じてたことで。だけど、それがほんとうに自分のなりたいすがたなのか、わからなくなった」
「うん」
「親にああしろこうしろって縛られてきたわけじゃないんです。親はできるがわの人たちで、できない人の気持ちが理解できない」
「なるほど」
「たとえば、私がカフェの経営をしたり、カメラマンになってる未来なんて、父も母も想像しない」
でも、それを不満だとも思わなかった。世の中は平等ではなく、できるできないのあいだはグラデーションではなくて、そこには線のようなものが引かれていると感じていたから。
「だから、私もそういう未来を想像しなかった。でも、それってちがうんじゃないかと思ったんです。悩みはじめたら学校の勉強がわからなくなって、どんどん落ちこぼれました。先が見えなくなって、体調がおかしくなって」
気がつけば暗闇を這いつくばっていて、出口を見つけられなくなった。後輩のSNSの投稿をきっかけに、信頼していたテニス部のメンバーへの気持ちも揺らぎ、なにがほんとうかわからなくなった。
「自分の気持ちも、自分のみているものも信じられなくなった。たぶん、いまも」
他人からしたら「そんなことで」と呆れられるような段階で躓いている。だからこそ、助けてともわかってとも言いにくく、私の口は貝のように固くとじた。
だから、こうしてだれかに語るのは初めてだった。
「私、できない自分を許せなかったんです。たぶん、私は病院へ行くべきだったんだけど、行けなかった。認めたくなかった。鬱とか、そういうものを、自分と切り離して考えたかったんです」
「ナナ」
顔を上げたら、キラくんの星のような瞳に自信のなさそうな私が映っていた。
「鬱ってさ、こころの病気と思われがちだけど。それはそうなんだけど、あれってどちらかといえば脳の病気らしいよ」
「え?」
キラくんの目には、厳しさも悲しみも穏やかさも浮かんでおらず、ただいつもどおりの変わらない光しか浮かんでいない。そのことに、私はなぜか狼狽した。
「脳内の神経伝達物質が欠乏して、脳の機能が低下する。そういう仕組み。だから、もしそうなったら、そのときには既にきもちの問題じゃなくなってる」
「……きもちの問題じゃない」
「きもちで鬱を制御できるって勘違いしてる人が多いから、ナナがそう思っても仕方のないことだけどね。だから、だめじゃないんだよ。鬱だとしても」
だめじゃない、のことばに頬を打たれた。ぱしっと音が聞こえた気がした。
「たぶん、偏見があるよ。ナナのなかに。まずはナナが、ありのままのナナを、たとえどんなにいやだとしても、受け入れることからなんじゃない」
鼻が痛み、視界がぼやける。感情的なことばを吐き出しそうな唇を噛みしめたら、キラくんがやんわりとほほえんだ。
その瞳はさきをつづけて、と言っていた。
「こんなにだめなのに? こんなに、こんな自分」
ああ、面倒くさいやつだ。いまの私は最低だ。こんな閑静なカフェで。人目を憚らず泣いたりして。酔っ払って帰ってきた父親よりも面倒くさい。
感情の波がどこからか押し寄せてきて、轟音をあげながら私を押し流していく。
「だめじゃないんだけどね。でも、ナナがだめだと思うなら、そのままの自分をなにより自分自身が認めてあげるしかないよ」
「わたし、が」
「うん。だってさ、俺はナナのことだめなんて思わないし、ありのままのナナを見ているつもりだけど。俺がどんなことを言ったって、いまのナナが納得できないなら、不登校になったナナは置いてきぼりになっちゃうじゃん」
たくさん苦しんだ分まで一緒に連れていってあげてよ、とキラくんは言った。
ぼたぼたと大粒の涙が落ちて、なめらかなテーブルを濡らした。だれかに認められたいと思っていたけれど、だれかに自己肯定感を委ねるまえに、自分自身が自分を受け入れなくてはいけなかった。
「仮にさ、勉強が苦手だとするじゃん。俺が言っても嫌味にしか聞こえないかもしれないけど、まあ聞いて。勉強が苦手っていうのはその人の一つの側面でしかない。わかりにくかったら運動でもいいよ」
「一つの側面でしかない?」
「そう。おまえ勉強できないね、運動音痴だねって言われたとしても、それはその人自身を否定する事実じゃない。一つの側面だけで人は決まらないと思うんだよ」
「言ってる人のほうに悪意があったとしても?」
「事実と感情は混同しちゃだめだろ?」
なんだか無性におかしくなってきて、私は泣き笑いのような表情になり、顔はもうぐしゃぐしゃだった。鞄のなかからハンカチを取り出すも、そのころにはすでに手遅れで、キラくんはそんな私を見てのんびりとほほえむだけだった。
キラくんは「話したくないことを話してくれてありがとう」と言った。お礼なんて言われる立場ではなかったので、私は首を左右に振って否定した。
「キラくんのお兄さんは」
「うん?」
「キラくんのお兄さんは、いや、お兄さんも、なにかに躓いていたんでしょうか」
「どうなんだろう」
キラくんは急に遠いところをみるような瞳になった。
「躓かないとあんなふうにはならないと思うけど、実際のところなにもわからない」
「そんなにすごかったんですか」
具体的になにを、とは口にできなかったけれど、キラくんは私の意を汲んでくれたようだった。
「みる? 兄の部屋。まあ、気持ちのいいもんじゃないから、積極的にはおすすめしないけど」
「いいんですか?」
「ここまで巻き込んじゃってるから」
そのままカフェを出て、キラくんの実家におじゃました。キラくんの実家は話に聞いていたとおり高校のすぐ近くにあり、二階建ての一軒家だった。間取りもうちと似ている。ご両親は共働きらしい。
そうして案内されたお兄さんの部屋は悲惨なもので、あちこち壁紙は剥がれ、殴ったようなかたちで穴ぼこが空き、なにかの紙がびりびりに破り捨てられ、中途半端な長さの煙草の吸い殻が散らばっていた。
衝撃を受けて凍りついていた私に、キラくんは「気持ちのいいもんじゃないって言っただろ」と苦笑いし、その部屋の扉はふたたび閉じられた。普段はだれも立ち入らないらしい。
「生きてるか死んでるかもわからないから、片付けにくくて、そのまま」
親も現実を直視できないんだよ、とキラくんはさらりと言う。
もちろん私は子どもの立場で、親の気持ちを真に理解することはできないけど、たしかにあの状態の我が子を受け入れるのは相当にきついことだと想像ができた。
「助けられたのかもしれない、て思うときがある」
リビングのソファで横並びに腰かけて、キラくんが後悔の滲む声でぽつりと囁く。
「見殺しにしたんじゃないか。部屋で暴れる兄を見ていながら放置した。見ないようにした。そうなるまえに、できることがあったんじゃないかって」
「……でも、お兄さんがひきこもっているとき、キラくんはまだ小学校中学年とか高学年ですよね? 止めるのは難しくないですか。体格差もあるし、ふつうにこわいですよね」
「うん。結局、可能性を悔やんでるだけなんだよ」
おそらく自分を納得させるしかないことは、キラくんが一番わかっているのだろう。ただ、お兄さんのことが大切だった分、割り切れることもできなくて苦しんでいる。そんなふうに見えた。
その日の夜、キラくんは亮司さんに連絡をしたらしい。お兄さんの彼女だった人につないでもらえないかと訊いたそうだ。
そして、その人から返事が返ってきたのは、それから二週間後のことだった。
その日も私は保健室にきていた。保健室登校にもだいぶ慣れて、登下校の際に足がすくむこともなくなっていた。ただ、同級生とは顔を合わせづらく、相変わらず同級生と鉢合わせる可能性が低い時間に登校していた。
一度下がりきった自信を取り戻すのは難しい。自分自身を受け入れる、と自分に言い聞かせても、挫けてしまいそうなときがある。
学校に通う理由はいまもわからないけれど、いまのなんとか継続している状況を手放したら、自分にはなにも残らない気がして、それだけは死守しようと躍起になっていた。
「今日の夕方なら都合がつくらしい。仕事が休みなんだって。ナナもいていいそうだけど、どうする?」
その人は青野美郷さんという名前で、高校に入学してすぐにキラくんのお兄さんと付き合いはじめたそうだ。つまり、私の通う高校の卒業生ということになる。
漠然と、どんな人なんだろう、と思った。キラくんのお兄さんの彼女だったからというよりは、この高校を出たらどんな人生を歩むのだろう、ということが気になった。
だから二つ返事で了承し、指定されたファミリーレストランへと向かうことになった。
その人は夜空を連想させるシックな濃紺のワンピースを着て、足元の薄いグレーのストッキングは銀色のパンプスに包まれていた。その銀色はキラくんのピアスのシルバーとよく似ている。磨かれて鈍くひかる上質な銀だった。
「はじめまして。青野美郷です」
鈴を転がすような声で、一言ずつ慎重に話す。
どう見てもファミリーレストランには似合わない女性で、この店を指定したのは高校生の私たちに気を遣ってくれたからだと悟る。
キラくんは私の分も含めて自己紹介し、私たちは店員に案内された窓際のソファ席に座った。キラくんと私がとなりで、美郷さんが正面に腰を下ろす。背筋がぴんと伸びた、大人の女性だった。
「ほんとうは、お会いするのをやめようかなと思っていたんです」
年下の私たちに対しても、丁寧な敬語を使う。それが逆に、美郷さんとの温度差を浮き彫りにさせた。
「でも、当時夏樹くんからは弟さんの話をよく聞いたから。けじめをつけるためにも、会っておこうかなと思いました」
「兄が、ご迷惑をおかけしました」
「いえ」
美郷さんの細長い指がメニュー表をなぞる。まるみを帯びた爪はベージュのネイルが均一に塗られていて、手の甲もつややかなペールオレンジでうつくしかった。洗練されている、と思った。
「なにも知らないので、失礼なことを申し上げたらたいへん恐縮なんですが、兄とはいつまでお付き合いを?」
「最後まで」
その最後がなにを意味するのか察し、私は息を飲む。しかしキラくんは想定していたのか動じなかった。
「夏樹くんがひきこもってしまってからは、もちろん会えませんでしたし、メールでたまにやり取りする程度だったんですけど、別れてはいないんです」
「そうだったんですか」
「きっと、なんで彼が変貌したのか気になってるんですよね? 私では、お力になれないかもしれません」
美郷さんがほんの少し眉を下げて、残念そうに口ずさむ。
「夏樹くんは努力家だったので学業成績も悪くなかったですし、温厚なので同級生との軋轢もなかったと思います。彼はただ、つかれたと言ってました」
「つかれた?」
「はい。つかれたから休みたい、と」
つかれた。休みたい。断片的にことばを拾い上げて反芻する。つかれたから、休みたい。でもきっと、なにに疲れたのかまでは、美郷さんでも把握できていない。
「私は夏樹くんのことがすきでした。たぶん、いまも。でもすきでいるのをやめようと思ってるんです。今日で区切りをつけられたらいいと思って」
「そうだったんですか」
「実は私、釧路までいったんですよ」
それにはぎょっとしたのか、キラくんは驚愕したまま固まっている。美郷さんはひかえめに口角を持ち上げて、遠慮がちに両方のてのひらを合わせた。
「亮司さんと、あとは亮司さんのお友だち三名と一緒に、飛行機でいったんです」
「まじですか」
「はい。もしかして内緒だったかも。ごめんなさいね。釧路までいったけど、なにもわからなかった。まあ当然ですよね」
美郷さんは合わせた手の指を絡めて、交差する指をぼんやり見下ろしている。キラくんは信じられないと言わんばかりの顔をしていた。
「でも、もし踏ん切りがつかないなら、一度いくといいかも。いくときっとわかります。彼は本気だったんだな、ってことが」
「本気?」
「はい。本気でつかれたんだろうな、って」
そのつかれた、の意味するところがうっすらとわかり、背筋に鳥肌が立った。私でもわかるということは、キラくんならとっくに理解できているはずだ。それでもキラくんは無表情だった。
「そのピアス、夏樹くんのですよね?」
キラくんは指先でピアスに触れ、神妙な顔つきでうなずく。
「やっぱり。見覚えがあるなと思って」
「兄のものを勝手に使ってます。形見みたいで不吉ですけど」
「ふふ、似合ってます。夏樹くんって真面目なのに、ピアスしたり煙草吸ったり、へんなところで不真面目でした。煙草のことは知ってましたか?」
「兄がひきこもるようになってから知りました」
美郷さんは懐かしそうに目を細める。けれども、その瞳にはもう迷いがなかった。まっすぐとキラくんを見つめて、決心したように言った。
「夏樹くんを助けてあげられなくてごめんなさい。いまも、後悔してるけど、でも私、今年で二十五歳なんです」
「はい」
「最近、同級生の結婚式に招待されるんです。第一子が産まれた友だちもいる。それだけ時間が経ったんだなと実感すると同時に、私はずっと足踏みしてて」
「……はい」
「さすがに忘れたいんです。想いつづけるのは苦しい。私も自分の人生を歩みたい。ごめんなさい」
美郷さんはアメリカンコーヒーを一杯だけ注文すると、すばやく飲んで帰っていった。
キラくんと私はドリンクバーと軽食程度のチキンを注文し、隣り合わせのソファに座っている。私は脱力して、背もたれに身を預けた。
美郷さんの気持ちもわかる気がした。約七年、生死不明の恋人だった人を想いつづけることはつらいだろう。まわりがどんどん次のステージに進んでいるのに、自分だけ取り残されている気持ちになるかもしれない。
私は横目でキラくんを見た。キラくんはため息を吐くと、ドリンクコーナーから持ってきたばかりのりんごジュースを飲んだ。
「亮司さんのやつ」
「……キラくんに気を遣っていたのでは」
「十中八九そうだろうけど」
疲れ切った顔で、「ああーもう」と呟いて、天井の明るすぎる光を瞳に映している。
「ごめんね、ナナ」
「いえ、私は。……あの」
「ん?」
上を向いたまま、視線だけ私のほうに向けられる。私はその瞳から逃げるように下を向いて「わかるかもしれないです」とつぶやいた。
「つかれた、ていうの、ちょっとだけ、わかるかも」
「……」
「私、手を叩けばぜんぶ終わる世界を想像したこともありました。叩いたら、はいおしまい。もうなにも苦しくない。なにも見なくていい」
パンパン、という軽快な手を叩く音が、頭の奥のほうから響いてくる。もうおしまい、都川奈々子の人生はこれでおしまい、もう大丈夫。
「つかれすぎて、ぜんぶを放棄したくなる気持ちなら、知ってるかもしれません」
それがキラくんのお兄さんの「つかれた」と同じかどうかはわからない。まるで同じということはないだろうけれど、重なっている部分はあるのかもしれない。
そしてもしそうだとしたら、それは途方もなく悲しいことだとも思う。
キラくんは長いこと沈黙していたけれど、やがて諦めたようにもう一度息をつき、私の手を取った。なにかを確かめるみたいに、私たちは手をつないでいた。
それからしばらく経ってもキラくんはどこか上の空で、毎日顔を合わせているわけではないけれど、会えば心ここにあらずという印象だった。なにかを悩み迷っていることは感じたけれど、それは彼が話したいと思うまで待つことにした。
というのも、私の目の前にはふたたび壁が立ちはだかっていたからだ。十二月の期末テストが近づいていた。中間試験の追試の課題は無事にクリアしたけれど、あれはキラくんの力添えがあったからだ。
いくら保健室で毎日自習しているとはいえ、高校二年間弱の勉強を取り戻せたわけではなく、はたして赤点を回避できるか私は不安に駆られていた。
「考えたって仕方ないわよ。やるしかないし、だめだったらその後の指示を待つだけよ」
結城先生はうなだれる私の背中を親しみを込めて軽く叩きながら、張りのある声で言う。
「仮に赤点でも、一発アウトってことにはならないんだから」
「そうですよね……」
「今回は特例として保健室受験が認められたし、あとはとにかく当たって砕けろ精神で」
「うう、耳の痛いことばです」
昼休みの時間に結城先生の湯呑みをお借りして、二人でお茶を飲みながら昼食をとっていたときのことだった。保健室のドアががらりとひらき、そこには思いつめた顔のキラくんがいた。
「あら、キラくん。都川さんに用事?」
結城先生は穏やかに問いかけると、さりげなくその場を離れた。キラくんの表情に、なにか深刻なものを読み取ったのかもしれなかった。
「ナナ」
私は彼の言わんとしていることを、心の片隅で予測していた。だから、聞く準備はできていた。
「俺さ、冬休みにいってみようと思ってる」
「釧路ですよね?」
「うん。考えていても埒があかないし。亮司さんに相談したら、もしいくなら一緒にって言われて」
「そうだったんですね。あの」
私は制服のスカートのプリーツをぎゅっと握りしめた。キラくんの瞳に力がこもった気がした。
「ご迷惑でなければ、ご一緒してもいいですか?」
「こちらこそ、迷惑じゃなければ、声をかけようかと思ってた。でも、ご両親は?」
「反対しないと思いますけど、ちゃんと許可はとります。旅費はこれまで貯めたお金でなんとかなるはずです」
「そっか。ごめん。だけど、ありがとう」
胸にじんわりと温もりが広がる。しかし私はすぐに唇を引き結ぶと「あの」とことばをつづけた。
「でも、問題があって」
「どんな?」
「期末試験をクリアしないと、冬休みに入れないかもしれないです」
キラくんは不敵な笑みを浮かべ、宙で揺れる私の手を取った。大きな手から私よりも温かい体温が伝わって、そうして溶け合っていく。
「それについては任せてよ、テスト範囲教えて」
これほど頼もしい味方はいない。私は笑顔になり、そのうち愉快な気持ちになり、笑い声が漏れる。そんな私を見ていたキラくんも、珍しく声を上げて笑う。
「念のためにお聞きしますけど、キラくんの期末試験は?」
「サボらずに受ける。テスト勉強についてはまったく問題ないので、ナナは気にしなくていい」
その日の放課後から、期末試験のテスト勉強が始まった。基本的に私の家で、たまにキラくんの家のリビングで、気分を変えて勉強に打ち込んだ。
キラくんの家も我が家に負けず劣らず蔵書が豊富で、私が問題集のわからない問いに頭を抱えているときには、ヒントになりそうな本を持ってきてくれた。本はこれまで何度も読み込まれたことがわかるほど、ページがほどけたり、アンダーラインが引かれていたり、端っこが破れたりしていて、キラくんの頭のよさは努力の質と量に裏打ちされたものではないかと思ったけれど、口には出さなかった。
「あ、また間違えました。これ、昨日もミスしたところだ」
「みせて。あー、これはミスというよりは解釈の仕方が誤ってる。これは……」
赤の入ったノートを一目見て、私がなぜ間違えたのかを瞬時に理解できる能力には舌を巻く。小石に躓いたり、穴に落っこちたりしている私をその都度引き上げて、でこぼこだらけの私の知識をなめらかになるよう均していく。
毎日放課後は一緒に勉強して、朝はひとりで昨日の予習をするようになった。
両親も私の変化を感じているようだけれど、なにも言わずに見守ってくれている。冬休みの件も、成人している大人と一緒ならということで旅の許可を得た。父も母も十二月は忘年会シーズンらしく、深夜に帰ってきては早朝に家を出る生活がつづいている。
「都川さん、頑張ってますね」
保健室に顔を出した担任の藤川先生が、嬉しそうに頬を綻ばせている。
「赤点を取らないように必死です」
「期待してますよ」
「いま、先生からのプレッシャーをひしひしと感じてます」
「えっ、すみません」
私たちのやり取りを見ていた結城先生が、けらけら笑っている。
その日の放課後、キラくんは委員会の仕事があるらしく、私は学校帰りに美容院へ立ち寄った。お尻まで届きそうなくらい伸びていた黒髪をばっさり切り、肩につくくらいの長さにした。切れ毛も枝毛も酷かったので、トリートメントもお願いした。
長くつづいた肌荒れも治った。鏡越しにこちらを見つめてくる私は、別人のようだ。
生まれ変わったとは思っていない。私は私で、それは変わらなくて、あくまでいまの私は過去からの地続きで、けれどもよいほうに変化していると思いたい。
美容院帰りにキラくんと待ち合わせした。委員会が予想以上に長引いたようで、息を切らせて待ち合わせ場所に到着した彼は、私のすがたをみてほほえんだ。
「似合ってる」
ありがとうございます、と返した気がする。だけど心臓が早鐘を打っていて、それどころではなかった。
私たちはどちらからともなく手をつないだ。
「俺もそろそろ美容院いこうかな」
「髪を染めるために?」
「あ、ナナも勘違いしてたんだ。これ、地毛」
「え?」
そう言って一枚の写真を見せてくれた。学生証のケースに入っていた写真で、幼いキラくんが背の高い男性と笑っている。
二人とも明るい茶髪で、顔はあまり似ていなかったけれど、瓜二つの輝く瞳だった。
「この人って、もしかして」
「そう、俺の兄」
不思議なことに、以前勝手に夢想したときのお兄さんのすがたにそっくりで、私は吸い込まれるように写真を見つめた。お兄さんがキラくんの肩を組み、穏やかな笑顔を浮かべている。優しそうな人だと思った。
「幸せそうですね」
「うん。でもいまも案外わるくないよ」
「えっ?」
手をつないだまま、見つめ合う。その真意を探ろうとするも、キラくんはひだまりが揺れる色素の薄い瞳を柔和に細めるだけだった。
「ナナさ」
「はい」
「期末試験が無事終わったら、いい加減、その敬語やめない?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
それって、どう捉えたらいいんですか。キラくんが三月三十一日産まれだから? でも、きっと、そうじゃない。期待に胸を膨らませたくなるけれど、期待して傷つきたくなくて無理に萎ませようとする。
「俺、勉強教えたじゃん。お金とかもちろん何もいらないかわりに、俺のお願いひとつ訊いて」
そんなことで、いいんですか。こんなに時間をかけてもらって、キラくんのお願いって、私が敬語をやめること、だけ? それは、そんなに重要なこと、だとしたら。そうだとしたら、キラくんは。私は。
「期末前に動揺させたくないから、いまはまだなにも言わない」
お互いがんばろう、と言われて、つないだ手にきゅっと力を込めた。
やれる気がする。中学生のころ、テニス部の総体でレシーブを決めて三位決定戦を勝ち取ったときの緊張感とやる気に似た熱情が、ふつふつとみなぎってくる。
できる。ここまで頑張ったんだ。仮に点数に反映されなくても、それがいまの実力なのだと真正面から受け止められるくらいには勉強した。
結城先生の「当たって砕けろ精神」を思い出し、私はシャープペンシルを握りしめる。
「それでは、九時になったら試験を始めますね」
私は保健室の掛け時計を見上げる。時間は進んでいる、着実に。けれども、立ち止まったことを後悔しない。私は時計を確認することを恐れない。それも含めて自分なのだと受け入れる。
そしていま、流れている時間の波に、私はようやく乗れる気がする。未来行きの電車には乗り遅れているけれど、いまから走り出してもきっと遅くない。
「はじめ!」
答案用紙をめくる。一問目に目を通し、頬がゆるむ。キラくんが教えてくれた範囲だ。
私はシャープペンシルを答案用紙に走らせた。
寒い。とにかく寒い。そとに出た瞬間、つめたい雪が頬を打った。私はマフラーを口許まで引き上げる。
「やっぱさみーな、雪国」
ニット帽を被った亮司さんが、灰色の空から絶え間なく降り落ちる雪を見上げてそう言った。黒いダウンで身を包んでいるけれど、その下に黄色のアロハシャツを着ていることを私は知っている。
そのとなりに立つ麦穂さんが「北海道はきたことあるけど、釧路は初めてだなあ」と声を弾ませた。一眼レフのカメラを首から下げていたけれど、降り注ぐ雪を見て、すぐにリュックサックに仕舞っている。
「亮司くん、さっさとレンタカー借りにいこうよ」
「だな。蛍人とナナちゃんは準備万端か?」
「問題ない」
「はい、大丈夫です!」
たんちょう釧路空港を背に、私たちは空港前のロータリーの奥にあるレンタカー屋を目指した。車は亮司さんが予約済み。運転のメインは亮司さん、サブは麦穂さんということになっている。
私はスーツケースで来たものの、道に積もった雪にタイヤがずぼっと埋まり、なかなか前に進まない。リュックひとつのキラくんが、私の手からスーツケースを取り上げると、持ち上げて歩きはじめた。
「ごめんなさ……じゃなかった、ごめん、キラくん」
まだ慣れていない私の砕けた話し方に、キラくんがひっそりと笑う。
「平気。軽いし」
そんなことはないだろうと思いつつ、ここは素直に甘えることにした。
「にしても亮司さんは雪道の運転、大丈夫?」
「おう蛍人、任せろ。年末年始になると毎年山形のばあちゃんちで運転してるからな」
「トータルでたった数回の話なんじゃないの」
「ひでーな。まあ超絶安全運転でいくから」
予約していたのはコンパクトカーだったけれど、レンタカー会社の事情でワゴンタイプの普通乗用車になった。料金は予約時のままでいいらしい。
レンタルの手続きが終わると、さっそくバックドアをあけて荷物を積む。亮司さんが運転席、麦穂さんが助手席、キラくんと私は後部座席に乗り込んだ。
「わあ! 車内、結構広いね。車幅もありそうだけど、亮司くんの運転は大丈夫?」
「だれも俺のドライビングテクニックを信用してないのかよ……」
「こういうのは過信しちゃだめなんだよ、亮司くん」
亮司さんはがっくりと肩を落としたまま、エンジンをかけるとナビを操作している。車内に生暖かい風が流れ、窓ガラスが曇りはじめたので、亮司さんが空調の設定をいじっている。
曇りは徐々に消えていき、うっすらと黒っぽい窓ガラスから、そとの景色が見えた。大粒の綿のような雪がしんしんと降っている。まだお昼頃だけれど、雲に覆われた空は仄暗い。空港の玄関口の近くには丹頂鶴のオブジェがある。
「飛行機に乗るまえに軽食を食べたからか、俺はぜんぜんお腹がすいてないけど、麦穂は?」
「うーん、私もあんまり」
キラくんと私も目を合わせ、首を横に振る。空きっ腹のままだと頭が痛くなるぞ、と言われ、搭乗前にせっせと食べたサンドイッチが胃の中に残っている。
「じゃー、観光するか。どうする、蛍人」
「なにが」
「夏樹が立ち寄ったと思われる細岡展望台、いくか?」
キラくんは一瞬だけことばを詰まらせたけれど、すぐに眉間に力を入れて淡々と返事をした。
「冬季は積雪で道が狭くなっている上に傾斜もあって危ないんだろ。やめたほうがいいんじゃね」
「俺、行ったことあるから。無理そうだとわかったら早めに引き返す」
「じゃあその判断は私がするよ? 未来ある若者の命がかかってるんだもの」
蛍人くんを案内してあげたい亮司くんの気持ちはわかってるつもりだけど、と麦穂さんが付け加えて、ふうと息を吐いた。キラくんは目を伏せていた。
亮司さんはほんとうに安全運転だった。極力スピードを落として運転するので、後方から地元民と思われる車やトラックにびゅんびゅん追い抜かされる。けれども亮司さんは気にもせず、真剣な表情でハンドルを握っている。
麦穂さんはリュックサックのなかからカメラを取り出すと、じっとレンズを覗き、たまにシャッターを下ろしていた。
「ただいまの気温、マイナス一度みたい」
道路標識と並ぶように立っている電光掲示板は外気温を示していて、それは赤く点滅していた。
「これでも気温が高めらしいぞ。一月とか二月になると、マイナス二桁になる日もあるらしい」
「二桁かあ。一回くらいは体感してみたい気もする。鼻毛凍るかな? ねえどう思う、亮司くん」
「やめろ麦穂、無邪気に言うな」
「ええー、どうして」
肩の上で切り揃えられた蜂蜜色の髪を揺らしながら、麦穂さんが屈託なく笑っている。亮司さんは赤信号で車を停めると、カラスの羽みたいに黒いダウンを脱いで、黄色いアロハシャツのすがたになった。
「これ、なにかのギャグだよね? ナナちゃんはどう思う? 冬の北海道に来て、わざわざアロハシャツなんて着てるのこの人くらいだと思わない」
ぶほっ、だか、ぶはっ、みたいな音を立てて吹き出してしまった。亮司さんは「うるせー、これが普段着なんだよ」と口を尖らせている。
キラくんは完全に呆れ返っていた。
「にしても亮司くんひどくない? 私にも黙ってたのよ。お友だちと釧路にいってたこと」
「……おまえまで巻き込みたくなかったんだよ」
「どうだか。まあいいけどね、今回こうしてこられたし。蛍人くんもナナちゃんもいるしね」
麦穂さんはくるりと振り返ってウインクした。そしてカメラを構えたかと思えば、キラくんと私にシャッターを切る。
「蛍人くん、そんな怖い顔しないで。旅が終わったら、とびきりすてきな写真を送ってあげるから」
「そりゃどうも」
「あっ、そういえば二人とも試験おつかれさまでした」
キラくんは肩をすくめている。
結城先生から聞いた話だけれど、キラくんは学年一位だったらしい。三年生の廊下に順位が張り出されていたそうだ。
一方の私はといえば、平均点に届く教科があったりなかったり、という出来映えだったけれど、落ちこぼれていた日々を思えば前進したと思う。ふと、藤川先生が手を叩いて喜んでいたのを思い出す。
「試験なんて懐かしいなあ」
「だな。もうしばらく勉学からは遠ざかってるし」
「あの」
思わず口を挟んでしまった。ルームミラー越しに、サングラスをつけていない亮司さんと目が合う。麦穂さんも耳を傾けてくれている。
「お二人にとって、学校ってどんな場所でしたか」
どんな場所かあ、と麦穂さんがフロントガラスから遠くの方角を眺めている。
「俺はまあ普通に楽しかったけどな。勉強はそんなに得意ではなかったけど」
亮司さんがそう言えば、麦穂さんがふたたび振り返って穏やかな笑みを浮かべ「ナナちゃんはどうして気になったの」と問う。
「えっと、それは」
口ごもりつつも、私は自分のことばを探し、バラバラのパーツを並べていくように返事をした。
「いま、なんで学校にいっているのか、自分自身がよくわかっていないから、です。いったほうがいいのかさえ、判断できていなくて。留年したくない一心で勉強してるんだと思います。いまの私は」
目標もないまま過ごしている。留年しなければ、高校卒業まであと一年ちょっとしかない。それまでに進路を決めなければならない。
進路についてはなにも考えられていない。期末試験の勉強がなんの役に立つのか、結局のところ私は腹落ちできていないのかもしれない。
「学校にいくべきか否か、っていう話については、俺と麦穂じゃ微妙に意見が分かれるな」
それまで無反応だったキラくんが、視界の端で眉を跳ね上げたのがみえた。どうやら意外だったらしい。
麦穂さんはそうだね、と目尻をゆるめた。
「俺はさ、学校には行ったほうがいい派。それはたぶん、夏樹のことがあるからだと思う。学校やめてひきこもって、挙句消えちまったんだ。せめて学校いっておけば未来が変わったんじゃないか、って思っちゃうんだよ。でも麦穂はちがうだろ?」
麦穂さんはしっかりとうなずくと、「あのねナナちゃん」と囁くように言った。
「私ね、高校でいじめられてたの」
驚いたのは私だけではなくキラくんもで、二人で目を合わせてぎゅっと唇を結んだ。
「小学校までは地元の友だちと一緒だし、中学だって亮司くんと夏樹くんの通ってた小学校と私の通った小学校の子しかいなかったから、比較的平和だったの。だから、高校で友だちを作れなくて挫折した」
「……」
「友だちなんて簡単にできるものだと思ってた。はじめは四人グループで、でもそのうち外されちゃって。物捨てられたり、制服切られたり、古典的ないじめを受けたけど、私は高校を休まなかったの」
麦穂さんは、学校を休んだら負けだと信じていたらしい。それは時代的な背景もあるかもしれないけれど、親は子どもが体調不良以外で欠席することを認めなかったし、麦穂さんもそれが正しいと思っていたそうだ。
「なにされても、背筋を伸ばして学校に通って、無事大学受験も終わって、高校卒業したら糸が切れちゃって」
「糸が切れた?」
「私、大学中退。カメラは天職だと思ってるけど、それでも大学を卒業しなかったことは心底後悔してる。糸が切れたとき、夏樹くんもこんな気持ちだったのかもって思った」
そんなの今更だよね、と麦穂さんは自嘲した。
「だからね、休んでもよかったと思うの。それで、可能であれば転校して、環境を変えてもよかった。やめてもいい。必ずしも固執する必要はなかった。心身を病むくらいなら、高卒認定を取って大学受験をしたほうがよかったかも、って。甘いかもしれないけど」
麦穂さんは前を向くと、膝の上に置いてあるカメラをそっと撫でている。慈しむような仕草でもあり、悲しげな愛情表現にもみえた。
「学校って、たぶん、選択肢を増やす場所なんだと思う。なりたい職業を目指して専門学校に行くのもそうだし、就職要件が四大卒の企業もあるでしょ?」
それはまるで自分に言い聞かせているかのようで、胸を打たれた私はなにも言うことができなかった。キラくんも黙って話を聞いている。
「行けば選択肢が増える。でも、ひどい環境なら自分が潰れちゃうから、その前に場所を変える、やめる、とか。あくまで私はね」
降雪のなか、細岡展望台にいく人は誰もいないらしい。道は空いていたけれど、そのぶん除雪が追いついていない路面にひやひやしながら、私たちは展望台に到着した。
「ここからは釧路湿原が綺麗に見えるんだよ。まあ雪降ってるから視界が悪くて駄目かもしれないけど」
駐車場から少し歩いたところにひらけた場所があり、細岡展望台と書かれた木製の看板が立っていた。私は雪に足を取られながらも前に進み、木製の柵に両手を置いた。
「うわあ」
思わず声が漏れた。降りつづける雪で水平線がぼんやりにじんでいるけれど、信じられないくらい広大な景色が広がっていて、冬の寒さも忘れて私は立ち尽くしていた。
私たち以外、人の気配はない。動物たちも息を潜めている。冬眠しているのかもしれない。植物は枯れ、種を土に潜り込ませて、じっと春を待っている。白い湿原も、凍りついた川も、ただ黙っている。
世界からすべての音が消えたと思ったら、雪の降る淡い音だけが耳のうしろをくすぐった。
「夏樹くん、どんな気持ちで眺めてたんだろうな」
麦穂さんが囁いた声は、あっという間に雪の音に紛れて聴こえなくなる。
一体、どんな気持ちで。たったひとりで、どんなことを思ったのだろう。ことばに詰まる。
麦穂さんも、キラくんも、私も、無言で遥か向こうに広がる雄大な景色を見下ろしていたけれど、突如亮司さんが「そろそろ戻らないと雪がやばい」と言い出し、慌てて車に戻った。
「からだが冷えてかなわん」
亮司さんはそう言うと暖房の温度を上げ、路面の状態が悪化する前に車を発進させた。
天候も崩れているので無理に観光はせず、一旦ホテルにチェックインしようという話になった。亮司さんは、あえてキラくんのお兄さんが宿泊したホテルを予約したらしい。
道中、トイレ休憩のためにコンビニに寄った。東京では見かけない、白地にオレンジ色のマークのコンビニで、お手洗いは男女共用のものがひとつしかなかったため、交代で使用することになった。
麦穂さんがお手洗いにいっている間、突然亮司さんが「ホテル、四人部屋がなかったんだよ」と言い出し、キラくんと私は目を見開いた。
「だから、二人部屋を二つ予約したから。まー、普通に考えて、男部屋と女部屋って感じになるんじゃねえかと」
「あれ、亮司さんと麦穂さんって、お付き合いされてるんじゃないんですか?」
どうやら私はとんでもない勘違いをしていたらしい。
えっ、とか、あっ、とか言いながら動揺している亮司さんを、キラくんが後部座席から冷めた目で見ている。
「ナナ、二人はまだ付き合ってないよ」
「……まだ?」
「おいやめろ蛍人おまえ余計なこと言うな」
「この人、ずーっと片思いしてんの。でもさ、そろそろ告白すればよくない」
途端に亮司さんが萎れてしまった。風船の空気がしゅうしゅうと抜けるみたいに小さくなり、ハンドルに突っ伏している。
「自信ねえんだもん」
「ぜったいいけるってまわりからも散々言われてんじゃん」
「そうだけど。麦穂とは中学から友だちで、ここでフラれたらどうするよ。友だちでもなくなったら、一緒にいられなくなるじゃねえか」
「ナナ、この人は一途に想い続けて拗らせてんの」
私はしょんぼりしている亮司さんに声をかけ、一生懸命励ました。
大丈夫ですよ、お二人って両思いっぽいですもん! いや、長年の付き合いでもないのに勝手なことは言えない。うーん、それなら。麦穂さん、よく亮司さんのこと見てますよ! ただ見てるだけかもしれない? でも。
「放っておきなよ、ナナ。亮司さんって中身はチャラついてないから、こうなんだよ」
「なんだかごめんなさい、亮司さん」
「いいんだ、ナナちゃん、不甲斐なくて俺は……」
そうこうしているうちに麦穂さんが戻ってきて、車はふたたび発車した。
キラくんは、亮司さんと麦穂さんがいるまえでは、私の手を取らない。みられるのが恥ずかしいからなのかもしれないけれど、私は少しだけ寂しさを覚えた。
「おー、もうすぐ釧路駅だな。そうしたら、ホテルはすぐだわ」
市街地の大きい通りだときれいに除雪されていることが多く、路面は凍結気味だったけれど、だいぶ運転がしやすいらしい。亮司さんの肩の強張りがゆるゆると解けていくのがみえた。
駅から川のほうへ向かって一本大通りが走っていて、宿泊するホテルはその通り沿いに建っていた。川沿いの専用駐車場にレンタカーを駐車させ、それぞれ荷物を持って車を降りる。
ざく、ざく、と足音が重なり合い、泥の混じった濁った雪道は大小様々な足跡まみれになった。
「亮司さん」
「なんだ、蛍人」
チェックインの手続きをしている亮司さんに、キラくんがだるそうに近寄っていく。私と麦穂さんは離れたところにあるソファで、荷物番をしていた。
「ナナちゃん、寒そうに見えるけど大丈夫?」
「大丈夫です。ちょっと油断してて、薄い肌着を着てきてしまったので、部屋で厚手のものに交換しようと思います」
「うん、うん、それがいいね。にしても朝も早かったし、眠くならない? 私は欠伸が止まらないよ」
ぐっと天井にこぶしを突き上げて、麦穂さんが伸びをしている。そして欠伸を噛み殺すと、とろんとした目を両手で押さえている。相当眠いらしい。
「楽しみで、あんまり寝られなかったの」
子どもみたいな理由がかわいらしくて、くすくすと肩を揺らして笑っていたら、ややふてくされた顔の亮司さんと澄ました顔のキラくんが戻ってきた。
「麦穂」
「はあい。なあに?」
「おまえは俺と相部屋」
「あら、そうなの」
「で、蛍人とナナちゃんで一部屋。ナナちゃん、嫌だったら遠慮なく言ってほしいんだけど」
私は嫌ですとも嫌じゃないですとも言えず、「えっとなんでも大丈夫です」とか「せっかくの機会なので勉強を教わろうと思います」とか、頓珍漢な返事をしてしまった。完全に墓穴を掘った気がする。
一体なんのマネだろうと思い、キラくんの横顔を斜め下から盗み見したら、視線に気がついたキラくんがちらりと私を見下ろして、ほんの少しだけ舌を出してみせた。
キラくん、亮司さんにけしかけたな……。
「ナナちゃん、こいつにへんなことされたら、我慢せずに言えよ。頼むから」
「え? あ、はい、わかりました」
「くそ、こんなん、ナナちゃんの親御さんに申し訳が立たねえ……」
肩を落とした亮司さんと眠そうな麦穂さんが、七〇三号室に消えていく。
キラくんは七〇四号室のドアのところで立ち止まると、カードタイプのルームキーをかざした。鍵が外れる音が聞こえたら、キラくんがドアをあける。
「ナナ、どうぞ」
「え、あ、はい。じゃなくて、うん、ありがとう」
なんでこんな状況になったんだろう。私はさっきから頭が真っ白だけど、キラくんはどこ吹く風だ。
「キラくんって緊張とかしないんですか」
「敬語」
「緊張しないの」
「するよ?」
ぜったい嘘だ。なにこれ、なんなんだこの差は。
私は熱を持った頬をつねってみたけれど、余計に熱くなっただけだった。半ば涙目でスーツケースを部屋のなかに運び、窓際の椅子に座る。
キラくんは余裕な面持ちのまま、私の向かいの椅子に腰を下ろすと、膝の上に置いたリュックの中身を整理している。こうして見ると、あらためて身軽な荷物だ。
「今日は夕食まで自由時間だって。夕飯はホテルのレストランで、予約時間は十九時らしい。だから、それまでフリー」
「ソウデスカ」
「ナナ、怒ってる?」
「キラくん、おちょくってるでしょ」
睨んだら、思い切り笑われた。この人、いつの間にこんなふうに、手放しで笑うようになったんだろう。鎧をすべて脱ぎ捨てて、なんでも受け止めるからって両手を開いて、見透かした瞳で笑うのだ。
「ナナ眠い? もし眠いなら、休んでから町のほうに行くのもありだと思ってる」
「私? 私はそれほどでは。麦穂さんはとても眠そうだったよね」
「隈」
キラくんの細長い指が、自身の目の下をとんとんと叩く。
「……隈、ひどい?」
「ひどいってほどではないけど。ナナってたぶん不眠症だろ?」
ふみんしょう。口の中でつぶやいてみる。その響きはしっくりこないけれど、長いこと睡眠薬を手放せていないのは確かだ。
「これでもだいぶ寝れるようになったよ」
「うん、そうだろうと思う」
キラくんは私のことをよく見ている。観察されていると感じたことはないけれど、私の些細な変化に敏感なことくらいはさすがの私でも気づく。
「少し休も。寝れなくてもいいけど、横になるだけでも結構楽になったりするし」
「だけど、寝るために釧路にきたわけじゃないよ。せっかくだから、そとに」
そとへ行って、キラくんのお兄さんの軌跡をたどりたい。時間は限られているのだ。
そう訴えようとして、片手ひとつで遮られる。キラくんの長い腕がこちらのほうへ伸びて、私の髪に触れた。そのまま髪を耳にかけて、ほほえむ。
「時間ならあるから平気」
「でも」
「明日の朝、兄が最後に目撃された港へいこうと思ってる。亮司さんもそのつもりで、今晩は酒を控えて明日の運転に備えるって言ってくれてる」
「……」
「だから、いいんだよ」
なにがいいのかわからなかったけれど、なぜかキラくんの輪郭がぼやけて二重にみえる。ナナが泣くことじゃないのに、と声が耳の奥で反響している。
私の情緒は安定していない。
「あのさ、へんなことはするつもりないから。なにを勘違いしてるか知らないけど、俺だってずっと緊張してる。ほら」
その手が私の震える手をつかみ、キラくんの胸元へと持っていく。チャコールの質の良いニット越しに速い鼓動が伝わってきて、私は目を丸くする。
「ほんとだ」
「たぶん俺がナナをいっぱいいっぱいにさせてるんだよね? 兄のことまで背負わせたくないし、ナナはナナのままでいてほしい。ふつうに観光して、おいしいもの食べて……旅行気分で」
その手が私の手を引き、ふたりで立ち上がる。キラくんは私をシングルベッドの端に座らせた。自分はもうひとつのシングルベッドに腰かけて、両手をひらりと上げる。
「なにもしない」
「安全アピール? なにそれ私、そんなこと意識してない」
「さっきから怒ってる?」
「怒ってない。怒ってないけど、大事な旅行でへんに意識してる自分がいやになる」
私だって亮司さんと同じだ。
スリッパを脱ぎ捨てて、そのままベッドに仰向けに横になった。白い天井が視界に広がり、背中がシミひとつないシーツに沈み込む。
「ナナ」
私は頑なに唇を噛みしめる。
キラくんはやわらかい声色で、大切なものを扱うみたいに囁いた。
「すきだよ」
知ってた。少し前から、お互いの矢印が相手に向いていて、自分たちが想いあっていることに気がついていた。知っていたのだ。
嘘。実はほんのちょっぴり疑ってた。気持ちが舞い上がっているのは自分だけなのではないか。踊らされているだけなのではないか。キラくんが大切で、いとおしくて、失いたくなくて、だから拒否されて傷つきたくないから、愚かな感情に蓋をした。臆病な自分にうんざりした。
「すきな子にそっぽ向かれてるの、堪えるんだけど」
寝転がった姿勢でおそるおそる横を向いたら、キラくんは隣のシングルベッドに腰かけたまま、私を穏やかな瞳で見ていた。
こんなときまで余裕があるなんてずるいなと思う。でも、それがキラくんなのだとも思う。
「……いつから?」
「わりと初期から」
「えっ、初期?」
「ナナは?」
そう問いかけられて、胸が詰まる。
焦がれるような気持ちに包まれて、心臓なんて破裂寸前で、けれどそんな私を少し高いところから「冷静になれ」と嗜めている自分もいて、わけがわからない。
「気がついたら、そうなってました」
これが私の精一杯だ。
「すきです。同じ部屋なんて、むり」
「それはもう聞いてあげられないお願いだな。ごめんね?」
それのなにが「ごめんね?」だ。
キラくんは息を吐きながら、同じようにシングルベッドに横たわった。ベッドとベッドの間隔は狭く、人がひとりかろうじて通れるくらいのすきましかない。
その空間に、キラくんの手が伸びた。通路側で寝転がっていた私の手に、となりのベッドにいるキラくんの大きな手が重なる。
「……前から思ってたけど、キラくんって手足長いよね」
そして、意味のないことば。
あたりまえのように手をつないできたのに、どうやら今日は緊張してだめらしい。引っ込めようとしたけれど、その手に力がこもった。
「こうしていれば、寝られるかもよ」
「緊張してむりだと思う」
「意外といける、たぶん。目を閉じてみて」
瞼をおろせば、そこにあるのはいつもの暗闇だ。
「ナナは人肌があったほうが、眠れるタイプだと思うけどな」
なにを根拠に? でも、いまはキラくんの鋭い勘に従って、導かれるまま眠ってしまいたい気もする。
釧路旅行のことをあれこれ考えたせいで、ここ数日の私の眠りはかなり浅かった。そんなことさえキラくんに見抜かれ、気を遣われてしまっていたことに呆れる。
おそらくキラくんはそんなこと、気にするな、ってあっけらかんと言うのだろうけれど。
「ナナ」
キラくんの声がエコーがかかったように響く。
大体、手をつないだくらいで眠れるわけがない。私の不眠は折り紙つきだ。
寝るまえにあったことが、起きたときにも存在しているとは限らない。そのことについて考えはじめると、私は不安でたまらなくなる。
「きっと眠れるから、眠りに落ちるまえに、耳だけ傾けていてよ」
キラくんの声が、どことなく遠い。
「俺は最初、自分が兄に言いたかったことばをナナに言ってたんだと思う。でも、すぐに理解した。兄は兄で、ナナはナナ。ふたりはべつの人間で、それで……」
眠るまえにあったことが、目が覚めたときには失われているかもしれない。だから、私にとって睡眠は大事なことで、その睡眠を預けることができる人なんて……。
「……兄もナナも自分からそとの世界に足を踏み出したけど、兄は死に向かっていったのに対して、ナナは未来を諦めないために家を出た。だから、俺は……」
なにか、大切なことを言われている気がする。聞き逃してはいけないことを聞いている気がする。
だけど、全身は石になったみたいに動かなくて、瞼もやけに重くて。私の意識はどんどん落ちていく。
「大丈夫。夢もみないくらい、深い眠りにつけるよ」
たからもののように私の髪に触れる、キラくんのうつくしい指先の感触だけが残った。
幼いころ、怖い夢にうなされて飛び起きたときは、母の寝室に枕を持っていった。母は寝ぼけ眼を擦ってセミダブルベッドのスペースを確保して、べそをかいている私を枕ごと招き入れた。
時計の針はとっくに深夜零時をまわっていた。母も仕事で疲れていただろうに。不安がる私を邪険に追い払ったり邪魔者扱いすることは決してなく、かといって愛情たっぷりな抱擁を受けた記憶もないけれど、ただ私を待ってくれていた。
父も、母も、表情が乏しい人だと思う。感情のセンサーが故障していて、あるいは途中の回路が断線していて、喜怒哀楽がうまく反応しないような大人だとずっと思ってきた。
大人になったら自分もそうなるのだろうか。想像してみたけれど、落ち着いた大人の自分を想像できず、子どもの私は首を傾げた。
ただ、そんなことをしているうちに、隣で寝息を立てる母から体温が伝わってきて、なんだか無性に安心して眠れることができたのだった。
そんな記憶をどうして忘れていたのかはわからないけれど、目が覚めた私ははっきりと思い出していた。慌ててカーテンのほうに視線をやれば、そこは真っ暗で、血の気が引いていく。
「起きた?」
キラくんは窓辺の椅子に座って、文庫本を読んでいた。
「待ってくださいいま何時」
「十八時。夕飯まであと一時間というところ」
「どうしよう寝過ぎた、ごめんなさい」
キラくんは目尻をゆるめると、首をそっと横に振る。
でも、キラくんが気にしなくていいと言ったって、私が気にしてしまう。
「もともと初日はゆっくりする予定だったし」
「それは」
「ナナが寝られたなら、いいんだよ」
そこで私はひとつの予感にぶち当たり、そろそろと上体を起こすとキラくんを見据えた。
「もしかして、このため? 相部屋にしたの」
キラくんはなにも答えずにほほえんでいる。麦穂さんと同室だと、私が寝られないかもしれない、とキラくんは思ったの?
泣きそうになり顔を歪める。キラくんは立ち上がって私のところまで来ると、頭を軽くぽんぽんと撫でて、洗面所のほうへ消えてしまう。ぱたんと扉が閉じた途端、私は自分の顔を両手で覆った。
夢も見なかった。雫がどこまでも落ちていって、深いところでぴちゃんと水たまりに合流したとき、私の意識はなくなった。ぐっすり寝る、を通り過ぎて、死んだように寝ていた。こんなふうに眠ったのは久しぶりなので、慢性的な頭痛は波を引き、頭はすっきりと澄み渡っている。
「ナナ、水飲む?」
洗面所から出たキラくんが、ホテルのサービスのペットボトルを片手に持っている。うなずいたら、私が飲みやすいように蓋をゆるめて渡してくれた。
そういうところだ、とむくれる。
「ありがとう」
喉を潤すミネラルウォーターはつめたい。蓋をしめたら、流れるような動作でキラくんがペットボトルを受け取る。腰のあたりの高さまでしかない冷蔵庫の扉をあけ、横に倒して収納した。
ふたたびありがとう、を言う。キラくんは口の端を少しだけ持ち上げた。
「キラくん」
「ん?」
「私が眠るまえ、話しかけてくれてなかった?」
どんなことを言おうとしてくれてたの、と問いかけようとして、キラくんのとぼけた表情に口をつぐむ。
「そうだっけ? 忘れた」
これはずっとはぐらかす気だ。
まあいいや、とため息を吐く。スリッパをつっかけて、洗面所へと向かう。
鏡越しに寝癖のついた自分がこちらをみている。ほっぺにシーツの跡までついていた。頭を抱えたくなる。とりあえず顔を洗い、ドライヤーで髪を乾かした。ポケットに入れっぱなしだった色つきリップは、寝ているうちに体温で溶けたのか角がふやけていた。
キラくんは窓辺で文庫本のつづきを読んでいる。
「なにを読んでるんですか」
気を抜くと敬語になってしまう。キラくんは視線を上げ、表紙を見せてくれた。
あ、と乾いた声がもれる。
「知ってる?」
「うん」
知ってるもなにもすきな本だ。ただ、ひきこもっているときは、読めなかった小説。不登校の描写があり、それが自分のすがたと重なって苦しくなったのだった。
「キラくんってそういう小説も読むんだ」
「意外?」
「うん」
「幅広くなんでも読むほうだと思うけど」
一体、どんな気持ちで。
胸が締めつけられ、私はそれを誤魔化すように首を左右に振ると、キラくんの正面の椅子に座った。キラくんは文庫本にしおりを挟むと、膝の上に置いた。
カーテンからみえる景色は黒々としている。背の低い建物が並んでいて、海に近いせいか潮で錆びついている。建物の上を風が縦横無尽に行き来していて、びゅうびゅうと風の音が鳴る。
川沿いの橙色の街灯がぼんやり灯っていて、闇に包まれた海へと川がゆったり流れている。川向かいからは坂になっていて、小高い丘のようなところにあかりを灯した一軒家が立ち並んでいた。
ふと、「なんでこの場所を選んだんだろう」とひとりごちていた。あ、と口を手で覆うも、キラくんは咎めることもなく静かな目を細めるだけだ。
「兄はこのホテルの六階に宿泊したらしい」
「そう、だったんだ」
「ここから景色見て、なにを考えてたんだろうな」
キラくんも同じことを想像していたのだと悟る。
ことばを交わさないまま、時計の針だけが刻々と進み、気がつけば約束の十九時まであと十分という頃に、部屋のドアをノックする音が響いた。
キラくんと私は目配せをし、窓際の椅子から立ち上がる。キラくんは丸テーブルに広げていた館内案内やらルームサービスのチラシやらのすきまから、名刺サイズの夕食券を二枚抜き取った。
「おー、おつかれ。おまえら、観光した?」
ドアを開けたところには黄色いアロハシャツに綿のパーカーを羽織った不審人物にも見えかねない亮司さんと、メイクをさりげなく施した麦穂さんが立っていた。
「してない」
「あー、そうなの?」
「休憩した。亮司さんと麦穂さんは」
カーペットを靴で歩き、エレベーターホールに向かう。四つの影が照明に照らされて、黄ばんだ壁の上でゆらゆら揺れている。
「麦穂は一時間半くらい昼寝した」
「寝たらすっきり! そのあと亮司くんと一緒にそとにいったんだよね。でもこのへんって、あんまりめぼしい場所はないのね」
「でも麦穂はあちこち立ち止まって、シャッター切りまくってたじゃん」
「そりゃもう、写真家の目線では宝の山だもの」
川沿いを散歩したり、さびれた繁華街でスープカレーを食べたり、くすんだ黄色い壁の商業施設でお土産を物色したり、二人きりで観光を満喫したようだった。
「駅前っていったら、栄えてるってふつう思っちゃうじゃない」
「そりゃ東京とか、地方都市の感覚だ」
「そうみたいなの。でもねえ、そこがよかった。人がはけている感じがね、いいのよ。以前北海道を旅行したときは、春の函館も夏の富良野も秋の層雲峡も冬のニセコも、どこへ行っても観光客でごった返しだったなあ」
ホテルのレストランで食事券を四枚提出し、案内された席に腰を下ろした。各々食べたいものを注文する。亮司さんはほんとうにお酒を飲まないつもりらしく、クランベリージュースを頼んでいた。
「麦穂は飲めば。ザルだし」
「ザルとか関係ないし。ドライバーになる可能性が一ミリでも残ってる以上、やめておくよ。明日は出発が早いんでしょう?」
麦穂さんはジンジャーエールを勢いよく飲んでいる。かわいらしい見た目に反して、実は豪快な人だと思う。
キラくんはマンゴージュース、私はりんごジュースをちびちび飲んでいた。
「なー、蛍人。おまえ、いつまであの写真をアイコンにしてんの?」
「ああ、すっかり忘れてた」
感情の読めない瞳でキラくんが淡々と答える。亮司さんは苦笑いすると、私のほうを向いてひかえめに笑いかけてきた。
「ナナちゃん。こいつのメッセージアプリのアイコン、わかる?」
「海ですよね?」
はじめてキラくんの連絡先を登録したときの記憶がよみがえる。私のスマートフォンを気怠そうに操作して自分の連絡先を登録したキラくんと、いまこうして旅に出ているなんて不思議な縁だ。
「そうそう、海。あれって夏樹がいなくなった港の写真なんだよ。たしかおまえの親が夏樹を探しにいったとき、撮ったやつじゃなかったっけ」
「そう」
「ええー、そうなの? 私も知らなかったよ、蛍人くん」
麦穂さんがあからさまに仰天している。キラくんは不意に片頬を持ち上げて笑った。
「夏樹がいなくなった場所なんて、俺は直視できねーよ」
「兄が死んでるかもしれないから?」
核心をつくことばに亮司さんが息を飲み、泣き笑いのような顔になる。
物心つくまえから近くにいた幼なじみの失踪に、亮司さんが傷ついていないわけがないのだ。その切ない顔つきから逃れるように、私はストローに口をつけた。
「俺は兄が死んだんだろうって、思ってる。納得できるかできないかはべつにして。薄情だって思う?」
「思うわけねえだろ。でも、死とか軽々しく口に出すなよ。しんどいだろ」
「そうかなあ?」
そう言ったのは麦穂さんで、麦穂さんは二人の昏い眼差しを真正面から受け止めつつ、こてんと首を傾げた。
「私は死ぬことって、思いつめるほどしんどいことでもない気がするんだけどな」
おかわりしたジンジャーエールをひとくち飲んだ麦穂さんが、華奢なてのひらをテーブルの上に置いた。
小指にはきらめく細身の指輪がついている。おそらくプラチナで、中央にはお花をモチーフにした黄金色の宝石が輝いていた。
「私ね、人生って線みたいなものだなと思ってたの。ある日生まれて、それが点になって、そこからずーっと線がつづく。そして突然ぶつっと切れる」
「おい、ぶつってなんだ。もう少しましな表現あるだろ」
「だって『ぶつっ』じゃない? その人がいつ死ぬかなんて、本人含めだれも知らないもん」
だけどね、と麦穂さんが伏せた睫毛はとても長くて、その繊細な動きを私はじっとみていた。
生きること。死ぬこと。いきものである以上、例外なくだれもに到来する、やむを得ないもの。経験するまでどんなものかわからないのに、経験したときにはすでに終わっていて二度と起こらない、そういう訪れ。
「最近は、線じゃなくて円なのかなと思う。点で生まれて、あっちこっち寄り道しながら線を描いて、最後は生まれた点のところに戻って死ぬの。線だと思ってたものが、円になって終わるのよ」
「そりゃあ、いろんな円がありそうだ」
「そうなの。3.14159……を地で行く人もいるかもしれない。私なんてぐっちゃぐちゃの毛糸の塊みたいな、いまはまだ、丸にもならなさそうなかんじ。でもね、いろんな色があって、なにひとつとして、同じものなんてないのよ」
麦穂さんが顔を上げて、情けない顔をしている亮司さんに向かって、安心させるようにほほえんだ。
「だから、世界には亡くなった人のたくさんの円というか、丸みたいな、かたちがあるの。カラフルで、個性がひかっていて、全部きれい。青空に浮かんでるのかもね。それってなんだかすてきじゃない?」
「……これだから芸術家は」
「そう思ったら、私は自分の名前の由来も、まるごと愛せる気がしたのよ」
私は空に浮かぶたくさんのかたちを想像してみる。まる、さんかく、しかく。ハートだったり、星だったり、かたちを成していないものだったり。赤で青で黄で緑で、色鮮やかな空。
それはわるくないかもしれない。運ばれてきた和風ハンバーグをナイフとフォークで切り分けながら、自分にしかわからないくらいの笑みを浮かべた。
「じゃあ夏樹はどんな色だと思う?」
「うーん、透明?」
亮司さんが吹き出し、げらげらとお腹を抱えて笑った。ナプキンで口元を拭きながら、笑いによるものなのかそれともべつか、涙を目尻に浮かべている。
「で、亮司くんがすき勝手に色を染めていくの」
「俺そんなひどい?」
「ひどくはないんじゃない? 夏樹くんも仕方ないなあって呆れつつ、うれしそうに受け入れそう」
「あー、あいつならありえる」
亮司さんがヒレステーキ、麦穂さんが茄子とトマトの入ったペスカトーレ、キラくんがチキンソテーを食べている、釧路の夜。
「すっごく遠回りしてるなってときは、たぶん東京タワーの上に途方もなく大きい虹でもかけてるのよ」
「七色で?」
「わかんないよー? 国によっては虹を二色、三色、四色、もっと多いと八色で認識してるらしいから」
お酒も飲んでいないのに狂ったように笑って、何度も乾杯して、すきなだけごはんを食べながら、ふと我に返ると私の頬も笑いすぎて筋肉痛みたいになっている。
キラくんはそんな私たちをしょうがないな、と言わんばかりの目で、でも温かく見守っていた。
食事を終えた私たちは、レストランのまえで解散した。亮司さんと麦穂さんは、これから夜の散歩にいくらしい。私とキラくんは自分たちの部屋に戻った。
それぞれ歯磨きを済ませて、持参した部屋着に着替えて、窓辺の席でくつろいでいる。シャワーを浴びたいけれど、食べ過ぎてお腹が苦しくて、いまはひとまず動かないでじっとしていたい。そんな気分だった。
「ほんとにお喋りだよな、麦穂さん」
「ふふ、そうだね。でも私はとても楽しかったよ」
「そりゃよかった」
キラくんが長い足を組み、窓の外をぼうっと眺めている。
街灯が少なくて、暗闇のなかで一本一本が目立って浮き上がっている。ほんの少し窓を開けたら、鼻をつく海風のにおいが流れ込んできた。さすがに寒くてすかさず窓を閉めたら、キラくんがやんわりと目尻を下げた。
雪はやんでいた。
「太平洋側の道東って、道内だと雪が少ない地域らしい」
「これでも?」
「十二月にしては降ってるほうみたい」
「そうなんだ」
キラくんが前屈みになり、私の頬に触れた。それはなにかを確かめるみたいに動き、唇に触れ、そのまま離れた手が今度は私の手をつかんだ。
「私のクマ、まだひどい?」
「そんなことない。顔色もよくなった」
「じゃあキラくんのおかげだ」
ふふ、と肩を揺らして笑う。そして空いているほうの手を伸ばして、自分からキラくんの手に触れた。
傷ひとつない、つややかな手だ。血管がそっと浮き上がっていて、照明に照らされて艶かしくもみえる。へんな雰囲気になりそうで目を逸らした。旅の目的を忘れたくなかった。
「ナナに初めて会ったとき」
ぽつり、ぽつりと、雪みたいなことばが降ってくる。
「助けてって言われてる気がした」
「そうだったんだ」
「兄のすがたと重なって、目が離せなかった」
「うん」
「だけど、結局のところ、救われてたのは俺のほうなんだといまは思ってる」
手を引かれて、シングルベッドになだれ込んだ。とくになにもしない。ただ互いの背中に腕を回して、沈黙に身を任せていた。
細く見えた背中は大きく広くて、肩幅も私なんかよりはしっかりとあって、今更そんなことに気がつく自分に飽き飽きして、そうして目を閉じた。
「救われたのは、私のほう。キラくんが、私を家からそとの世界へ連れ出した」
「それは違うよ、ナナ」
頭上に掠れた声が落ちてくる。くすぐったくて身をよじれば、ほっとするような声色で笑われた。
「たまたま会っただけだよ、俺たちは。あの保健室で。ナナが自分でそとに出たんだよ」
「あ」
「追試を受けようと、自分から家を出た。俺はなにもしてない。ナナが諦めなかったから、つながった。ぜんぶナナの力だよ」
そんなに自分を過小評価しなくていい、とキラくんは囁いた。
そうか、私は自分の意思で家を出たのだ。留年になるのがこわいとか、退学がおそろしいとか、将来に怯える気持ちがきっかけではあったものの、自分で一歩足を踏み出した。
私は、自分でできたのだ。
そう思ったとき、目頭が熱くなった。キラくんの胸元に顔をぐいと押しつければ、キラくんが頭をぽんぽんと撫でてくれた。
私にはなんにもないと人生に絶望していたけれど、そとに出ることができたじゃないか。なにもできないことに息苦しさを感じていたけれど、私にもできることがあった。
やらなければならないことに着手できず、布団にうずくまっていた夜。目も手で覆って、耳も塞いで、口も固く結んで、みないように聞かないように言わないようにとじこもった日々。お風呂場で号泣した、あのとき。不安でたまらなくて、足元から崩れ落ちそうになっていた、高校二年生の私。
私を家から出したのはキラくんではなく、私自身だったのだ。
「ひとりで生きていくのは……ひとりで閉じこもるのは、こわい」
「そうだろうな」
「そうならない私でありたい」
「うん。少しずつでいいんだよ」
「できるかな」
「きっと。もし塞ぎ込みそうになったら、そのときは助けを求めればいい。助けを求めることは、みっともないことじゃない」
相槌を打ち、キラくんにしがみつく腕に力を込めた。からだがくっついて、溶け合ってしまいそうだと思った。
あれほど昼寝をしたのに、またうとうと瞼が重くなる。うっすらと開いたキラくんのひだまりのような瞳も、心なしか眠そうに見える。
「朝シャンでいいか……」
キラくんがつぶやき、苦笑いを浮かべる。私もうなずき、ゆったりとまどろんだ。
眠りに落ちるのは一瞬だった。
夢もみないような、静かな眠りにつくといい。夢をみるなら、キラくんと手をつなぐような、幸せな夢であるといい。
翌朝はよく晴れていた。
陽光が積雪した路面に反射し、白銀色に光っていて眩しい。昨晩のうちに除雪されたものの、残った雪が夜風で冷やされてカチカチに凍りついていた。滑らないよう慎重に足を運んでいたら、キラくんの手が私の手を取った。
あれ、と立ち止まる。亮司さんや麦穂さんの目が気にならないのだろうかと訝しげに見上げてみたら、キラくんはなにも言わずに手を引いて歩き出した。
私たちのすがたに気がついているであろう亮司さんも、麦穂さんも、なにも言わずにスケートリンクみたいな舗道をペンギン歩きで進んでいる。
だだっ広い港の隅っこのほうに細々と車を停めて、岸壁に向けて黙々と歩いている。のぼりはじめたばかりの朝陽は、朝焼けを通り越して白く発光していた。
「三人とも、落ちないように気をつけろよ」
柵のような落下防止策が施されていない、剥き出しの岸壁。漁は休みなのか、はたまた禁漁中なのか、人影のない港を進む私たちを、北風が打ちつけてくる。
ようやく岸壁のところまで辿りついたときには、背中にうっすらと汗をかいていた。手袋をつけた手と手がつながる。震えている手は私のものだろうか、それともキラくんのものだろうか。
「ここが、最後に夏樹が目撃された場所」
低い声で、亮司さんが言う。麦穂さんは落っこちそうなくらい大きな瞳を細めて、どこまでもつづく地平線を眺めている。
一方の亮司さんは、あまり見ないようにしているようだった。
「俺は先に車に戻ってるから。麦穂はどうする?」
「寒いし、私も亮司くんと戻ろうかな。二人は?」
「俺はもうしばらくここにいるよ」
「私も残ります」
気をつけろよ、と背中に声がかかる。うなずいて、つながった手に力をこめて、唇を引き結んだ。
「やっぱ寒いな」
うん、と首を縦に振る。
風が強いため、波が荒い。しぶきがあがって、細氷みたいに空中できらめいて、やがて跡形もなく散っていく。磯のにおいが鼻腔を抜けていく。
だれもいない、十二月の冬の港。
「こんなところで、上着も着ないでパーカーでうろついていた、か」
「……」
「美郷さんが言ってた意味がわかるな」
夏樹くんは本気だったのだと囁いた美郷さんの、洗練された指先とシャープな横顔を思い出す。その悲しげな双眸が見ていた景色が、これだったとしたら。
「兄が死んだんだろうってことくらい、わかってたよ」
「……うん」
「ただ、俺は、救えなかった自分を責めた。あのとき声をかけていたら、あのとき縋りついていたら、あのとき泣き喚いてでも兄を止めていたら……」
すう、と鼻から息を吸って、ゆっくりと口から吐く。キラくんの息が白く空へのぼっていく。
雲ひとつない、薄く青みがかった空だった。どこまでも遠く広がっていて、透き通っている。そのどこかにキラくんのお兄さんの円が浮かんでいるだろうか。目を凝らしてみるけれど、寒さと眩しさで涙がにじむ。
「やっとわかった」
吹っ切れたような声だった。
「どうやっても、たとえ過去に遡っても、俺にできたことはなくて、兄はひとりでここに来たんだろうな」
「うん」
「救うことはたぶんできなかった。兄はぜんぶひとりで背負って、ひとりで決めて、ひとりで旅立った。俺にできることはなくて、俺のせいで兄が、夏樹が、死んだわけでは」
「キラくんのせいじゃないよ」
キラくんにみせてもらった写真を思い出す。そこに写っていたお兄さんのすがたが、輪郭から徐々に浮かび上がってくる。大切な弟を気遣いながら、カメラに向かって儚い笑みを浮かべていたお兄さん。
そのお兄さんが写真から飛び出して、私たちのまえで困った顔をして肩をすくめて、そしていってしまう。私たちには手の届かない、遥か彼方へ。
「キラくんのせいじゃない」
ぜったいに、と付け加えたら、キラくんが私の肩に顔を埋めた。うん、とくぐもった声が届く。
「こんなことに気づくのに、こんなに時間がかかった。ナナまで巻き込んで」
「こんなこと、なんかじゃないよ」
「うん」
「そんなんじゃない。すごく、すごく大切なことだよ」
私の知りうるすべてのことばを総動員したところで、キラくんの心を軽くすることはできないだろう。だから、私は倒れ込んでくるキラくんのからだを受け止めて、そうして抱きしめた。
「私、巻き込まれたなんて思ってないよ」
「うん」
「自分から望んでここにきたの」
キラくんが言ったじゃないか。ナナはナナのすきなようにやればいい、ってキラくんが言ったのだ。だから、私は自分のこころの声に従った。
「一緒に来られてよかったと思ってるよ。だから、謝るのはナシだよ」
「うん、ありがとう」
ナナがいてくれてよかった、という声が耳をくすぐった。そのまま抱きしめ返されて、私の顔がキラくんの分厚いダウンに埋まる。
「期末試験、がんばってくれてありがとう。ナナががんばったから、ここへこられた」
「あれこそキラくんのおかげだよ。保健室で自習してるだけだったら、赤点の教科、間違いなくあっただろうな」
「うん」
「……私、ね。だからというわけではないんだけど、学校、いこうと思ってるの」
いまはここにいないキラくんのお兄さんが、キラくんの肩越しにみえる向こうで、やわらかく笑っているような気がする。半透明のすがたで、陽炎みたいにゆらめきながら、それでいいんだよと花開くような笑みで。
「保健室じゃなくて、教室に登校しようと思ってる」
旅の途中で麦穂さんが言っていた。学校は選択肢を増やす場だと思うと。
私には将来の夢なんてないし、やりたいことも、自分が向いていることもまだわからないけれど、いつか見つかるかもしれない。いまはまだ学校という狭い世界にいるけれど、その先に進んだらもう少し視野が広がって、自分のほんとうの気持ちが見えてくるかもしれない。
「大学進学を目指して、挑戦してみようと思う」
いまの学力では到底難しいことくらい承知している。それでも、自分自身を諦めないために。
大学にいって人生が劇的に変わるなんて都合のいい話はもちろんないと思うけれど、そこへいくことで選択肢が増えるかもしれない。選び取れる未来の幅が広がるかもしれない。その可能性に賭けてみたい。
「もちろんまだ、こわいけど、ね」
教室に足を運ぶなんて、あの入口の扉をあけるなんて、そして同級生と同じ箱で一日中過ごすなんて、怖くて足がすくむ。それでも私はまだ投げ出したくない。
ひきこもりつづける毎日はもういやだ。
「そのナナの思い描く未来のなかに、俺はいるの?」
顔を上げたら、優しい眼差しがあった。榛色の瞳のなかに、空と海の境界がぼやけた地平線がうつっている。ひかりをとじこめて、瞬いている。
「それはその、むしろお願いします」
こっちからお願いしたいくらいです。
たどたどしく答えたら、晴々とした笑顔が返ってきた。
「俺もさ、大学いくつもりだから。兄は俺と同じ歳の頃にこの場所を訪れて、生きることをやめたんだろうけど。俺はまだ、やめるつもりないから」
「うん」
「ナナと一緒にいたい。いいよね?」
許可なんていらないのに、その優しさに溺れて窒息してしまいそうだ。
心配なこと、こわいこと、心臓がはち切れそうになること、まだたくさんあるけれど、私はもうひとりじゃない。ひとりじゃないなら、うつむかずに前を向いて生きていける気がする。根拠なんてないけれど、ほんの少しだけ自分に自信を持ってみたい。
私たちは持ってきたブランケットを下に敷いて、そこに座り、凍えそうな白い海を眺めていた。
キラくんはお兄さんとの思い出を静かに語ってくれた。亮司さんや麦穂さんも知らないようなことを、楽しかったことからそうではなかったことまで、余すことなく教えてくれた。
話しているうちにキラくんの蒼白な顔に赤みがさし、強張っていた頬はゆるみはじめる。
そうして、手をつないでもう一度立ち上がった。細かい氷が付着したブランケットを拾って、つめたい冬の風になびかせながら、亮司さんと麦穂さんが待っているレンタカーへと足を進める。
キラくんは二度と振り返らなかった。後ろ髪を引かれる思いで、何度も首を捻って岸壁を確認していたのは私だけだった。
キラくんのポケットから、見覚えのある写真が音もなく落ちる。学生証に挟んでいたお兄さんとのツーショットの写真が、風に乗ってあおられて、どこまでも遠いところへ飛んでいく。
キラくんは一瞥しただけで、追いかけなかった。それがキラくんの出した答えだった。
「おー、おつかれ。もういいのか?」
車に乗り込んだら、運転席にいる亮司さんが振り返って、サングラスの下の優しい瞳で笑う。助手席にいる麦穂さんも凪いだ眼差しだ。
「うん、もういい。満足した。亮司さんも麦穂さんもありがとう」
「俺はいいんだよ。またきたくなったら、みんなで一緒にいけばいいんだし」
「私も。じゃあ、このあとどうする? 夏樹くんが立ち寄ったと思われる場所に寄りつつ、派手に観光しちゃう?」
キラくんは笑って「いいね」と言った。未練なんてなにも残っていないような笑顔だった。
「その前に腹減ったわ。なんか食いたい」
「わかる、北海道っぽいのがいいなあ。海鮮丼とかお寿司とか、食べたくない?」
海鮮だめな人、手を挙げて! 麦穂さんのはつらつとした声が車内に響き渡る。その明るさに救われる。
そのとき、上着のポケットに入れっぱなしだったスマートフォンが小さく振動した。なんの気もなく引っ張り出して、視線を画面に落とし、ふうと息を吐く。
千波からの「ナナ元気にしてる? 大丈夫?」の通知が目に飛び込んできて、ぎゅっと目をつむった。でも瞳をとじたのは一瞬だけで、すぐに目を開き、指先でその通知をタップした。
途端に既読がつく。溜まって、溢れかえっていた大量の未読のメッセージにさっと目を通す。私はもう狼狽えない。となりの座席からキラくんの手が伸びてきて、私の頭を軽くぽんぽんと撫でた。
古ぼけたレンタカーが四人を乗せて、まだ見ぬ未来へと、迷うことなく疾走していく。
暗闇の中にいた。
いつからいるのかはわからない。ただ、もうずっと、自分は暗幕に包まれるように真っ暗な場所にいて、道もないので足を踏み出すことさえできなかった。
髪は伸び、髭も伸び、頬はこけ、手足の肉も落ち、生きているか死んでいるかわからないあたりを永遠にさまよっていた。これがいつまでつづくかなど、おそらく自分を含めてだれも知る由もなかった。
その場で立ち尽くし、ときおりしゃがみこみ、見えない足元の闇をひとつずつ数えている。数えているうちに留年し、なにもみえなくなっているあいだに退学になり、自分の世界は完全にとじた。
だれの声も聴こえないし、だれの声も聞きたくないし、だれの顔もみえないし、だれの顔も眺めたくない。だれとも話したくないから、だれにも話しかけないでほしかった。放っておいてほしかった。
ぼんやりと灯りがさして、思わず顔を上げる。
北風と波飛沫に頬を打たれて立ち止まる。
適当に切ったざんばら髪を適当な帽子で隠して、震える手で剃った髭は剃り残しがあって、ここへついてから食事をとったためか土気色の顔は肌色になった。それでも暗闇の中にいたのに、突然薄明の青白い光に包まれた。
地平線。空。海。容赦のない風。
ああ、生きている。自分は生きているのだと実感する。手に感覚が戻り、足が動いていることを自覚し、役に立たない頭に血が巡る。
生きている。なんで自分は生きている?
ふと、見覚えのある写真が落ちていることに気がついた。雑誌のしおりがわりに挟んだのだろう。そんなことさえ忘れてしまっていたけれど、幼い弟と撮った写真だった。そこには知らない笑顔がある。あのころの自分は、もうどこにもいない。
北海道特集、と表紙に書かれた雑誌が落ちた。落ちた拍子に、薄い写真が風に舞い上がって、つめたい海に攫われていった。
そのまま、這いつくばって下を覗きこむ。黒い海。底の見えない凍える海。
海面に浮かんでいる写真には、だれよりも大事な弟の笑顔があって、そこには間違いなく幸せが存在していた。それは自分が破り捨てたはずの、幸福。
性懲りも無く手を伸ばす。枯れたと思っていた涙が瞳の表面に盛り上がる。落ちていく涙を荒波が呑んでいく。その先はふたたび暗闇だ。
たいせつなひと。どうか、僕を許さないで。