それからしばらく経ってもキラくんはどこか上の空で、毎日顔を合わせているわけではないけれど、会えば心ここにあらずという印象だった。なにかを悩み迷っていることは感じたけれど、それは彼が話したいと思うまで待つことにした。
というのも、私の目の前にはふたたび壁が立ちはだかっていたからだ。十二月の期末テストが近づいていた。中間試験の追試の課題は無事にクリアしたけれど、あれはキラくんの力添えがあったからだ。
いくら保健室で毎日自習しているとはいえ、高校二年間弱の勉強を取り戻せたわけではなく、はたして赤点を回避できるか私は不安に駆られていた。
「考えたって仕方ないわよ。やるしかないし、だめだったらその後の指示を待つだけよ」
結城先生はうなだれる私の背中を親しみを込めて軽く叩きながら、張りのある声で言う。
「仮に赤点でも、一発アウトってことにはならないんだから」
「そうですよね……」
「今回は特例として保健室受験が認められたし、あとはとにかく当たって砕けろ精神で」
「うう、耳の痛いことばです」
昼休みの時間に結城先生の湯呑みをお借りして、二人でお茶を飲みながら昼食をとっていたときのことだった。保健室のドアががらりとひらき、そこには思いつめた顔のキラくんがいた。
「あら、キラくん。都川さんに用事?」
結城先生は穏やかに問いかけると、さりげなくその場を離れた。キラくんの表情に、なにか深刻なものを読み取ったのかもしれなかった。
「ナナ」
私は彼の言わんとしていることを、心の片隅で予測していた。だから、聞く準備はできていた。
「俺さ、冬休みにいってみようと思ってる」
「釧路ですよね?」
「うん。考えていても埒があかないし。亮司さんに相談したら、もしいくなら一緒にって言われて」
「そうだったんですね。あの」
私は制服のスカートのプリーツをぎゅっと握りしめた。キラくんの瞳に力がこもった気がした。
「ご迷惑でなければ、ご一緒してもいいですか?」
「こちらこそ、迷惑じゃなければ、声をかけようかと思ってた。でも、ご両親は?」
「反対しないと思いますけど、ちゃんと許可はとります。旅費はこれまで貯めたお金でなんとかなるはずです」
「そっか。ごめん。だけど、ありがとう」
胸にじんわりと温もりが広がる。しかし私はすぐに唇を引き結ぶと「あの」とことばをつづけた。
「でも、問題があって」
「どんな?」
「期末試験をクリアしないと、冬休みに入れないかもしれないです」
キラくんは不敵な笑みを浮かべ、宙で揺れる私の手を取った。大きな手から私よりも温かい体温が伝わって、そうして溶け合っていく。
「それについては任せてよ、テスト範囲教えて」
これほど頼もしい味方はいない。私は笑顔になり、そのうち愉快な気持ちになり、笑い声が漏れる。そんな私を見ていたキラくんも、珍しく声を上げて笑う。
「念のためにお聞きしますけど、キラくんの期末試験は?」
「サボらずに受ける。テスト勉強についてはまったく問題ないので、ナナは気にしなくていい」
その日の放課後から、期末試験のテスト勉強が始まった。基本的に私の家で、たまにキラくんの家のリビングで、気分を変えて勉強に打ち込んだ。
キラくんの家も我が家に負けず劣らず蔵書が豊富で、私が問題集のわからない問いに頭を抱えているときには、ヒントになりそうな本を持ってきてくれた。本はこれまで何度も読み込まれたことがわかるほど、ページがほどけたり、アンダーラインが引かれていたり、端っこが破れたりしていて、キラくんの頭のよさは努力の質と量に裏打ちされたものではないかと思ったけれど、口には出さなかった。
「あ、また間違えました。これ、昨日もミスしたところだ」
「みせて。あー、これはミスというよりは解釈の仕方が誤ってる。これは……」
赤の入ったノートを一目見て、私がなぜ間違えたのかを瞬時に理解できる能力には舌を巻く。小石に躓いたり、穴に落っこちたりしている私をその都度引き上げて、でこぼこだらけの私の知識をなめらかになるよう均していく。
毎日放課後は一緒に勉強して、朝はひとりで昨日の予習をするようになった。
両親も私の変化を感じているようだけれど、なにも言わずに見守ってくれている。冬休みの件も、成人している大人と一緒ならということで旅の許可を得た。父も母も十二月は忘年会シーズンらしく、深夜に帰ってきては早朝に家を出る生活がつづいている。
「都川さん、頑張ってますね」
保健室に顔を出した担任の藤川先生が、嬉しそうに頬を綻ばせている。
「赤点を取らないように必死です」
「期待してますよ」
「いま、先生からのプレッシャーをひしひしと感じてます」
「えっ、すみません」
私たちのやり取りを見ていた結城先生が、けらけら笑っている。
その日の放課後、キラくんは委員会の仕事があるらしく、私は学校帰りに美容院へ立ち寄った。お尻まで届きそうなくらい伸びていた黒髪をばっさり切り、肩につくくらいの長さにした。切れ毛も枝毛も酷かったので、トリートメントもお願いした。
長くつづいた肌荒れも治った。鏡越しにこちらを見つめてくる私は、別人のようだ。
生まれ変わったとは思っていない。私は私で、それは変わらなくて、あくまでいまの私は過去からの地続きで、けれどもよいほうに変化していると思いたい。
美容院帰りにキラくんと待ち合わせした。委員会が予想以上に長引いたようで、息を切らせて待ち合わせ場所に到着した彼は、私のすがたをみてほほえんだ。
「似合ってる」
ありがとうございます、と返した気がする。だけど心臓が早鐘を打っていて、それどころではなかった。
私たちはどちらからともなく手をつないだ。
「俺もそろそろ美容院いこうかな」
「髪を染めるために?」
「あ、ナナも勘違いしてたんだ。これ、地毛」
「え?」
そう言って一枚の写真を見せてくれた。学生証のケースに入っていた写真で、幼いキラくんが背の高い男性と笑っている。
二人とも明るい茶髪で、顔はあまり似ていなかったけれど、瓜二つの輝く瞳だった。
「この人って、もしかして」
「そう、俺の兄」
不思議なことに、以前勝手に夢想したときのお兄さんのすがたにそっくりで、私は吸い込まれるように写真を見つめた。お兄さんがキラくんの肩を組み、穏やかな笑顔を浮かべている。優しそうな人だと思った。
「幸せそうですね」
「うん。でもいまも案外わるくないよ」
「えっ?」
手をつないだまま、見つめ合う。その真意を探ろうとするも、キラくんはひだまりが揺れる色素の薄い瞳を柔和に細めるだけだった。
「ナナさ」
「はい」
「期末試験が無事終わったら、いい加減、その敬語やめない?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
それって、どう捉えたらいいんですか。キラくんが三月三十一日産まれだから? でも、きっと、そうじゃない。期待に胸を膨らませたくなるけれど、期待して傷つきたくなくて無理に萎ませようとする。
「俺、勉強教えたじゃん。お金とかもちろん何もいらないかわりに、俺のお願いひとつ訊いて」
そんなことで、いいんですか。こんなに時間をかけてもらって、キラくんのお願いって、私が敬語をやめること、だけ? それは、そんなに重要なこと、だとしたら。そうだとしたら、キラくんは。私は。
「期末前に動揺させたくないから、いまはまだなにも言わない」
お互いがんばろう、と言われて、つないだ手にきゅっと力を込めた。
やれる気がする。中学生のころ、テニス部の総体でレシーブを決めて三位決定戦を勝ち取ったときの緊張感とやる気に似た熱情が、ふつふつとみなぎってくる。
できる。ここまで頑張ったんだ。仮に点数に反映されなくても、それがいまの実力なのだと真正面から受け止められるくらいには勉強した。
結城先生の「当たって砕けろ精神」を思い出し、私はシャープペンシルを握りしめる。
「それでは、九時になったら試験を始めますね」
私は保健室の掛け時計を見上げる。時間は進んでいる、着実に。けれども、立ち止まったことを後悔しない。私は時計を確認することを恐れない。それも含めて自分なのだと受け入れる。
そしていま、流れている時間の波に、私はようやく乗れる気がする。未来行きの電車には乗り遅れているけれど、いまから走り出してもきっと遅くない。
「はじめ!」
答案用紙をめくる。一問目に目を通し、頬がゆるむ。キラくんが教えてくれた範囲だ。
私はシャープペンシルを答案用紙に走らせた。
というのも、私の目の前にはふたたび壁が立ちはだかっていたからだ。十二月の期末テストが近づいていた。中間試験の追試の課題は無事にクリアしたけれど、あれはキラくんの力添えがあったからだ。
いくら保健室で毎日自習しているとはいえ、高校二年間弱の勉強を取り戻せたわけではなく、はたして赤点を回避できるか私は不安に駆られていた。
「考えたって仕方ないわよ。やるしかないし、だめだったらその後の指示を待つだけよ」
結城先生はうなだれる私の背中を親しみを込めて軽く叩きながら、張りのある声で言う。
「仮に赤点でも、一発アウトってことにはならないんだから」
「そうですよね……」
「今回は特例として保健室受験が認められたし、あとはとにかく当たって砕けろ精神で」
「うう、耳の痛いことばです」
昼休みの時間に結城先生の湯呑みをお借りして、二人でお茶を飲みながら昼食をとっていたときのことだった。保健室のドアががらりとひらき、そこには思いつめた顔のキラくんがいた。
「あら、キラくん。都川さんに用事?」
結城先生は穏やかに問いかけると、さりげなくその場を離れた。キラくんの表情に、なにか深刻なものを読み取ったのかもしれなかった。
「ナナ」
私は彼の言わんとしていることを、心の片隅で予測していた。だから、聞く準備はできていた。
「俺さ、冬休みにいってみようと思ってる」
「釧路ですよね?」
「うん。考えていても埒があかないし。亮司さんに相談したら、もしいくなら一緒にって言われて」
「そうだったんですね。あの」
私は制服のスカートのプリーツをぎゅっと握りしめた。キラくんの瞳に力がこもった気がした。
「ご迷惑でなければ、ご一緒してもいいですか?」
「こちらこそ、迷惑じゃなければ、声をかけようかと思ってた。でも、ご両親は?」
「反対しないと思いますけど、ちゃんと許可はとります。旅費はこれまで貯めたお金でなんとかなるはずです」
「そっか。ごめん。だけど、ありがとう」
胸にじんわりと温もりが広がる。しかし私はすぐに唇を引き結ぶと「あの」とことばをつづけた。
「でも、問題があって」
「どんな?」
「期末試験をクリアしないと、冬休みに入れないかもしれないです」
キラくんは不敵な笑みを浮かべ、宙で揺れる私の手を取った。大きな手から私よりも温かい体温が伝わって、そうして溶け合っていく。
「それについては任せてよ、テスト範囲教えて」
これほど頼もしい味方はいない。私は笑顔になり、そのうち愉快な気持ちになり、笑い声が漏れる。そんな私を見ていたキラくんも、珍しく声を上げて笑う。
「念のためにお聞きしますけど、キラくんの期末試験は?」
「サボらずに受ける。テスト勉強についてはまったく問題ないので、ナナは気にしなくていい」
その日の放課後から、期末試験のテスト勉強が始まった。基本的に私の家で、たまにキラくんの家のリビングで、気分を変えて勉強に打ち込んだ。
キラくんの家も我が家に負けず劣らず蔵書が豊富で、私が問題集のわからない問いに頭を抱えているときには、ヒントになりそうな本を持ってきてくれた。本はこれまで何度も読み込まれたことがわかるほど、ページがほどけたり、アンダーラインが引かれていたり、端っこが破れたりしていて、キラくんの頭のよさは努力の質と量に裏打ちされたものではないかと思ったけれど、口には出さなかった。
「あ、また間違えました。これ、昨日もミスしたところだ」
「みせて。あー、これはミスというよりは解釈の仕方が誤ってる。これは……」
赤の入ったノートを一目見て、私がなぜ間違えたのかを瞬時に理解できる能力には舌を巻く。小石に躓いたり、穴に落っこちたりしている私をその都度引き上げて、でこぼこだらけの私の知識をなめらかになるよう均していく。
毎日放課後は一緒に勉強して、朝はひとりで昨日の予習をするようになった。
両親も私の変化を感じているようだけれど、なにも言わずに見守ってくれている。冬休みの件も、成人している大人と一緒ならということで旅の許可を得た。父も母も十二月は忘年会シーズンらしく、深夜に帰ってきては早朝に家を出る生活がつづいている。
「都川さん、頑張ってますね」
保健室に顔を出した担任の藤川先生が、嬉しそうに頬を綻ばせている。
「赤点を取らないように必死です」
「期待してますよ」
「いま、先生からのプレッシャーをひしひしと感じてます」
「えっ、すみません」
私たちのやり取りを見ていた結城先生が、けらけら笑っている。
その日の放課後、キラくんは委員会の仕事があるらしく、私は学校帰りに美容院へ立ち寄った。お尻まで届きそうなくらい伸びていた黒髪をばっさり切り、肩につくくらいの長さにした。切れ毛も枝毛も酷かったので、トリートメントもお願いした。
長くつづいた肌荒れも治った。鏡越しにこちらを見つめてくる私は、別人のようだ。
生まれ変わったとは思っていない。私は私で、それは変わらなくて、あくまでいまの私は過去からの地続きで、けれどもよいほうに変化していると思いたい。
美容院帰りにキラくんと待ち合わせした。委員会が予想以上に長引いたようで、息を切らせて待ち合わせ場所に到着した彼は、私のすがたをみてほほえんだ。
「似合ってる」
ありがとうございます、と返した気がする。だけど心臓が早鐘を打っていて、それどころではなかった。
私たちはどちらからともなく手をつないだ。
「俺もそろそろ美容院いこうかな」
「髪を染めるために?」
「あ、ナナも勘違いしてたんだ。これ、地毛」
「え?」
そう言って一枚の写真を見せてくれた。学生証のケースに入っていた写真で、幼いキラくんが背の高い男性と笑っている。
二人とも明るい茶髪で、顔はあまり似ていなかったけれど、瓜二つの輝く瞳だった。
「この人って、もしかして」
「そう、俺の兄」
不思議なことに、以前勝手に夢想したときのお兄さんのすがたにそっくりで、私は吸い込まれるように写真を見つめた。お兄さんがキラくんの肩を組み、穏やかな笑顔を浮かべている。優しそうな人だと思った。
「幸せそうですね」
「うん。でもいまも案外わるくないよ」
「えっ?」
手をつないだまま、見つめ合う。その真意を探ろうとするも、キラくんはひだまりが揺れる色素の薄い瞳を柔和に細めるだけだった。
「ナナさ」
「はい」
「期末試験が無事終わったら、いい加減、その敬語やめない?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
それって、どう捉えたらいいんですか。キラくんが三月三十一日産まれだから? でも、きっと、そうじゃない。期待に胸を膨らませたくなるけれど、期待して傷つきたくなくて無理に萎ませようとする。
「俺、勉強教えたじゃん。お金とかもちろん何もいらないかわりに、俺のお願いひとつ訊いて」
そんなことで、いいんですか。こんなに時間をかけてもらって、キラくんのお願いって、私が敬語をやめること、だけ? それは、そんなに重要なこと、だとしたら。そうだとしたら、キラくんは。私は。
「期末前に動揺させたくないから、いまはまだなにも言わない」
お互いがんばろう、と言われて、つないだ手にきゅっと力を込めた。
やれる気がする。中学生のころ、テニス部の総体でレシーブを決めて三位決定戦を勝ち取ったときの緊張感とやる気に似た熱情が、ふつふつとみなぎってくる。
できる。ここまで頑張ったんだ。仮に点数に反映されなくても、それがいまの実力なのだと真正面から受け止められるくらいには勉強した。
結城先生の「当たって砕けろ精神」を思い出し、私はシャープペンシルを握りしめる。
「それでは、九時になったら試験を始めますね」
私は保健室の掛け時計を見上げる。時間は進んでいる、着実に。けれども、立ち止まったことを後悔しない。私は時計を確認することを恐れない。それも含めて自分なのだと受け入れる。
そしていま、流れている時間の波に、私はようやく乗れる気がする。未来行きの電車には乗り遅れているけれど、いまから走り出してもきっと遅くない。
「はじめ!」
答案用紙をめくる。一問目に目を通し、頬がゆるむ。キラくんが教えてくれた範囲だ。
私はシャープペンシルを答案用紙に走らせた。
