その日も私は保健室にきていた。保健室登校にもだいぶ慣れて、登下校の際に足がすくむこともなくなっていた。ただ、同級生とは顔を合わせづらく、相変わらず同級生と鉢合わせる可能性が低い時間に登校していた。
一度下がりきった自信を取り戻すのは難しい。自分自身を受け入れる、と自分に言い聞かせても、挫けてしまいそうなときがある。
学校に通う理由はいまもわからないけれど、いまのなんとか継続している状況を手放したら、自分にはなにも残らない気がして、それだけは死守しようと躍起になっていた。
「今日の夕方なら都合がつくらしい。仕事が休みなんだって。ナナもいていいそうだけど、どうする?」
その人は青野美郷さんという名前で、高校に入学してすぐにキラくんのお兄さんと付き合いはじめたそうだ。つまり、私の通う高校の卒業生ということになる。
漠然と、どんな人なんだろう、と思った。キラくんのお兄さんの彼女だったからというよりは、この高校を出たらどんな人生を歩むのだろう、ということが気になった。
だから二つ返事で了承し、指定されたファミリーレストランへと向かうことになった。
その人は夜空を連想させるシックな濃紺のワンピースを着て、足元の薄いグレーのストッキングは銀色のパンプスに包まれていた。その銀色はキラくんのピアスのシルバーとよく似ている。磨かれて鈍くひかる上質な銀だった。
「はじめまして。青野美郷です」
鈴を転がすような声で、一言ずつ慎重に話す。
どう見てもファミリーレストランには似合わない女性で、この店を指定したのは高校生の私たちに気を遣ってくれたからだと悟る。
キラくんは私の分も含めて自己紹介し、私たちは店員に案内された窓際のソファ席に座った。キラくんと私がとなりで、美郷さんが正面に腰を下ろす。背筋がぴんと伸びた、大人の女性だった。
「ほんとうは、お会いするのをやめようかなと思っていたんです」
年下の私たちに対しても、丁寧な敬語を使う。それが逆に、美郷さんとの温度差を浮き彫りにさせた。
「でも、当時夏樹くんからは弟さんの話をよく聞いたから。けじめをつけるためにも、会っておこうかなと思いました」
「兄が、ご迷惑をおかけしました」
「いえ」
美郷さんの細長い指がメニュー表をなぞる。まるみを帯びた爪はベージュのネイルが均一に塗られていて、手の甲もつややかなペールオレンジでうつくしかった。洗練されている、と思った。
「なにも知らないので、失礼なことを申し上げたらたいへん恐縮なんですが、兄とはいつまでお付き合いを?」
「最後まで」
その最後がなにを意味するのか察し、私は息を飲む。しかしキラくんは想定していたのか動じなかった。
「夏樹くんがひきこもってしまってからは、もちろん会えませんでしたし、メールでたまにやり取りする程度だったんですけど、別れてはいないんです」
「そうだったんですか」
「きっと、なんで彼が変貌したのか気になってるんですよね? 私では、お力になれないかもしれません」
美郷さんがほんの少し眉を下げて、残念そうに口ずさむ。
「夏樹くんは努力家だったので学業成績も悪くなかったですし、温厚なので同級生との軋轢もなかったと思います。彼はただ、つかれたと言ってました」
「つかれた?」
「はい。つかれたから休みたい、と」
つかれた。休みたい。断片的にことばを拾い上げて反芻する。つかれたから、休みたい。でもきっと、なにに疲れたのかまでは、美郷さんでも把握できていない。
「私は夏樹くんのことがすきでした。たぶん、いまも。でもすきでいるのをやめようと思ってるんです。今日で区切りをつけられたらいいと思って」
「そうだったんですか」
「実は私、釧路までいったんですよ」
それにはぎょっとしたのか、キラくんは驚愕したまま固まっている。美郷さんはひかえめに口角を持ち上げて、遠慮がちに両方のてのひらを合わせた。
「亮司さんと、あとは亮司さんのお友だち三名と一緒に、飛行機でいったんです」
「まじですか」
「はい。もしかして内緒だったかも。ごめんなさいね。釧路までいったけど、なにもわからなかった。まあ当然ですよね」
美郷さんは合わせた手の指を絡めて、交差する指をぼんやり見下ろしている。キラくんは信じられないと言わんばかりの顔をしていた。
「でも、もし踏ん切りがつかないなら、一度いくといいかも。いくときっとわかります。彼は本気だったんだな、ってことが」
「本気?」
「はい。本気でつかれたんだろうな、って」
そのつかれた、の意味するところがうっすらとわかり、背筋に鳥肌が立った。私でもわかるということは、キラくんならとっくに理解できているはずだ。それでもキラくんは無表情だった。
「そのピアス、夏樹くんのですよね?」
キラくんは指先でピアスに触れ、神妙な顔つきでうなずく。
「やっぱり。見覚えがあるなと思って」
「兄のものを勝手に使ってます。形見みたいで不吉ですけど」
「ふふ、似合ってます。夏樹くんって真面目なのに、ピアスしたり煙草吸ったり、へんなところで不真面目でした。煙草のことは知ってましたか?」
「兄がひきこもるようになってから知りました」
美郷さんは懐かしそうに目を細める。けれども、その瞳にはもう迷いがなかった。まっすぐとキラくんを見つめて、決心したように言った。
「夏樹くんを助けてあげられなくてごめんなさい。いまも、後悔してるけど、でも私、今年で二十五歳なんです」
「はい」
「最近、同級生の結婚式に招待されるんです。第一子が産まれた友だちもいる。それだけ時間が経ったんだなと実感すると同時に、私はずっと足踏みしてて」
「……はい」
「さすがに忘れたいんです。想いつづけるのは苦しい。私も自分の人生を歩みたい。ごめんなさい」
美郷さんはアメリカンコーヒーを一杯だけ注文すると、すばやく飲んで帰っていった。
キラくんと私はドリンクバーと軽食程度のチキンを注文し、隣り合わせのソファに座っている。私は脱力して、背もたれに身を預けた。
美郷さんの気持ちもわかる気がした。約七年、生死不明の恋人だった人を想いつづけることはつらいだろう。まわりがどんどん次のステージに進んでいるのに、自分だけ取り残されている気持ちになるかもしれない。
私は横目でキラくんを見た。キラくんはため息を吐くと、ドリンクコーナーから持ってきたばかりのりんごジュースを飲んだ。
「亮司さんのやつ」
「……キラくんに気を遣っていたのでは」
「十中八九そうだろうけど」
疲れ切った顔で、「ああーもう」と呟いて、天井の明るすぎる光を瞳に映している。
「ごめんね、ナナ」
「いえ、私は。……あの」
「ん?」
上を向いたまま、視線だけ私のほうに向けられる。私はその瞳から逃げるように下を向いて「わかるかもしれないです」とつぶやいた。
「つかれた、ていうの、ちょっとだけ、わかるかも」
「……」
「私、手を叩けばぜんぶ終わる世界を想像したこともありました。叩いたら、はいおしまい。もうなにも苦しくない。なにも見なくていい」
パンパン、という軽快な手を叩く音が、頭の奥のほうから響いてくる。もうおしまい、都川奈々子の人生はこれでおしまい、もう大丈夫。
「つかれすぎて、ぜんぶを放棄したくなる気持ちなら、知ってるかもしれません」
それがキラくんのお兄さんの「つかれた」と同じかどうかはわからない。まるで同じということはないだろうけれど、重なっている部分はあるのかもしれない。
そしてもしそうだとしたら、それは途方もなく悲しいことだとも思う。
キラくんは長いこと沈黙していたけれど、やがて諦めたようにもう一度息をつき、私の手を取った。なにかを確かめるみたいに、私たちは手をつないでいた。
一度下がりきった自信を取り戻すのは難しい。自分自身を受け入れる、と自分に言い聞かせても、挫けてしまいそうなときがある。
学校に通う理由はいまもわからないけれど、いまのなんとか継続している状況を手放したら、自分にはなにも残らない気がして、それだけは死守しようと躍起になっていた。
「今日の夕方なら都合がつくらしい。仕事が休みなんだって。ナナもいていいそうだけど、どうする?」
その人は青野美郷さんという名前で、高校に入学してすぐにキラくんのお兄さんと付き合いはじめたそうだ。つまり、私の通う高校の卒業生ということになる。
漠然と、どんな人なんだろう、と思った。キラくんのお兄さんの彼女だったからというよりは、この高校を出たらどんな人生を歩むのだろう、ということが気になった。
だから二つ返事で了承し、指定されたファミリーレストランへと向かうことになった。
その人は夜空を連想させるシックな濃紺のワンピースを着て、足元の薄いグレーのストッキングは銀色のパンプスに包まれていた。その銀色はキラくんのピアスのシルバーとよく似ている。磨かれて鈍くひかる上質な銀だった。
「はじめまして。青野美郷です」
鈴を転がすような声で、一言ずつ慎重に話す。
どう見てもファミリーレストランには似合わない女性で、この店を指定したのは高校生の私たちに気を遣ってくれたからだと悟る。
キラくんは私の分も含めて自己紹介し、私たちは店員に案内された窓際のソファ席に座った。キラくんと私がとなりで、美郷さんが正面に腰を下ろす。背筋がぴんと伸びた、大人の女性だった。
「ほんとうは、お会いするのをやめようかなと思っていたんです」
年下の私たちに対しても、丁寧な敬語を使う。それが逆に、美郷さんとの温度差を浮き彫りにさせた。
「でも、当時夏樹くんからは弟さんの話をよく聞いたから。けじめをつけるためにも、会っておこうかなと思いました」
「兄が、ご迷惑をおかけしました」
「いえ」
美郷さんの細長い指がメニュー表をなぞる。まるみを帯びた爪はベージュのネイルが均一に塗られていて、手の甲もつややかなペールオレンジでうつくしかった。洗練されている、と思った。
「なにも知らないので、失礼なことを申し上げたらたいへん恐縮なんですが、兄とはいつまでお付き合いを?」
「最後まで」
その最後がなにを意味するのか察し、私は息を飲む。しかしキラくんは想定していたのか動じなかった。
「夏樹くんがひきこもってしまってからは、もちろん会えませんでしたし、メールでたまにやり取りする程度だったんですけど、別れてはいないんです」
「そうだったんですか」
「きっと、なんで彼が変貌したのか気になってるんですよね? 私では、お力になれないかもしれません」
美郷さんがほんの少し眉を下げて、残念そうに口ずさむ。
「夏樹くんは努力家だったので学業成績も悪くなかったですし、温厚なので同級生との軋轢もなかったと思います。彼はただ、つかれたと言ってました」
「つかれた?」
「はい。つかれたから休みたい、と」
つかれた。休みたい。断片的にことばを拾い上げて反芻する。つかれたから、休みたい。でもきっと、なにに疲れたのかまでは、美郷さんでも把握できていない。
「私は夏樹くんのことがすきでした。たぶん、いまも。でもすきでいるのをやめようと思ってるんです。今日で区切りをつけられたらいいと思って」
「そうだったんですか」
「実は私、釧路までいったんですよ」
それにはぎょっとしたのか、キラくんは驚愕したまま固まっている。美郷さんはひかえめに口角を持ち上げて、遠慮がちに両方のてのひらを合わせた。
「亮司さんと、あとは亮司さんのお友だち三名と一緒に、飛行機でいったんです」
「まじですか」
「はい。もしかして内緒だったかも。ごめんなさいね。釧路までいったけど、なにもわからなかった。まあ当然ですよね」
美郷さんは合わせた手の指を絡めて、交差する指をぼんやり見下ろしている。キラくんは信じられないと言わんばかりの顔をしていた。
「でも、もし踏ん切りがつかないなら、一度いくといいかも。いくときっとわかります。彼は本気だったんだな、ってことが」
「本気?」
「はい。本気でつかれたんだろうな、って」
そのつかれた、の意味するところがうっすらとわかり、背筋に鳥肌が立った。私でもわかるということは、キラくんならとっくに理解できているはずだ。それでもキラくんは無表情だった。
「そのピアス、夏樹くんのですよね?」
キラくんは指先でピアスに触れ、神妙な顔つきでうなずく。
「やっぱり。見覚えがあるなと思って」
「兄のものを勝手に使ってます。形見みたいで不吉ですけど」
「ふふ、似合ってます。夏樹くんって真面目なのに、ピアスしたり煙草吸ったり、へんなところで不真面目でした。煙草のことは知ってましたか?」
「兄がひきこもるようになってから知りました」
美郷さんは懐かしそうに目を細める。けれども、その瞳にはもう迷いがなかった。まっすぐとキラくんを見つめて、決心したように言った。
「夏樹くんを助けてあげられなくてごめんなさい。いまも、後悔してるけど、でも私、今年で二十五歳なんです」
「はい」
「最近、同級生の結婚式に招待されるんです。第一子が産まれた友だちもいる。それだけ時間が経ったんだなと実感すると同時に、私はずっと足踏みしてて」
「……はい」
「さすがに忘れたいんです。想いつづけるのは苦しい。私も自分の人生を歩みたい。ごめんなさい」
美郷さんはアメリカンコーヒーを一杯だけ注文すると、すばやく飲んで帰っていった。
キラくんと私はドリンクバーと軽食程度のチキンを注文し、隣り合わせのソファに座っている。私は脱力して、背もたれに身を預けた。
美郷さんの気持ちもわかる気がした。約七年、生死不明の恋人だった人を想いつづけることはつらいだろう。まわりがどんどん次のステージに進んでいるのに、自分だけ取り残されている気持ちになるかもしれない。
私は横目でキラくんを見た。キラくんはため息を吐くと、ドリンクコーナーから持ってきたばかりのりんごジュースを飲んだ。
「亮司さんのやつ」
「……キラくんに気を遣っていたのでは」
「十中八九そうだろうけど」
疲れ切った顔で、「ああーもう」と呟いて、天井の明るすぎる光を瞳に映している。
「ごめんね、ナナ」
「いえ、私は。……あの」
「ん?」
上を向いたまま、視線だけ私のほうに向けられる。私はその瞳から逃げるように下を向いて「わかるかもしれないです」とつぶやいた。
「つかれた、ていうの、ちょっとだけ、わかるかも」
「……」
「私、手を叩けばぜんぶ終わる世界を想像したこともありました。叩いたら、はいおしまい。もうなにも苦しくない。なにも見なくていい」
パンパン、という軽快な手を叩く音が、頭の奥のほうから響いてくる。もうおしまい、都川奈々子の人生はこれでおしまい、もう大丈夫。
「つかれすぎて、ぜんぶを放棄したくなる気持ちなら、知ってるかもしれません」
それがキラくんのお兄さんの「つかれた」と同じかどうかはわからない。まるで同じということはないだろうけれど、重なっている部分はあるのかもしれない。
そしてもしそうだとしたら、それは途方もなく悲しいことだとも思う。
キラくんは長いこと沈黙していたけれど、やがて諦めたようにもう一度息をつき、私の手を取った。なにかを確かめるみたいに、私たちは手をつないでいた。
