優しいキラくんは、言いたくないことならもちろん話さなくてよいと言った。キラくんがそうやって逃げ道を用意してくれることはわかっていたので、私は目をとじてじんわりと微笑んだ。

「明確なターニングポイントみたいなものがあったわけではないんですけど」

 今度はカフェラテを注文しながら、私は遥か向こうにある記憶を手探りで呼び起こす。

「ずっと、それなりの大学にいって、それなりの会社で働く、みたいなイメージがあったんです。なんとなくそれを追いかけてた」
「うん」
「だけど、それが自分のしたいことなのかわからなくなったんです。うち、父が銀行員で母が証券会社に勤めていて、二人ともバリバリ働いてるんですけど」

 運ばれてきたカフェラテを受け取って、ミルクとエスプレッソが混ざり合う境界線に視線を落とした。

「自分もそうなるんだろうなって思ってたんです。憧れじゃなくて、自然に感じてたことで。だけど、それがほんとうに自分のなりたいすがたなのか、わからなくなった」
「うん」
「親にああしろこうしろって縛られてきたわけじゃないんです。親はできるがわの人たちで、できない人の気持ちが理解できない」
「なるほど」
「たとえば、私がカフェの経営をしたり、カメラマンになってる未来なんて、父も母も想像しない」

 でも、それを不満だとも思わなかった。世の中は平等ではなく、できるできないのあいだはグラデーションではなくて、そこには線のようなものが引かれていると感じていたから。

「だから、私もそういう未来を想像しなかった。でも、それってちがうんじゃないかと思ったんです。悩みはじめたら学校の勉強がわからなくなって、どんどん落ちこぼれました。先が見えなくなって、体調がおかしくなって」

 気がつけば暗闇を這いつくばっていて、出口を見つけられなくなった。後輩のSNSの投稿をきっかけに、信頼していたテニス部のメンバーへの気持ちも揺らぎ、なにがほんとうかわからなくなった。

「自分の気持ちも、自分のみているものも信じられなくなった。たぶん、いまも」

 他人からしたら「そんなことで」と呆れられるような段階で躓いている。だからこそ、助けてともわかってとも言いにくく、私の口は貝のように固くとじた。
 だから、こうしてだれかに語るのは初めてだった。

「私、できない自分を許せなかったんです。たぶん、私は病院へ行くべきだったんだけど、行けなかった。認めたくなかった。鬱とか、そういうものを、自分と切り離して考えたかったんです」
「ナナ」

 顔を上げたら、キラくんの星のような瞳に自信のなさそうな私が映っていた。

「鬱ってさ、こころの病気と思われがちだけど。それはそうなんだけど、あれってどちらかといえば脳の病気らしいよ」
「え?」

 キラくんの目には、厳しさも悲しみも穏やかさも浮かんでおらず、ただいつもどおりの変わらない光しか浮かんでいない。そのことに、私はなぜか狼狽した。

「脳内の神経伝達物質が欠乏して、脳の機能が低下する。そういう仕組み。だから、もしそうなったら、そのときには既にきもちの問題じゃなくなってる」
「……きもちの問題じゃない」
「きもちで鬱を制御できるって勘違いしてる人が多いから、ナナがそう思っても仕方のないことだけどね。だから、だめじゃないんだよ。鬱だとしても」

 だめじゃない、のことばに頬を打たれた。ぱしっと音が聞こえた気がした。

「たぶん、偏見があるよ。ナナのなかに。まずはナナが、ありのままのナナを、たとえどんなにいやだとしても、受け入れることからなんじゃない」

 鼻が痛み、視界がぼやける。感情的なことばを吐き出しそうな唇を噛みしめたら、キラくんがやんわりとほほえんだ。
 その瞳はさきをつづけて、と言っていた。

「こんなにだめなのに? こんなに、こんな自分」

 ああ、面倒くさいやつだ。いまの私は最低だ。こんな閑静なカフェで。人目を憚らず泣いたりして。酔っ払って帰ってきた父親よりも面倒くさい。
 感情の波がどこからか押し寄せてきて、轟音をあげながら私を押し流していく。

「だめじゃないんだけどね。でも、ナナがだめだと思うなら、そのままの自分をなにより自分自身が認めてあげるしかないよ」
「わたし、が」
「うん。だってさ、俺はナナのことだめなんて思わないし、ありのままのナナを見ているつもりだけど。俺がどんなことを言ったって、いまのナナが納得できないなら、不登校になったナナは置いてきぼりになっちゃうじゃん」

 たくさん苦しんだ分まで一緒に連れていってあげてよ、とキラくんは言った。
 ぼたぼたと大粒の涙が落ちて、なめらかなテーブルを濡らした。だれかに認められたいと思っていたけれど、だれかに自己肯定感を委ねるまえに、自分自身が自分を受け入れなくてはいけなかった。

「仮にさ、勉強が苦手だとするじゃん。俺が言っても嫌味にしか聞こえないかもしれないけど、まあ聞いて。勉強が苦手っていうのはその人の一つの側面でしかない。わかりにくかったら運動でもいいよ」
「一つの側面でしかない?」
「そう。おまえ勉強できないね、運動音痴だねって言われたとしても、それはその人自身を否定する事実じゃない。一つの側面だけで人は決まらないと思うんだよ」
「言ってる人のほうに悪意があったとしても?」
「事実と感情は混同しちゃだめだろ?」

 なんだか無性におかしくなってきて、私は泣き笑いのような表情になり、顔はもうぐしゃぐしゃだった。鞄のなかからハンカチを取り出すも、そのころにはすでに手遅れで、キラくんはそんな私を見てのんびりとほほえむだけだった。
 キラくんは「話したくないことを話してくれてありがとう」と言った。お礼なんて言われる立場ではなかったので、私は首を左右に振って否定した。

「キラくんのお兄さんは」
「うん?」
「キラくんのお兄さんは、いや、お兄さんも、なにかに躓いていたんでしょうか」
「どうなんだろう」

 キラくんは急に遠いところをみるような瞳になった。

「躓かないとあんなふうにはならないと思うけど、実際のところなにもわからない」
「そんなにすごかったんですか」

 具体的になにを、とは口にできなかったけれど、キラくんは私の意を汲んでくれたようだった。

「みる? 兄の部屋。まあ、気持ちのいいもんじゃないから、積極的にはおすすめしないけど」
「いいんですか?」
「ここまで巻き込んじゃってるから」

 そのままカフェを出て、キラくんの実家におじゃました。キラくんの実家は話に聞いていたとおり高校のすぐ近くにあり、二階建ての一軒家だった。間取りもうちと似ている。ご両親は共働きらしい。
 そうして案内されたお兄さんの部屋は悲惨なもので、あちこち壁紙は剥がれ、殴ったようなかたちで穴ぼこが空き、なにかの紙がびりびりに破り捨てられ、中途半端な長さの煙草の吸い殻が散らばっていた。
 衝撃を受けて凍りついていた私に、キラくんは「気持ちのいいもんじゃないって言っただろ」と苦笑いし、その部屋の扉はふたたび閉じられた。普段はだれも立ち入らないらしい。

「生きてるか死んでるかもわからないから、片付けにくくて、そのまま」

 親も現実を直視できないんだよ、とキラくんはさらりと言う。
 もちろん私は子どもの立場で、親の気持ちを真に理解することはできないけど、たしかにあの状態の我が子を受け入れるのは相当にきついことだと想像ができた。

「助けられたのかもしれない、て思うときがある」

 リビングのソファで横並びに腰かけて、キラくんが後悔の滲む声でぽつりと囁く。

「見殺しにしたんじゃないか。部屋で暴れる兄を見ていながら放置した。見ないようにした。そうなるまえに、できることがあったんじゃないかって」
「……でも、お兄さんがひきこもっているとき、キラくんはまだ小学校中学年とか高学年ですよね? 止めるのは難しくないですか。体格差もあるし、ふつうにこわいですよね」
「うん。結局、可能性を悔やんでるだけなんだよ」

 おそらく自分を納得させるしかないことは、キラくんが一番わかっているのだろう。ただ、お兄さんのことが大切だった分、割り切れることもできなくて苦しんでいる。そんなふうに見えた。

 その日の夜、キラくんは亮司さんに連絡をしたらしい。お兄さんの彼女だった人につないでもらえないかと訊いたそうだ。
 そして、その人から返事が返ってきたのは、それから二週間後のことだった。