翌朝は早めに家を出た。朝練のある生徒が登校したあと、そして部活動のない生徒が登校するまえ、その空白の時間に裏門をくぐった。白くひかる朝陽がまぶしい。
この学校で保健室登校をしている生徒はいないらしい。保健室のドアを引けば、いつもの白衣に身を包んだ結城先生がちらりと入口を見た。
「あら、おはよう、都川さん」
「おはようございます、先生。あの、私、今日から」
「大丈夫。担任の先生から聞いていますよ」
その気さくな笑みにほっと肩を撫で下ろす。
私は結城先生が勧めてくれたパイプ椅子に腰を下ろし、熱い緑茶をご馳走になった。
「すてきな湯呑みですね」
「でしょう? 学生のころにね、蚤の市で手に入れたの。ずいぶんと昔のことだけどね」
「蚤の市?」
気を悪くしたふうもなく結城先生は微笑を浮かべる。
「古物市。若い子にはフリーマーケットって言ったほうが伝わりやすいかしら。骨董がすきでね、昔から」
渋皮色の湯呑みで、表面はごつごつしているのに凹凸が手のやわらかいところに刺さらず、まるみを帯びている。まるで温もりのある岩を抱いているようだ。
「うちも父が骨董好きなんです。のめり込まないように気をつけてるらしいんですけど」
「それは正解よ。没入するとたいへんなんだから。お父さまはどういうものがお好きなの」
「詳しいことはわからないんですけど、唐津焼の絵付けがしてあるのがいいみたいで」
「まあ」
唐津焼も、絵付けも、私には価値のあるものなのかどうかさえ、判断する材料を持たない。
「あとは骨董ではないんですけど、本もすきで。それも古本屋で絶版本を探すのが趣味らしくて、家の書棚はぎゅうぎゅう詰めです」
結城先生はおかしそうに屈託のない笑みを浮かべている。
私はいつから気兼ねなく話せるようになったのだっけ、とぼうっとしている。記憶があぶくのように浮き上がっては消えて、またぷつぷつと浮き上がるのを繰り返している。
「似たような話を聞いたことがあるわね」
結城先生は柿色の湯呑みに緑茶を注いでいる。よく使い込まれ、手に馴染んでいた。
「どなたからですか?」
「キラくんから。お母さまが読書家だって言ってたわ。本人はお喋りなほうではないから、話の流れで不本意ながら自己開示した、って感じで、もっぱら不服そうだったけど」
「キラく……先輩が」
むすっとした顔をするキラくんのすがたが想像でき、吹き出すように笑ってしまった。
結城先生はじっくりと緑茶を飲みながら、「最近はちゃんと登校してるのかしらねえ」しみじみ言う。
「昔からサボり気味なんですか?」
「サボりというか」
思案しながら、結城先生がつづける。
「彼、頭がよすぎて先生方もお手上げらしいの」
「そんなにですか?」
「いまどきはギフテッド、て言うのかしら。詳しくは本人に訊いたほうがいいけど、実績もあって、大学からも声がかかってるのよ」
それは校内では一定程度有名な話らしい。キラくんはよくもわるくも浮いていて、下級生にも名前が知られているらしいけれど、私には初耳だった。
以前キラくんに失礼な質問をしたことを思い出す。過ぎたことだけど、穴があったら入りたい。
「学校の勉強が退屈で仕方ないんでしょうね。だから、先生方も大目に見てるのよ。学校としても進学実績をつくってくれるわけだしね」
「そうなんですか」
湯呑みを白いテーブルに置き、手をぱちんと合わせて言う。ごちそうさまでした。結城先生は飾り気のない笑顔を浮かべている。
以前、追試で使った机に教科書を広げて、古い木の椅子に座っている。椅子は表面にざらつきがあり、側面からはトゲが飛び出ているので、慎重に腰かけている。
ときおり鳴るチャイムはあってないようなものだ。時間に縛られない完全な自習。ひとりきりの空間にとじこもって学習しているとき、結城先生は声をかけずに放っておいてくれる。生徒が怪我をして保健室にくることは滅多にないようだ。
薄日がさし、六限が終わるころ、担任の藤川先生が顔を出し、一言二言交わして去っていく。追試の課題の結果はまだ出揃っていないらしい。土曜日に提出したので、これから採点される教科のほうが多いのかもしれない。
これなら私にもできるかも、と胸が明るくなる。明日からも、学校にいけるかもしれない。
「ナナ」
帰宅の準備をしているころ、キラくんが保健室に顔を出した。
「おつかれさま」
端正な顔立ちなのだと気づく。凝視している私に、キラくんが怪訝そうに尋ねる。
「俺の顔になんかついてる?」
「いえ、ついてないです。すみません」
パーテーションの向こうがわから、結城先生が「あなたたち、お友だちだったの」と楽しそうに言う。
そうか、お友だちになったのか。「最近親しくなっただけ」と鬱陶しそうに返事をするキラくんを見上げながら、胸のうちでつぶやいてみる。お友だち。
「このあと時間ある?」
「あります」
うなずき返したら、キラくんが口の端を持ち上げた。この人は、こんなに表情豊かな人だったっけ、とふたたび頭がぼんやりする。
「キラくんが学校で有名人だったこと、さっき知りました」
廊下を覚束ない足取りで進みながら囁けば、キラくんは「有名とは思ってなかった」と目を細める。
「ほんとうに天才だったんですね」
「まわりが勝手に言ってるだけだよ」
キラくんはきっぱりと言い切った。
そのまま二人で裏門から外に出て、だれに見られているか考えもしないまま、手をつないで歩いた。
「キラくんからみえる世界って、どんな感じなんですか」
傍目からしたらカップルにも見えなくない私たちの間には、ひんやりとした風が通っている。季節柄のものか、それとも体感的なものなのか、よくわからなかった。
「さあ。普通じゃん? 他の人の世界をみたことがないから、比較のしようがない」
まさにその通りだった。馬鹿なことを問うたなと内心反省していたら、「でも」と気落ちした声が降ってくる。
「勉強ができたところで、兄のことは救えなかったんだから、大きな意味はないよ」
そうなんですね、とも、それはちがうと思います、とも言えなかった。そのようなものには意味がないのだろうし、キラくんが悔やんでいるのであれば、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。
なにか言わなければ、と逡巡するも、結局言うべきことばは出てこない。キラくんは我に返ったように「困らせてごめん」と言った。逆に気を遣わせてしまったらしい。申し訳なさに縮こまりたくなる。
「カフェなんてどう」
無理に明るい声を出すみたいに、キラくんが沈んだ調子をひっこめて問いかけてくる。
「いいですね、喉が渇いたなと思ってました」
「よしきた」
ゆるく手をつなぎながら、銀杏並木のしたを歩いていた。葉っぱが重なり合うところが地面で影になり、切れ間からはときどき陽光がきらめいている。まるで水面に反射している太陽のようだ。
「ここ、ギンナンのにおいがしないですね」
「ぜんぶオスの木なんじゃない」
「オスの木?」
「ギンナンはメスの木につくんだよ。オスの木にはつかない」
そうなんだ、とうなずく。それが一般常識なのかどうかわからないけれど、私は素直に感心する。
天才とか凡人とか、結局のところ私にはよくわからないし、私はそれを見抜く目も持っていない。だからこそ、私は凡人なのかもしれないけれど。
「ここでいい?」
キラくんは私を喫茶店に連れていった。
赤茶色の煉瓦造りの建物で、蔦のようなものが壁を這っている。初夏には緑の葉をつけるのだろうけど、今は枯れた茎だけが残っていて、土色の蔦は必死に壁にしがみついている。
「なににする?」
アンティーク調のテーブルに置かれた黒いファイルを開く。ファイリングされた手書きのメニュー表を眺めながら、私たちはホットのカフェオレを頼んだ。
しばらくしたら、小花柄の前掛けをつけた店員が、銀色のお盆のうえに白磁のコーヒーカップを乗せてやってきた。無言で私たちの前にそれを置き、足音も立てずに去っていく。
「あらためて学校おつかれさま」
「おつかれさまです」
乾杯はしないけれど、胸の高さまでカップを持ち上げて、そういうそぶりをした。
「キラくん」
「ん?」
カフェオレを飲むキラくんが、上目遣い気味に正面の私を見た。
「昨晩は亮司さんに連絡しなかったんですか? お兄さんの彼女だった人のことで」
「しなかったな」
「そうなんですか」
キラくんはまだ迷っているらしい。
「その人の立場からしたら、ひきこもって頭のおかしくなった男のことなんか、今更掘り起こされたくないのでは」
「それはそうかもしれないですけど」
カップを雪のように白いソーサーに置きながら、私はつづける。
「掘り起こすかどうか決めるのは、その元彼女、では」
「たしかに」
「いやだったらお断りされると思います」
男女の色恋のことは不得意だ。小学生のころは異性を意識したことなどなかったし、中学生のころはテニスに打ち込んだ。
そういえば千波には彼氏がいたのだった。テニス部の部長として活躍しながら、その合間を縫ってデートしていた記憶がよみがえる。器用な人だった。
「もしその点を気にされるなら、あらかじめ伝えるといいんじゃないでしょうか。無理なお願いであることは承知しているので、断っていただいてもまったく構わない、みたいなことを」
キラくんは不意にあどけない笑みをみせた。
「ナナ、ずいぶんと積極的だ」
いたずらっ子のような笑顔でそう言うので、私はふいと顔を背けた。いまの顔を見られてはいけないという、ただその一心で。
「でも、そうだな。ナナの言うとおりにしてみるよ」
「出しゃばってすみません」
「そんなこと思ってない。ありがたいと思ってる」
店内にはジャズが流れていた。会話を遮らない音量で、弾むようなテンポの演奏がつづいている。どこかで聴いたことがある曲だけれど、思い出せない。
「ナナはさ」
音楽が遠ざかり、キラくんの声を耳が拾う。
「きっかけってあったの」
「不登校のことですか?」
「そう」
「きっかけ、ですか」
この学校で保健室登校をしている生徒はいないらしい。保健室のドアを引けば、いつもの白衣に身を包んだ結城先生がちらりと入口を見た。
「あら、おはよう、都川さん」
「おはようございます、先生。あの、私、今日から」
「大丈夫。担任の先生から聞いていますよ」
その気さくな笑みにほっと肩を撫で下ろす。
私は結城先生が勧めてくれたパイプ椅子に腰を下ろし、熱い緑茶をご馳走になった。
「すてきな湯呑みですね」
「でしょう? 学生のころにね、蚤の市で手に入れたの。ずいぶんと昔のことだけどね」
「蚤の市?」
気を悪くしたふうもなく結城先生は微笑を浮かべる。
「古物市。若い子にはフリーマーケットって言ったほうが伝わりやすいかしら。骨董がすきでね、昔から」
渋皮色の湯呑みで、表面はごつごつしているのに凹凸が手のやわらかいところに刺さらず、まるみを帯びている。まるで温もりのある岩を抱いているようだ。
「うちも父が骨董好きなんです。のめり込まないように気をつけてるらしいんですけど」
「それは正解よ。没入するとたいへんなんだから。お父さまはどういうものがお好きなの」
「詳しいことはわからないんですけど、唐津焼の絵付けがしてあるのがいいみたいで」
「まあ」
唐津焼も、絵付けも、私には価値のあるものなのかどうかさえ、判断する材料を持たない。
「あとは骨董ではないんですけど、本もすきで。それも古本屋で絶版本を探すのが趣味らしくて、家の書棚はぎゅうぎゅう詰めです」
結城先生はおかしそうに屈託のない笑みを浮かべている。
私はいつから気兼ねなく話せるようになったのだっけ、とぼうっとしている。記憶があぶくのように浮き上がっては消えて、またぷつぷつと浮き上がるのを繰り返している。
「似たような話を聞いたことがあるわね」
結城先生は柿色の湯呑みに緑茶を注いでいる。よく使い込まれ、手に馴染んでいた。
「どなたからですか?」
「キラくんから。お母さまが読書家だって言ってたわ。本人はお喋りなほうではないから、話の流れで不本意ながら自己開示した、って感じで、もっぱら不服そうだったけど」
「キラく……先輩が」
むすっとした顔をするキラくんのすがたが想像でき、吹き出すように笑ってしまった。
結城先生はじっくりと緑茶を飲みながら、「最近はちゃんと登校してるのかしらねえ」しみじみ言う。
「昔からサボり気味なんですか?」
「サボりというか」
思案しながら、結城先生がつづける。
「彼、頭がよすぎて先生方もお手上げらしいの」
「そんなにですか?」
「いまどきはギフテッド、て言うのかしら。詳しくは本人に訊いたほうがいいけど、実績もあって、大学からも声がかかってるのよ」
それは校内では一定程度有名な話らしい。キラくんはよくもわるくも浮いていて、下級生にも名前が知られているらしいけれど、私には初耳だった。
以前キラくんに失礼な質問をしたことを思い出す。過ぎたことだけど、穴があったら入りたい。
「学校の勉強が退屈で仕方ないんでしょうね。だから、先生方も大目に見てるのよ。学校としても進学実績をつくってくれるわけだしね」
「そうなんですか」
湯呑みを白いテーブルに置き、手をぱちんと合わせて言う。ごちそうさまでした。結城先生は飾り気のない笑顔を浮かべている。
以前、追試で使った机に教科書を広げて、古い木の椅子に座っている。椅子は表面にざらつきがあり、側面からはトゲが飛び出ているので、慎重に腰かけている。
ときおり鳴るチャイムはあってないようなものだ。時間に縛られない完全な自習。ひとりきりの空間にとじこもって学習しているとき、結城先生は声をかけずに放っておいてくれる。生徒が怪我をして保健室にくることは滅多にないようだ。
薄日がさし、六限が終わるころ、担任の藤川先生が顔を出し、一言二言交わして去っていく。追試の課題の結果はまだ出揃っていないらしい。土曜日に提出したので、これから採点される教科のほうが多いのかもしれない。
これなら私にもできるかも、と胸が明るくなる。明日からも、学校にいけるかもしれない。
「ナナ」
帰宅の準備をしているころ、キラくんが保健室に顔を出した。
「おつかれさま」
端正な顔立ちなのだと気づく。凝視している私に、キラくんが怪訝そうに尋ねる。
「俺の顔になんかついてる?」
「いえ、ついてないです。すみません」
パーテーションの向こうがわから、結城先生が「あなたたち、お友だちだったの」と楽しそうに言う。
そうか、お友だちになったのか。「最近親しくなっただけ」と鬱陶しそうに返事をするキラくんを見上げながら、胸のうちでつぶやいてみる。お友だち。
「このあと時間ある?」
「あります」
うなずき返したら、キラくんが口の端を持ち上げた。この人は、こんなに表情豊かな人だったっけ、とふたたび頭がぼんやりする。
「キラくんが学校で有名人だったこと、さっき知りました」
廊下を覚束ない足取りで進みながら囁けば、キラくんは「有名とは思ってなかった」と目を細める。
「ほんとうに天才だったんですね」
「まわりが勝手に言ってるだけだよ」
キラくんはきっぱりと言い切った。
そのまま二人で裏門から外に出て、だれに見られているか考えもしないまま、手をつないで歩いた。
「キラくんからみえる世界って、どんな感じなんですか」
傍目からしたらカップルにも見えなくない私たちの間には、ひんやりとした風が通っている。季節柄のものか、それとも体感的なものなのか、よくわからなかった。
「さあ。普通じゃん? 他の人の世界をみたことがないから、比較のしようがない」
まさにその通りだった。馬鹿なことを問うたなと内心反省していたら、「でも」と気落ちした声が降ってくる。
「勉強ができたところで、兄のことは救えなかったんだから、大きな意味はないよ」
そうなんですね、とも、それはちがうと思います、とも言えなかった。そのようなものには意味がないのだろうし、キラくんが悔やんでいるのであれば、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。
なにか言わなければ、と逡巡するも、結局言うべきことばは出てこない。キラくんは我に返ったように「困らせてごめん」と言った。逆に気を遣わせてしまったらしい。申し訳なさに縮こまりたくなる。
「カフェなんてどう」
無理に明るい声を出すみたいに、キラくんが沈んだ調子をひっこめて問いかけてくる。
「いいですね、喉が渇いたなと思ってました」
「よしきた」
ゆるく手をつなぎながら、銀杏並木のしたを歩いていた。葉っぱが重なり合うところが地面で影になり、切れ間からはときどき陽光がきらめいている。まるで水面に反射している太陽のようだ。
「ここ、ギンナンのにおいがしないですね」
「ぜんぶオスの木なんじゃない」
「オスの木?」
「ギンナンはメスの木につくんだよ。オスの木にはつかない」
そうなんだ、とうなずく。それが一般常識なのかどうかわからないけれど、私は素直に感心する。
天才とか凡人とか、結局のところ私にはよくわからないし、私はそれを見抜く目も持っていない。だからこそ、私は凡人なのかもしれないけれど。
「ここでいい?」
キラくんは私を喫茶店に連れていった。
赤茶色の煉瓦造りの建物で、蔦のようなものが壁を這っている。初夏には緑の葉をつけるのだろうけど、今は枯れた茎だけが残っていて、土色の蔦は必死に壁にしがみついている。
「なににする?」
アンティーク調のテーブルに置かれた黒いファイルを開く。ファイリングされた手書きのメニュー表を眺めながら、私たちはホットのカフェオレを頼んだ。
しばらくしたら、小花柄の前掛けをつけた店員が、銀色のお盆のうえに白磁のコーヒーカップを乗せてやってきた。無言で私たちの前にそれを置き、足音も立てずに去っていく。
「あらためて学校おつかれさま」
「おつかれさまです」
乾杯はしないけれど、胸の高さまでカップを持ち上げて、そういうそぶりをした。
「キラくん」
「ん?」
カフェオレを飲むキラくんが、上目遣い気味に正面の私を見た。
「昨晩は亮司さんに連絡しなかったんですか? お兄さんの彼女だった人のことで」
「しなかったな」
「そうなんですか」
キラくんはまだ迷っているらしい。
「その人の立場からしたら、ひきこもって頭のおかしくなった男のことなんか、今更掘り起こされたくないのでは」
「それはそうかもしれないですけど」
カップを雪のように白いソーサーに置きながら、私はつづける。
「掘り起こすかどうか決めるのは、その元彼女、では」
「たしかに」
「いやだったらお断りされると思います」
男女の色恋のことは不得意だ。小学生のころは異性を意識したことなどなかったし、中学生のころはテニスに打ち込んだ。
そういえば千波には彼氏がいたのだった。テニス部の部長として活躍しながら、その合間を縫ってデートしていた記憶がよみがえる。器用な人だった。
「もしその点を気にされるなら、あらかじめ伝えるといいんじゃないでしょうか。無理なお願いであることは承知しているので、断っていただいてもまったく構わない、みたいなことを」
キラくんは不意にあどけない笑みをみせた。
「ナナ、ずいぶんと積極的だ」
いたずらっ子のような笑顔でそう言うので、私はふいと顔を背けた。いまの顔を見られてはいけないという、ただその一心で。
「でも、そうだな。ナナの言うとおりにしてみるよ」
「出しゃばってすみません」
「そんなこと思ってない。ありがたいと思ってる」
店内にはジャズが流れていた。会話を遮らない音量で、弾むようなテンポの演奏がつづいている。どこかで聴いたことがある曲だけれど、思い出せない。
「ナナはさ」
音楽が遠ざかり、キラくんの声を耳が拾う。
「きっかけってあったの」
「不登校のことですか?」
「そう」
「きっかけ、ですか」
