その後は優しかったころのキラくんのお兄さんの話で盛り上がった。私にとっては知らない人なのに、そのすがたは脳内で生き生きと動いている。手足を伸ばし、髪を揺らし、顔をくしゃりと歪めて笑っている。
 もしかして会ったことがあるんじゃないか、と錯覚するくらいには、人柄や過去のエピソードが積み上がっていた。そのころには、日が傾きはじめていた。

「あれ、今日は夜の営業は?」

 そう言い出したキラくんに、亮司さんがあっけらかんと言う。

「休みにした」
「日曜日の夜って稼ぎどきなんじゃないの? 地元客が来るって言ってたじゃん」
「んー、まあいいんだ、今日は。久しぶりに夏樹の話ができて面白かったし」

 麦穂さんもにっこりと笑い、うんうん、と同意している。

「げ、麦穂ってほんとザルだな。何缶飲んだんだよ」
「いくら飲んだかわからないくらいには飲みました。お金はちゃんと払うよ」
「もういいよ、今日は。気分いいから」
「亮司くん酔ってるんでしょう」

 高校生のキラくんと私はオレンジジュースを飲んでいたけれど、そのうちカシスジュースが加わり、しまいにはノンアルコールドリンクの飲み比べ大会みたいになってしまった。こちらも支払いをしようと財布を出したけれど、頑なに固辞されてしまった。

「あー、そういえば、蛍人」

 頬に赤みがさしている亮司さんが、大きな手をひらひらと縦に揺らしている。

「おまえ、夏樹に彼女がいたこと、知ってるか?」
「え?」
「やっぱり、知らねえか」

 キラくんは瞬きを繰り返している。そのたびに、瞳にうつる光がためらいがちに彩度を変えている。

「俺、そいつの連絡先知ってるから。もしそいつと接触したかったら、いつでも連絡しろよ」
「なんで」
「それはどういう意味の『なんで』?」

 反射的に出た『なんで』だったんだろう。はっとしたキラくんは、すぐにいつもの調子に戻った。

「べつに」
「まあ、なんかあれば教えて。いまになって夏樹のこと、気になってきたんだろ? 知りあいをつなぐことくらいはできると思うから」
「わかった、ありがとう」

 亮司さんと麦穂さんはお店の入口で見送ってくれた。二人とも「またおいで」と言い、手を振っている。私は会釈をし、さきに背を向けて歩きはじめたキラくんを追いかけた。
 横に並べば、キラくんが歩くペースをゆるめてくれた。肌寒い風が頬を撫でる。

「今日、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました。楽しかったです」

 それならよかった、ときれいな形の唇が動いた。

「ナナにさ」

 そう囁いたキラくんの頭上を、夕陽を背負ったカラスが飛び去っていく。私は唇を結んで耳を傾けた。

「兄のこと教えてって言ったけど、兄の情報があまりないのもフェアじゃないなと思って」
「だから今日、連れてきてくれたんですか?」
「うん」

 行きに降車したバス停に並んだ。ほかに待っている客はいない。たまに車が横切って、砂利がからからと風下へ転がっていく。

「とはいっても、ひきこもった理由なんかは、やっぱりわからなかったけど」
「彼女がいた、って言ってましたね」

 キラくんの瞳が力を失っている気がした。相槌は夕闇に紛れてかき消されてしまう。

「俺は知らなかった」

 ショックなのかもしれないし、憤慨なのかもしれなかった。だけど、キラくんは諦めにも似た表情で、西の空を見上げている。

「よく考えたら年頃だし、いてもおかしくはないんだけどな」
「年頃って、ふふ」
「笑うなよ。でもさ、彼女がいる気配なんて欠片もみせてなかったんだよな。当然家にも連れてきてないと思うし」

 笑われたことが恥ずかしかったのか、耳たぶを赤く染めながら、キラくんが私の額を小突いた。

「兄は兄でべつの人間だ、って割り切ってたけど。実はなんでも知ってるみたいに思ってたのかな。そんなの傲慢だよな」
「それを言うなら、私のほうが傲慢かもしれないです」

 キラくんの視線を感じながら、私は目の前を行き交う自動車や軽トラックを眺めている。

「亮司さんが言ってたじゃないですか。自分が見てるものだけがすべてじゃない、って」
「ああ、言ってたな」
「私はたぶん、すべてだと思ってたんです。だから、自分に制御できないことがたくさん起こって、自分の見ている世界が信じられなくなった。ずっと傲慢だったのかもしれないと思いました」
「あの人の言うことは話半分で聞き流せばいいよ。大口を叩くのが得意だから」

 キラくんがにやりと笑って、私の手を取った。私は自分の頬がほころんでいるのを感じる。

「明日、どうすんの」

 学校のことだ。私は手を握り返した。

「いこうと思ってます。保健室登校、だけど」
「いいんじゃね。出席日数危ないんでしょ?」
「はい。いまならやれるかなって思うから、少しずつだけど、頑張ってみようと思います」
「べつに頑張らなくていいと思うけど。ナナがやりたいと思ったことをやってみればいいよ」

 麦穂さんは、キラくんの優しさはわかりにくいと言っていたけれど、私は比較的わかりやすいのではないかと感じている。ただそれも、キラくんの私への顔と麦穂さんへの顔が同じではないからなのかもしれない。
 それでも、こわいとは思わなかった。

「もしさ」

 紅梅色の夕焼け空を背負って、バスが走ってくるのが見える。キラくんと私は同じ方向を眺めている。

「もし、俺が兄の彼女だった人に会いたいって言ったら、ナナはついてきてくれる?」

 歯切れの悪い、でも意を決したようなことばだった。私は迷いもせず即答した。

「もちろんです」

 バスがゆるゆるとスピードを落として停車する。ぷしゅっと空気の抜けるような音がして、前方のドアが開いた。それは麦穂さんのプルタブの音を思い起こさせて、思わず口許が弛緩した。

「あーあ、俺って本来こんなことするタイプじゃないんだけどな」

 お兄さんの情報を探し歩いている自分のことを言っているのだろう。空いているほうの手で茶髪をぐしゃぐしゃにしながら、キラくんなりに葛藤しているようだった。

 帰宅したら、家は静かだった。駐車スペースに車がなかったので、父と母はドライブから戻ってきていないらしい。
 私はほっと息をつくと、手を洗って部屋着に着替えた。こんな簡単なことでさえも、できるようになった自分に驚きながら。
 リビングのテーブルのうえにはメモが置いてあって、夜遅くなる旨が書かれていた。達筆な母の字だった。夕飯は冷蔵庫の中にあるらしい。胸に痛みが走り、咄嗟に胸を押さえて立ち止まる。親にわるいことをしている気がした。
 シャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かす。何十分かけても乾き切らない髪にうんざりしてくる。

「髪、切ろうかな」

 独白もドライヤーの唸る音で消えてなくなる。
 ひとりで美容院にいけるだろうか。自信はまったくなかった。美容院にいくまでの道のり、ついてから入店すること、美容師とのやりとり、そのすべてを難なく達成できる気がしない。
 中学生のころから、美容院はあまり得意ではなかった。愛想よく話しかけてくれる美容師と、なにを話せばいいのかわからなかった。美容師だってうんと子どもの私と話すことなんてないのではないか。私は大人と会話することが苦手だったことを思い出す。
 自分が大人になれば、おなじ目線で話せるようになるだろうか、と空想していたけれど、大人になるまえにひきこもってしまった。いまの私の自信は限りなくゼロに近い。
 髪を切ることについて考えているうちに、頭のなかがぐるぐると渦を巻いて、収集がつかなくなっていく。ああ、また、なにから取りかかればいいか、優先順位が見えなくなる。そうすると、私は動くこともできずに、その場でじっとして、自分のなかの燻りが通り過ぎるのを待つ。

「そう、いまは、学校へいくことを考える」

 息が吸えるようになる。
 どうして学校にいくのか、答えは見つかっていない。楽しくもない、面白くもない、やりたいこともない、将来に夢も希望もない、ゼロ地点にいる私には山頂のみえない山脈のようだ。
 わからないことが苦しいけれど、わからないままひきこもることのほうが、もっと苦しい。
 キラくんのお兄さんはどうして不登校になったのだろうか。いきたくなかったのだろうか。いけなくなったのだろうか。なにが苦しかったのだろう。

「釧路、か」

 ドライヤーのスイッチを切り、リビングのソファに腰掛ける。足をローテーブルの下に投げ出して、片手でスマートフォンをいじる。
 湿原、丹頂鶴、湖、雪、霧。
 大自然の色彩豊かな画像が無数に流れてくる。なぜここにという疑問と、嫌な予感がじわじわと顔を出す。
 キラくんのお兄さんは、東京に帰ってくる気、あったのかな。