お盆が過ぎ、私は数日ぶりに神社を訪れた。
 鳥居の下には藍が座っていて、私の顔を見るとさっと右手をあげた。

「凜、久しぶり」
「うん……」

 私は曖昧な挨拶を返し、すぐに提案した。

「藍……名前あてゲームしようよ」
「お、いいぜ。やる気満々だな」

 藍は反動をつけてぴょんと立ち上がった。私の態度がいつもと違うことに気がついた様子はない。藍色のTシャツを風になびかせて、いつもと同じ少し悪戯な笑顔で私のことを見つめている。

 私はメモ紙に書いていた名前を次々と口にした。てつや、けんいち、ひでき、まなぶ。一つ名前を口にするたび、藍はすました顔で「外れ」と返す。無限にある人の名前の中から、たった一つの自分の名前を当てられるとは思ってもいないのだろう。

 そしてついに10個目の名前。私はメモ紙を閉じ、ずっと頭に思い浮かべていたその名前を口にした。

「せいじ」

 藍の目が丸くなった。

「お、すげぇ。正解――」
「三浦青司、くん」

 私がはっきりとした口調で告げると、藍の顔からはすっと感情が消えた。

「……誰に聞いた?」
「おばあちゃん。お母さんがまだ小さかった頃、近所に住む男の子が溜池に落ちて亡くなったんだって話してた。当時、中学2年生だった三浦青司くんが」

 私は汗ばんだ手で服のすそを握りしめながら、でも臆することはなくそう伝えた。恐怖心はなかった。あるのは多少の罪悪感だけ。私は自分の力で藍との勝負に勝ちたかったのに、好奇心に負けて祖母に『昔、溜池に落ちて亡くなった男の子の名前』を尋ねてしまった。

 藍は無表情のまま佇んでいた。二つの目がまっすぐ私のことを見据えていた。
 私はごくりと息を呑んだ。藍のことは恐ろしくない。真実を知られたからといって藍が私に危害を加えるとは思わない。だって藍は初めから自分の正体を隠そうとはしていなかったのだから。
 ――名前をあてられたら、俺の秘密を教えてやるよ
 藍が私にそう言ったのはもう1ヶ月近くも前のことだ。

 私の予想は正しかったようで、藍はすぐに気抜けした表情で白状した。

「あーあ……ばれちゃったか。凜が驚く顔、楽しみにしてたんだけどなぁ」

 ああ……やっぱり本当だったんだ。
 私は足下が崩れていく気持ちだった。心のどこかでは藍が普通の人間だと信じていた。祖父母が勘違いをしているだけで、藍はこの世界に実在する生きた人間なのだと。
 でも違った。藍はもういなかった。30年以上も前に、溜息に落ちて死んだ。ならば今、私の目の前にいる存在は何なのだろう。幽霊――というものなのだろうか。

「藍は……幽霊なの?」

 私が率直に尋ねると、藍はさっぱりした表情で答えた。

「そうなんじゃないかな。俺、いつもここに座ってるんだけどさ。誰にも気付いてもらえないんだよね」
「でも、私は気付いたよ? どうして?」
「そんなの俺に訊かれたって知らないよ。俺だってびっくりしたんだ。どうせ気付かれないしと思って眺めてたら、凜がいきなり悲鳴をあげるから」

 それから不意に思いついた顔をした。

「あ……でも、何年か前に一度だけ見られたことがあったな。今にも死にそうなヨボヨボの爺さんだった。だからもしかして、死に近い人間には俺の姿が見えるのかもしれない」

 藍が淡々と推理するものだから、私は不安になった。

「私、死にそうってこと?」
「肉体的に死に近いかどうかは知らないけどさ。精神的にはけっこう近いものがあったんじゃないの。初めて凜のことを見たときは『自殺でもしにきたのかな』と思ったし、俺」
「……そうだったの?」

 藍の発言は寝耳に水だったが、あながち間違いではないのかもしれないと思った。

 天笠原村へやってきた当初、私は自分の人生に絶望していた。学校に行けない自分に価値などないと思っていた。両親に見捨てられ、誰の期待に応えることもできないままこの先の人生を歩んでいくのか、と。
 直接的に死にたいと思ったことはない。でも生きたいとも思っていなかったのだろう。命の選択をすることすら億劫で漠然と生を繋いでいた。藍が言うとおり、肉体こそ生きていたけれど私の心はとても死に近かった。

「あと……俺と凜が同い年だからかもな。うまいこと世界が繋がっちゃったのかも」

 藍は右手と左手の人差し指をくっつけた。そうやって本来なら繋がるはずのない世界が繋がってしまったことを、喜べばいいのか、悲しめばいいのか、今の私にはよくわからなかった。

「藍は……どうして溜池に落ちたの」
「魚を獲ってたんだ。溜池には鯉やなまずがいるし、時期によっては小海老が獲れたりもするからさ。穴場の遊び場だったんだよね。そうやって妹と一緒に遊んでたら、足を滑らせて池に落ちた。水草が足に絡んで水面にあがれなかった。運が悪かったんだ」
「お寺の真向かいの家で暮らしていた人がお母さん?」
「うん、そう。母親が自宅にいた頃はまだ良かったんだけどさ。年を取ってどこかに引っ越していったから、俺も暇になっちゃった。だからいつも神社に来てるんだ。生きてた頃はここでよく遊んでたから」

 私はうつむき「そうなんだ」と小さな声で相槌を打った。
 藍の姿かたちはお盆前に会ったときと何も変わらない。でも私には、今の藍は以前の藍とは別人のように思われてならなかった。話しかけたところで藍の肉体はここに存在しない。触れた手のぬくもりはまやかしだった。
 ならば藍と過ごした日々に意味はあったのだろうか。すべては私の妄想の中の出来事だと言われたら、そうでないことを証明することはできないというのに。

「凜?」

 藍の呼びかけに、私は答えなかった。ふらふらとよろめきながら鳥居をくぐり、神社を後にする。
 使い終わったあとの絵の具パレットみたいに心の中がぐちゃぐちゃだった。

 その日の夜、私のスマホに母親から電話がかかってきた。
 およそ1ヶ月ぶりに聞く母の声は、以前とは違い穏やかな調子だった。私がこの村にきて変わったように、母の中でも何かが変わる1ヶ月だったのだろう。
 「明後日、迎えに行くからね」と母は言った。私は「わかった」と答えた。喜ぶべきことだと自分に言い聞かせたが、夢から現実に引き戻されるときのような、淡い喪失感が消えることはなかった。