花冠をもらった翌日から数日間、雨が降り続いた。
雨が降っている間、神社には行けなかった。藍に会いたいという気持ちはあったが、一日中切れ間なく雨が降り続くのだからどうしようもない。
鬱陶しいと思う気持ちもあったが、「畑の野菜が喜んでるねぇ」と話す祖父母の姿を見て考えを改めた。雨が降らなければ木々は育たない。作物が実ることもない。そんな当然のことを忘れていた。
雨音を聞くうちに暦は変わり、8月が訪れた。
降り続いた雨は止み、分厚い雲のあいだには数日ぶりに太陽の姿が見えた。天気予報を信じるのなら、これからまたしばらくは晴れの日が続く模様。
「凜。一緒に田んぼの水を見に行かないか?」
「行く!」
祖父の誘われて、私はぴょこんと立ち上がった。数日間外に出られなかったせいで体力を有り余っている。
祖母の長靴を借りて裏口から出ると、湿気を帯びた空気が肌にはりついてきた。雨と土が混じり合った独特の匂いがする。
細いあぜ道を歩きながら、祖父は「雨が降ると田んぼの水が増えてしまうから、ちょうどいい量になるように水を抜くんだ」と教えてくれた。
自宅の近くにあるいくつかの田んぼを回り、あぜ道をとおって自宅へと戻った。
裏口の扉をくぐる寸前、自宅の近くに生えた果樹が目についた。桃に似た赤紫色の果実を実らせている。
「おじいちゃん。あの木は何の木?」
「ああ、あれはプラムの木だ」
「プラム? 食べれるの?」
「食べれるとも」
祖父は果実を一つもぐと、大きな口でかじりついた。私も真似をして果実をもぐと、Tシャツのすそで汚れを落とし、紫の濃い部分をかじってみる。
ぷつ、と薄い皮が弾けみずみずしい果汁が口中に広がった。
「……すっぱい!」
「ははは。プラムは皮ぎしが酸っぱいからなぁ」
祖父は笑いながらプラムをかじっているが、私は思いがけない酸っぱさに身悶えてしまった。それでも一口、また一口とかじれば段々と美味しさがわかってくる。
一つ目を食べ終えて、二つ目を食べようかと手を伸ばしたとき、私は濡れた地面にいくつものプラムが落ちていることに気がついた。まだ落ちてから時間は経っていないようだから、今朝までの雨が原因だろう。
「おじいちゃん……このプラム、拾えば食べれる?」
私が腰をかがめて尋ねると、祖父は不思議そうな顔をした。
「食べられないことはないが、わざわざ地面に落ちたのを食べなくてもいいじゃないか」
「うん……でも、せっかくここまで大きくなったのに可哀想だなって……」
私は悲しい気持ちで地面に落ちたプラムを眺めた。雨と泥に汚れ、皮の一部が潰れてしまった果実は、両親に見捨てられた私の姿そのものだったから。
「……ふむ」
祖父は何かに気付いたような顔をして、腰をかがめた。地面に落ちた果実の中から痛みの少ない物をいくつか拾い、何も言わずに自宅へと戻っていく。
私は祖父の考えがわからないままその背中を追った。
「良子。このプラム、ジャムにできるか?」
祖父は、台所仕事をしていた祖母に泥だらけのプラムを差し出した。
「できるけど、どうしたの?」
「雨で実が落ちていたんだ。勿体ないから拾ってきた」
「……ふぅん?」
祖母の行動は早かった。よく洗ったプラムをまな板の上にのせ、傷んだ部分を切り落って捨てる。種をとり、砂糖と一緒に小鍋に入れ、木べらで掻き混ぜながら火にかける。
私は小鍋を覗きこみながら祖母に尋ねた。
「これでジャムができるの?」
「そうだよ、簡単でしょう」
少しとろみがついてきたところで、祖母は鍋を火から下ろした。
できたてのジャムをスプーンですくって食べてみる。生の果実とはまた違った上品な甘みが広がって、つい頬が緩んでしまう。
「美味しいね」
「美味しいでしょ。幸恵と智輝が子どもの頃は、色んな果物のジャムをよく作ったもんだわ。ブルーベリーとかハスカップとか、ラズベリーとか」
「そうなんだ……」
祖母が食パンを切ってくれたので、おやつ代わりに皆で食べることにした。小さな食パンにできたてのジャムをたっぷりのせて口に入れる。こんな贅沢な食べ方が他にあるだろうか。
私が3切れ目の食パンにジャムをのせていると、祖父が腕組みをしながら言った。
「地面に落ちたところで味は変わらないからな。それに雨に打たれて落ちるということは、他の実よりも大きく育っていたということだ。いらない実だから落ちたんじゃない」
祖母は何の話かわからないという顔をしたが、私は祖父の言葉を噛みしめながら黙々と食パンを食べた。
地面に落ちて汚れていた可哀想な果実。丁寧に汚れを落とし、時間をかけて煮込まれたプラムのジャムは、生の果実に負けないくらい美味しかった。
◇
その日の夜のこと。
ぼそぼそとくぐもった話し声を聞いて、私は目を覚ました。物音を立てないように布団から這い出し、茶の間へと続く扉をそっと開けてみると、ソファに座って電話をする祖母の姿があった。部屋の電気はついていない。暗闇に携帯電話の明かりだけがぼうっと浮かんでいる。
「凛ちゃんは元気にしてるから心配ないって、前に電話したときも言ったでしょ」
私を起こさないように気を遣っているのだろう。祖母の声は内緒話をするときのように小さい。電話の向こうで話す人の声も、私の耳にはよく聞こえない。
でも電話相手が私の母だということは、祖母の口調からすぐにわかった。
『――……』
「凜ちゃんからは何も聞いてないよ。悩みがあるからってすぐ大人に話そうとする歳じゃないでしょう」
『……――』
「何も聞いてないけど、突然うちに来るなんて言うんだから何かあったと思うのが普通でしょ。別に責めてるんじゃないよ。私たちは可愛い孫と一緒で毎日が楽しいんだから、幸恵もリフレッシュしたら? 田舎生まれの幸恵が東京で子育てだなんて、考えただけでも大変」
『――……』
「はいはい、お盆までは忙しいんだね? それならお盆明けに和也さんとこっちに来たらいいじゃないの。もう10年以上も帰ってきてないんだから、たまにはご先祖様に顔を見せなさい」
その後は他愛のないやりとりを続け、祖母は電話を切った。「またこんな時間に電話してきて」と文句を言いながら寝室へと戻っていく。
私は和室のドアに耳をくっつけたまま動くことができなかった。様々な思いで胸がいっぱいになった。
私は両親から捨てらたんじゃなかった。母は、私が天笠原村にきた後もずっと気にかけてくれていた。あのときはお互いに切羽詰まっていて、口調こそきつくなってしまったけれど、決して私を捨てようとしていたのではなかったのだ。
お母さんときちんと話そう。私は私なりに変わらないと。
初めてそう思うことができた。
雨が降っている間、神社には行けなかった。藍に会いたいという気持ちはあったが、一日中切れ間なく雨が降り続くのだからどうしようもない。
鬱陶しいと思う気持ちもあったが、「畑の野菜が喜んでるねぇ」と話す祖父母の姿を見て考えを改めた。雨が降らなければ木々は育たない。作物が実ることもない。そんな当然のことを忘れていた。
雨音を聞くうちに暦は変わり、8月が訪れた。
降り続いた雨は止み、分厚い雲のあいだには数日ぶりに太陽の姿が見えた。天気予報を信じるのなら、これからまたしばらくは晴れの日が続く模様。
「凜。一緒に田んぼの水を見に行かないか?」
「行く!」
祖父の誘われて、私はぴょこんと立ち上がった。数日間外に出られなかったせいで体力を有り余っている。
祖母の長靴を借りて裏口から出ると、湿気を帯びた空気が肌にはりついてきた。雨と土が混じり合った独特の匂いがする。
細いあぜ道を歩きながら、祖父は「雨が降ると田んぼの水が増えてしまうから、ちょうどいい量になるように水を抜くんだ」と教えてくれた。
自宅の近くにあるいくつかの田んぼを回り、あぜ道をとおって自宅へと戻った。
裏口の扉をくぐる寸前、自宅の近くに生えた果樹が目についた。桃に似た赤紫色の果実を実らせている。
「おじいちゃん。あの木は何の木?」
「ああ、あれはプラムの木だ」
「プラム? 食べれるの?」
「食べれるとも」
祖父は果実を一つもぐと、大きな口でかじりついた。私も真似をして果実をもぐと、Tシャツのすそで汚れを落とし、紫の濃い部分をかじってみる。
ぷつ、と薄い皮が弾けみずみずしい果汁が口中に広がった。
「……すっぱい!」
「ははは。プラムは皮ぎしが酸っぱいからなぁ」
祖父は笑いながらプラムをかじっているが、私は思いがけない酸っぱさに身悶えてしまった。それでも一口、また一口とかじれば段々と美味しさがわかってくる。
一つ目を食べ終えて、二つ目を食べようかと手を伸ばしたとき、私は濡れた地面にいくつものプラムが落ちていることに気がついた。まだ落ちてから時間は経っていないようだから、今朝までの雨が原因だろう。
「おじいちゃん……このプラム、拾えば食べれる?」
私が腰をかがめて尋ねると、祖父は不思議そうな顔をした。
「食べられないことはないが、わざわざ地面に落ちたのを食べなくてもいいじゃないか」
「うん……でも、せっかくここまで大きくなったのに可哀想だなって……」
私は悲しい気持ちで地面に落ちたプラムを眺めた。雨と泥に汚れ、皮の一部が潰れてしまった果実は、両親に見捨てられた私の姿そのものだったから。
「……ふむ」
祖父は何かに気付いたような顔をして、腰をかがめた。地面に落ちた果実の中から痛みの少ない物をいくつか拾い、何も言わずに自宅へと戻っていく。
私は祖父の考えがわからないままその背中を追った。
「良子。このプラム、ジャムにできるか?」
祖父は、台所仕事をしていた祖母に泥だらけのプラムを差し出した。
「できるけど、どうしたの?」
「雨で実が落ちていたんだ。勿体ないから拾ってきた」
「……ふぅん?」
祖母の行動は早かった。よく洗ったプラムをまな板の上にのせ、傷んだ部分を切り落って捨てる。種をとり、砂糖と一緒に小鍋に入れ、木べらで掻き混ぜながら火にかける。
私は小鍋を覗きこみながら祖母に尋ねた。
「これでジャムができるの?」
「そうだよ、簡単でしょう」
少しとろみがついてきたところで、祖母は鍋を火から下ろした。
できたてのジャムをスプーンですくって食べてみる。生の果実とはまた違った上品な甘みが広がって、つい頬が緩んでしまう。
「美味しいね」
「美味しいでしょ。幸恵と智輝が子どもの頃は、色んな果物のジャムをよく作ったもんだわ。ブルーベリーとかハスカップとか、ラズベリーとか」
「そうなんだ……」
祖母が食パンを切ってくれたので、おやつ代わりに皆で食べることにした。小さな食パンにできたてのジャムをたっぷりのせて口に入れる。こんな贅沢な食べ方が他にあるだろうか。
私が3切れ目の食パンにジャムをのせていると、祖父が腕組みをしながら言った。
「地面に落ちたところで味は変わらないからな。それに雨に打たれて落ちるということは、他の実よりも大きく育っていたということだ。いらない実だから落ちたんじゃない」
祖母は何の話かわからないという顔をしたが、私は祖父の言葉を噛みしめながら黙々と食パンを食べた。
地面に落ちて汚れていた可哀想な果実。丁寧に汚れを落とし、時間をかけて煮込まれたプラムのジャムは、生の果実に負けないくらい美味しかった。
◇
その日の夜のこと。
ぼそぼそとくぐもった話し声を聞いて、私は目を覚ました。物音を立てないように布団から這い出し、茶の間へと続く扉をそっと開けてみると、ソファに座って電話をする祖母の姿があった。部屋の電気はついていない。暗闇に携帯電話の明かりだけがぼうっと浮かんでいる。
「凛ちゃんは元気にしてるから心配ないって、前に電話したときも言ったでしょ」
私を起こさないように気を遣っているのだろう。祖母の声は内緒話をするときのように小さい。電話の向こうで話す人の声も、私の耳にはよく聞こえない。
でも電話相手が私の母だということは、祖母の口調からすぐにわかった。
『――……』
「凜ちゃんからは何も聞いてないよ。悩みがあるからってすぐ大人に話そうとする歳じゃないでしょう」
『……――』
「何も聞いてないけど、突然うちに来るなんて言うんだから何かあったと思うのが普通でしょ。別に責めてるんじゃないよ。私たちは可愛い孫と一緒で毎日が楽しいんだから、幸恵もリフレッシュしたら? 田舎生まれの幸恵が東京で子育てだなんて、考えただけでも大変」
『――……』
「はいはい、お盆までは忙しいんだね? それならお盆明けに和也さんとこっちに来たらいいじゃないの。もう10年以上も帰ってきてないんだから、たまにはご先祖様に顔を見せなさい」
その後は他愛のないやりとりを続け、祖母は電話を切った。「またこんな時間に電話してきて」と文句を言いながら寝室へと戻っていく。
私は和室のドアに耳をくっつけたまま動くことができなかった。様々な思いで胸がいっぱいになった。
私は両親から捨てらたんじゃなかった。母は、私が天笠原村にきた後もずっと気にかけてくれていた。あのときはお互いに切羽詰まっていて、口調こそきつくなってしまったけれど、決して私を捨てようとしていたのではなかったのだ。
お母さんときちんと話そう。私は私なりに変わらないと。
初めてそう思うことができた。



