天笠原村へやってきてから一週間が経ち、生活も落ち着きはじめた。
朝は6時半に起床。午前中は家の中で過ごし、祖父母に呼ばれて畑仕事の手伝いをすることもある。昼食をとったあとは自転車で神社を訪れ、藍と境内の中でめいっぱい遊ぶ。午後5時を目安に自宅へ戻り、風呂と夕食。テレビを見て眠たくなったら就寝。
勉強に追われていた東京での日々と比べれば別人のような生活だ。
ちなみに――私は南根神社で藍と会っていることを、祖父母には話していなかった。小さな村だから、藍の話をすれば名前がわかってしまうと思ったのだ。私は、自分の力だけで藍との勝負に勝ちたかった。
「凛はさー、いつ東京に帰んの?」
シロツメクサの花畑に座り込み、両手で器用に花冠を編みながら、藍は尋ねてきた。
私は社殿の縁側に座り、ぷらぷらと足を揺らしながら答えた。
「いつだろう……わかんないや」
「いつ帰ってこいとか、言われてねぇの?」
「うん……言われてない」
「でも学校が始まるまでには帰るだろ」
うーん、どうかな。
私のつぶやきは突風に掻き消された。縁側に置いておいた作りかけの花冠が、風にさらわれて木々の間へと消えていく。後を追おうかとも思ったが、止めた。後を追ったところで、不器用な私では花冠を最後まで作りきることができないから。
「私ね……両親に捨てられちゃったかもしれないの」
そんなことを言うつもりはなかったのに、ぽろりと言葉が零れた。
藍は花冠を編む手を止めて、シロツメクサの花畑の中から私を見上げた。
「私、お父さんとお母さんの期待に応えられなかったんだ。第一志望の中学校に受からなくて、高校受験でその失敗を取り戻したいと思ってたけど、心が弱くて潰れちゃった。だから……私はいらない子なんだよ」
◇
聖桜女子学院、という学校がある。東京都心の一等地に敷地を構える名門の中高一貫校だ。
聖桜女子学院に入学するためには、高倍率の中学受験を突破しなければならず、私はこの受験に向けて小学校入学当初から勉強に励んでいた。私が通っていた小学校では、クラスの三分の一ほどは中学受験を目指していたが、私はその中でもかなり熱心な方だった。
私は両親の期待に応えるために頑張った。しかし――私は聖桜女子学院に受からなかった。第二志望校の茜橋女学院にも受からず、滑り止めとして受験した三津原学園の合格通知が届いただけだった。
人生で初めての挫折だった。
それでも私は、入学したからには三津原学園での生活を楽しもうと思った。三津原学園は男女共学の中高一貫校で、部活動や学校行事が充実している。勉強のレベルも低いということはない。それなりに楽しい学校生活になるだろうと思っていた。
しかし私の予想は外れてしまった。
女子大出身の母は、聖桜女子学院への強いこだわりを持っていた。三津原学園の高等部には進学せず、聖桜女子学院の高等部を外部受験をすることが、私の意志とは関係なく決まった。
学校生活を楽しみたい私の思いとは裏腹に、両親は教育にのめりこみ、部活に入ることもできず塾に通うこととなった。クラスメイトと遊ぶこともできず、学校行事も疎かになり、仲のいい友達は一人もできなかった。
そして中学2年生の春休み、私の心はついに限界を迎えた。
なぜ私だけがこんなに苦しまなければならないのだろう。私の人生は誰のためのものなんだろう。私を支えていた柱のような物はぽっきりと折れて、塾にも学校にも行けなくなってしまった。
◇
私の話に、藍は黙って耳を傾けてくれた。北海道の田舎町で生まれ育った藍にとって、東京の受験事情など雲の上の話だろうに。
でも相手が藍だからこそ、私は自分の思いをぶちまけることができたのかもしれない。今までの人生で交わることのなかった人種だからこそ、話を聞いてほしいと思ったのかも。
「……つまらない話をしてごめんね。そういう事情だから、私はもう東京には帰れないかもしれないんだ」
ずず、と鼻をすすって話を締めくくった。
私が天笠原村へとやってきてから今日で一週間が経つ。その間、両親からの連絡は一度もない。天笠原村に到着した日に「無事に着いたよ」とメッセージを送り、既読の文字がついてそれっきりだ。
だから私も、両親のことはできるだけ考えないようにしていた。捨てられたと思えば胸が張り裂けそうになるから。もう二度と一緒に暮らすことはできないかもしれないと思えば涙が止まらなくなってしまうから。
藍と一緒に過ごす時間が楽しいのは本当だ。
でも楽しいという感情の裏には、いつも負の感情がつきまとっていた。靴底にこびりついた泥汚れみたいに、いくらこすっても綺麗になることはない。
「凛」
名前を呼ばれて顔を上げると、目の前に藍が立っていた。いつの間にできあがっていたのだろう、シロツメクサの花冠を指先に引っかけて、優しい顔をして笑っていた。
「これ、やるよ」
「え?」
頭にふわ、と花冠がのせられた。甘くて優しい香りが漂ってくる。
「くれるの? 何で?」
「んー……凜が今まで頑張ったから?」
壊れないようにそっと花冠を外して、眺めてみた。風に飛ばされていった私の花冠とは違い、細部まで丁寧に編み込まれている。藍には年の離れた妹がいて、妹が喜ぶからと花冠の作り方を覚えたらしい。
「私……頑張ったかなぁ」
花冠を眺めながら独り言のように呟くと、藍は自信満々で答えた。
「毎日死ぬほど勉強して、聖桜女子学院を受験したんだろ? 頑張ったじゃん」
「でも受験には失敗しちゃったし……」
「失敗したからって努力した課程が消えてなくなるわけじゃないだろ。人間、いくら努力したって届かないことはある。成功も失敗も一つの結果なんだから、それを受け止めないのは単なる我儘だと思うけど」
藍の言葉は私の胸にすとんと落ちた。
そうだよ、私は頑張ったんだよ。
聖桜女子学院に落ちたとき、私はその結果を両親に認めてほしかった。「結果は残念だったけど凜は頑張ったよね」って言ってほしかったんだよ。「じゃあ外部受験で頑張るしかないね」なんて押しつけがましい言葉を聞きたかったんじゃない。
「凜はさ、両親に自分の気持ちをきちんと伝えた方がいいよ。レベルの高い高校を目指すよりも、今の学校生活を楽しみたいんだろ? そういうの、はっきり言わなきゃわかんないと思うぞ」
藍の言葉を聞きながら、もう一度、花冠を頭にのせてみた。
私は生まれてこの方、塾以外の習い事をしたことがない。学力テストで上位の成績をとったことはあれど、美術のコンクールやスポーツ大会で入賞した経験はない。だからこうして、努力の対価として何かを貰ったのは初めてのことだ。
「……はっきり言って、本当に捨てられちゃったら?」
「そしたら天笠原村に引っ越してくればいーじゃん。高橋さんとこのじーちゃんもばーちゃんも、まだ全然元気だろ。凜が引っ越してきたら……俺はまぁ、普通に、う、嬉しいけど」
藍の声は不自然に裏返っていた。私を元気づけるためのお世辞だろうと頭ではわかっていても、心がむずがゆくなってしまう。むずがゆくて、温かい。
「藍……ありがとう」
「……ん」
私が幸せな気持ちでお礼を言うと、藍は赤い顔をしてそっぽを向いてしまった。
朝は6時半に起床。午前中は家の中で過ごし、祖父母に呼ばれて畑仕事の手伝いをすることもある。昼食をとったあとは自転車で神社を訪れ、藍と境内の中でめいっぱい遊ぶ。午後5時を目安に自宅へ戻り、風呂と夕食。テレビを見て眠たくなったら就寝。
勉強に追われていた東京での日々と比べれば別人のような生活だ。
ちなみに――私は南根神社で藍と会っていることを、祖父母には話していなかった。小さな村だから、藍の話をすれば名前がわかってしまうと思ったのだ。私は、自分の力だけで藍との勝負に勝ちたかった。
「凛はさー、いつ東京に帰んの?」
シロツメクサの花畑に座り込み、両手で器用に花冠を編みながら、藍は尋ねてきた。
私は社殿の縁側に座り、ぷらぷらと足を揺らしながら答えた。
「いつだろう……わかんないや」
「いつ帰ってこいとか、言われてねぇの?」
「うん……言われてない」
「でも学校が始まるまでには帰るだろ」
うーん、どうかな。
私のつぶやきは突風に掻き消された。縁側に置いておいた作りかけの花冠が、風にさらわれて木々の間へと消えていく。後を追おうかとも思ったが、止めた。後を追ったところで、不器用な私では花冠を最後まで作りきることができないから。
「私ね……両親に捨てられちゃったかもしれないの」
そんなことを言うつもりはなかったのに、ぽろりと言葉が零れた。
藍は花冠を編む手を止めて、シロツメクサの花畑の中から私を見上げた。
「私、お父さんとお母さんの期待に応えられなかったんだ。第一志望の中学校に受からなくて、高校受験でその失敗を取り戻したいと思ってたけど、心が弱くて潰れちゃった。だから……私はいらない子なんだよ」
◇
聖桜女子学院、という学校がある。東京都心の一等地に敷地を構える名門の中高一貫校だ。
聖桜女子学院に入学するためには、高倍率の中学受験を突破しなければならず、私はこの受験に向けて小学校入学当初から勉強に励んでいた。私が通っていた小学校では、クラスの三分の一ほどは中学受験を目指していたが、私はその中でもかなり熱心な方だった。
私は両親の期待に応えるために頑張った。しかし――私は聖桜女子学院に受からなかった。第二志望校の茜橋女学院にも受からず、滑り止めとして受験した三津原学園の合格通知が届いただけだった。
人生で初めての挫折だった。
それでも私は、入学したからには三津原学園での生活を楽しもうと思った。三津原学園は男女共学の中高一貫校で、部活動や学校行事が充実している。勉強のレベルも低いということはない。それなりに楽しい学校生活になるだろうと思っていた。
しかし私の予想は外れてしまった。
女子大出身の母は、聖桜女子学院への強いこだわりを持っていた。三津原学園の高等部には進学せず、聖桜女子学院の高等部を外部受験をすることが、私の意志とは関係なく決まった。
学校生活を楽しみたい私の思いとは裏腹に、両親は教育にのめりこみ、部活に入ることもできず塾に通うこととなった。クラスメイトと遊ぶこともできず、学校行事も疎かになり、仲のいい友達は一人もできなかった。
そして中学2年生の春休み、私の心はついに限界を迎えた。
なぜ私だけがこんなに苦しまなければならないのだろう。私の人生は誰のためのものなんだろう。私を支えていた柱のような物はぽっきりと折れて、塾にも学校にも行けなくなってしまった。
◇
私の話に、藍は黙って耳を傾けてくれた。北海道の田舎町で生まれ育った藍にとって、東京の受験事情など雲の上の話だろうに。
でも相手が藍だからこそ、私は自分の思いをぶちまけることができたのかもしれない。今までの人生で交わることのなかった人種だからこそ、話を聞いてほしいと思ったのかも。
「……つまらない話をしてごめんね。そういう事情だから、私はもう東京には帰れないかもしれないんだ」
ずず、と鼻をすすって話を締めくくった。
私が天笠原村へとやってきてから今日で一週間が経つ。その間、両親からの連絡は一度もない。天笠原村に到着した日に「無事に着いたよ」とメッセージを送り、既読の文字がついてそれっきりだ。
だから私も、両親のことはできるだけ考えないようにしていた。捨てられたと思えば胸が張り裂けそうになるから。もう二度と一緒に暮らすことはできないかもしれないと思えば涙が止まらなくなってしまうから。
藍と一緒に過ごす時間が楽しいのは本当だ。
でも楽しいという感情の裏には、いつも負の感情がつきまとっていた。靴底にこびりついた泥汚れみたいに、いくらこすっても綺麗になることはない。
「凛」
名前を呼ばれて顔を上げると、目の前に藍が立っていた。いつの間にできあがっていたのだろう、シロツメクサの花冠を指先に引っかけて、優しい顔をして笑っていた。
「これ、やるよ」
「え?」
頭にふわ、と花冠がのせられた。甘くて優しい香りが漂ってくる。
「くれるの? 何で?」
「んー……凜が今まで頑張ったから?」
壊れないようにそっと花冠を外して、眺めてみた。風に飛ばされていった私の花冠とは違い、細部まで丁寧に編み込まれている。藍には年の離れた妹がいて、妹が喜ぶからと花冠の作り方を覚えたらしい。
「私……頑張ったかなぁ」
花冠を眺めながら独り言のように呟くと、藍は自信満々で答えた。
「毎日死ぬほど勉強して、聖桜女子学院を受験したんだろ? 頑張ったじゃん」
「でも受験には失敗しちゃったし……」
「失敗したからって努力した課程が消えてなくなるわけじゃないだろ。人間、いくら努力したって届かないことはある。成功も失敗も一つの結果なんだから、それを受け止めないのは単なる我儘だと思うけど」
藍の言葉は私の胸にすとんと落ちた。
そうだよ、私は頑張ったんだよ。
聖桜女子学院に落ちたとき、私はその結果を両親に認めてほしかった。「結果は残念だったけど凜は頑張ったよね」って言ってほしかったんだよ。「じゃあ外部受験で頑張るしかないね」なんて押しつけがましい言葉を聞きたかったんじゃない。
「凜はさ、両親に自分の気持ちをきちんと伝えた方がいいよ。レベルの高い高校を目指すよりも、今の学校生活を楽しみたいんだろ? そういうの、はっきり言わなきゃわかんないと思うぞ」
藍の言葉を聞きながら、もう一度、花冠を頭にのせてみた。
私は生まれてこの方、塾以外の習い事をしたことがない。学力テストで上位の成績をとったことはあれど、美術のコンクールやスポーツ大会で入賞した経験はない。だからこうして、努力の対価として何かを貰ったのは初めてのことだ。
「……はっきり言って、本当に捨てられちゃったら?」
「そしたら天笠原村に引っ越してくればいーじゃん。高橋さんとこのじーちゃんもばーちゃんも、まだ全然元気だろ。凜が引っ越してきたら……俺はまぁ、普通に、う、嬉しいけど」
藍の声は不自然に裏返っていた。私を元気づけるためのお世辞だろうと頭ではわかっていても、心がむずがゆくなってしまう。むずがゆくて、温かい。
「藍……ありがとう」
「……ん」
私が幸せな気持ちでお礼を言うと、藍は赤い顔をしてそっぽを向いてしまった。



