翌日、私はまた神社を訪れた。
 時刻は昼下がり。空はよく晴れ渡っていて、綿菓子のような雲がぽこぽこと浮いている。天気予報によれば一週間ほどは晴天が続くらしい。

 古びた鳥居をくぐると、そこには少年の姿があった。昨日と同じように、鳥居の陰に隠れるようにして座り込んでいる。

「よ、凜」

 名前を呼ばれると心臓が高鳴る。
 小学校の頃からずっと、私の学校での立ち位置は『勉強熱心な真柴さん』だった。毎日のように塾へ通い、休み時間も勉強にあてているから、『凛』と気軽に呼んでくれる友達は一人もいない。
 だからこそ名前を呼ばれることがむず痒くて、適当な話題でごまかした。

「そこ、お気に入りなの?」
「そう。鳥居に背中をつけてると涼しいんだ。やってみ?」

 少年にならい、鳥居に背中をつけてみる。

「……本当だ。ひんやりして気持ちいい」
「だろ」

 少年はにかっと歯を見せて笑う。その笑顔が眩しくて、思わずふいと視線を逸らしてしまう。

 雑談が一区切りしたところで、名前あてゲームの続きをすることにした。私はメモ紙を開き、そこに書かれている名前を次々と口にする。ひろと、ゆうた、そら。どれも私たちが産まれた頃によくつけられていた名前だ。
 私が10個目の名前を口にすると、少年はまた勝ち誇ったように笑った。

「今日も外れ。残念でした」
「……こんなの、あたるわけないじゃん。人の名前がどれだけあると思ってるの」

 私が不満をあらわにすると、少年は首を傾げて考え込んだ。

「んー……じゃあヒント。あまり今っぽい名前じゃない」
「……信長とか家康とか?」
「何で数百年も遡るんだよ。もう少し最近でいいよ」

 今度は少年の方が不満そうな顔をしたので、私はくすりと笑ってしまった。

「よし、クイズは終わり! 遊ぼうぜ」

 ぱんと手を打って少年は話題を変えた。

「遊ぶって……何して?」
「かけっことかどう? あそこの狛犬像に先にタッチした方が勝ち」

 少年が指さす参道の向こう側には、確かに2匹の狛犬像があった。小さな社殿を守るようにしてどっしりと佇んでいる。今、私たちがいる鳥居からは30mほどの距離だ。
 少年はやる気満々で足首を回しているが、私はどうしても乗り気になれなかった。

「私、人と勝負するのは嫌いで……」
「何で?」
「何でだろう……負けると惨めな気持ちになるから?」
「……ふーん」

 少年はよくわからないという表情を浮かべた。

「じゃあ相撲でもすっか」
「勝負は嫌いだってば……」
「あ、虫採りならいーじゃん」
「虫なんて触れないし……」
「木登りとか」
「したことない……」
「……」

 私が次から次へと提案を断ると、少年はついに呆れた口調で言い放った。

「あんた、何もできねぇな」

 その言葉は私の胸にぐさりと突き刺さった。図星をつかれたことが悔しくて、思わずムキになって言い返した。

「そうだよ。私、何もできないの。だって勉強しかしてこなかったんだもん。友達と公園で遊んだことなんてないし、休み時間だってずっと勉強してたし。どうせつまんない人間だよ」

 私の人生はテストの点数がすべてで、それ以外は無価値な物だった。両親はテストの点数こそ熱心に尋ねてきたが、学校行事のことや友人関係について尋ねてきたことは一度もない。
 だから私も評価されないことに力を注ごうとは思わず、できあがった人間がこれだ。勉強ができなくなったら何一つ残らない空っぽの私。

 少年に何を言ったところで八つ当たりにしかならないことはわかっていたが、溢れ出す言葉は止まらなかった。

「勝負が嫌いなのだって、仕方ないじゃん。だって負けたら怒られるんだもの。私はずっと勝ち続けなくちゃいけなくて、勝てない私に価値はないの。だから……今の私に価値なんてないの。つまらなくて無価値な人間なんだよ……」

 ぽろ、と涙が一粒こぼれた。
 我ながら面倒な奴だと思ってしまった。遊ぼうと誘われているのに何もできず、それどころか少年に当たり散らして勝手に涙まで流している。
 頬に流れた涙をぬぐい、おそるおそる少年の方を見た。軽蔑した表情を浮かべているかと思いきや、以外にも少年はさっぱりとした表情で私のことを見つめていた。

「凜。表と裏、どっち?」
「……え?」
「表と裏だって。ほらどっち」
「え、ええと……じゃあ表」

 急かされて訳もわからず答えると、少年はかけ声をかけて右足を振った。白い運動靴が宙を舞い、ぽてりと音を立てて地面に落ちる。

「……裏っ! 俺の勝ち!」

 ガッツポーズをする少年の傍ら、私は意味がわからず困惑した。

「え……どういうこと?」
「地面に落ちるとき、靴が表になるか裏になるかって話。裏で落ちたから俺の勝ち」
「あ……なるほど……」
「どう? 負けてみじめな気持ちになった?」
「え……ううん。このくらいじゃ別に」
「じゃあもっかいな」

 少年は片足けんけんで靴を回収すると、つま先につっかけた。

「表? 裏?」
「えっと……表」

 私が答えると、少年は右足を振りかぶった。白い運動靴が宙を舞う。
 悲しい気持ちはいつの間にか消えて、私は青空に弧を描く運動靴をぼんやりと眺めた。表、出るかな。さっきは裏だったんだから次は表でしょ。単純な勝負に少しだけわくわくしている私がいる。

 ぽとり、と運動靴が地面に落ちる。

「……裏! また俺の勝ち!」
「えー……ずるしてない?」
「してない。凜の運が悪いだけだろ」
「ちょっと私にやらせて。靴を飛ばせばいいんでしょ」

 私は「表」と宣言し、勢いよく靴を飛ばした。力加減がわからずに飛ばされた靴は、少年が飛ばした靴よりもはるかに大きな弧を描く。
 そしてそのまま木の梢にのっかってしまった。

「「あ」」

 私と少年は声をそろえ、梢を見上げた。生い茂る枝葉の間に赤い運動靴が覗いている。ときおり吹く風が梢を揺らすが、待てど暮らせど一向に落ちてくる気配はない。

 私は少年と顔を見合わせ、無言で見つめ合った。そしてどちらともなく噴き出してしまった。
 こんな間抜けな話があるだろうか。裏か表かと意気込んで靴を飛ばしたら、飛ばした靴が木に引っかかってしまったなんて。今日の私は本当に運が悪いみたいだ。

 でも一緒に笑ってくれる人がいるのなら、そんな運のない日も悪くないと思った。

 ◇

 西から吹く風は夕暮れの匂いをのせはじめた。
 私と少年は遊び疲れて神社の社殿に座り込んでいた。汗だくの肌を冷たい夕風が撫でる。北海道の夏は昼間が暑くても夜は冷えるから、という祖母の言葉は本当だったようだ。

 梢にのった私の運動靴は、少年が木に登って取ってきてくれた。するすると野生動物のように木に登っていく少年は格好良くて、私は「もう引っ掛けるんじゃねぇぞ」と冗談交じりに差し出された靴をすぐに受け取ることができなかった。
 運動のできる男子が格好良く見えるなんて小学生みたい。そう思いながらも胸の高鳴りは止まなかった。

 両足にしっかりと靴を履いた後は、少年の提案する遊びに次々と挑戦した。かけっこ、草相撲、石投げ、木登り。南根神社と呼ばれるこの神社には、初詣と新嘗祭を除きほとんど人が訪れることはないのだと少年は話した。だから境内を走り回って遊んでも文句を言われることはない。

 あれだけ他人と勝負をすることが嫌いだった私が、これだけたくさんの遊びに挑戦できたのは、勝負だからといって必ずしも勝つ必要はないということがわかったからだ。 
 少年はどの勝負をするときも私にハンデをくれた。言うなれば手加減をされているわけだが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。その手加減が、どちらが勝つかわからないという一時の緊張感を味わうために工夫であることが理解できたから。
 だから私も気楽な気持ちで勝負に挑むことができた。テストの点数や受験の合否と違い、負けたところで人生が悪い方向に進むことはない。胸が抉られるような敗北感を味わうことはない。
 勝ったら嬉しいし、負けたら次は勝ちたいと思う。ただそれだけのことだ。

「あー……遊んだ遊んだ。誰かとこんなに遊んだのは久しぶりだわ」

 少年は満足そうに呟き、衣服のすそをパタパタと動かした。藍色のTシャツの内側に汗ばんだ素肌がのぞき、思わず視線を逸らしてしまう。

「……この辺りに同じ年頃の子どもは住んでいないの?」
「んー……今はいないなぁ」

 少年は社殿の縁側に立ち上がった。

「天笠原村には南根地区と北原地区があってさ。昔はそれぞれの地区に一つずつ小学校があったんだ。でも子どもの数が少なくなったから、南根小学校は北原小学校に統合された」
「へー……南根小学校はどこにあったの?」
「すぐそこ。今も校舎は残ってる。どこかの企業が倉庫として使ってるらしい」

 少年が参道の方角を指さしたので、私は首を伸ばしてその方角を見た。しかし社殿に腰かけたままでは、緑に映える朱色の鳥居が見えるだけ。

「あなたは――」

 言いかけて、口を噤んだ。

「……ねぇ、やっぱり名前は教えてよ。名前がわからないと話しにくいよ」
「じゃあ凜が名前をつけてよ。俺っぽい名前」
「えー……」

 どうやら少年は、頑なに名前を教えるつもりはないらしい。私は少し考え込んだ。

「じゃあ……『藍』」
「あい?」
「藍色の服を着てるから」
「えー、女みてぇ」
「文句があるなら名前を教えてってば」
「……別にいーよ。藍で」

 納得半分、不満半分というところらしい。
 ポケットのスマホがブブッと振動した。通知欄を見ると祖母から「そろそろ帰っておいで」とメッセージが届いていた。

「私、帰るね」

 私が立ち上がると、少年――藍は心なしか寂しそうな顔をした。

「明日もくる?」
「雨が降ったり、お出かけの予定が入ったりしなければ来ると思うけど」
「そっか」

 ほっとした表情の藍に「またね」と手を降って、私は神社を後にした。
 明日は何をして遊ぼう、また名前を10個考えておかないと。明日の訪れを楽しみに感じるのは数年ぶりのことだった。