私――真柴凛は東京都で暮らす中学2年生だ。
私が学校に行けなくなったのは、新学期が始まって間もなくのことだった。頭痛や吐き気に悩まされて家から出られなくなり、学校にも塾にも行けなくなった。担任の先生が善意で届けてくれるワークをこなすこともできなかった。机に座ると強烈な吐き気を覚えてしまうからだ。
そうしてただ時間だけが過ぎた。
一学期が終わり、夏休みが訪れても状況が良くなることはなかった。本当だったら高校受験に向けて毎日塾に通わなければならないのに、やっぱり私は家から出られなかった。
「凜。明日から、北海道のおじいちゃんとおばあちゃんの家に行って」
夏休みが始まって3日目、パジャマ姿の私に母は言った。私が驚いてどうしてと尋ねると、母は怒りを込めた口調で説明した。
「お母さん、凜のためにこれ以上仕事を休めないの。『まともに働くつもりがないなら止めてくれ』とせっつかれてるんだから。いつ終わるかもわからない不登校には付き合っていられない」
最後の方は吐き捨てるような調子だった。
私はうつむき、母の言葉を噛みしめることしかできなかった。
私の父は東京都庁に勤めており、母は小さな税理士事務所の事務員として働いている。私が学校に通えていた頃は、放課後はそのまま塾へと向かっていたから、両親がフルタイムで働くことに問題はなかったのだ。
しかし私が学校に通えなくなってからというもの、家族の状況はがらりと変わってしまった。精神的に不安定な私を一人にしておくことは不安らしく、母は頻繁に仕事を休むようになった。
管理職の父はこんな状況でも仕事量をセーブすることができず、負担はすべて母が受け持つことになった。終わりの見えない状況に嫌気がさすのも当然だ。
「飛行機のチケットがこれ。新千歳空港から稲月駅までの行き方は自分で調べて、着く時間をおじいちゃんに連絡して」
テーブルの上に、やや乱暴に飛行機のチケットが置かれた。
東京/羽田 10:00発 札幌/新千歳11:40着 マシバ リン様
1枚だけの片道切符。そのチケットを渡されることがどういう意味なのか、考えることが恐ろしかった。夏休みの間だけ北海道に行っていてということなのか、それとも――?
恐ろしくてもチケットを受け取らないという選択肢はなかった。疲れ切った母にこれ以上迷惑をかけたくなかったから。これ以上失望させることが嫌だったから。
そうして今日、私はたった一人で北海道行きの飛行機に飛び乗った。
◇
稲月駅を出発して15分も経つと、車が走る道はすっかり田舎道になった。どこまでも続く田園風景の中に、赤色や青色の屋根をのせた家屋がぽつりぽつりと佇んでいる。
地平線には青みを帯びた山脈がそびえ、いくら車を走らせても近づくことはない。まるで山脈に囲まれた巨大な箱庭に放り込まれたような気分だった。
「綺麗な山だろう。白岳連峰といってな。じいちゃんは、あの山から下りてくる水で田んぼを作ってるんだ」
「へー……」
祖父母は、稲月町の近くにある天笠原村で農業を営んでいた。
私が稲月駅で電車を降りたのは、天笠原村にはJRの駅がないからだ。ずっと昔は天笠原村にも駅があったが、使う人が少なくて廃線になってしまったと聞いている。
祖父はどんどん車を走らせた。すれ違う車もない田舎道に信号があるはずもなく、車が止まることはない。校庭のように大きな水田が、次から次へと視界を通り抜けていく。
私は、母の生まれ故郷である天笠原村を訪れた経験がほとんどない。2歳のときと4歳のときのたった2回だけ。それ以後は、盆や正月といえば埼玉県にある父の実家を訪ねてばかりで、北海道の大地を踏むことすらなかった。
その理由は、母が天笠原村を嫌っているからだと私は考えていた。
誕生から高校卒業までの期間を天笠原村で過ごした母は、大学進学をきっかけに上京した。卒業後はそのまま東京で就職し、埼玉県出身の父と結婚し、私が生まれた。
――あんな田舎、離れて正解だった
母が父にそう話す声をどこかで聞いた。
――だって本当になにもないの。本屋もないしケーキ屋もないしコンビニもない。あんな田舎町で18年も過ごしただなんて、人生を無駄にした気分
母の言葉を思い返しながら車窓を覗いた。いくら目を凝らしても、やはりそこには青々とした水田が見えるだけだった。お洒落なカフェも、カラオケやゲームセンターも、ショッピングモールもない。時代を遡ってしまったような錯覚すら覚えてしまう。
「何にもないなぁ……」
思わず声に出して呟くと、祖父は「そうだろう」と笑った。私の発言に気を悪くした様子はない。それどころかどこか誇らしげだ。
「何もないけど、美味いもんだけはたくさんあるからな。ばあちゃんが、凜に食べさせるんだって栗ご飯を炊いてるぞ。凜、栗は好きか」
「うーん……どうだろう。普段、あまり食べないから……」
「そうか、栗は店で買うと高いからなぁ。じいちゃんちの庭には大きな栗の木があるんだ。くるみの木も、林檎の木も、さくらんぼの木もある」
「ふーん……」
気のない返事に気付いているのかいないのか、祖父はハンドルを握りながら話し続けた。私は「うん」「そうなんだ」と適当な相槌を打ちながら、頭の中では別のことを考えていた。
母は学校に行けなくなった私を天笠原村に送った。
帰りの日程を告げられずに渡された片道切符。母の真意はどこにあるのだろう。夏休みの間だけ北海道に行っていてということなのか、それとも――もう2度と東京には帰ってくるなということなのだろうか。
私は両親に捨てられてしまったのだろうか。
◇
祖父の運転する車に揺られること30分。
私は天笠原村の片隅にある祖父母の自宅へと到着した。田園風景の中にぽつりと佇む赤い屋根の家。庭先には色とりどりの花が咲き誇っている。
祖父が玄関前に車をつけてくれたので、お礼を言いながら助手席から降りると、澄んだ空気が肺に流れ込んできた。建物から排熱風でむせかえるような都会の空気とはちがう、土と草花の匂いが混じり合った気持ちのいい空気だ。
私が深呼吸をしていると、玄関から祖母が顔を出した。
「凜ちゃん、久しぶり! 大きくなったねぇ」
祖母は顔をくちゃくちゃにして笑った。年に数回程度、祖父母と電話をする機会はあったが、こうして顔を合わせるのは10年ぶりのことだ。
「おばあちゃん、久しぶり。今日からお世話になります」
「そんなにかしこまらないで、自分の家だと思ってくつろいでいいからね」
「うん……ありがとう」
祖父がキャリーバッグを家の中へと運んでくれたので、私は祖母と一緒に玄関をくぐる。
まず案内されたのはがらりと広い和室だった。年季の入った鏡台はうっすらと埃をかぶり、押し入れの襖は日に焼けてしまっている。こっこっこっと大きな柱時計が時を刻む。黄色い畳には日だまりが落ちている。何十年も前に時を止めてしまったような空間だ。
「うちにいる間は、この部屋を好きに使っていいからね。西日が入るから夕方は少し暑いけど、午前中は日があたらなくて涼しいよ」
祖母が夕飯の支度をすると言って和室を出て行ったので、私は荷物の整理をすることにした。乱雑に詰め込まれた服をたたみ直して、キャリーバッグの端から並べていく。靴下と下着はひとまとめにして、洗面道具は鏡台の上に。
そんなことをしていると、和室には祖父が顔を出した。
「凜。ハウスに野菜をとりに行かないか」
「え?」
「ばあちゃんが茄子とミニトマトをとってこいと言うから。手伝ってくれないか?」
祖父は銀色のざるを顔の前に掲げた。
まだ荷物の整理が終わっていないから断ろうかとも思ったが、すぐに思い直した。私が早くこの家になじめるように気を遣ってくれているのだと気がついたからだ。
「うん、行く」
キャリーバッグは開けっぱなしのまま、祖父の背中に続く。
祖父母の自宅の西側には、大きな農業用ハウスが建てられていた。祖父がハウスの引き戸を開けると、金属がこすれあう耳障りな音がして、サウナのような熱気が流れ出してくる。中にはたくさんの野菜が植わっていた。
「ここでは家で食べる野菜を作ってるんだ。それはキュウリ、そっちがピーマンとししとう、あっちがオクラとズッキーニ」
「すごいね……全部じいちゃんが世話してるの?」
「いんや、野菜ハウスはばあちゃんが世話してる。じいちゃんは田んぼの管理で忙しいから」
「へー……」
関心する私に、祖父は銀色のざるを手渡した。
「凛はミニトマトをとってきてくれ。真っ赤に色んだのをとるんだぞ」
「うん、わかった」
祖父が収穫用のはさみで茄子を採り始めたので、私はハウスの奥の方へと進んだ。そこには十数本におよぶトマトの木が植えられていて、真っ赤な実をたわわと実らせている。
胸の高さに実ったミニトマトにちょんと触れると、赤い実の部分だけがころりと採れた。
採り始めると楽しくなってきて、次から次へと熟れたトマトに手を伸ばす。楽しい、という気持ちを感じたのはとても久しぶりな気がした。
「あ」
トマトが一つ、指先から零れて地面へと落ちた。乾いた土の上をころころと転がり、靴のつまさきにあたって止まる。つやつやと輝いていたトマトは、土に汚れて見る影もなくくすんでしまった。
私みたい。
とっさにそんな考えが頭に浮かんだ。
少し前までは太陽の下で生き生きと輝いていたのに、ささいなきっかけでその輝きを失ってしまった。誰かが拾い上げてくれなければ、自力で這い上がることもできない。泥にまみれて本来の価値を失ってしまったみじめな命。
楽しかった気持ちは、穴が空いた風船のようにしぼんでしまった。
捨てられてしまっても当然だね。
だって地面に落ちたトマトなんて誰も食べたくないもの。
学校へ行けない私に価値なんてないんだもの。
それから先はただ黙々と機械のようにトマトを採った。
一度しぼんでしまった気持ちは、祖母が丹精を込めた夕食を食べても、温かな湯船に浸かっても、もう元のように膨らむことはなかった。
私が学校に行けなくなったのは、新学期が始まって間もなくのことだった。頭痛や吐き気に悩まされて家から出られなくなり、学校にも塾にも行けなくなった。担任の先生が善意で届けてくれるワークをこなすこともできなかった。机に座ると強烈な吐き気を覚えてしまうからだ。
そうしてただ時間だけが過ぎた。
一学期が終わり、夏休みが訪れても状況が良くなることはなかった。本当だったら高校受験に向けて毎日塾に通わなければならないのに、やっぱり私は家から出られなかった。
「凜。明日から、北海道のおじいちゃんとおばあちゃんの家に行って」
夏休みが始まって3日目、パジャマ姿の私に母は言った。私が驚いてどうしてと尋ねると、母は怒りを込めた口調で説明した。
「お母さん、凜のためにこれ以上仕事を休めないの。『まともに働くつもりがないなら止めてくれ』とせっつかれてるんだから。いつ終わるかもわからない不登校には付き合っていられない」
最後の方は吐き捨てるような調子だった。
私はうつむき、母の言葉を噛みしめることしかできなかった。
私の父は東京都庁に勤めており、母は小さな税理士事務所の事務員として働いている。私が学校に通えていた頃は、放課後はそのまま塾へと向かっていたから、両親がフルタイムで働くことに問題はなかったのだ。
しかし私が学校に通えなくなってからというもの、家族の状況はがらりと変わってしまった。精神的に不安定な私を一人にしておくことは不安らしく、母は頻繁に仕事を休むようになった。
管理職の父はこんな状況でも仕事量をセーブすることができず、負担はすべて母が受け持つことになった。終わりの見えない状況に嫌気がさすのも当然だ。
「飛行機のチケットがこれ。新千歳空港から稲月駅までの行き方は自分で調べて、着く時間をおじいちゃんに連絡して」
テーブルの上に、やや乱暴に飛行機のチケットが置かれた。
東京/羽田 10:00発 札幌/新千歳11:40着 マシバ リン様
1枚だけの片道切符。そのチケットを渡されることがどういう意味なのか、考えることが恐ろしかった。夏休みの間だけ北海道に行っていてということなのか、それとも――?
恐ろしくてもチケットを受け取らないという選択肢はなかった。疲れ切った母にこれ以上迷惑をかけたくなかったから。これ以上失望させることが嫌だったから。
そうして今日、私はたった一人で北海道行きの飛行機に飛び乗った。
◇
稲月駅を出発して15分も経つと、車が走る道はすっかり田舎道になった。どこまでも続く田園風景の中に、赤色や青色の屋根をのせた家屋がぽつりぽつりと佇んでいる。
地平線には青みを帯びた山脈がそびえ、いくら車を走らせても近づくことはない。まるで山脈に囲まれた巨大な箱庭に放り込まれたような気分だった。
「綺麗な山だろう。白岳連峰といってな。じいちゃんは、あの山から下りてくる水で田んぼを作ってるんだ」
「へー……」
祖父母は、稲月町の近くにある天笠原村で農業を営んでいた。
私が稲月駅で電車を降りたのは、天笠原村にはJRの駅がないからだ。ずっと昔は天笠原村にも駅があったが、使う人が少なくて廃線になってしまったと聞いている。
祖父はどんどん車を走らせた。すれ違う車もない田舎道に信号があるはずもなく、車が止まることはない。校庭のように大きな水田が、次から次へと視界を通り抜けていく。
私は、母の生まれ故郷である天笠原村を訪れた経験がほとんどない。2歳のときと4歳のときのたった2回だけ。それ以後は、盆や正月といえば埼玉県にある父の実家を訪ねてばかりで、北海道の大地を踏むことすらなかった。
その理由は、母が天笠原村を嫌っているからだと私は考えていた。
誕生から高校卒業までの期間を天笠原村で過ごした母は、大学進学をきっかけに上京した。卒業後はそのまま東京で就職し、埼玉県出身の父と結婚し、私が生まれた。
――あんな田舎、離れて正解だった
母が父にそう話す声をどこかで聞いた。
――だって本当になにもないの。本屋もないしケーキ屋もないしコンビニもない。あんな田舎町で18年も過ごしただなんて、人生を無駄にした気分
母の言葉を思い返しながら車窓を覗いた。いくら目を凝らしても、やはりそこには青々とした水田が見えるだけだった。お洒落なカフェも、カラオケやゲームセンターも、ショッピングモールもない。時代を遡ってしまったような錯覚すら覚えてしまう。
「何にもないなぁ……」
思わず声に出して呟くと、祖父は「そうだろう」と笑った。私の発言に気を悪くした様子はない。それどころかどこか誇らしげだ。
「何もないけど、美味いもんだけはたくさんあるからな。ばあちゃんが、凜に食べさせるんだって栗ご飯を炊いてるぞ。凜、栗は好きか」
「うーん……どうだろう。普段、あまり食べないから……」
「そうか、栗は店で買うと高いからなぁ。じいちゃんちの庭には大きな栗の木があるんだ。くるみの木も、林檎の木も、さくらんぼの木もある」
「ふーん……」
気のない返事に気付いているのかいないのか、祖父はハンドルを握りながら話し続けた。私は「うん」「そうなんだ」と適当な相槌を打ちながら、頭の中では別のことを考えていた。
母は学校に行けなくなった私を天笠原村に送った。
帰りの日程を告げられずに渡された片道切符。母の真意はどこにあるのだろう。夏休みの間だけ北海道に行っていてということなのか、それとも――もう2度と東京には帰ってくるなということなのだろうか。
私は両親に捨てられてしまったのだろうか。
◇
祖父の運転する車に揺られること30分。
私は天笠原村の片隅にある祖父母の自宅へと到着した。田園風景の中にぽつりと佇む赤い屋根の家。庭先には色とりどりの花が咲き誇っている。
祖父が玄関前に車をつけてくれたので、お礼を言いながら助手席から降りると、澄んだ空気が肺に流れ込んできた。建物から排熱風でむせかえるような都会の空気とはちがう、土と草花の匂いが混じり合った気持ちのいい空気だ。
私が深呼吸をしていると、玄関から祖母が顔を出した。
「凜ちゃん、久しぶり! 大きくなったねぇ」
祖母は顔をくちゃくちゃにして笑った。年に数回程度、祖父母と電話をする機会はあったが、こうして顔を合わせるのは10年ぶりのことだ。
「おばあちゃん、久しぶり。今日からお世話になります」
「そんなにかしこまらないで、自分の家だと思ってくつろいでいいからね」
「うん……ありがとう」
祖父がキャリーバッグを家の中へと運んでくれたので、私は祖母と一緒に玄関をくぐる。
まず案内されたのはがらりと広い和室だった。年季の入った鏡台はうっすらと埃をかぶり、押し入れの襖は日に焼けてしまっている。こっこっこっと大きな柱時計が時を刻む。黄色い畳には日だまりが落ちている。何十年も前に時を止めてしまったような空間だ。
「うちにいる間は、この部屋を好きに使っていいからね。西日が入るから夕方は少し暑いけど、午前中は日があたらなくて涼しいよ」
祖母が夕飯の支度をすると言って和室を出て行ったので、私は荷物の整理をすることにした。乱雑に詰め込まれた服をたたみ直して、キャリーバッグの端から並べていく。靴下と下着はひとまとめにして、洗面道具は鏡台の上に。
そんなことをしていると、和室には祖父が顔を出した。
「凜。ハウスに野菜をとりに行かないか」
「え?」
「ばあちゃんが茄子とミニトマトをとってこいと言うから。手伝ってくれないか?」
祖父は銀色のざるを顔の前に掲げた。
まだ荷物の整理が終わっていないから断ろうかとも思ったが、すぐに思い直した。私が早くこの家になじめるように気を遣ってくれているのだと気がついたからだ。
「うん、行く」
キャリーバッグは開けっぱなしのまま、祖父の背中に続く。
祖父母の自宅の西側には、大きな農業用ハウスが建てられていた。祖父がハウスの引き戸を開けると、金属がこすれあう耳障りな音がして、サウナのような熱気が流れ出してくる。中にはたくさんの野菜が植わっていた。
「ここでは家で食べる野菜を作ってるんだ。それはキュウリ、そっちがピーマンとししとう、あっちがオクラとズッキーニ」
「すごいね……全部じいちゃんが世話してるの?」
「いんや、野菜ハウスはばあちゃんが世話してる。じいちゃんは田んぼの管理で忙しいから」
「へー……」
関心する私に、祖父は銀色のざるを手渡した。
「凛はミニトマトをとってきてくれ。真っ赤に色んだのをとるんだぞ」
「うん、わかった」
祖父が収穫用のはさみで茄子を採り始めたので、私はハウスの奥の方へと進んだ。そこには十数本におよぶトマトの木が植えられていて、真っ赤な実をたわわと実らせている。
胸の高さに実ったミニトマトにちょんと触れると、赤い実の部分だけがころりと採れた。
採り始めると楽しくなってきて、次から次へと熟れたトマトに手を伸ばす。楽しい、という気持ちを感じたのはとても久しぶりな気がした。
「あ」
トマトが一つ、指先から零れて地面へと落ちた。乾いた土の上をころころと転がり、靴のつまさきにあたって止まる。つやつやと輝いていたトマトは、土に汚れて見る影もなくくすんでしまった。
私みたい。
とっさにそんな考えが頭に浮かんだ。
少し前までは太陽の下で生き生きと輝いていたのに、ささいなきっかけでその輝きを失ってしまった。誰かが拾い上げてくれなければ、自力で這い上がることもできない。泥にまみれて本来の価値を失ってしまったみじめな命。
楽しかった気持ちは、穴が空いた風船のようにしぼんでしまった。
捨てられてしまっても当然だね。
だって地面に落ちたトマトなんて誰も食べたくないもの。
学校へ行けない私に価値なんてないんだもの。
それから先はただ黙々と機械のようにトマトを採った。
一度しぼんでしまった気持ちは、祖母が丹精を込めた夕食を食べても、温かな湯船に浸かっても、もう元のように膨らむことはなかった。



