8月18日。私が天笠原村へやってきてから27日目となるその日。
私の両親が祖父母の自宅へとやってきた。新千歳空港で借りたのであろう「わ」ナンバーの車に乗って。右手には小さな土産菓子を下げて。
「お母さん、お父さん。迷惑かけて悪かったね」
「すみませんでした。長い間、娘を預かってもらって」
玄関先で父母がそろって頭を下げると、祖父母はとんでもないという顔をした。
「可愛い孫と一緒に暮らせるのに、迷惑なんて思うはずないでしょう」
「むしろどうして今まで遊びに来させなかったんだ。幸恵、どうせお前が面倒だとでも言ったんだろう」
祖父が強い口調で言うと、母はたじろいだ。
「……悪かったとは思うけど、こっちの事情も理解してよ。うちは2人とも仕事をしてるから、休みを合わせて北海道に来るのは大変なの。ただでさえ天笠原村は新千歳空港からのアクセスが悪いんだから。移動だけで1日使っちゃうじゃない」
「年末年始やGWに合わせて来ればいいじゃないか」
「お父さん、その時期の飛行機がどれだけ高いか知らないでしょう。移動費だけで15万円を超えちゃうよ」
「2人で稼いでるんだから多少高くたっていいだろう」
「そういう問題じゃないんだってば」
母と祖父の会話は子どもの言い争いのようで、私は拍子抜けしてしまった。
なんだ、お母さんは天笠原村を嫌っていたわけじゃなかったのか。ただ遠いから来るのが大変というだけで。
大嫌いな村に私を送ったんじゃなかったんだ。
ずっと悩んでいたことが嘘のように心が軽くなった。でもきっとこの変化は母の言葉だけが原因ではない。祖母が無条件で私のことを愛してくれたから。祖父が地面に落ちた果実の美味しさを教えてくれたから。
そして――藍だ。寂れた神社で出会った名前も知らない男の子は、私に生きる楽しさを教えてくれた。藍と過ごした日々がなければ、私はまだうつむいて立ち止まったままだっただろう。
――はっきり言わなきゃわかんないと思うぞ
耳元で藍の声が聞こえた気がした。
「お父さん、お母さん。話があります」
私が背すじを伸ばしてそう切り出すと、4人の大人たちは話すことを止めた。鼓動が早まる。唇が乾く。耳の奥できぃんと嫌な音がする。
緊張で呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだったけれど、もう逃げ出すことはしたくなくて、大きく息を吸いこんだ。
「私、高校受験はしたくない。三津原学園の高等部に内部進学したいの」
私がはっきりした口調で言い切ると、父と母は驚いた顔をした。伝えられた内容が予想外だったというよりは、私が自分の口で意見を言ったことに驚いた様子だ。
しばしの沈黙のあと、母は諭すような口調で話し始めた。
「凜……受験勉強が大変な気持ちはわかるけどね。三津原学園と聖桜女子学院ではブランド力が違うの。聖桜女子学院を卒業すれば企業でも一目置かれるけど、三津原学園はそういうの、ないでしょう。偏差値だってそんなに高くないし――」
私は強い口調で遮った。
「そんなことはわかってる。でも私だって何もせずに三津原学園に受かったんじゃない。過去問対策だって、面接の練習だって、それなりにしたんだよ。だから私はその努力を認めてほしかった。『三津原学園なんて』って残念な顔をしないでさ」
父母も祖父母も、黙って私の主張に耳を澄ませていた。私は緊張と興奮で溢れ出しそうになる涙をこらえながら言葉を続けた。
「私、学校生活を楽しみたいの。塾ばかり行くんじゃなくて友達とも遊びたい。学校祭や体育祭だって頑張りたい。知ってる? 私、友達いないんだよ。休み時間も放課後も勉強ばっかりしてたら、友達なんてできるはずない」
震える声でそう言い切ったとき、まず頷いたくれたのは父だった。
「うん……お父さんは凜の言うことが正しいと思うよ」
元より、父は聖桜女子学院への進学にそこまでこだわりを見せていなかった。中学受験に失敗したことは残念だが、次は大学受験に向けて頑張ればいいというスタンスだった。そんな中、強引に聖桜女子学院の外部受験を決めたのが母だった。
案の定、母は私の主張をすぐには受け入れられないようで、口元をもごつかせていた。
だから私は母の顔を見つめ、むりやり笑顔を作って言った。
「お母さん。地面に落ちたプラムだって、ジャムにしたり美味しいんだよ。知ってるでしょ?」
母に私の言葉の真意が伝わったのかどうかはわからない。でも祖父母と父が見守る中、母は肩を震わせて「そうだね」と頷いた。
それから消え入るような小さな声で「ごめんね」と言った。
◇
「じゃあね、凜ちゃん。また遊びに来るんだよ」
「幸恵が渋ったらじいちゃんに電話しろ。凜の飛行機代くらい出してやるから」
「うん……おじいちゃん、おばあちゃん、またね。今までありがとう」
私がシートベルトを締めると車はすぐに発進した。窓を開け、大声で「さよなら」と言う。手を振る祖父母の姿が遠ざかっていく。赤い屋根が風景の一部にとけこんでいく。
見慣れた風景が窓の外を過ぎ去っていった。道ばたに置かれた農業用トラクター、家屋よりも大きな倉庫、地区会館と書かれた小さな建物、荒れ果てた墓地、撤去が済んでいない踏切。そして――鳥居が見えた。幾度となく通った南根神社、藍のお気に入りの緋色の鳥居。
無意識に叫んでいた。
「お母さん、車を停めて!」
母は驚いて急ブレーキを踏んだ。どうしたのと慌てふためく父母を残し、私は車から飛び降りた。
「ごめんね、ちょっとだけ待っててほしいの。お別れを言いたい人がいるから」
私は鳥居へと続く道を走った。砂利をしきつめた一本道だ。砂利の多くは苔むして、隙間からぼうぼうと雑草が生えている。
間もなくして小さな鳥居が現れた。塗装が禿げ、蜘蛛の巣まみれになった古びた鳥居。その鳥居の下には藍がいる。鳥居の柱に背中をつけて、私のことを待ってくれているはず。
私は鳥居をくぐった。
そして狼狽えて立ち止まった。いつもの場所に藍の姿がなかったからだ。
「……藍?」
名前を呼んでも返事はない。ただひゅうと音を立てて風が通り抜けていくだけ。
別の場所にいるのだろうかと考え、藍を探すことにした。木々の間、狛犬像の陰、社殿のまわり、駄目だと思いながらも扉を開けて社殿の内部まで。しかしどこを探しても藍の姿はない。試しに大声で名前を呼んでみても返事はない。まるでこの世界から藍の存在が消えてしまったみたいに。
「何で、藍……どこにいるの?」
ひどく困惑した。何が起こっているのかわからなかった。藍はいつだって私のことを待っていてくれたのに。あの鳥居の下で、「遅ぇよ」なんてわざとらしい悪態を吐いて、いつだって私のことを出迎えてくれたのに。
そのとき、いつかの藍の言葉が頭の中に響いた。
――もしかして、死に近い人間には俺の姿が見えるのかもしれない
「……まさか、私が死から遠ざかっちゃったから? だから藍のことが見えなくなっちゃったの?」
天笠原村へとやってきたとき、私は両親に捨てられたのだと思った。つまりこの天笠原村での暮らしは、私にとって生と死の狭間のようなものだった。
しかし私は両親と和解し、東京に戻ることを決めた。生と死の狭間を抜け出して、命を燃やす一人の生きた人間となった。だから私にはもう藍の姿は見えない。世界が繋がることはない。
「嫌だ」
震える声が緑の森に吸い込まれた。
「藍、姿を見せてよ。宝探しの罰ゲーム、まだやってないよ。何でも一つ言うことを聞いてくれるって言ったじゃん」
こいねがう声と一緒に涙が溢れた。ただもう必死になって藍を探した。
まだ何も伝えてはいないのに。「ありがとう」も「さよなら」も。一緒に過ごすうちに胸の内側で膨らんで、いつしか見て見ぬ振りができなくなってしまった気持ちも。
「うぁ、あぁぁー……」
鳥居の柱を前に膝をついて泣いた。そこには藍がいたはずだった。でももういくら手を伸ばしても指先が触れ合うことはない。苔むした岩に触れるだけ。
あのとき感じた指先の温もりがまやかしかどうかなんて本当はどうでも良かったのに。
藍が幽霊だったとしても積み上げた思い出が消えることなどないはずなのに。
残された日々を大切に過ごせば藍の耳に私の言葉を届けることができた。
「好きだよ……青司」
嗚咽混じりの告白に答える者はいなかった。
ただ髪を撫でるようにそよ風が吹きぬけていくだけだった。
私の両親が祖父母の自宅へとやってきた。新千歳空港で借りたのであろう「わ」ナンバーの車に乗って。右手には小さな土産菓子を下げて。
「お母さん、お父さん。迷惑かけて悪かったね」
「すみませんでした。長い間、娘を預かってもらって」
玄関先で父母がそろって頭を下げると、祖父母はとんでもないという顔をした。
「可愛い孫と一緒に暮らせるのに、迷惑なんて思うはずないでしょう」
「むしろどうして今まで遊びに来させなかったんだ。幸恵、どうせお前が面倒だとでも言ったんだろう」
祖父が強い口調で言うと、母はたじろいだ。
「……悪かったとは思うけど、こっちの事情も理解してよ。うちは2人とも仕事をしてるから、休みを合わせて北海道に来るのは大変なの。ただでさえ天笠原村は新千歳空港からのアクセスが悪いんだから。移動だけで1日使っちゃうじゃない」
「年末年始やGWに合わせて来ればいいじゃないか」
「お父さん、その時期の飛行機がどれだけ高いか知らないでしょう。移動費だけで15万円を超えちゃうよ」
「2人で稼いでるんだから多少高くたっていいだろう」
「そういう問題じゃないんだってば」
母と祖父の会話は子どもの言い争いのようで、私は拍子抜けしてしまった。
なんだ、お母さんは天笠原村を嫌っていたわけじゃなかったのか。ただ遠いから来るのが大変というだけで。
大嫌いな村に私を送ったんじゃなかったんだ。
ずっと悩んでいたことが嘘のように心が軽くなった。でもきっとこの変化は母の言葉だけが原因ではない。祖母が無条件で私のことを愛してくれたから。祖父が地面に落ちた果実の美味しさを教えてくれたから。
そして――藍だ。寂れた神社で出会った名前も知らない男の子は、私に生きる楽しさを教えてくれた。藍と過ごした日々がなければ、私はまだうつむいて立ち止まったままだっただろう。
――はっきり言わなきゃわかんないと思うぞ
耳元で藍の声が聞こえた気がした。
「お父さん、お母さん。話があります」
私が背すじを伸ばしてそう切り出すと、4人の大人たちは話すことを止めた。鼓動が早まる。唇が乾く。耳の奥できぃんと嫌な音がする。
緊張で呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだったけれど、もう逃げ出すことはしたくなくて、大きく息を吸いこんだ。
「私、高校受験はしたくない。三津原学園の高等部に内部進学したいの」
私がはっきりした口調で言い切ると、父と母は驚いた顔をした。伝えられた内容が予想外だったというよりは、私が自分の口で意見を言ったことに驚いた様子だ。
しばしの沈黙のあと、母は諭すような口調で話し始めた。
「凜……受験勉強が大変な気持ちはわかるけどね。三津原学園と聖桜女子学院ではブランド力が違うの。聖桜女子学院を卒業すれば企業でも一目置かれるけど、三津原学園はそういうの、ないでしょう。偏差値だってそんなに高くないし――」
私は強い口調で遮った。
「そんなことはわかってる。でも私だって何もせずに三津原学園に受かったんじゃない。過去問対策だって、面接の練習だって、それなりにしたんだよ。だから私はその努力を認めてほしかった。『三津原学園なんて』って残念な顔をしないでさ」
父母も祖父母も、黙って私の主張に耳を澄ませていた。私は緊張と興奮で溢れ出しそうになる涙をこらえながら言葉を続けた。
「私、学校生活を楽しみたいの。塾ばかり行くんじゃなくて友達とも遊びたい。学校祭や体育祭だって頑張りたい。知ってる? 私、友達いないんだよ。休み時間も放課後も勉強ばっかりしてたら、友達なんてできるはずない」
震える声でそう言い切ったとき、まず頷いたくれたのは父だった。
「うん……お父さんは凜の言うことが正しいと思うよ」
元より、父は聖桜女子学院への進学にそこまでこだわりを見せていなかった。中学受験に失敗したことは残念だが、次は大学受験に向けて頑張ればいいというスタンスだった。そんな中、強引に聖桜女子学院の外部受験を決めたのが母だった。
案の定、母は私の主張をすぐには受け入れられないようで、口元をもごつかせていた。
だから私は母の顔を見つめ、むりやり笑顔を作って言った。
「お母さん。地面に落ちたプラムだって、ジャムにしたり美味しいんだよ。知ってるでしょ?」
母に私の言葉の真意が伝わったのかどうかはわからない。でも祖父母と父が見守る中、母は肩を震わせて「そうだね」と頷いた。
それから消え入るような小さな声で「ごめんね」と言った。
◇
「じゃあね、凜ちゃん。また遊びに来るんだよ」
「幸恵が渋ったらじいちゃんに電話しろ。凜の飛行機代くらい出してやるから」
「うん……おじいちゃん、おばあちゃん、またね。今までありがとう」
私がシートベルトを締めると車はすぐに発進した。窓を開け、大声で「さよなら」と言う。手を振る祖父母の姿が遠ざかっていく。赤い屋根が風景の一部にとけこんでいく。
見慣れた風景が窓の外を過ぎ去っていった。道ばたに置かれた農業用トラクター、家屋よりも大きな倉庫、地区会館と書かれた小さな建物、荒れ果てた墓地、撤去が済んでいない踏切。そして――鳥居が見えた。幾度となく通った南根神社、藍のお気に入りの緋色の鳥居。
無意識に叫んでいた。
「お母さん、車を停めて!」
母は驚いて急ブレーキを踏んだ。どうしたのと慌てふためく父母を残し、私は車から飛び降りた。
「ごめんね、ちょっとだけ待っててほしいの。お別れを言いたい人がいるから」
私は鳥居へと続く道を走った。砂利をしきつめた一本道だ。砂利の多くは苔むして、隙間からぼうぼうと雑草が生えている。
間もなくして小さな鳥居が現れた。塗装が禿げ、蜘蛛の巣まみれになった古びた鳥居。その鳥居の下には藍がいる。鳥居の柱に背中をつけて、私のことを待ってくれているはず。
私は鳥居をくぐった。
そして狼狽えて立ち止まった。いつもの場所に藍の姿がなかったからだ。
「……藍?」
名前を呼んでも返事はない。ただひゅうと音を立てて風が通り抜けていくだけ。
別の場所にいるのだろうかと考え、藍を探すことにした。木々の間、狛犬像の陰、社殿のまわり、駄目だと思いながらも扉を開けて社殿の内部まで。しかしどこを探しても藍の姿はない。試しに大声で名前を呼んでみても返事はない。まるでこの世界から藍の存在が消えてしまったみたいに。
「何で、藍……どこにいるの?」
ひどく困惑した。何が起こっているのかわからなかった。藍はいつだって私のことを待っていてくれたのに。あの鳥居の下で、「遅ぇよ」なんてわざとらしい悪態を吐いて、いつだって私のことを出迎えてくれたのに。
そのとき、いつかの藍の言葉が頭の中に響いた。
――もしかして、死に近い人間には俺の姿が見えるのかもしれない
「……まさか、私が死から遠ざかっちゃったから? だから藍のことが見えなくなっちゃったの?」
天笠原村へとやってきたとき、私は両親に捨てられたのだと思った。つまりこの天笠原村での暮らしは、私にとって生と死の狭間のようなものだった。
しかし私は両親と和解し、東京に戻ることを決めた。生と死の狭間を抜け出して、命を燃やす一人の生きた人間となった。だから私にはもう藍の姿は見えない。世界が繋がることはない。
「嫌だ」
震える声が緑の森に吸い込まれた。
「藍、姿を見せてよ。宝探しの罰ゲーム、まだやってないよ。何でも一つ言うことを聞いてくれるって言ったじゃん」
こいねがう声と一緒に涙が溢れた。ただもう必死になって藍を探した。
まだ何も伝えてはいないのに。「ありがとう」も「さよなら」も。一緒に過ごすうちに胸の内側で膨らんで、いつしか見て見ぬ振りができなくなってしまった気持ちも。
「うぁ、あぁぁー……」
鳥居の柱を前に膝をついて泣いた。そこには藍がいたはずだった。でももういくら手を伸ばしても指先が触れ合うことはない。苔むした岩に触れるだけ。
あのとき感じた指先の温もりがまやかしかどうかなんて本当はどうでも良かったのに。
藍が幽霊だったとしても積み上げた思い出が消えることなどないはずなのに。
残された日々を大切に過ごせば藍の耳に私の言葉を届けることができた。
「好きだよ……青司」
嗚咽混じりの告白に答える者はいなかった。
ただ髪を撫でるようにそよ風が吹きぬけていくだけだった。



