人魚姫症候群について、はじめてちゃんと調べた。
夏休みが明けた日の電車の中で、どうしたら立花さんの声を取り戻せるのか、スマホと睨み合いながらずっと考えていた。
立花さんは一体、大切な誰を失ったんだろう。
気になるけど軽い気持ちで聞けないことが、頭の中に増えていく。
『おはようございます。眉間にシワ、寄ってますよ』
スマホと僕の間に、もうすっかり見慣れば立花さんのスマホが差し出される。
いきなり割り込んできたから、驚いて思わず電車の窓に頭をぶつけてしまった。
「……立花さん。おはよう」
もう遅いけど、何かにコントロールされているかのように、意図しない中で平静を装って顔を上げる。
髪をひとつにまとめていて、涼しげな彼女と目が合った。
「ここ、座りなよ」
僕が立つと、いやだと言わんばかりに首を振り、僕の肩を軽く押した。
電車の揺れも相まって自然と膝が曲がる。
そのせいでまた見下ろされる体制に戻ってしまった。
朝の電車は人が多い。そのせいで窮屈だ。
席を立つ行動さえも苦労を要するほどに。
『あの日の電車とは大違いですね』
椅子から伸びる鉄の手すりを片手で握り、空いた手でスマホを触る。
立花さんの体幹は意外としっかりしているみたいで、小さな揺れでは微動だにしなかった。
「うん。全然違うよね」
海に行ったあの日は平日で、お盆休みも外れていたから夏休み真っ只中の割にそこまで人は多くなかった。
横並びに座って話せるのと、こうして対面で話すのでは高さのせいか、ちょっと遠い。
「でもよかった。全然連絡が来ないから、今日会えなかったらって心配してたんだ」
九月一日。
世の中で、自殺のニュースが増える日だ。
どうしてこんなにその手のニュースに敏感なのか。
そんなこと、自分が一番よくわかっている。
『だってあの海、以外と遠いから』
見せられた文面に、思わず顔を上げる。
どうやら僕の思っていることは彼女に筒抜けらしい。
また勢い余って窓に頭をぶつける僕を見て、楽しそうに笑っていた。
『死のうとは思いませんよ。私、迷惑をかけられない人がいるんです』
それを打っているときの目は、どこか寂しげだった。
「それって、どういう……」
『朝霧先輩だって、責任感じるでしょう?』
「それは……。違うとは、言い切れないけど」
『それにあの日、私の声を取り戻すって言ってくれたとき、すごく嬉しかったから』
なぜか照れくさそうに笑うから、僕にまでそれが移ってしまう。
まるで立花さんの持つ何かに感染したみたいに、じわじわと身体が熱を持つ。
「それなら、よかった」
目も合わせずに言う。
声は、ちゃんと届いていただろうか。
自分の今の声の大きさが、どうしても掴めない。
「あれ、本気だからね」
ゆっくり立花さんに視線を向けると、あの時と同じ、嬉しそうな顔をして頷いた。
僕も真似して頷くと、電車が止まってドアが開いた。
同じ制服を着た人達が、ぞろぞろと外へ流れていく。
僕らも慌てて外へ飛び出した。
登校日や図書当番があったからか、そこまで懐かしさを感じないいつもの道を歩く。
いつもと違うのは、隣にたまたま立花さんがいるということ。
「なにをしたら、声が戻るんだろうね」
どれだけ調べても、症例は少なく、その中の完治はもっと少ないせいで、検索しても出てこない。
調べても調べても、出てくるのは近場のメンタルクリニックをはじめ、その症状や境遇、体調の変化などばかりだった。
『人それぞれなんですって。心のことだから、こうしたら絶対!っていうのは少ないらしいですよ』
まぁ、そういうものだよね。
注射を打ったら治るとか、点滴をしたら治るとか。
そんな感じにはいかないよね。
「……あのさ、聞いてもいい?」
『なにをですか?』
歩きながら、ちらりと僕の顔を見る。
あまり聞くべきではないとは思う。
軽い気持ちで聞いてはいけないことだと、さっき思ったばかりだ。
だから、この期に及んでまだ、立花さんから向けられる視線と僕の目が合う度、悩んでいる。
「その、言いたくなかったら、ちゃんと断ってくれていいんだけどさ」
緊張する。
緊張して、肩に力が入るのがわかる。
いつもはかかない手汗をかいて、手が湿る。
「失った、病気になるまで苦しんでる、その思いを向けている相手って誰……?」
朝から聞くことではなかった。
それを聞いてから思うんだから、僕はダメなんだ。
『いいですよ。教えてあげます』
立花さんは想像以上にあっさりと、二つ返事で了承した。
じっと目を見ていたけど、どうしようかと悩む様子は一切なかった。
「いいの?」
『その代わり、私のお願い、聞いてください。それが終わったら教えます』
「うん。わかった。いいよ」
何をお願いされるんだろう。
立花さんが信号待ちで、試行錯誤しながらスマホに文字を打つのをあまり見ないようにして待つ。
信号が変わって、横断歩道を渡り切ると、歩道の隅に引き寄せられておずおずとその画面を見せられた。
そんなにためらいながらする頼みごとって、どんなのだろう。
画面に目を落とすと、ついわけのわからない「はぇ?」という声が漏れる。
つい口を手で抑えるけど、立花さんそんなことを気にする様子はなく、申し訳なさで溢れた表情をしていた。
もう一度真剣に彼女スマホに目を落とす。
『文化祭のカップルコンテストに、一緒に出てほしいんです』
何度読み返しても、書いてあることは同じだ。
毎年秋に開催される文化祭は、クラスの出し物と部活の出し物の他に、目玉となるミス・ミスターコンテストとカップルコンテストがある。
でもそれは、夏休み前に出演者を一クラス各一人以上の候補者を募っていた。
カップルコンテストに関しては、一応任意での参加になるのだけど。
参加者が少ないと、推薦だったりで学校中のカップルが参加する場になるのは有名な話だ。
夏休み中に生徒会がそれをもとに資料の作成をするとかなんとか。
思わぬお願いに、頭の中はなんで?ばかりになっていた。
でも歩いて冷静に考えてみたら、なんとなく状況は想像がついた。
声が出ないのをいいことに、押し通されたんだろう。
「でも、なんでミスコンじゃなくてカップルコンなの?」
恋人がいないと出場権のないその枠に誘われるなんて、普通ありえない。
僕の質問にバツが悪そうな顔をして、僕はなんとなく察した。
そして、聞いたことを後悔した。
……もしかしたら、古傷を抉っている可能性があるから。
失った大切な人が恋人だったとしたら。
亡くなってしまったわけじゃなくとも、このエントリーが確定したあとに別れていたら。
……うわ、やらかした……。
『彼氏がいるって、言ったことがあるんです』
答えなくていいと止めようとしたときには、もう画面にその文字が打ち込まれていた。
『そうしたら、嫌がらせがなくなるかなって軽い気持ちで嘘をついたら、まさかのこんな目に』
ヘラッと笑って、何か書き足した。
『彼氏なんて、いたことないんですけどね』
どこか虚しそうだった。
それに引き替え、全身の力が抜けそうなくらいほっとする僕は、自分の中にある気持ちに図々しさを感じていた。
恐れていた回答ではなかったことにほっとするならまだしも、彼氏がいたことがないと見たときがなぜか一番安心した。
「とりあえず、嘘を現実にしないといけないわけか」
『はい。そうなんです』
子犬のような目で助けを求める立花さんに、無理なんて言えるわけなくて。
了承の意味を込めて深く頷いた。
「でも、僕がいなかったときはどうするつもりだったの?」
いや、別に男友達が僕しかいないなんて、そんなこと思っていないけど。
思ってないよ、全然。
『こんなこと言うと嫌われそうですけど、貸し出しカードを返してくれたときにこの人ならって思ったので。誰に頼もうかって考えていたけど、一瞬でした』
……じゃあ、もしかして。
僕がSOSだと思っていたあの行動は、カップルコンの相手になってほしかったからだったのか。
辻褄が合っていたから、違和感なんて何もないまま今日まで来ていたけど。
立花さんからのヘルプサインは二つあったのかもしれない。
『でも今は、普通に友達?みたいな感じです』
「うん。僕も立花さんのこと、友達だと思ってるよ」
それは、最初の理由が何であろうと変わらない。
立花さん弱いところを知って、大胆だったりする面白みのある性格を知って。
はじまりの理由はどうであれ、今こうして特定の誰かと一緒に登校していることがどれだけ奇跡に近いものか、僕は知っているのだから。
「一緒に乗り越えよう。カップルコン」
二ヶ月後、十一月の始めに開催される文化祭。
それが立花さんの声を取り戻す、小さなきっかけになってくれたらいいな。
夏休みが明けた日の電車の中で、どうしたら立花さんの声を取り戻せるのか、スマホと睨み合いながらずっと考えていた。
立花さんは一体、大切な誰を失ったんだろう。
気になるけど軽い気持ちで聞けないことが、頭の中に増えていく。
『おはようございます。眉間にシワ、寄ってますよ』
スマホと僕の間に、もうすっかり見慣れば立花さんのスマホが差し出される。
いきなり割り込んできたから、驚いて思わず電車の窓に頭をぶつけてしまった。
「……立花さん。おはよう」
もう遅いけど、何かにコントロールされているかのように、意図しない中で平静を装って顔を上げる。
髪をひとつにまとめていて、涼しげな彼女と目が合った。
「ここ、座りなよ」
僕が立つと、いやだと言わんばかりに首を振り、僕の肩を軽く押した。
電車の揺れも相まって自然と膝が曲がる。
そのせいでまた見下ろされる体制に戻ってしまった。
朝の電車は人が多い。そのせいで窮屈だ。
席を立つ行動さえも苦労を要するほどに。
『あの日の電車とは大違いですね』
椅子から伸びる鉄の手すりを片手で握り、空いた手でスマホを触る。
立花さんの体幹は意外としっかりしているみたいで、小さな揺れでは微動だにしなかった。
「うん。全然違うよね」
海に行ったあの日は平日で、お盆休みも外れていたから夏休み真っ只中の割にそこまで人は多くなかった。
横並びに座って話せるのと、こうして対面で話すのでは高さのせいか、ちょっと遠い。
「でもよかった。全然連絡が来ないから、今日会えなかったらって心配してたんだ」
九月一日。
世の中で、自殺のニュースが増える日だ。
どうしてこんなにその手のニュースに敏感なのか。
そんなこと、自分が一番よくわかっている。
『だってあの海、以外と遠いから』
見せられた文面に、思わず顔を上げる。
どうやら僕の思っていることは彼女に筒抜けらしい。
また勢い余って窓に頭をぶつける僕を見て、楽しそうに笑っていた。
『死のうとは思いませんよ。私、迷惑をかけられない人がいるんです』
それを打っているときの目は、どこか寂しげだった。
「それって、どういう……」
『朝霧先輩だって、責任感じるでしょう?』
「それは……。違うとは、言い切れないけど」
『それにあの日、私の声を取り戻すって言ってくれたとき、すごく嬉しかったから』
なぜか照れくさそうに笑うから、僕にまでそれが移ってしまう。
まるで立花さんの持つ何かに感染したみたいに、じわじわと身体が熱を持つ。
「それなら、よかった」
目も合わせずに言う。
声は、ちゃんと届いていただろうか。
自分の今の声の大きさが、どうしても掴めない。
「あれ、本気だからね」
ゆっくり立花さんに視線を向けると、あの時と同じ、嬉しそうな顔をして頷いた。
僕も真似して頷くと、電車が止まってドアが開いた。
同じ制服を着た人達が、ぞろぞろと外へ流れていく。
僕らも慌てて外へ飛び出した。
登校日や図書当番があったからか、そこまで懐かしさを感じないいつもの道を歩く。
いつもと違うのは、隣にたまたま立花さんがいるということ。
「なにをしたら、声が戻るんだろうね」
どれだけ調べても、症例は少なく、その中の完治はもっと少ないせいで、検索しても出てこない。
調べても調べても、出てくるのは近場のメンタルクリニックをはじめ、その症状や境遇、体調の変化などばかりだった。
『人それぞれなんですって。心のことだから、こうしたら絶対!っていうのは少ないらしいですよ』
まぁ、そういうものだよね。
注射を打ったら治るとか、点滴をしたら治るとか。
そんな感じにはいかないよね。
「……あのさ、聞いてもいい?」
『なにをですか?』
歩きながら、ちらりと僕の顔を見る。
あまり聞くべきではないとは思う。
軽い気持ちで聞いてはいけないことだと、さっき思ったばかりだ。
だから、この期に及んでまだ、立花さんから向けられる視線と僕の目が合う度、悩んでいる。
「その、言いたくなかったら、ちゃんと断ってくれていいんだけどさ」
緊張する。
緊張して、肩に力が入るのがわかる。
いつもはかかない手汗をかいて、手が湿る。
「失った、病気になるまで苦しんでる、その思いを向けている相手って誰……?」
朝から聞くことではなかった。
それを聞いてから思うんだから、僕はダメなんだ。
『いいですよ。教えてあげます』
立花さんは想像以上にあっさりと、二つ返事で了承した。
じっと目を見ていたけど、どうしようかと悩む様子は一切なかった。
「いいの?」
『その代わり、私のお願い、聞いてください。それが終わったら教えます』
「うん。わかった。いいよ」
何をお願いされるんだろう。
立花さんが信号待ちで、試行錯誤しながらスマホに文字を打つのをあまり見ないようにして待つ。
信号が変わって、横断歩道を渡り切ると、歩道の隅に引き寄せられておずおずとその画面を見せられた。
そんなにためらいながらする頼みごとって、どんなのだろう。
画面に目を落とすと、ついわけのわからない「はぇ?」という声が漏れる。
つい口を手で抑えるけど、立花さんそんなことを気にする様子はなく、申し訳なさで溢れた表情をしていた。
もう一度真剣に彼女スマホに目を落とす。
『文化祭のカップルコンテストに、一緒に出てほしいんです』
何度読み返しても、書いてあることは同じだ。
毎年秋に開催される文化祭は、クラスの出し物と部活の出し物の他に、目玉となるミス・ミスターコンテストとカップルコンテストがある。
でもそれは、夏休み前に出演者を一クラス各一人以上の候補者を募っていた。
カップルコンテストに関しては、一応任意での参加になるのだけど。
参加者が少ないと、推薦だったりで学校中のカップルが参加する場になるのは有名な話だ。
夏休み中に生徒会がそれをもとに資料の作成をするとかなんとか。
思わぬお願いに、頭の中はなんで?ばかりになっていた。
でも歩いて冷静に考えてみたら、なんとなく状況は想像がついた。
声が出ないのをいいことに、押し通されたんだろう。
「でも、なんでミスコンじゃなくてカップルコンなの?」
恋人がいないと出場権のないその枠に誘われるなんて、普通ありえない。
僕の質問にバツが悪そうな顔をして、僕はなんとなく察した。
そして、聞いたことを後悔した。
……もしかしたら、古傷を抉っている可能性があるから。
失った大切な人が恋人だったとしたら。
亡くなってしまったわけじゃなくとも、このエントリーが確定したあとに別れていたら。
……うわ、やらかした……。
『彼氏がいるって、言ったことがあるんです』
答えなくていいと止めようとしたときには、もう画面にその文字が打ち込まれていた。
『そうしたら、嫌がらせがなくなるかなって軽い気持ちで嘘をついたら、まさかのこんな目に』
ヘラッと笑って、何か書き足した。
『彼氏なんて、いたことないんですけどね』
どこか虚しそうだった。
それに引き替え、全身の力が抜けそうなくらいほっとする僕は、自分の中にある気持ちに図々しさを感じていた。
恐れていた回答ではなかったことにほっとするならまだしも、彼氏がいたことがないと見たときがなぜか一番安心した。
「とりあえず、嘘を現実にしないといけないわけか」
『はい。そうなんです』
子犬のような目で助けを求める立花さんに、無理なんて言えるわけなくて。
了承の意味を込めて深く頷いた。
「でも、僕がいなかったときはどうするつもりだったの?」
いや、別に男友達が僕しかいないなんて、そんなこと思っていないけど。
思ってないよ、全然。
『こんなこと言うと嫌われそうですけど、貸し出しカードを返してくれたときにこの人ならって思ったので。誰に頼もうかって考えていたけど、一瞬でした』
……じゃあ、もしかして。
僕がSOSだと思っていたあの行動は、カップルコンの相手になってほしかったからだったのか。
辻褄が合っていたから、違和感なんて何もないまま今日まで来ていたけど。
立花さんからのヘルプサインは二つあったのかもしれない。
『でも今は、普通に友達?みたいな感じです』
「うん。僕も立花さんのこと、友達だと思ってるよ」
それは、最初の理由が何であろうと変わらない。
立花さん弱いところを知って、大胆だったりする面白みのある性格を知って。
はじまりの理由はどうであれ、今こうして特定の誰かと一緒に登校していることがどれだけ奇跡に近いものか、僕は知っているのだから。
「一緒に乗り越えよう。カップルコン」
二ヶ月後、十一月の始めに開催される文化祭。
それが立花さんの声を取り戻す、小さなきっかけになってくれたらいいな。



