ザザン……ザザン……。
テンポよく聞こえる波の音。
砂浜に上がる度、ゆらゆら揺れる白い泡。
僕たちは、海に来ている。
「うわ、夏なのに人少なっ!」
思わず声が出てしまうほど、テレビなどで見る海水浴場とは季節が逆転したのかと勘違いしてしまいそうなくらい、人がいない。
『すごい!楽しみ放題ですね』
スマホの奥に、明らかにワクワクしている立花さん見える。
広いとは言い難い砂浜。
狭い陸から広がる大海原。
橋の向こうには、大きくも小さくもない神社。
ちゃんとした場所だからか、鼻をかすめる海の匂いは爽やかな潮の香りで、飲み込む唾がなんとなく塩味を持っているような気がした。
水着を着て遊ぶほどじゃないのならと立花さんが見つけてくれたここは、海に来るという文字通りの目的から考えると最高の穴場だ。
……来るのに二時間以上かかる、それなりに遠い場所だったけど。
「そういえば、どうして海がよかったの?」
砂浜を歩きながら、なんとなく聞いてみる。
僕には、どうしても海に行きたいという強い願望がないから、少し気になっていた。
『私、人魚姫に憧れてるんです』
少し考えたあとに、教えてくれる。
前も言っていたそのワードに、僕の中に不安が現れた。
僕が何気なく言った、人の少ないところがいいよね、という意見を尊重してくれたのかもしれない。
「泳げる海のほうがよかった?」
『いえ。私、泳げないので。むしろ意見が合って安心しました』
「じゃあ、どんなところに憧れてるの?」
ほっとしつつ、僕の中でやっと考えついていた人魚姫に対する憧れとは違うことに疑問を抑えられなかった。
だって僕が考えるにあの絵本を読んで憧れるところは、海を自由に泳げるところだと思っていたから。
『私、泡になるのが夢なんです』
さっきの返答より長い沈黙を経て、教えてくれた立花さんの夢は、軽い気持ちで聞くべきものではなかった。
だって、それって……。
遠回しに、消えたいって言ってるようなものだ。
優しく微笑む顔が、なんだかとても切ない。
驚きと反省から、思わず立ち止まってしまう。
そんな僕に気が付かないのか、キラキラした面持ちで海の方へ向かって歩いていく。
花びらみたいにひらひらしたワンピースの裾を膝上で縛って、とうとうはしゃいで波打ち際へと走っていく立花さんを追いかけて、腕をついつかんでしまった。
「ねぇ、"泡になりたい"って……比喩だよね?」
何を思ったのか、目を大きく見開いた立花さんの答えを待たずに僕は言葉を続けた。
だって本気なら。もし病気がそういう物語の中でよくある特殊な症状を持っているなら。
いきなり消えられるのは、怖い。
こうして遊んでいるのだから、同じ時間を過ごしているのだから、どうせなら今日でもっと仲良くなりたい。
死んでしまうのは、どうしても嫌だ。
「本当に泡になっちゃうとか、ないよね……?」
本気で不安に思っているのに、立花さんは音を立てずに吹き出して、クスクスと笑っているようだ。
『できないですよ。できるわけないじゃないですか』
肩掛けバッグから取り出したスマホを見て、ほっとする。
……そう、だよね。
普通、人間なんだから。童話みたいに泡になって消えるなんて、何をどうしてもできるわけないよね。
はぁー、と長い息を吐き出すと、彼女はまた何か書いていた。
『心配してくれて、ありがとうございます』
それを最後に、立花さんはカバンの中にスマホをしまい込み、そのまま砂浜の上に置いた。
「大胆だなぁ」
女の子だから、砂の上に荷物を置くことはもってのほかで、なにか敷物を敷くのかと思っていたのに。
何も気にしないようなあっけなさに好感を得る。
早く来いと言わんばかりに、足首まで波に浸かって両手で大きく手招きをするから、ズボンの裾を折り、カバンを立花さんの隣に置いた。
「冷たっ」
暑いからちょうどいいのかと思いきや、高い気温にさらされているくせに身体が冷える。
つい眺めてしまう海のずっと向こうは湾曲になっていて、地球って本当に丸いんだな、なんて小学生みたいなことを考えた。
「うわっ!」
なんの前触れもなく、腕に海水が触れる。
顔を上げると、いたずらっ子みたいな顔をして楽しそうに笑う立花さんが手を濡らして立っていた。
「やったな」
僕も負けじと海水をかけ返す。
よくある、この青春のド定番のこの状況下で、僕は物足りなさを感じていた。
なんだか立花さんと一緒にいるはずなのに、ひとりぼっちで遊んでいるみたいだ。
楽しそうに、口を開けて笑っているのに。
そこから微かな笑い声さえも聞こえてこない。
たまにパクパクと口が動いて、何かを話している気はするのに、会話ができない。
病気じゃない僕がこんなに寂しいのに、立花さんはどれだけ悲しい思いをしてきたのだろう。
会話の度に、それに対する対応が慣れている様子だから、病気にかかったのは最近ということではないだろうと察しているけど。
具体的にいつからなんだろう。
ずっと、こんな日々を生きていくつもりなのかな。
____パシャン。
僕の身体まで辿り着かずに落下した、海水の音でハッとする。
こんなこと、僕がどう考えてもわかるわけないんだ。
心情は本人にしかわからないし、それを無闇に聞き出すなんて人の家に土足で上がり込むようなもの。
それにこっちが勝手に想像して、個人的な気持ちを押し付けるなんて失礼極まりない。
ましてや相手は女の子で、まだなんでも話せる関係とは程遠いのに____。
そろそろ水掛けにも飽きて、濡れた服をダメ元でハンカチで拭う。
ハンカチも履いてきたスニーカーも、救いようがないくらいぐしょぐしょになってしまって、歩くたび気持ち悪い。
足を眺めながら顔を歪める立花さんも、きっと同じ気持ちだろう。
『これも思い出ですね』
さっきまでの表情とは一変して、スッキリした顔で笑っていた。
降りた駅に向かうために足を動かすたび顔を歪めながらも、笑顔が絶えなかった。
楽しそうに笑うのに。
声が聞こえてきそうなのに。
結局今日一日彼女の口から何かが聞こえることはないまま、夕日が僕らを照らす時間になっていた。
見慣れた風景が車窓を流れ、電車を降りる。
立花さんを送るためにいつもより二本早く降りた駅は、見慣れていると思ったのに全然そんなことなかった。
「これ、出口どこだ?」
案内板を探していると、立花さんの手が僕の手を取り、少し強引に引っ張られる。
慣れた足取りで進んでいく姿は、なんだか大人びて見えた。ここは全然田舎なのに、大都会の帰宅ラッシュをすり抜けるOLみたいだなんて錯覚してしまうほど。
知らないから当たり前って言われそうだけど、帰りの電車で頑なに家まで送ると言った手前、なんだか情けない。
『本当によかったんですよ?』
「でも親御さんも心配するでしょ?空はまだかろうじて明るいけど、時間はそれなりに遅いし」
こうして画面を通して会話をしているから、途中で立ち止まったり、歩くのがいつもよりずっと遅くなるのだ。
乗る予定だった電車に乗遅れたり、到着予定から随分と時間が過ぎて到着したり。
それを悪いとは言わないし、むしろ新鮮で楽しかったりしたわけだけど。
僕と出かけたせいで立花さんが怒られて、彼女に更なるストレスを与えてほしくない。
『いえ、それはないです』
「え?」
『私、一人暮らしなので』
……え?
なんで?
つい口に出そうになったけど、飲み込んだ。
今日は少し踏み込んだことを聞いてしまったし、僕たちの浅い関係でまだそこまで、これ以上根掘り葉掘り聞いたらダメだと思ったのだ。
でもじゃあ、誰が立花さんのことを支えるんだろう。
友達は、彼女を苦しめている。
悩みを誰かに気軽に話せるタイプではなさそうだし、それなのに一緒に住んでいる人がいないなんて。
そんなの、声が戻らないのも当たり前なんじゃないのか?なんて。そんな考えは甘いのかもしれないけど。
「……僕が、支える」
つい口にした言葉に、立花さんは首を傾けてはてなマークをたくさん浮かべた顔をしていた。
「僕が、立花さんの声を取り戻す」
誰もやらないなら、僕がやる。
全力で笑っている立花さんの笑い声を聞きたい。
そう、願ってしまったから。
二階建てのアパートの前で、立花さんは大粒の涙を流した。
泣きながら、微笑んでいた。
そして、何度も何度も頷いて、ゆっくり口を開いた。
"ありがとう"
一文字ずつゆっくり、確実に伝えてくれる。
「ありがとう?」
つい、聞いてしまう。
立花さんは嬉しそうに笑って、また頷いた。
____ドクン。
その笑顔に、不意に胸が跳ねる。
苦しさは全くない。
むしろ僕まで嬉しくなってしまった。
夏の終わり。
八月の下旬なんて、まだまだ夏真っ只中と言えるほど暑いのに。
外にいるだけで、暑さで息苦しくなってしまうのに。
今はすごく、息がしやすい。
この時間がずっと続いたらいいのにと思ってしまうほどに。
そして、一人家に帰った僕は、ベッドに倒れ込んだ。
深く考えすぎ。
稔にそう言われたことを、思い出していた。
やっぱり少し、やりすぎてしまったかな。
望んで今の生活をしていて、それが一番ベストだと思っていたら。
僕の意思は、ただのお節介と迷惑だ。
「うぁぁ……」
頭を抱えて、ベッドのシーツをしわくちゃにしながら唸っても、どうすればよかったのか、その正解はわからない。
身体を起こして、水を飲もうと部屋のドアを開けると、ちょうどリビングが開く音がした。
「おかえり、祐希(ゆうき)
「ただいま。父さんは?」
「コンビニに行ってるのよ。ビールを買い忘れたって」
カチャカチャと、食器がぶつかる音が聞こえる。
……なんで兄がいるんだろう。
「祐朔は?」
兄の僕を呼ぶ声に、ピクリと耳が反応する。
「いいのよ、あんな子は。ほら、座って?」
「ありがとう」
あぁ、そうだ。今日は……。
「今日は祐希の二十歳の誕生日だもの。盛大にお祝いしないとね」
母さんの楽しそうな声が聞こえる。
兄さんの照れくさそうな声も、帰ってきた父さんの上機嫌な声も。
さっきまで、あんなに息がしやすかったのに。
今はまるで水の中にいるみたいだ。
音を立てないようにそっと扉を閉めて、ベッドに潜り込んだ。