もう会わないだろうから。
何度も思ったことを何度もリピートして考えて、その度立花さんのことは頭から追い出した。
それなのに。一度会うと、どうしてこう何気ない瞬間に目が合ったりするんだろう。
「おはよう。喉は大丈夫?」
階段をのぼりながら、立花さんは声のない愛想笑いを見せる。
まだあまり調子がよくないのか、表情は曇っていた。
「____人魚姫じゃん。夏なんだから、もう陸は辞めて早く海に帰ればいいのに」
ぼそっと、気の強そうな切れ目の女の子がそう言うのが、この人が多くて騒がしい中でもやけに大きく聞こえた。
"人魚姫"
憧れてるって言っていたけど、本当に?
そういえば、昨日もそれらしいことを聞いた気がする。
立花さんのことを人魚姫と呼ぶ人が、確かにいた。
「じゃあ……、あの、僕ここだから」
二年のフロアは一年生の一個下だから、僕のが先に階段から外れた。
こくんと頷く立花さんの瞳は、ズーンと暗く見える。
……大丈夫かな。
でも、それを聞いて話してもらえるほど深い仲じゃない。
それに聞き方ひとつで少しでも傷を癒せるか、傷を増やしてしまうかの大きな違いがある。
究極の二択を迫られている気分だ。
教室に向かう廊下を歩く間、教室に入って席に着く道のりの中で、立花さんの暗い瞳が頭から離れない。
「おはよう。あれ、なんかまた考え事でもしてる?」
自分の席についてそうそう、バシッと背中を叩いてくる稔。
第三者が、第三者に聞いてもいいのかな。
いや、でもなぁ……。
「____なんでもないよ」
「そう?……ならいいけど」
ならいい。
そう言いながら、顔を覗き込んでくる。
多分気付いているんだろう。
悩んでいるくせに、話していないこと。
人生でこんなにもしょっちゅう悩んでいるのは初めてで、その原因が立花さんだってこともわかっている。
近づかなければ、新たな悩みが増えることも、今の悩みを気にしなくてよくなることもなんとなくわかるけど。
でもなんだか、気になってしまう。
昨日のあの必死な顔つきといい、今日の暗い顔といい。
気にするなと言われる方が無理だ。
もしかしたら、本当は今が苦しくて、助けを求められていたんじゃないか。
あの暗い顔は、いじめられているからなんじゃないか。
____なんの前触れもなく出てきた海の話は、最悪の展開を迎えたときの選択肢に入っていたからなんじゃないか。
もしそうだったとしたら、人魚姫が好きなのかとか、史上最強に最悪な質問だった。
あの質問に対するあの返事は、消えたい、と思っているからなのか?
もしあれが、立花さんからのSOSだったとしたら……。
稔によく言われる。
深く考えすぎるくせに、突飛な考え方をするって。そんなこと、起こる可能性は低いって。
不安症だなってあしらわれることが多くて。
本当に今まで、頭の中で思うだけで、それが現実になったことはないけど……。
でも、もし本当にそうだとしたら。
きっと今、動かないと後悔する。
だって立花さんは、透明人間の僕をすぐに見つけてくれたんだから。その恩は、きちんと返す必要がある。
「____ちょっと、行ってくる」
稔が聞いているのかどうかもわからないのに、とりあえずそれだけ言って教室を出る。
いつも通りの考えすぎであってほしい。
そうじゃないと困る。
階段を一段飛ばしで駆け上がり、一年三組の前につく。
「いいよね。喋れないって特だもんね」
「人魚姫なんて、早く辞めればいいのに」
次々に聞こえる言葉は、明らかにナイフの形をしていて。
言い返さない。ピクリとも反応しない。
下を向いたままの立花さんが目に入ったとき、気付いたらもう、扉を開けていた。
「大丈夫?ごめんね、気付くのが遅くなって」
立花さんの視界に入るように屈んで顔を見つめると、無表情だったのがじわじわと歪み、目を潤ませた。
小さく首を振る立花さんの手を取って、教室を出る。
どこか人がいない場所はないかと考えて、思いついた図書室に入る。
授業がもうすぐ始まるから、もうそこに人はいなかった。
「座ってて。水買ってくるから、ここで待ってて?」
椅子を引き出し、立花さんの手を離そうとすると、離すどころか手を握る力に拍車がかかる。
空いた手で自分が座った席の隣の椅子を出して、指さしている。
……座ってってことで、合ってるかな?
離れない手をそのままに、立花さんの隣に腰かける。
「もっと早く気付けなくてごめん」
泣いている彼女の前で、僕は一方的に言葉を続ける。
「昨日から、伝えてくれてたよね。ちゃんと、しっかり話を聞いてあげていれば、傷を増やすことなかったかもしれないのに」
ただただ、反省しかなかった。
自分のことばかりしか考えていないなんて、恥ずかしい。
「……このこと、先生には言った?」
僕が聞くと、何故か少し考える素振りをしてからゆっくりと横に首を振る。
「そう……」
確かに、自ら話すタイプではなさそうだ。
『先生には、このこと言わないでください』
涙が治まってきたころ、懇願するように僕の袖を掴んでそう書いた。
「なんで……?」
『私の友達だから』
でも、それでも。
泣くほど苦しんでいるのに、放ってはおけない。
「もしこの苦しみがなくなったとして、立花さんはあの子たちと仲良しに戻れるの?」
前までの仲の深さがどれくらいかはわからないし、口出しするのもどうかと思ったけど。
僕には、ムリだから。
もし仮に、今稔からナイフのような言葉を浴びせられたら。
それがなくなっても今まで通りとはいかないだろう。
……あれ、でも僕は、そのことを大人にチクったりできるのか?
『私を、最初に見つけてくれた人だから』
首を振って、僕の方に向けられるスマホを持つ手は、かすかに震えていた。
ドキッとする。
それは、今ふと思った僕の頭の中の言葉と全く同じものだった。
恩があるから。
今どれだけその恩人に苦しめられていても、もらった恩は仇で返せない。
思い出を積み重ねてきた年月が、長ければ長いほど。
「その気持ちは、わかる」
経験したことがないから、一から百まで全部わかるとは言えないけど。
三分の一くらいは、想像だけでも気持ちはわかる気がした。
考えることが同じだったから、余計に。
「先生には言わないよ。でもその代わり、僕に立花さんの心を少しでも支えさせてほしい」
思わず口から飛び出たその言葉に、立花さんよりも僕自身が驚いてしまう。
「あ、いや、その……。立花さんが、嫌じゃなければ」
つい逸らしていた目を、恐る恐る立花さんの方へ向ける。
しっかり目に映った立花さんは、どこか安心したように頷いた。
『お言葉に甘えさせてください』
そう微笑む立花さんのまつ毛には小さい涙の粒が光っていた。
そのせいか、彼女がふんわりと輝いているように見える。
どうか、いつか彼女が涙なしで輝ける日が来ますように。
つい、なにかにそう願ってしまう。
相手が神様なのか仏様なのか。はたまた、陽の光になのか。
わからないけど、頭の中で何度も何度も、真剣に願った。
何度も思ったことを何度もリピートして考えて、その度立花さんのことは頭から追い出した。
それなのに。一度会うと、どうしてこう何気ない瞬間に目が合ったりするんだろう。
「おはよう。喉は大丈夫?」
階段をのぼりながら、立花さんは声のない愛想笑いを見せる。
まだあまり調子がよくないのか、表情は曇っていた。
「____人魚姫じゃん。夏なんだから、もう陸は辞めて早く海に帰ればいいのに」
ぼそっと、気の強そうな切れ目の女の子がそう言うのが、この人が多くて騒がしい中でもやけに大きく聞こえた。
"人魚姫"
憧れてるって言っていたけど、本当に?
そういえば、昨日もそれらしいことを聞いた気がする。
立花さんのことを人魚姫と呼ぶ人が、確かにいた。
「じゃあ……、あの、僕ここだから」
二年のフロアは一年生の一個下だから、僕のが先に階段から外れた。
こくんと頷く立花さんの瞳は、ズーンと暗く見える。
……大丈夫かな。
でも、それを聞いて話してもらえるほど深い仲じゃない。
それに聞き方ひとつで少しでも傷を癒せるか、傷を増やしてしまうかの大きな違いがある。
究極の二択を迫られている気分だ。
教室に向かう廊下を歩く間、教室に入って席に着く道のりの中で、立花さんの暗い瞳が頭から離れない。
「おはよう。あれ、なんかまた考え事でもしてる?」
自分の席についてそうそう、バシッと背中を叩いてくる稔。
第三者が、第三者に聞いてもいいのかな。
いや、でもなぁ……。
「____なんでもないよ」
「そう?……ならいいけど」
ならいい。
そう言いながら、顔を覗き込んでくる。
多分気付いているんだろう。
悩んでいるくせに、話していないこと。
人生でこんなにもしょっちゅう悩んでいるのは初めてで、その原因が立花さんだってこともわかっている。
近づかなければ、新たな悩みが増えることも、今の悩みを気にしなくてよくなることもなんとなくわかるけど。
でもなんだか、気になってしまう。
昨日のあの必死な顔つきといい、今日の暗い顔といい。
気にするなと言われる方が無理だ。
もしかしたら、本当は今が苦しくて、助けを求められていたんじゃないか。
あの暗い顔は、いじめられているからなんじゃないか。
____なんの前触れもなく出てきた海の話は、最悪の展開を迎えたときの選択肢に入っていたからなんじゃないか。
もしそうだったとしたら、人魚姫が好きなのかとか、史上最強に最悪な質問だった。
あの質問に対するあの返事は、消えたい、と思っているからなのか?
もしあれが、立花さんからのSOSだったとしたら……。
稔によく言われる。
深く考えすぎるくせに、突飛な考え方をするって。そんなこと、起こる可能性は低いって。
不安症だなってあしらわれることが多くて。
本当に今まで、頭の中で思うだけで、それが現実になったことはないけど……。
でも、もし本当にそうだとしたら。
きっと今、動かないと後悔する。
だって立花さんは、透明人間の僕をすぐに見つけてくれたんだから。その恩は、きちんと返す必要がある。
「____ちょっと、行ってくる」
稔が聞いているのかどうかもわからないのに、とりあえずそれだけ言って教室を出る。
いつも通りの考えすぎであってほしい。
そうじゃないと困る。
階段を一段飛ばしで駆け上がり、一年三組の前につく。
「いいよね。喋れないって特だもんね」
「人魚姫なんて、早く辞めればいいのに」
次々に聞こえる言葉は、明らかにナイフの形をしていて。
言い返さない。ピクリとも反応しない。
下を向いたままの立花さんが目に入ったとき、気付いたらもう、扉を開けていた。
「大丈夫?ごめんね、気付くのが遅くなって」
立花さんの視界に入るように屈んで顔を見つめると、無表情だったのがじわじわと歪み、目を潤ませた。
小さく首を振る立花さんの手を取って、教室を出る。
どこか人がいない場所はないかと考えて、思いついた図書室に入る。
授業がもうすぐ始まるから、もうそこに人はいなかった。
「座ってて。水買ってくるから、ここで待ってて?」
椅子を引き出し、立花さんの手を離そうとすると、離すどころか手を握る力に拍車がかかる。
空いた手で自分が座った席の隣の椅子を出して、指さしている。
……座ってってことで、合ってるかな?
離れない手をそのままに、立花さんの隣に腰かける。
「もっと早く気付けなくてごめん」
泣いている彼女の前で、僕は一方的に言葉を続ける。
「昨日から、伝えてくれてたよね。ちゃんと、しっかり話を聞いてあげていれば、傷を増やすことなかったかもしれないのに」
ただただ、反省しかなかった。
自分のことばかりしか考えていないなんて、恥ずかしい。
「……このこと、先生には言った?」
僕が聞くと、何故か少し考える素振りをしてからゆっくりと横に首を振る。
「そう……」
確かに、自ら話すタイプではなさそうだ。
『先生には、このこと言わないでください』
涙が治まってきたころ、懇願するように僕の袖を掴んでそう書いた。
「なんで……?」
『私の友達だから』
でも、それでも。
泣くほど苦しんでいるのに、放ってはおけない。
「もしこの苦しみがなくなったとして、立花さんはあの子たちと仲良しに戻れるの?」
前までの仲の深さがどれくらいかはわからないし、口出しするのもどうかと思ったけど。
僕には、ムリだから。
もし仮に、今稔からナイフのような言葉を浴びせられたら。
それがなくなっても今まで通りとはいかないだろう。
……あれ、でも僕は、そのことを大人にチクったりできるのか?
『私を、最初に見つけてくれた人だから』
首を振って、僕の方に向けられるスマホを持つ手は、かすかに震えていた。
ドキッとする。
それは、今ふと思った僕の頭の中の言葉と全く同じものだった。
恩があるから。
今どれだけその恩人に苦しめられていても、もらった恩は仇で返せない。
思い出を積み重ねてきた年月が、長ければ長いほど。
「その気持ちは、わかる」
経験したことがないから、一から百まで全部わかるとは言えないけど。
三分の一くらいは、想像だけでも気持ちはわかる気がした。
考えることが同じだったから、余計に。
「先生には言わないよ。でもその代わり、僕に立花さんの心を少しでも支えさせてほしい」
思わず口から飛び出たその言葉に、立花さんよりも僕自身が驚いてしまう。
「あ、いや、その……。立花さんが、嫌じゃなければ」
つい逸らしていた目を、恐る恐る立花さんの方へ向ける。
しっかり目に映った立花さんは、どこか安心したように頷いた。
『お言葉に甘えさせてください』
そう微笑む立花さんのまつ毛には小さい涙の粒が光っていた。
そのせいか、彼女がふんわりと輝いているように見える。
どうか、いつか彼女が涙なしで輝ける日が来ますように。
つい、なにかにそう願ってしまう。
相手が神様なのか仏様なのか。はたまた、陽の光になのか。
わからないけど、頭の中で何度も何度も、真剣に願った。



