教室に入ると先生は既に来ていて、教卓の前の席に座る人達と話していた。
その後ろを通り、自分の席に荷物を置く。
「おつかれ」
「ありがとう」
隣の席の稔と目を合わせて、さっきのことを話そうかと考える。
でもすぐにチャイムが鳴って、一限目がスタートしてしまった。
挨拶もなしに先生は板書を始める。
そのせいか、いや、絶対そのせいではないのだけど。
頭の中は立花さんのことでいっぱいになっていた。
音楽を聴く、声で話さない女の子。
なんでなんだろう。
一瞬、耳が聞こえない子なのかと思った。
でも次の瞬間、音楽を聴いていたとわかった。
考えないようにしようと思っているくせに、そう思う度に考えて、また頭から追い出そうとする。
そのループに入ってしまった。
「……く。祐朔(ゆうさく)
机をコンと叩かれて、名前を呼ばれる。
ダルいと言っていた割に真面目にノートを開いている稔が、回ってきたプリントを代わりに後ろに回してくれていた。
【なんかあった?】
膝上で器用にスマホを開き、メッセージを飛ばす。
ポケットの中で振動したそれに、返信を送る。
【️気になる人がいるんだよね】
紙飛行機のマークを押したあとに、ちょっと言い方がまずかったかなと、稔の顔を見る。
案の定、目を丸くして、片手に握っていたペンを床に落としていた。
ガコン!と明らかに痛い音を立てて膝を机にぶつけながら、そのペンを拾う。
その動揺っぷりに自分の言葉足らずなメッセージに少し責任を感じつつ、とりあえず次の出方を待つことにした。
「すんません」
「大丈夫か?すごい音したけど」
「はい。蚊に刺されたようなものです」
そう、ヘラッと笑いながら先生と目を合わせて、またこっそり文字を打ち始める。
【️なに、恋愛?恋わずらい?マジで?】
授業中だからか、いつもはいくつかにわけて送られるような文面も、一つにまとまってやってくる。
【️違うよ。人間として気になるってこと】
【️は?どういうこと?】
その文面を表すように、稔の目はジトッとこちらを見ていた。
【️さっき、女の子に会って】
また、ガタッと音がする。
いつもより話を真剣に聞いている様子は、声は聞こえなくとも、普段の二割増しの食いつき具合とこちらに送られる視線でよくわかる。
【️で?】
【️音楽聴いてるのに声で話さないんだよ。スマホに文字打って見せられるの。それが、なんでかなって】
送ったあとに稔を見ると、首をかしげて何かを考えているようだ。
しばらくして先生の視線を確認したあと、またスマホを開く。
【️まぁ、風邪か何かで喉を痛めてるか、男と話すのが苦手かってところじゃない?】
____そっか。そういうことか。
なんだかすごくスッキリした。
誰かに話してみるもんだ。
【️深く考えすぎだよ。意外と単純だったりするもんだよ】
【️そうだね。助かったよ】
頭が楽になると、身体まで楽になる。
スマホをポケットにしまい込み、背もたれに身体を預けた。
今まで背筋をしゃんと伸ばしていたなんて、自分でも驚いた。そのせいで肩がガチガチだなんて、笑ってしまう。
モヤモヤがなくなったおかげか、気楽に受けられた残りの授業も無事終わり、図書室に行く準備をする。
お昼を持ってくるのを忘れたから、購買に買いに行かないと。
「それにしても驚いたよ。祐朔がとうとう初恋かって思ったときは」
なんやかんや授業と授業の間に話せなかった稔とは、三時間越しなのにずっと話していなかったような感覚になる。
「そんなわけないって。僕には恋とか、一生できないと思うよ」
「そんなことないと思うけど。まぁ、一人で大人になられるのは嫌だな」
恋、ねぇ……。
稔がいないと空気同然の透明人間の僕に、そんな日は訪れないと思う。
周りから見たら、"それなりに目を引く存在の稔の横にいるモブ"という立ち位置の僕は、もうずっと前から人間関係を諦めていた。
そう。稔に出会うより、もっと前から。
そんな僕に、恋なんてハードルが高いイベントがやってくるわけがないのだ。
「僕は、稔さえいてくれればそれでいいよ」
「え、なに?愛の告白?」
ふざけて笑っていながらも、少しだけ頬が赤い気がした。
「愛というか、友情?親友愛的な?」
「愛じゃん。まぁ俺も、祐朔がいてくれれば恋人はいらないかな」
教室から漏れ出るエアコンの冷気が、少しばかり暑さを和らげる。
それでも張り合いがないくらい暑いから、僕の頬もきっと稔と同じくらい赤くなっているのだろう。
「そういえば、稔は何買うんだっけ」
リュックを背負い、お弁当袋を片手に持っているから、購買に用なんてなさそうに見える。
下まで一緒に行く、というつもりだったけど、昇降口を通り過ぎた、図書室とは反対方向の購買の前まで一緒に来ていた。
「俺?あー……。アイスだよ。アイス。部室暑いからさ」
まるで購買に初めて来た人みたいなことを言っている。
「うちの購買、アイスないけど……」
「あれ、そうだっけ。コンビニと間違えたかな」
焦っているのか、やけに早口だ。
よく噛まないな、なんて思いながら最後まで聞いていると、どさくさに紛れて冷蔵庫を開けてサイダーを手に取った。
「本当は、これ買いに来たんだよ」
「ほんとかよ」
つい、笑ってしまう。
だってあまりにも必死だから。
ひとしきり笑ったあと、おにぎりを片手にレジに並んでいると、レジ横に熱中症予防の塩分タブレットとのど飴が吊るされているのを見つけた。
"風邪か何かで喉を痛めてるか、男と話すのが苦手かってところじゃない?"
ふと、さっきのメールのやり取りと、あの子……立花さんのことを思い出した。
まぁ、一日に二度も図書室に来ることはないだろう。
……そう思ったはずなのに。
購買を出たときのレジ袋の中には、ツナマヨと梅干しの二種類のおにぎりと、のど飴もしっかり入っていた。
「じゃあ俺行くわ。委員会ファイト」
「うん。稔も部活頑張って」
昇降口の前で別れたあと、一人で教室に戻って急いで昼を食べて図書室に走る。
中に入ると、誰もいなかった。
夏休みの開館は、午後三時まで。
あと二時間だから、夏休みの課題でもやって時間を潰そう。
カウンター内のテーブルにテキストを広げる。
シャープペンをノックする音。
ページをめくる音。
静かだと、こういう小さい音もよく響く。
あれから何分くらい経ったのだろう。
わからないけど、廊下から聞こえるこちらに近づいてる足音に気付いて、テキストをしまった。
自分の中に、期待という気持ちがあることに疑問を抱く。
なんでだろう。
誰が来ても、あまり心地よくないことに変わりはないはずなのに。
誰ならいいんだろう。
……もしかして、立花さん?
いやいや、そんなことない。
第一、その子が来ることになんで期待する必要があるのかすらわからない。
それもこれもきっと、稔が恋愛がどーだとか言うから変に意識してしまっているだけだ。
そうだ。そうに違いない。
頭の中が騒がしい中、本を持って入ってきたのは思い浮かべた通り、立花さんだった。
朝よりもしっかり顔を見ることができて、その綺麗な、いい意味でお人形さんみたいな顔立ちに一瞬息を飲んだ。
茶色くてビー玉のように大きな瞳。
肌が白いからか、綺麗に広がる桃色の頬。
ジュワッとした果実のような唇。
こういう子が高嶺の花と呼ばれる人なんだと思うほど、容姿端麗な女の子だった。
『これ、返却します』
朝と同じくスマホを向けて、本を差し出す。
「返却、ですね」
大きくて、薄い本だ。なんだろう。
ピッ、ピッ。
そんな無機質な音だけが、図書室内に響いた。
「あ、もし良ければこれ……」
さっき買ったチャック付きのりんご味ののど飴を、急いで取り出す。
当たり前だけど、彼女は不思議そうな顔をしていた。
「喉がイガイガするのって、辛いと思うので。購買に行ったとき、つい買っちゃって……」
あれ、もしかして僕……キモい?
初対面の女の子宛に食べ物を買って渡すなんて、キモい……よな?
「いや、すいません。忘れてください」
カウンターに置いたそれをカバンに戻そうとすると、彼女の手がそれを制止した。
「……えっと……?」
『ください。ほしいです、それ』
文字になって目の前に現れた優しさに、嬉しさと申し訳なさが募る。
「じゃあ……はい」
一冊の本の上で繰り広げられたやりとりも、のど飴を渡したらそれで終わりで。
これで本当に会うことはないのだろう。
次の本を探す素振りもなく、にこりと笑って図書室を出て行ったのだから。
裏表紙からひっくり返すと、彼女が借りて、返したこれは絵本だった。
人魚姫。
人生で一度も読んだことがないものだ。
興味本位でページをめくる。
人間に憧れた人魚姫が、好きな人と結ばれるために声を奪わる。でも結局恋は実らず、その上愛する人を殺す選択肢を強いられ、それができずに泡になって消えてしまう。
子供に読ませる本のはずなのに、残酷だ。
ほとんど何も書いていない最後のページをめくると、そこに貸し出しカードが挟まっていた。
慌てて図書室を出るも、もうそこには姿はなかった。
もう帰ったのか、それとも校舎内にいるのかすらわからない。
明日返そう。
幸い、カードにクラスと名前が書いてある。
いきなり名前を呼んでも不自然じゃない。
立花さんの貸し出しカードを丁寧に財布にしまい、会う口実ができたことに喜びを感じている自分が、なんとも言えないほど気持ち悪く感じた。