新生活。
それは降る雪が春を彩る桜に見えるほど、希望に満ちあふれていて、それを裏切るものは何もなかった。
「行ってきます!」
「あ、祐朔!弁当忘れてるって」
兄との二人暮しを初めて一ヶ月が経つけど、生活は順調だった。
家事の分担だったり、やることは増えたけど、それを苦とは思わない。
「地面、滑るかもだから気をつけろよ」
ネクタイを締めながら、リビングの扉から顔を覗かせる。
心做しか、兄の表情も明るいように感じていた。
「兄ちゃんもね」
「……おう」
僕が兄を兄ちゃんと呼ぶようになったのは、一緒に暮らし始めてからだ。
両親がいる家では、顔を合わせることがまずなかったから、これといって呼び方がなかったのだ。
兄ちゃんは僕が兄ちゃんと呼ぶ度、頬を緩ませる。
今までの環境が環境だったからか、きっとはじめて『にいに』と呼ばれたときの感覚に近いものを感じているのだろう。
しばらくはつづきそうだけど、こんなことで喜ばれるのだから気が楽だ。
新居から学校まで、徒歩二十分。
電車に乗ることもなくたどり着けてしまうのは、朝から澪に会えなくて寂しかったりするのだけど。
いくつも県を跨いで、月に一度会えるか会えないかの日々を考えると、文句は何もない。
「あ。おはようございます」
「え、澪?どうしてここにいるの?」
エントランスの内扉の前で、僕に手を振る澪がいた。
「あぁ、兄ちゃんが入れてくれたのか」
澪はニコッと笑って頷くのかと思いきや、首を左右に振った。
「私もここに引っ越してきたんです」
嬉しそうに笑って、僕の手を取る。
「おばさんが。あ、母の妹なんですけど。こんなボロボロのアパートで、何かあったらどうするの!って、ここを」
そう、三○五号室のポストを指さした。
僕たちの部屋の、二つ下らしい。
「すごい。こんな偶然あるんだね」
「私も、おばさんが持ってきた物件の資料見たとき、びっくりしました」
「でも、なんで今なの?」
「両親の命日に、たまたまお墓で会ったんです。それで家まで送ってもらったんですけど、セキュリティ面とかすごい心配してくれてこんなにしっかりした賃貸マンションに……」
少し申し訳なさそうに話してくれる。
澪の眉が下がるのを見て、勝手に自分の両親と澪のおばさんを重ねてしまった。
「おばさん、内見とか一緒にしなかったの?一緒に住んでくれなかったの?」
「おばさんにも家族があって。だから、私から一人暮らしをしたいってわがまま言ったんです。忙しい時期だったから私が遠慮したんです」
確かに、元からある家族の中に入るのなんて、相当の勇気がいるだろう。
一人暮らしをすることは、澪なりの頑張り方だったのかもしれない。
「そっか。ごめん、勝手に想像して、変なこと言って」
「いいんです。祐朔くんが心配して聞いてくれてるって、ちゃんと顔を見たらわかりますよ」
ひんやりした手が、僕の頬に触れる。
その手に重ねるように、自分の手を添えた。
「前に言ってた迷惑をかけられない人って、その人だったんだね」
「はい。おばさんにもちゃんと大切にされている自覚はあるので、真っ当に生きていかないとなって」
なんて優しく笑うんだろう。
エグみのない純粋な笑顔に、僕は胸を打たれた。
「いつか、会いたいな」
「会ってほしいです。祐朔くんは私の大切な人だって、いろんな人に言いふらしたくて仕方ないんです」
手を繋いで、学校までの道を歩く。
人は、目で見ているよりもずっと、色々なことを抱えて生きている。
一見順風満帆に見えても、恵まれているように見えても、だからこそ言えない悩みがきっとある。
僕は、あまり気が付けないかもしれない。
それで澪を苦しめることも、この先あるかもしれない。
それでも彼女の隣にいるのは僕がいい。
幸せにするのは、僕がいい。
「ねぇ、祐朔くん。なんで私、声が戻ったと思う?」
ぐいっと僕の腕を引き寄せた澪が、恥ずかしそうに話してきた。
「両親の死を受け入れられたから……とか?」
ゆっくり首を横に振る。
そして彼女は僕の耳元で、その理由を教えてくれた。
「心の底から大切だと思う人に出会えて、その思いを伝えたいと強く願ったからですよ」
頬を赤く染めて、照れ隠しのようにふふ、と肩を竦めて笑う。
「祐朔くんのおかげで私、すごく幸せです」
そう話す澪は、まさしく僕の光だ。
一度離れた手を再び繋いで、温もりを分け合う。
雪の降る朝。寒さなんて気にならないほど、僕は幸せに満たされている。
兄の作った弁当をギプスが取れた手で揺らしながら、僕は今日も生きていく。
自分が幸せになるために。
そして、大切な人をもっともっと幸せにするために。
それは降る雪が春を彩る桜に見えるほど、希望に満ちあふれていて、それを裏切るものは何もなかった。
「行ってきます!」
「あ、祐朔!弁当忘れてるって」
兄との二人暮しを初めて一ヶ月が経つけど、生活は順調だった。
家事の分担だったり、やることは増えたけど、それを苦とは思わない。
「地面、滑るかもだから気をつけろよ」
ネクタイを締めながら、リビングの扉から顔を覗かせる。
心做しか、兄の表情も明るいように感じていた。
「兄ちゃんもね」
「……おう」
僕が兄を兄ちゃんと呼ぶようになったのは、一緒に暮らし始めてからだ。
両親がいる家では、顔を合わせることがまずなかったから、これといって呼び方がなかったのだ。
兄ちゃんは僕が兄ちゃんと呼ぶ度、頬を緩ませる。
今までの環境が環境だったからか、きっとはじめて『にいに』と呼ばれたときの感覚に近いものを感じているのだろう。
しばらくはつづきそうだけど、こんなことで喜ばれるのだから気が楽だ。
新居から学校まで、徒歩二十分。
電車に乗ることもなくたどり着けてしまうのは、朝から澪に会えなくて寂しかったりするのだけど。
いくつも県を跨いで、月に一度会えるか会えないかの日々を考えると、文句は何もない。
「あ。おはようございます」
「え、澪?どうしてここにいるの?」
エントランスの内扉の前で、僕に手を振る澪がいた。
「あぁ、兄ちゃんが入れてくれたのか」
澪はニコッと笑って頷くのかと思いきや、首を左右に振った。
「私もここに引っ越してきたんです」
嬉しそうに笑って、僕の手を取る。
「おばさんが。あ、母の妹なんですけど。こんなボロボロのアパートで、何かあったらどうするの!って、ここを」
そう、三○五号室のポストを指さした。
僕たちの部屋の、二つ下らしい。
「すごい。こんな偶然あるんだね」
「私も、おばさんが持ってきた物件の資料見たとき、びっくりしました」
「でも、なんで今なの?」
「両親の命日に、たまたまお墓で会ったんです。それで家まで送ってもらったんですけど、セキュリティ面とかすごい心配してくれてこんなにしっかりした賃貸マンションに……」
少し申し訳なさそうに話してくれる。
澪の眉が下がるのを見て、勝手に自分の両親と澪のおばさんを重ねてしまった。
「おばさん、内見とか一緒にしなかったの?一緒に住んでくれなかったの?」
「おばさんにも家族があって。だから、私から一人暮らしをしたいってわがまま言ったんです。忙しい時期だったから私が遠慮したんです」
確かに、元からある家族の中に入るのなんて、相当の勇気がいるだろう。
一人暮らしをすることは、澪なりの頑張り方だったのかもしれない。
「そっか。ごめん、勝手に想像して、変なこと言って」
「いいんです。祐朔くんが心配して聞いてくれてるって、ちゃんと顔を見たらわかりますよ」
ひんやりした手が、僕の頬に触れる。
その手に重ねるように、自分の手を添えた。
「前に言ってた迷惑をかけられない人って、その人だったんだね」
「はい。おばさんにもちゃんと大切にされている自覚はあるので、真っ当に生きていかないとなって」
なんて優しく笑うんだろう。
エグみのない純粋な笑顔に、僕は胸を打たれた。
「いつか、会いたいな」
「会ってほしいです。祐朔くんは私の大切な人だって、いろんな人に言いふらしたくて仕方ないんです」
手を繋いで、学校までの道を歩く。
人は、目で見ているよりもずっと、色々なことを抱えて生きている。
一見順風満帆に見えても、恵まれているように見えても、だからこそ言えない悩みがきっとある。
僕は、あまり気が付けないかもしれない。
それで澪を苦しめることも、この先あるかもしれない。
それでも彼女の隣にいるのは僕がいい。
幸せにするのは、僕がいい。
「ねぇ、祐朔くん。なんで私、声が戻ったと思う?」
ぐいっと僕の腕を引き寄せた澪が、恥ずかしそうに話してきた。
「両親の死を受け入れられたから……とか?」
ゆっくり首を横に振る。
そして彼女は僕の耳元で、その理由を教えてくれた。
「心の底から大切だと思う人に出会えて、その思いを伝えたいと強く願ったからですよ」
頬を赤く染めて、照れ隠しのようにふふ、と肩を竦めて笑う。
「祐朔くんのおかげで私、すごく幸せです」
そう話す澪は、まさしく僕の光だ。
一度離れた手を再び繋いで、温もりを分け合う。
雪の降る朝。寒さなんて気にならないほど、僕は幸せに満たされている。
兄の作った弁当をギプスが取れた手で揺らしながら、僕は今日も生きていく。
自分が幸せになるために。
そして、大切な人をもっともっと幸せにするために。



