「お邪魔します」
黒いタートルネックに黒いジャケット、黒いパンツ。
全身真っ黒な服装で、少ない荷物を持って兄はやってきた。
「すみません、狭いんですけど……」
僕の中で今のこの状況は異常事態であり、永遠にないと思っていた光景だった。
兄と話すために学校を休んでどこかへ行くつもりだったけど、何故か澪も一緒に休んで、この場を貸してくれた。
「こちらこそ、同席してしまってすみません」
どこかへ行こうとする様子もなく、当たり前のように僕の隣に座った。
大丈夫と言うように、僕の手にそっと手を重ねて兄へと視線を向けていた。
「はじめまして。祐朔の兄の朝霧祐希です。弟がいつもお世話になっています」
深々と頭を下げる。
兄がこんな風に、僕のことで頭を下げるような人になっていたなんて驚きだ。
いつも家族総出で僕に対して無関心で、空気のように扱われていたから、つい拍子抜けしてしまう。
「こちらこそ、弟さんにはいつも大変お世話になっています。同じ学校の立花澪です」
澪も、慌てて頭を下げた。
その流れで何となく、僕も無言で兄に頭を下げてしまう。
「ごめんな。学校休ませて。俺の休みが今日までで、明日からまた仕事で戻らないといけなくてさ」
兄の言葉に耳を疑った。
四大へ行ったはずの兄は、バイトよりも勉強に時間を注いでいるはずなのに。
まるで一社会人のような発言だ。
「もう冬休みなの?」
「冬休みっていうか……。俺、大学辞めたんだよね。勝手に辞めたのバレて、鬼のように怒られた」
ははっ、と軽く笑い飛ばすけど、なんだかやつれて疲れているように見えた。
僕が兄を知っているからそう見えるのではなくて、一般的に見たときにそうなんだろうなって感じる程度だけど。
「え、いつから?」
「入ってすぐ。俺は大学行くより働きたかったからさ。一人暮らしだしあんまり帰らなければバレないと思ったら、昨日気付かれてさ」
まいったなー。そうボソッとつぶやいている。
どうやら母がどこからか、大学の試験の結果が自宅に届くという情報を仕入れたらしく、僕のことで帰ったせいで問いただされたらしい。
でもそれでバレたなんて、頭がいいと思っていた兄はおっちょこちょいというか、悪知恵の方には頭は回らないらしい。
両親も両親で、今までそんな、僕でもなんとなく知っているようなことに気が付かなかったなんてバカみたいだ。
「まあ、やりたいことがあるならしょうがないかって最終的には折れてくれたんだけどさ。本当、丸三日言い争いだったわけ。マジで祐朔、家にいなくて良かったよ」
「僕は発狂こいた母親は見慣れてるけどね」
「そうじゃなくて、飛び火してたかもしれないから。負わなくていい傷をこれ以上増やす必要なんてないんだから、そんなものに慣れるべきじゃない」
なんかちょっと、怒っていた。
なんで怒るんだろうと疑問に思ったけど、めんどくさそうだから聞かなかった。
「ていうか、この話はどうでもいいんだよ」
机の上に手を置いて、僕の顔を見た。
こんなにしっかり兄と目が合ったのは、生まれてはじめてかもしれない。
「今日は、提案があってここに来たんだ」
さほど崩れていない姿勢を整えると、兄はゆっくり口を開いた。
「俺と一緒にあの家から出よう。うちに来ないか?」
「……え?どうしてそうなるの?」
「あの家にいたら、いつか本当に精神的に殺される。俺がしんどいと思っていたのに、それよりもっと酷く当たられていた祐朔は、俺のこの一件があったし何されるかわからないだろ?」
それは、お前のせいだろう。
そう思ったけど、逃げ道を与えてもらっている側の僕はそんなことを言えるわけがなかった。
「それにあいつら、祐朔が救急車で運ばれたって聞いてなんて言ったと思う?」
恐らく勢いだけで口にしたのだろう。
すぐにはっとした顔をして、口を紡いだ。
「ごめん、なんでもない。忘れて」
「……いや、大体察しはついてるよ。だから、教えて」
帰ってこないなんてラッキーとか、そんな感じのことだろう。
それなのに、兄は口を開こうとしない。
相当僕に向けられた言葉にショックを受けているようだ。
「ねぇ、教えてよ」
僕が詰めると、兄は唇を震わせながら、僕から顔を逸らした。
「……そのまま、いなくなればいい。……死んでしまえばいいって。あいつら、そう言ったんだ。血の気が引いたよ。これは、逃がさないと祐朔が殺されるって」
兄の手は、怒りなのか悲しみなのか、はたまた絶望から来ているのか、触れている机が小刻みに揺れるほど震えていた。
「そう……」
想像より重たいものが僕の心に思い切り落ちてきた。
まるで澪とは正反対の底なし沼に突き落とされたように、僕の目の前は真っ暗になった。
僕はなんで生まれてきたんだろう。
なんのために生きているんだろう。
どうしてこんなに、必死になって親に縋って生きていたんだろう。
自分の過去に問いかけても、答えは返ってこない。
「だから、うちに越してこい。祐朔はあの家から離れたほうがいい」
「……いいよ。僕のことはもう、どうでもいい」
僕は不幸になっても、澪を置いて兄についていくことはできない。
兄に従うことがどれだけ澪を不安にさせるのか、僕は知っている。
しかも退院してすぐなんて、尚更関わってきた大切な人を失うことに敏感になっていてもおかしくない。
「僕は卒業するまで、殺されないようにあの家で過ごすよ」
殺されるっていっても精神的にであって、刃物をつきたてられたりするわけじゃない。
生身の身体が残るなら、それでいいよ。
「ダメですよ!そんなのダメです」
兄が口を開いたはずなのに、澪の声が横から聞こえた。
服を通り越して、しっかり鷲掴みにされた二の腕が少し痛い。
「私は反対です。家に帰るかお兄さんのところへ行くかの二択しかないなら、私は後者がいいと思います」
「そんなのダメだよ。澪が一人になる。不安にさせたくない」
カオスだ。
兄の前で、僕はこんな小っ恥ずかしいことを必死で訴えている。
兄は僕を見て、ぽかんと口を開けていた。
「……あのさ、確認なんだけど……。二人は友達なんだよね?」
探りを入れるように聞いているつもりなんだろうけど、意外と直球で投げてきた。
連絡をしたときに友達の家に泊まっていると伝えた僕は無言で頷いたけど、澪は嘘が下手だから。何を思ったのか頬を赤く染めて、兄からそっと目線を逸らして二回頷いた。
「別に付き合ってるからどうとかないけどさ。祐朔がいい奴に成長してくれてたから安心してさ」
兄は僕を見て、微笑んだ。
「いいじゃん。彼女がいるなら、学生時代から遠距離恋愛なんて辛いよな」
もうすでにバレていることに反抗して繕う元気はなくて、恥ずかしながらに頷いた。
でも連れて行かれることはなさそうで、澪に感謝した。
離れるなんて、澪はよくても、僕が澪のことが心配で、きっといてもたってもいられなくなるに決まっている。
嫌なことがあったら。またトゲのある言葉を投げられていたら。
僕が駆けつけられないまま、苦しんでいたら。
そんなの嫌だ。
せめて澪の心がしっかり安定するまで、離れても安心させることができる自分になれるまでは。
澪の隣を離れたくない。
……こんなの、僕が寂しくて離れたくない言い訳にすぎないけど。
「もう少し、いい案を考えるよ。失礼かもしれないけど、祐朔に彼女がいるのは想定外だったから」
そう、荷物をまとめはじめた。
「帰るの?」
「うん。でも次の休みでまたこっち来るから、また話そう」
複雑そうな笑みを見せて、兄は立ち上がった。
きっとこのまま新幹線に乗って、あの大都会へ帰っていくのだろう。
「祐朔は……家に戻る?」
玄関で、振り向いた兄が僕の意見を仰いだ。
そんなこと聞かれても、行き場のない僕は結局あの家に戻るしか選択肢がないのだけど。
「うん。今度会う場所は、ちゃんと考えておくから」
澪には聞こえないように、小声で話したつもりだったのに。
聴力が研ぎ澄まされているのか、慌てて僕の腕を引っ張った。
「苦しむために帰るんですか?」
「大丈夫だよ。もう慣れてるから」
心がすり減ることも、日常の出来事とそう変わらない。食事をすることと同じようなものだ。
「そんなのおかしいです。慣れちゃダメなんですよ」
わがままな子どもみたいに、僕の腕をこれでもかと引っ張って離さない。
「そうなんだけどね。しょうがないよ。澪から見た僕は違うかもしれないけど、親から見た僕は空気にしたいくらい劣悪な人間なんだから」
笑いを含めて話したのに、誰も笑っていない。
言わなきゃよかったと、後悔だけが胸に募った。
「お兄さん、次のお休みまで祐朔くんを家に泊めてもいいですか?」
僕が作り出した重たい空気を、澪の突拍子のない提案が破った。
「……うん。いいよ。祐朔にはもうこれ以上苦しい思いはさせないって決めてきたからね」
絶対にダメだと言われると思ったのに、少し考えた末、兄はあっさり許可をおろした。
「それに、あの家に帰ったら心配で仕事が手につかないからさ。三日だけなら、俺が許す」
スマホで休みの予定を確認しながら、何度も僕の顔を見た。
「じゃあまた来るから」
結局僕に向かってそれだけ言って、部屋を出ていった。
ポツンと残された僕らはお互い顔を見合せると、何故か澪に潤んだ目で睨まれた。