検査入院を終えて、ものの二日で退院した。
この短い期間の間も、澪は学校帰りに顔を出してくれた。
対照的に、家族は誰一人僕に会いに来なかった。
でもそれも不幸中の幸いで、澪をあんな両親に会わせたくなかった。いつ顔を出しに来るのかと不安になることも、期待をしていなかったのか一度もなかった。
「先輩、退院おめでとうございます」
小さな花束を持って、夕日をバックにパタパタと駆け寄ってくる。
軽い足音は、瞬く間に秋から冬へと変わった静けさの中に心地よく響いていた。
「ありがとう。しばらく通院はしないとだけどね」
「私が付き添うので、その時間も楽しくなりますよ」
手渡されて一度受けとった花束を奪われて、代わりに澪のひんやりした手が僕の手を埋める。
「澪って冷え性なんだね」
「あ、冷たいですか?」
慌てて離された手を、今度は僕から繋ぎ返す。
こんな些細なことなのに、僕の心は満たされていく。
「僕はあったかいから。この体温、澪にあげるよ」
「へへ、やった」
恋人の初々しさがそこまで感じられないのは、そこそこ相手のことを知っているからだろう。
過去のこと。それを知ったことは大きくて、大切に包みたくなる。
「今日は私が、先輩のこと家まで送ります」
「ううん、僕が澪のこと家まで送るから」
「なんでですか!」
むすっと頬を膨らませる。
何度も感じたそのリスみたいな頬をつつきたい衝動は、骨折したせいで叶わない。
「澪に何かあってからじゃ遅いから」
「でも、先輩も何かあってからじゃ遅いんですよ?」
わかりやすく視線を折れた腕へ向けて、僕の手を握る力を強くする。
「うん。もう消えたいなんて、思えないね」
やばい。口が滑った。
こんなことを言うつもりなんて、なかったのに。
「ダメですよ。そんなの私が生きている限り許さないですからね」
「大丈夫だよ。澪がいると、澪のことしか頭にないから。そんなこと、考える余裕もない」
「じゃあ、ずーっと私に夢中でいてくださいね」
そんなの、言われなくてもずっと澪は僕の一部と言えるくらい夢中でいられる自信がある。
「ねぇ、もう名前で呼んでくれないの?」
一度だけ呼ばれたあれは、きっと澪も呼んだことに気付いていなかっただろうから触れなかった。
だからちゃんと、その声で名前を呼んでほしい。
「だって、スマホに打つのと実際呼ぶのは違うじゃないですか」
はじめて澪の名前を呼んだときの僕も、こんな感じだったのかな。
澪がこうして照れているのは可愛いけど、僕がこんなことを言っていたと思うと、かなりダサい。
「じゃあ、また呼べそうなときでいいから」
困らせたいわけじゃないし、名前で呼べないから恋人じゃなくなるわけじゃない。
ただ落ち着いたこの状況で、澪の肉声で名前を呼んでほしいだけ。
単なる僕の欲望だから、いつでもいい。
「帰ろう。送るから」
「……いえ、私が送ります。送らせてください。……祐朔くん」
真っ赤な顔で俯いているのは、髪の間から見える耳の赤さで顔を見なくてもわかる。
「っ……!……わかった」
つい、衝撃で頷いてしまった。
澪は案外やり手みたいだ。
きっといつか、僕は尻に敷かれるんだろう。でもそれも、幸せなんだろうな。
「なんでそんなに、僕を沼に落としていくの?」
初々しさがないと思ったけど、そんなこと一切なかった。
名前を呼ばれただけで澪と同じように耳の端まで熱を持ってしまうほど、僕はときめいてしまっている。
「そんなの、祐朔くんが大好きだからだよ……?」
じわじわと、思いを伝えてくれる澪もさらに赤くなる。
なんとか足を進めていたけど、とうとう立ち止まってしまった。
「僕も、澪のこと大好きだよ」
どんどん声が小さくなる。
道の真ん中で、僕たちは一体何をしているんだろう。
でもそんなことさえ、忘れたくない。忘れられない。
あの家で過ごす時間を生きやすくする思い出になる。
「明日も学校だから、帰らないとね」
繋いだ手はそのままに、僕たちは再び歩き始めた。でも自宅からそこまで離れていない病院だったせいで、一緒にいられる時間は一度息を吸って吐くだけだったのかと錯覚してしまうほどあっという間で、なんとも離れ難い。
やっぱり送ればよかった。
「じゃあ、家に着いたら連絡してね。絶対だよ」
結局連絡できなかった僕が言うなと思われるかもしれないけど、澪は笑って頷いてくれた。
「じゃあ……」
「____祐朔、今日はどっか泊まってこい」
また明日、と澪の手を離そうとしたとき、家の玄関が開いて兄が顔を出した。
「……え、なんで……?」
なんでいるの?
なんで、そんなことを言うんだろう。
「祐朔が骨折で緊急搬送されたって連絡が入ったんだよ。それなのに、あいつら病院に行く気がないどころか……っ……」
大学に進学して大都会にいるはずの兄の顔を、久しぶりに見た。
怒り狂ったような、歪んだ顔。
その顔を見て、そのあとに続くはずだった言葉に大体察しはついた。
「あんなの、親じゃない。祐朔もわかってるだろ?」
「それは……」
「明日、そっち行くから。とりあえず今日はこれ持ってどっか泊まってこい。場所決まったら、連絡して」
軽そうなボストンバッグを目の前におろして、家の中から聞こえる兄を呼ぶ両親の声に答えるように家の中へ戻って行った。
一度様子を伺うように振り向いた兄の頬に光が当たって、うっすらと、周りの肌とは似ても似つかない赤みが目に入った。
「……ごめん。変なとこ見せたよね」
「いえ、全然そんなの大丈夫です」
ゆっくり近づいてきた澪は、小さい手で僕の頬をなぞった。
その指には、自分の家のことでは今まで流れなかったはずの涙がひと雫だけ転がっていた。
「どうしたんですか。あの人のせいですか?」
「違うよ。兄とは、あまり話してこなかったけど……。今のはきっと、僕のことを考えてくれてた」
兄は、僕のために両親に反抗したのかな。
それでぶたれたのだとしたら。
兄も相当優秀でいられることを強いられて、僕と話すことをよく思われていなかったのだとしたら。
この家は、兄にとっても帰ってきたくない家だから、大学に進学して出ていったのかもしれない。
……まぁ、それは都合よく考えすぎかもしれないけど。
「送るよ」
「祐朔くんは、どこに行くんですか?」
「そこらへんで泊まれるところ探すから、大丈夫」
ホテルか、難しかったら稔の家に止めてもらおう。
いきなりだけど、きっと稔なら二つ返事で承諾してくれるだろう。
「じゃあ、うちに泊まりませんか?」
「え?」
「狭いですけど、うちなら思う存分泣けるでしょう?」
澪は必死な顔つきで、僕の頬を包み込む。
「彼女なんですから、頼ってください」
逃がさないと言うようにボストンバッグを持ち上げて、僕の手を引いて歩き始めた。
なんだかすごくたくましい。
「ありがとう」
僕は、どうやら澪の前だとよく泣けるらしい。
一筋で収まったはずの涙が、次から次へと流れてきた。
……大切にしよう。何よりも、誰よりも。
繋がれた手をそっと握り返して、僕は何度も澪のことを大切にすると心に誓った。