泣き声が聞こえる。
苦しそうに息をして、何度もしゃくり上げているのが耳に届く。
「……ねぇ、起きてよ、起きて……」
僕の身体を、弱い力で揺らしている。
ぽたぽたと、僕の手の甲に温い涙が落ちてくる。
「……澪……?」
目を覚ますと、目に涙をこれでもかと溜めた澪と目が合った。
……母親が心配してくれていたのは、どうやら夢だったらしい。
澪の後ろを覆うクリーム色のカーテンで、握りしめている澪の手の力強さからくる愛という名の痛みで、今が紛れもない現実だということを思い知らされる。
残念だったような、そうでもないような。
冷めたような感情が僕の中を走っていた。
「あ、あ……。よかったぁ……」
グズグズと僕の手を握り、ベッドに顔を埋めてこれでもかと泣いていた。
誰も泣いてくれないはずだったのに、澪が泣いてくれている。
それだけで十分だ。
「ナースコール……」
治まってきたころ、思い出したように澪がベッド脇にあるボタンに手を伸ばした。
「呼ばなくていいよ。鎮痛剤の副作用で眠くなるかもって言われてたし、多分それ。看護師さんはまた時間置いて見に来ますって言ってたし」
「じゃあ、なんともないんですか?」
目の縁に涙の粒を残したまま、僕の顔を見上げる。
崩れた前髪を気にする様子もなく、ただまっすぐ僕を見ていた。
「うん。全治半年のただの骨折」
ほら、と布団で隠れていたギプスと包帯と三角巾でグルグルの右腕を見せると、澪はほっとした顔を見せて僕に抱きついた。
「カチカチだ」
ギプスをコンコンと軽く叩いて、ふにゃっと笑う。
「ていうか、なんで澪がここにいるの?」
ふわふわとした空気が流れている中で、僕は疑問に思った。
こういうときに呼ばれるのは保護者で、友達になんて連絡すら行かないだろう。
それなのに、澪がここにいることが不思議でしかない。
「そう!そうですよ。びっくりしたんですよ?」
折れていない方の腕を上下に思いきり振られながら、聞いてくれと言わんばかりに前のめりになって話し始める。
「あまりにもメールが来ないから、待ちきれなくて電話したんです。そしたら病院の人が出て、私もう焦っちゃって……」
そうだ。約束をしていたのに、僕はまたすっぽかしてしまったのか。
「ごめんね。また約束破っちゃった」
「今日は、しょうがないですよ。許してあげます」
ギプスをした腕を優しく撫でながら、あの桜みたいな包容力のある笑顔を向けられる。
ドキドキと高鳴る鼓動を抑えようと必死になっているとき、カーテンの前で女の人の声が聞こえた。
「失礼します」
開けられたカーテンの向こうには、看護師さんと、その少し後ろに駅のあの子とお母さんが立っていた。
「この度は、娘を助けていただいて本当にありがとうございます……!」
深々と頭をさげるお母さんは、娘さんの頭を撫でながら何度も何度もありがとうと口にした。
「この子が転んで階段から落ちそうになったのを助けていただいて……。怪我までさせてしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、そんな。頭を上げてください。名誉の負傷っていうんですかね。むしろ助けられてよかったって思っていますから。気にしないでください」
誰も悪くないのに、こんなに謝られるのも申し訳ない。
もう十分すぎるほど、親子の思いは伝わっている。
「娘さんが無事でよかったです」
僕が言うと、もう一度僕に頭を下げた。
そして顔を上げた先の澪に、目線が移動した。
「婚約者さんにも、謝らせてください。大切な彼に怪我を負わせてしまって申し訳ありませんでした」
お母さんから出てきた言葉に、僕は固まってしまった。
澪と何か話しているのが聞き取れないほど、驚いていた。
学生同士のカップルならわからなくもないけど、それらをすっ飛ばして婚約者なんて。
ミーハーなのかな、この人。
「じゃあ、すみません。失礼します」
看護師さんと一緒に出ていく後ろ姿を見送りながら、僕は澪へと視線を移す。
「……あの人、婚約者って言ってたね」
「はい。言ってましたね」
澪もなにか反応するかと思っていたのに、すーっとわかりやすく視線を逸らした。
「え、なになに?なんでそっち向くの?」
「……言っちゃったんです」
ボソボソと、小さい声で澪が話している。
「なにを?」
まぁ、聞かなくてもなんとなーく、澪が言わんとしていることはわかるけど。
顔を覗こうと、掛け布団をどかして澪に近づく。
じわじわと耳が赤くなるのがかわいらしい。
「祐朔さんの婚約者なんです!って」
勢いだけで息を吐くように言い切った澪が、恐る恐るこちらを振り向いた。
真っ赤な顔が、水分量の多い瞳が、僕のことを捉えていた。
「ごめんなさいっ!私、先輩の電話に病院の人が出て焦っちゃって……。友達なら切るって言われてつい……」
まるでさっきのお母さんみたいに何度も頭を下げている。
「あれ、わざわざ指輪買ったの?」
ベッドの上に載せられた澪の左手の薬指に結構本格的な指輪が光っているのを見つけた。
埋め込まれた小さな宝石だったり、ウェーブになっていたり。
そこら辺の雑貨屋で買ったにしては高見えすぎる気がする。
「いや、これは母の指輪なんです。初めて付けました」
どこか寂しそうに、指輪を付けた手を結婚報告のように見せてくれる。
「でも一人暮らしって……」
「はい。これは母の形見なんです」
「え……?」
思わぬ告白に、今聞いたことを後悔した。
そんなこと、想像もしなかった。
「まだ話せてなかったから、驚きましたよね」
「あ、うん、いや……。でも声も戻ったし、別に無理して話さなくてもいいから」
「いえ。約束してたから、ちゃんと話します。それに、先輩には聞いてほしいんです。私が病気になるほどに大切だった、失った人の話」
そう、僕の手に両手を添える。
カタカタと小さく震えていたけど、僕を見る目は怯える様子はない。
「私、二年前に両親を事故で亡くしているんです。冬の夜。その日は母の誕生日で、久々にデートに行った帰り道、スリップした大型トラックとぶつかって……」
澪の呼吸が若干荒くなる。
それでも澪の口は止まらなくて、話はつづく。
「その日から、声が出なくなりました。あのクラスの友達も、中学から仲良かったんですけど、話せなくなってからあんなふうに離れていってしまったんです」
震えているのに気が付いたのか、ベッドに移った拳の周りからぎゅっと、シーツにシワが寄る。
その手を今度は僕から包み込んでもいいものか、次の言葉が来るまでに判断ができなくて。
意気地無しの僕はタイミングを逃してしまった。
「でも中学時代、彼女たちはいじめられていた私を、一人だった私を見つけてくれて居場所を作ってくれたんです。だから、咎められなくて。別にもう、気にしてないですけど」
やけに平然として話すけど、きっと辛い気持ちに変わりはないのだろう。
助けてくれた人が、助けを求められない人になってしまった。その変化は大きい。
「だから、とにかく、先輩が居なくなったら困るんです。私また声が出なくなっちゃいます」
「それは、僕がご両親と同じくらい大切ってこと?」
「はい。言ったじゃないですか。あの日言ったこと、嘘じゃないですよって」
頬が赤い。耳まで真っ赤だ。
まだ僕は、澪の言う『あの日』がいつなのかわかっていないなんて言ったら、嫌われてしまうかな。
「ごめん。あの日がいつのことだか、まだわかってなくて……」
結局、気になる方が勝ってしまって、聞いてしまった。
照れて真っ赤になるほどのことを本人の口からまた言ってもらうのは失礼極まりないことだけど、わからないまま話を合わせるほうがきっともっと失礼にあたる。
「……って……」
「ん?」
「あの日、文化祭のステージの上で……。好きって言ったことです」
……そうだ。
言葉よりも、澪の口から声が出ている衝撃で印象が薄くなっていたけど、そんなことがあった。
「私、先輩のこと好きなんです。私がご両親の代わりに、ずっと先輩のそばにいたいです。私は誰よりも先輩のことを愛しているし、今後も変わらず愛し続けていく自信があります」
嬉しい。嬉しいけど、なんで澪は僕の家族のことを知っているんだろう。
「僕、澪に家族のこと話したっけ」
「あっ……。それが……ノートを落とした日、先輩と友達が話しているのを聞いちゃって。今日も看護師さんがご両親は来る気がないらしいってうわさ話してるのも聞こえちゃって。……ごめんなさい」
責められているような、もう申し訳なさで泣いてしまいそうな顔をしていた。
「聞いてたのは全然いいんだけど、それで責任感?みたいなので好きって言ってくれてるなら、澪が幸せになれないからやめたほうがいいよ」
本当は今すぐ、僕も好きって返してあげたい。
その気持ちを飲み込んでこんなことを言っても、澪の心に大なり小なりの傷をつけていることになるのだろう。
「そんなことあるわけないですよ。私、その話を聞く前から好きなんですよ、先輩のこと」
「……本当に?」
つい、泣いてしまった。
好きな人が自分を好きだという、奇跡のような出来事に第三者として見ているのかと思うほど感動してしまった。
「本当です。私、きっと彼氏のふりを頼んだときにはもう、先輩のこと好きになっていたんだと思います」
キラキラと輝く照れ笑いが、もう数え切れないほど奪われた恋心をさらに攫っていく。
「僕も好き。澪の笑顔が好き。声が好き。優しい性格も、たまに出る大胆なところとか、誰かを想って流す涙とか。全部が愛おしい」
思いを口に出せば出すほど、自分の幸せに近づけば近づくほど、僕の手はガタガタと震える。
情けない。
僕はこんなに素敵な女の子を、幸せにしてあげられる自信がないんだ。
「澪は、両親に愛されてたんだよね」
目が泳いでいる。
でも迷いながらも、力強く頷いた。
「私は両親に愛されていたって、自信を持って言えます」
まっすぐ飛んできた。
僕を見る視線、言葉。
その全てが僕に向かって、道を逸れることなく飛んできた。
「僕は、澪とは違う。きっと普通じゃない。愛し方を知らない。大切にしたい気持ちが澪を傷付けることになったら……。そう考えるだけでも、怖い」
だから、これからも友達でいたい。
その言葉は、どう頑張ってもでてきてくれなかった。
「じゃあ、私と付き合いましょう」
澪の思わぬ発言に耳を疑った。
だって、僕は今、澪のことをフッている状況のはずなのに。
自分が諦めるための言い訳をグダグダと話しながらも、澪の幸せを思ってこのままの関係でいようと思っているのに。
「僕の話、聞いてた?」
「はい。だから、私が先輩に愛をあげます。今までの分も、これからの分も。私が先輩を愛して、幸せにしてみせます」
「……それで澪は、心から幸せになれるの?」
「もちろんです。私は先輩が好き。先輩も私が好き。だから一番近くにいたいし、それが一番幸せなんですよ」
ぐっと距離が近づく。
顔が近い。こんなこと何回もあったはずなのに、今までの何十倍も心臓がうるさい。
「私、もう十分先輩に愛されてると思いますよ。だって、こんなに私の幸せをちゃんと考えてくれてる。……ね?」
僕の手を握って、笑ってくれる。
澪は僕よりずっと、大人に見えた。
「僕も、澪を幸せにしたい。澪と二人で幸せになりたい」
澪の手を握り返して、僕はまた泣いた。
そんな僕を澪は愛おしそうに見つめて、湿ったハンカチで涙を拭いてくれた。
初めて骨折をした日。
救急車で運ばれても家族は駆けつけてくれないと知った日。
僕は初恋の女の子と、両思いになって、恋人になった。
苦しそうに息をして、何度もしゃくり上げているのが耳に届く。
「……ねぇ、起きてよ、起きて……」
僕の身体を、弱い力で揺らしている。
ぽたぽたと、僕の手の甲に温い涙が落ちてくる。
「……澪……?」
目を覚ますと、目に涙をこれでもかと溜めた澪と目が合った。
……母親が心配してくれていたのは、どうやら夢だったらしい。
澪の後ろを覆うクリーム色のカーテンで、握りしめている澪の手の力強さからくる愛という名の痛みで、今が紛れもない現実だということを思い知らされる。
残念だったような、そうでもないような。
冷めたような感情が僕の中を走っていた。
「あ、あ……。よかったぁ……」
グズグズと僕の手を握り、ベッドに顔を埋めてこれでもかと泣いていた。
誰も泣いてくれないはずだったのに、澪が泣いてくれている。
それだけで十分だ。
「ナースコール……」
治まってきたころ、思い出したように澪がベッド脇にあるボタンに手を伸ばした。
「呼ばなくていいよ。鎮痛剤の副作用で眠くなるかもって言われてたし、多分それ。看護師さんはまた時間置いて見に来ますって言ってたし」
「じゃあ、なんともないんですか?」
目の縁に涙の粒を残したまま、僕の顔を見上げる。
崩れた前髪を気にする様子もなく、ただまっすぐ僕を見ていた。
「うん。全治半年のただの骨折」
ほら、と布団で隠れていたギプスと包帯と三角巾でグルグルの右腕を見せると、澪はほっとした顔を見せて僕に抱きついた。
「カチカチだ」
ギプスをコンコンと軽く叩いて、ふにゃっと笑う。
「ていうか、なんで澪がここにいるの?」
ふわふわとした空気が流れている中で、僕は疑問に思った。
こういうときに呼ばれるのは保護者で、友達になんて連絡すら行かないだろう。
それなのに、澪がここにいることが不思議でしかない。
「そう!そうですよ。びっくりしたんですよ?」
折れていない方の腕を上下に思いきり振られながら、聞いてくれと言わんばかりに前のめりになって話し始める。
「あまりにもメールが来ないから、待ちきれなくて電話したんです。そしたら病院の人が出て、私もう焦っちゃって……」
そうだ。約束をしていたのに、僕はまたすっぽかしてしまったのか。
「ごめんね。また約束破っちゃった」
「今日は、しょうがないですよ。許してあげます」
ギプスをした腕を優しく撫でながら、あの桜みたいな包容力のある笑顔を向けられる。
ドキドキと高鳴る鼓動を抑えようと必死になっているとき、カーテンの前で女の人の声が聞こえた。
「失礼します」
開けられたカーテンの向こうには、看護師さんと、その少し後ろに駅のあの子とお母さんが立っていた。
「この度は、娘を助けていただいて本当にありがとうございます……!」
深々と頭をさげるお母さんは、娘さんの頭を撫でながら何度も何度もありがとうと口にした。
「この子が転んで階段から落ちそうになったのを助けていただいて……。怪我までさせてしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、そんな。頭を上げてください。名誉の負傷っていうんですかね。むしろ助けられてよかったって思っていますから。気にしないでください」
誰も悪くないのに、こんなに謝られるのも申し訳ない。
もう十分すぎるほど、親子の思いは伝わっている。
「娘さんが無事でよかったです」
僕が言うと、もう一度僕に頭を下げた。
そして顔を上げた先の澪に、目線が移動した。
「婚約者さんにも、謝らせてください。大切な彼に怪我を負わせてしまって申し訳ありませんでした」
お母さんから出てきた言葉に、僕は固まってしまった。
澪と何か話しているのが聞き取れないほど、驚いていた。
学生同士のカップルならわからなくもないけど、それらをすっ飛ばして婚約者なんて。
ミーハーなのかな、この人。
「じゃあ、すみません。失礼します」
看護師さんと一緒に出ていく後ろ姿を見送りながら、僕は澪へと視線を移す。
「……あの人、婚約者って言ってたね」
「はい。言ってましたね」
澪もなにか反応するかと思っていたのに、すーっとわかりやすく視線を逸らした。
「え、なになに?なんでそっち向くの?」
「……言っちゃったんです」
ボソボソと、小さい声で澪が話している。
「なにを?」
まぁ、聞かなくてもなんとなーく、澪が言わんとしていることはわかるけど。
顔を覗こうと、掛け布団をどかして澪に近づく。
じわじわと耳が赤くなるのがかわいらしい。
「祐朔さんの婚約者なんです!って」
勢いだけで息を吐くように言い切った澪が、恐る恐るこちらを振り向いた。
真っ赤な顔が、水分量の多い瞳が、僕のことを捉えていた。
「ごめんなさいっ!私、先輩の電話に病院の人が出て焦っちゃって……。友達なら切るって言われてつい……」
まるでさっきのお母さんみたいに何度も頭を下げている。
「あれ、わざわざ指輪買ったの?」
ベッドの上に載せられた澪の左手の薬指に結構本格的な指輪が光っているのを見つけた。
埋め込まれた小さな宝石だったり、ウェーブになっていたり。
そこら辺の雑貨屋で買ったにしては高見えすぎる気がする。
「いや、これは母の指輪なんです。初めて付けました」
どこか寂しそうに、指輪を付けた手を結婚報告のように見せてくれる。
「でも一人暮らしって……」
「はい。これは母の形見なんです」
「え……?」
思わぬ告白に、今聞いたことを後悔した。
そんなこと、想像もしなかった。
「まだ話せてなかったから、驚きましたよね」
「あ、うん、いや……。でも声も戻ったし、別に無理して話さなくてもいいから」
「いえ。約束してたから、ちゃんと話します。それに、先輩には聞いてほしいんです。私が病気になるほどに大切だった、失った人の話」
そう、僕の手に両手を添える。
カタカタと小さく震えていたけど、僕を見る目は怯える様子はない。
「私、二年前に両親を事故で亡くしているんです。冬の夜。その日は母の誕生日で、久々にデートに行った帰り道、スリップした大型トラックとぶつかって……」
澪の呼吸が若干荒くなる。
それでも澪の口は止まらなくて、話はつづく。
「その日から、声が出なくなりました。あのクラスの友達も、中学から仲良かったんですけど、話せなくなってからあんなふうに離れていってしまったんです」
震えているのに気が付いたのか、ベッドに移った拳の周りからぎゅっと、シーツにシワが寄る。
その手を今度は僕から包み込んでもいいものか、次の言葉が来るまでに判断ができなくて。
意気地無しの僕はタイミングを逃してしまった。
「でも中学時代、彼女たちはいじめられていた私を、一人だった私を見つけてくれて居場所を作ってくれたんです。だから、咎められなくて。別にもう、気にしてないですけど」
やけに平然として話すけど、きっと辛い気持ちに変わりはないのだろう。
助けてくれた人が、助けを求められない人になってしまった。その変化は大きい。
「だから、とにかく、先輩が居なくなったら困るんです。私また声が出なくなっちゃいます」
「それは、僕がご両親と同じくらい大切ってこと?」
「はい。言ったじゃないですか。あの日言ったこと、嘘じゃないですよって」
頬が赤い。耳まで真っ赤だ。
まだ僕は、澪の言う『あの日』がいつなのかわかっていないなんて言ったら、嫌われてしまうかな。
「ごめん。あの日がいつのことだか、まだわかってなくて……」
結局、気になる方が勝ってしまって、聞いてしまった。
照れて真っ赤になるほどのことを本人の口からまた言ってもらうのは失礼極まりないことだけど、わからないまま話を合わせるほうがきっともっと失礼にあたる。
「……って……」
「ん?」
「あの日、文化祭のステージの上で……。好きって言ったことです」
……そうだ。
言葉よりも、澪の口から声が出ている衝撃で印象が薄くなっていたけど、そんなことがあった。
「私、先輩のこと好きなんです。私がご両親の代わりに、ずっと先輩のそばにいたいです。私は誰よりも先輩のことを愛しているし、今後も変わらず愛し続けていく自信があります」
嬉しい。嬉しいけど、なんで澪は僕の家族のことを知っているんだろう。
「僕、澪に家族のこと話したっけ」
「あっ……。それが……ノートを落とした日、先輩と友達が話しているのを聞いちゃって。今日も看護師さんがご両親は来る気がないらしいってうわさ話してるのも聞こえちゃって。……ごめんなさい」
責められているような、もう申し訳なさで泣いてしまいそうな顔をしていた。
「聞いてたのは全然いいんだけど、それで責任感?みたいなので好きって言ってくれてるなら、澪が幸せになれないからやめたほうがいいよ」
本当は今すぐ、僕も好きって返してあげたい。
その気持ちを飲み込んでこんなことを言っても、澪の心に大なり小なりの傷をつけていることになるのだろう。
「そんなことあるわけないですよ。私、その話を聞く前から好きなんですよ、先輩のこと」
「……本当に?」
つい、泣いてしまった。
好きな人が自分を好きだという、奇跡のような出来事に第三者として見ているのかと思うほど感動してしまった。
「本当です。私、きっと彼氏のふりを頼んだときにはもう、先輩のこと好きになっていたんだと思います」
キラキラと輝く照れ笑いが、もう数え切れないほど奪われた恋心をさらに攫っていく。
「僕も好き。澪の笑顔が好き。声が好き。優しい性格も、たまに出る大胆なところとか、誰かを想って流す涙とか。全部が愛おしい」
思いを口に出せば出すほど、自分の幸せに近づけば近づくほど、僕の手はガタガタと震える。
情けない。
僕はこんなに素敵な女の子を、幸せにしてあげられる自信がないんだ。
「澪は、両親に愛されてたんだよね」
目が泳いでいる。
でも迷いながらも、力強く頷いた。
「私は両親に愛されていたって、自信を持って言えます」
まっすぐ飛んできた。
僕を見る視線、言葉。
その全てが僕に向かって、道を逸れることなく飛んできた。
「僕は、澪とは違う。きっと普通じゃない。愛し方を知らない。大切にしたい気持ちが澪を傷付けることになったら……。そう考えるだけでも、怖い」
だから、これからも友達でいたい。
その言葉は、どう頑張ってもでてきてくれなかった。
「じゃあ、私と付き合いましょう」
澪の思わぬ発言に耳を疑った。
だって、僕は今、澪のことをフッている状況のはずなのに。
自分が諦めるための言い訳をグダグダと話しながらも、澪の幸せを思ってこのままの関係でいようと思っているのに。
「僕の話、聞いてた?」
「はい。だから、私が先輩に愛をあげます。今までの分も、これからの分も。私が先輩を愛して、幸せにしてみせます」
「……それで澪は、心から幸せになれるの?」
「もちろんです。私は先輩が好き。先輩も私が好き。だから一番近くにいたいし、それが一番幸せなんですよ」
ぐっと距離が近づく。
顔が近い。こんなこと何回もあったはずなのに、今までの何十倍も心臓がうるさい。
「私、もう十分先輩に愛されてると思いますよ。だって、こんなに私の幸せをちゃんと考えてくれてる。……ね?」
僕の手を握って、笑ってくれる。
澪は僕よりずっと、大人に見えた。
「僕も、澪を幸せにしたい。澪と二人で幸せになりたい」
澪の手を握り返して、僕はまた泣いた。
そんな僕を澪は愛おしそうに見つめて、湿ったハンカチで涙を拭いてくれた。
初めて骨折をした日。
救急車で運ばれても家族は駆けつけてくれないと知った日。
僕は初恋の女の子と、両思いになって、恋人になった。



