連絡をする。
そう約束してから一週間が過ぎようとしていた。
なんて連絡しようか。
そう考えて連絡できずにいたけど、そろそろ会いたい。
会いたいんだよな。
「あれ、澪。今帰り?」
「はい。一緒に帰りませんか?」
昇降口の前で、降っていない雨が止むのを待つように立っている澪は、僕の声に嬉しそうに振り返った。
「うん。送るよ」
今まではなんとも思っていなかったけど、澪を自宅まで送ることで一緒にいられる時間が増えることに心が緩む。
「じゃあ、一緒にご飯食べて帰りませんか?」
「いいね。何食べる?」
はたから見たら僕らはどう見えるのだろう。
男女の友情が成立している人たちという認識になるのか、文化祭が終わって日も浅いから付き合っているようにみえるのか。
……付き合う。
僕の中にストンと落ちてくる。
ついこの間まで、偽装のカップルだったくせに、やっと自分が求めている恋の形が理解できた感じがする。
僕は、澪と付き合いたいんだ。
恋人同士になりたいって、今までの友達の関係じゃ物足りないって思っているんだ。
「そういえば、全然連絡くれないじゃないですか」
ぐりっと僕の方に首を回して強い口調で物を言う。
「ふっ、あはは」
責められているのに、僕はつい笑ってしまった。
「なんですか?笑うポイントありましたか?」
案の定、澪はほとんどゼロ距離まで僕に近づいて、眉間に皺を寄せる。
なんなんだよ。かわいいな。
「ごめんごめん。声で話せるの、嬉しいなって」
「う……。あー、もうっ。そんなこと言われたら怒れないじゃないですか!」
僕の右腕を軽く握りこぶしで叩く。
「ちゃんと夜、連絡するから。約束」
「絶対ですよ?寝ないで待ってますからね」
満足そうに、白い歯を見せて笑う姿が愛おしくなる。
もう心の中は澪のことでいっぱいなのに、詰め放題のごとく好きの気持ちが詰め込まれていく。
「うん。待ってて」
こんな些細な約束でさえ、澪の特別な人に近づけているみたいで心が踊る。
この時間がずっと、この先もずっと続いたらいいのに。
隣を歩く影を振り返りながら、簡単には触れられない澪の影の手に触れる。
手を繋ぐこと。
大好きな人に触れること。
こうして隣を歩いて、声を交わすこと。
何もかもが特別で、普通じゃないことで。
これを普通だと思っていた今までの僕はどれだけバカだったんだろう。
一分、一秒、一瞬。
どこかで何か、違う選択をしていたら今は違う今が流れていたのかと思うと、ゾッとする。
「先輩、私から離れていかないでくださいね」
しばらく無言で歩いていると、澪が何を心配してか、下手な作り笑いを浮かべていた。
「なんでそう思うの?」
少なくとも僕は、澪が突き放してくれないと離れられないと思う。
そんなこと言えないから、言ったら気持ちがバレてしまいそうだから。
僕は返し方を間違えたかもしれない。
「声が想像と違ったなとか思ったら、そのアニメは見ないって人、いるじゃないですか」
「別に、そんなの関係ないよ。想像なんて、こっちの勝手な要望みたいなものだし。それを押し付けようとは思わないし、僕の中ではやっと聞けた声も含めて澪は澪だから」
きっとなんとも思っていない相手だったら、イラストのみで見てきた世界に声がついたアニメの世界みたいに離れていくこともあるかもしれない。でも。
「そんなこと気にならないくらい、僕は澪のこと大切に思ってるから」
だからそんなに簡単に離れられないんだよ。
「じゃあ私たち、両思いですね」
無邪気に笑うその笑顔に、僕の心は踊らされている。
なんでそんなに平然とした顔でそんなことを言えるんだろう。
答えは一つしかない。
僕のことは、友達止まりでそこから動くことがないからだろう。
前、僕が口に出せなかったことをサラッと口にした澪に、もう友達以上の気持ちを持ってしまった僕は完全に揺らされていた。
「僕以外の人にそんなこと言ったらダメだよ。本当に好きな人に言わないと。僕じゃなかったら、勘違いしちゃってたよ」
ついときめいて、他の人に同じようなことを言ってほしくなくて。
照れ隠しで冷たいことを言ってしまった。
「……はーい」
僕の否定的な言葉を優しさで包み込むように飲み込んで、いたずらに笑って僕の先を行く。
追いついたと思ったら、また置いていかれて。
まさに今の、僕の恋の形みたいだ。
どうしたらこの状況から抜け出せるんだろう。
どうしたら、男として意識してもらえるんだろう。
そんなことをもんもんと考えながら電車に乗って、澪の最寄り駅で降りる。
駅のそばにあるファストフード店に入って、向かい合って座った。
「先輩、エビカツ派なんですね」
ダブルチーズバーガーの頭を包みから覗かせて、興味ありげに頷いている。
「美味しいんだよ。タルタルソースとか、結構さっぱり系で」
「そうなんですか?じゃあ今度、頼んでみます」
新しい発見をして楽しいのか、にこにこ笑ってハンバーガーにかぶりつく。
紙まで食べてしまいそうなほど大きな口で頬張る様子は、どれだけそれが美味しいのかが体現されている。
「それ、美味しいの?」
「はい。私これが一番好きなんです」
口端に着いたケチャップを人差し指で器用に拭いながら、幸せそうに笑っている。
「じゃあ次来たら、僕はそれ、頼もうかな」
リスみたいに頬をふくらませながら頷く澪を見て、つい笑ってしまう。
次に会う約束ができたわけじゃないのに、まるで当たり前のように一緒に来る話をしている気分で、それだけで僕の心は舞い上がる。
「ごちそうさまでした!」
満足そうに手を合わせている。
表情だったり行動だったり、そのどれもがどの一瞬を切り取っても愛らしいなんて。
彼女はなんて罪な女の子なんだろう。
……あー、だめだ。
頭の中で、同じことを何度も繰り返し考えている気がする。
「帰ろっか」
肌寒い秋の夜風に当たって、少しスッキリした僕は、ふと思った。
僕たちは今、友達に戻ろうと言われることがないまま、ズルズルと曖昧な関係を続けている状態なんじゃないか。
もし、このあとも澪から友達に戻りましょうと声がけがないままだったら、それは少しでも特別な気持ちを持ってくれていると期待してもいいんじゃないかって。
でも人間って、なんでこう未来に少なくとも希望を持ったあとに最悪のパターンを想像してしまうんだろう。
だって今僕は、心を許してもらえるほどの友達だから、いちいち言わなくてもわかるって思われている可能性を頭に浮かべていた。
勝手に舞い上がって、今度は勝手に落ち込んで。
僕ってこんなに、心が忙しくなる人だっけ。
お互い無言で歩きながら、すぐに澪のアパートに着いてしまった。
無言なのに心地よかったとか、そういうことを思う反面、もう少し何か話したかったと後悔も浮かんでくる。
「じゃあ、ちゃんと鍵かけてね。帰ったらすぐに連絡するから」
「はい。ちゃんと、お家つきましたってメールしてください。私それが来るまで寝ずに待ってますから」
楽しそうにケラケラ笑って、真っ暗な画面のスマホを見せられる。
「ちゃんと、三十分くらいしたらメールするから。約束」
僕もポケットからスマホを取り出して、澪に見せた。
まだ、もう少しだけ。なんとかして一緒にいたい。
そんなことを考えていると、強い風が吹いて思わず身震いをしてしまう。
仕方ない。帰らないと。
澪も風邪ひいちゃうと、会えないし。
「冷えるし、そろそろ帰るね」
じゃあ、と澪に背を向けると、不意に僕の学ランの袖を引っ張った。
振り向くと、確かに目が合う。
「____あの日言ったこと、嘘じゃないですから」
「……え?」
「じゃあ、連絡待ってます」
バタン!と玄関の扉を閉められる。
なんのことを言っているのかわからなくて、しばらく呆然とその場に立ち尽くしてしまっていた。
真っ白な頭が少し回復してきたころ、とりあえず来た道を戻って電車に乗った。
あの日。
僕たちは出会ってから、色んな会話をした。
『私、泡になるのが夢なんです』
『私の声を取り戻すって言ってくれたとき、すごく嬉しかったから』
はじめのころを特によく思い出す。
最近は、自分の気持ちに追いつくのにいっぱいいっぱいで、どれだけ好きな人を蔑ろにしていたのかがこうして思い返すとよくわかる。
なんのことか、今度聞こう。
もしかしたら、本当に他愛のない、日常の一言かもしれないし。
プシュー……。
電車が止まり、扉が開いた。
降りると、目の前に小学生くらいの女の子が、重そうな英語教室のカバンを背負って歩いていた。
不思議と、僕の心はその子に対して微笑ましいと感じた。
今までは、小さなことでさえ親の愛情を感じて妬ましく思っていたはずなのに。
僕は恋をしたことで、愛に触れたことで、変わることができつつあるのかもしれない。
ふとした瞬間の気付きは、僕の心を温かくした。
この気持ちも、澪がくれたのか。すごいなぁ。
僕も温かい気持ちをあげられるような、そんな存在になりたい。
そんなことを考えながらあの子の後ろを着いて歩いていると、突然身体がカクっと揺れた。
地面にある隙間で躓いてしまったのか、どんどん身体が前のめりになっていく。
「危ないっ!」
僕は叫んだ。こんなにも大きな声が出るのかと驚いてしまうほど、駅のホームに声が響き渡る。
そこからは、もう何が起きたかわからなかった。
一瞬にして永遠に感じた浮遊感。
なにかに触れた感覚。
重量のある鈍い音。
シンと静かになったかと思ったら、焦ったような声が頭上周りで飛び交っている。
うっすら目を開けたときにはもう、周りの状況よりも自分の中に走る痛みだけでいっぱいいっぱいだった。
秋の終わりを感じる寒ささえ、今の僕には全くもって感じられなかった。