初めて恋をした。
それに気付かせてくれたのは、僕に恋をした親友だった。
自分の感情が恋だとわかったら、霧が晴れたように世界が煌びやかに見えはじめた。
依存という真っ黒な言葉から、恋という宝石箱をひっくりかえしたような言葉に変わっただけなのに、見える世界は百八十度違った。
「立花さん、彼氏来たよ!」
「あ、ありがとう」
ノートを届けに昼休みに澪の教室を覗くと、人に囲まれた澪がいて、たむろしている中の一人が僕を見て嬉しそうに澪に声をかけていた。
顔を真っ赤にして僕の前に現れる澪を見て、ぎょっとした。
……この子、こんなに可愛かったっけ。
初めて見たあのときも目を奪われる魅力はあったけど、やけに可愛く見える。
まるでスマホをかざして、フィルターをかけて見ている感覚。
現実味がないと感じているのか、足元がふわふわしていた。
「どうかしましたか?」
耳に入ってくる澪の透き通るように綺麗な声。
「あっ。えっと、これって澪の?」
完全に見蕩れていた自分の頬を脳内で叩いて澪と目を合わせる。
薄目で僕の手元にあるノートを見ると、サーっと青ざめて奪うように取り返した。
「中、見ましたか?」
「最初のページだけ覗いちゃったけど、あとは見てないよ」
澪は安心したように顔色を普段通りに戻すと、ゆるっと目尻を垂らした。
「私、先輩のこと大切に思ってますからね」
ボソボソと、でも聞こえる声で言って、逃げるようにこの場を去る。
取り残された僕は、しばらく動けずにいた。
身体は動いていないはずなのに、気付いたら教室の中にいる澪が視界に入っている。
こんな気持ち、知らない。
どうしよう。澪から目が離せない。
クラスメイトに、教室の外まで聞こえてくる声量で茶化されて戸惑っている顔。
かと思えば、話題が変わったのか、ふわっと笑う。
見てきたはずなのに。
それなりの時間を共にしてきたはずなのに。
どうして今更、こんなに釘付けになってしまうんだろう。
恋。
そのワードはまさに魔法のようなもので、僕の心から嫌なものを追い出してくれる。
心の中が澪のことでいっぱいになる。
「先輩、大丈夫ですか?」
見つめていたのに気付いたのか、まだ僕がここにいることに不審感を覚えたのか、再び目の前に現れる。
「澪に聞きたいことがあって、さ……」
どこまで踏み込んでいいんだろう。
いつもどうやって話していたんだろう。
僕は今、ちゃんとこれまで通りの顔で話せてる?
へんに口元が緩んでいたりしたら、気持ち悪いって思われるかもしれない。
「なんですか?」
何故か僕に一歩近づいて、僕のことを目線だけで見上げている。
これが俗に言う上目遣いというやつだろうか。
友達だから、遊ばれているのかな。
それとも、心の内では他の誰かを想っていたりするのかな。
自分に向けられるわけのない恋愛的な好意を見て見ぬふりをしながら、手探りで次の言葉を口にする。
「病院、どうだった?」
精神科って行ったことないから、これで完治ってことになるのか、声が出たとてまだまだ時間がかかるものなのかわからない。
「先生もびっくりしてました。しばらく通院は続けないといけないけど、もうすぐ卒業できそうです」
「よかった。でもなんで、いきなり声が出たんだろうね」
「それは……。今度聞いてみますね」
なぜかじわじわ赤くなる。
それにつられて僕の頬まで熱を持つ。
「じゃあ、僕もう戻るね」
こうして会うことも、きっと少なくなる。
そう思うと立ち去るのは名残惜しくて、振り向くのにどうしても時間がかかってしまう。
周りの声も聞こえないくらい澪に目を奪われて、この時間を引き伸ばしたくて。そればかりで、絶妙な距離感で見つめ合う。
でも結局、早く戻れと言うように予鈴が鳴った。
仕方なく背を向けたのに、やっと頭に浮かんだことを言わずにはいられなかった。
「また連絡してもいい?」
僕が振り向いたとき、何か言いたげに僕に手を伸ばしていた澪は、何度も頷いた。
「待ってます」
満面の笑みを浮かべている。
その姿がどうしようもなく愛おしくて、まだ一緒にいたいと願ってしまう。
時間が足りない。
もっともっと、顔を見ていたい。
今すぐ学校を抜け出して、他愛のない話をしたい。
「約束ね」
浮かんだ感情を必死に飲み込んで、もう一度近づいて澪の手をそっと握った。
冷たい澪の手から、僕の手にその冷たさが伝わってくるのに、僕は熱くて仕方なかった。
「そろそろ戻らないと、授業始まっちゃいますよ」
刻一刻と迫る授業までの時間制限にもどかしさを感じながらも、戻る以外の選択肢はなかった。
離れた手に残るじんわりとした冷たさが、消えてほしくないと願っている自分に笑えてしまう。
階段を駆け下りて、ギリギリで教室に滑り込んだ。
席に着くと、すぐに授業が始まった。
メリハリのある先生による数学の授業。
いつもはただ憂鬱なだけで、睡魔との戦いなのに、今日は頭の中のパレードを終わらせることに大忙しだ。
いつ連絡しよう。なんて送ろう。
どうしたら、今まで通り話せる関係でいられるかな。
ふわふわとした頭の片隅に、なぜか引っかかる言葉が何度もリピートしている。
"私、先輩のこと大切に思ってますからね"
そう言ってもらえたことは、世界を輝かせるほどの嬉しさがある反面、僕の心を少し沈ませていた。
いいじゃないか。大切な友達だと思ってもらえているのだから、十分だろう。
納得させるように自分に言い聞かせるも、モヤモヤする気持ちが後を絶たない。
「そんなに難しいか?」
僕の顔を覗いて、先生が問いかけてくる。
ガタガタっと、大袈裟にイスが浮いたり地に着いたりする音が静かな教室に響いた。
「そうですね、少し……」
唸りながらも、僕は無意識のうちに板書を写していたらしい。
先生に覗き込まれて、慌てて確認したノートと黒板は、同じところで止まっていた。
これはきっと、一種の職業病みたいなものがあるのだろう。
先生が来たことで冷静になった僕は、そんな、また授業とは関係ないことを考えた。
「これを、ここに当てはめるんだよ」
それだけ言って、今度は別の人のノートを覗きに行った。
悩んでいることから逃げるように指定された問いを解いていくけど、やっぱり耳の奥に、まぶたの裏に、心の大部分に澪が居るから、全然身が入らなかった。
こんなにも勉強が手につかないのは、初めてだった。
それに気付かせてくれたのは、僕に恋をした親友だった。
自分の感情が恋だとわかったら、霧が晴れたように世界が煌びやかに見えはじめた。
依存という真っ黒な言葉から、恋という宝石箱をひっくりかえしたような言葉に変わっただけなのに、見える世界は百八十度違った。
「立花さん、彼氏来たよ!」
「あ、ありがとう」
ノートを届けに昼休みに澪の教室を覗くと、人に囲まれた澪がいて、たむろしている中の一人が僕を見て嬉しそうに澪に声をかけていた。
顔を真っ赤にして僕の前に現れる澪を見て、ぎょっとした。
……この子、こんなに可愛かったっけ。
初めて見たあのときも目を奪われる魅力はあったけど、やけに可愛く見える。
まるでスマホをかざして、フィルターをかけて見ている感覚。
現実味がないと感じているのか、足元がふわふわしていた。
「どうかしましたか?」
耳に入ってくる澪の透き通るように綺麗な声。
「あっ。えっと、これって澪の?」
完全に見蕩れていた自分の頬を脳内で叩いて澪と目を合わせる。
薄目で僕の手元にあるノートを見ると、サーっと青ざめて奪うように取り返した。
「中、見ましたか?」
「最初のページだけ覗いちゃったけど、あとは見てないよ」
澪は安心したように顔色を普段通りに戻すと、ゆるっと目尻を垂らした。
「私、先輩のこと大切に思ってますからね」
ボソボソと、でも聞こえる声で言って、逃げるようにこの場を去る。
取り残された僕は、しばらく動けずにいた。
身体は動いていないはずなのに、気付いたら教室の中にいる澪が視界に入っている。
こんな気持ち、知らない。
どうしよう。澪から目が離せない。
クラスメイトに、教室の外まで聞こえてくる声量で茶化されて戸惑っている顔。
かと思えば、話題が変わったのか、ふわっと笑う。
見てきたはずなのに。
それなりの時間を共にしてきたはずなのに。
どうして今更、こんなに釘付けになってしまうんだろう。
恋。
そのワードはまさに魔法のようなもので、僕の心から嫌なものを追い出してくれる。
心の中が澪のことでいっぱいになる。
「先輩、大丈夫ですか?」
見つめていたのに気付いたのか、まだ僕がここにいることに不審感を覚えたのか、再び目の前に現れる。
「澪に聞きたいことがあって、さ……」
どこまで踏み込んでいいんだろう。
いつもどうやって話していたんだろう。
僕は今、ちゃんとこれまで通りの顔で話せてる?
へんに口元が緩んでいたりしたら、気持ち悪いって思われるかもしれない。
「なんですか?」
何故か僕に一歩近づいて、僕のことを目線だけで見上げている。
これが俗に言う上目遣いというやつだろうか。
友達だから、遊ばれているのかな。
それとも、心の内では他の誰かを想っていたりするのかな。
自分に向けられるわけのない恋愛的な好意を見て見ぬふりをしながら、手探りで次の言葉を口にする。
「病院、どうだった?」
精神科って行ったことないから、これで完治ってことになるのか、声が出たとてまだまだ時間がかかるものなのかわからない。
「先生もびっくりしてました。しばらく通院は続けないといけないけど、もうすぐ卒業できそうです」
「よかった。でもなんで、いきなり声が出たんだろうね」
「それは……。今度聞いてみますね」
なぜかじわじわ赤くなる。
それにつられて僕の頬まで熱を持つ。
「じゃあ、僕もう戻るね」
こうして会うことも、きっと少なくなる。
そう思うと立ち去るのは名残惜しくて、振り向くのにどうしても時間がかかってしまう。
周りの声も聞こえないくらい澪に目を奪われて、この時間を引き伸ばしたくて。そればかりで、絶妙な距離感で見つめ合う。
でも結局、早く戻れと言うように予鈴が鳴った。
仕方なく背を向けたのに、やっと頭に浮かんだことを言わずにはいられなかった。
「また連絡してもいい?」
僕が振り向いたとき、何か言いたげに僕に手を伸ばしていた澪は、何度も頷いた。
「待ってます」
満面の笑みを浮かべている。
その姿がどうしようもなく愛おしくて、まだ一緒にいたいと願ってしまう。
時間が足りない。
もっともっと、顔を見ていたい。
今すぐ学校を抜け出して、他愛のない話をしたい。
「約束ね」
浮かんだ感情を必死に飲み込んで、もう一度近づいて澪の手をそっと握った。
冷たい澪の手から、僕の手にその冷たさが伝わってくるのに、僕は熱くて仕方なかった。
「そろそろ戻らないと、授業始まっちゃいますよ」
刻一刻と迫る授業までの時間制限にもどかしさを感じながらも、戻る以外の選択肢はなかった。
離れた手に残るじんわりとした冷たさが、消えてほしくないと願っている自分に笑えてしまう。
階段を駆け下りて、ギリギリで教室に滑り込んだ。
席に着くと、すぐに授業が始まった。
メリハリのある先生による数学の授業。
いつもはただ憂鬱なだけで、睡魔との戦いなのに、今日は頭の中のパレードを終わらせることに大忙しだ。
いつ連絡しよう。なんて送ろう。
どうしたら、今まで通り話せる関係でいられるかな。
ふわふわとした頭の片隅に、なぜか引っかかる言葉が何度もリピートしている。
"私、先輩のこと大切に思ってますからね"
そう言ってもらえたことは、世界を輝かせるほどの嬉しさがある反面、僕の心を少し沈ませていた。
いいじゃないか。大切な友達だと思ってもらえているのだから、十分だろう。
納得させるように自分に言い聞かせるも、モヤモヤする気持ちが後を絶たない。
「そんなに難しいか?」
僕の顔を覗いて、先生が問いかけてくる。
ガタガタっと、大袈裟にイスが浮いたり地に着いたりする音が静かな教室に響いた。
「そうですね、少し……」
唸りながらも、僕は無意識のうちに板書を写していたらしい。
先生に覗き込まれて、慌てて確認したノートと黒板は、同じところで止まっていた。
これはきっと、一種の職業病みたいなものがあるのだろう。
先生が来たことで冷静になった僕は、そんな、また授業とは関係ないことを考えた。
「これを、ここに当てはめるんだよ」
それだけ言って、今度は別の人のノートを覗きに行った。
悩んでいることから逃げるように指定された問いを解いていくけど、やっぱり耳の奥に、まぶたの裏に、心の大部分に澪が居るから、全然身が入らなかった。
こんなにも勉強が手につかないのは、初めてだった。



