「夏休みも明けたので、本格的に文化祭の準備が始まります」
教卓に手をついた担任の安治川先生が目を輝かせていた。
体育会系国語教師の安治川先生は、イベント事が大好きな女性教師だ。
このあとの長期休み明け恒例の実力テストを前にした僕らの地獄を見るような目に比べると、その輝きは天と地ほどの差がある。
そういえば、夏休み前のホームルームで各コンテスト出場者を決めるときも、先生自ら出場するのかと思うほど前のめりだったことを思い出した。
「テストが終わったあとの自習時間でクラスの模擬店で何をやるか決めるので、各自考えておいてください」
挨拶もなしで教室を出て行く姿をなんとなく見届けると、稔が肘をつき、手で右頬を支えながらこちらを見ていた。
「安治川って、俺らと同じくらいに見えるよな」
「うん。なんか、クラス委員みたいな立ち位置だよね」
「あれでいくつだっけ?三十?」
「確かそれくらいだったと思うけど」
今どき自分の年齢を自ら話す先生はあまり見ない。
だからこの年齢の話も自己紹介のときに聞いた、どこの大学を卒業して、何年目になります。というヒントから指折りで導き出したものだ。
「俺、三十であんなに元気な自分を想像できないわ」
いい意味なのか鬱陶しいという意味なのか、どっちつかずな顔をしているからどっちの意味なのかは仲が良くてもよくわからない。
「僕なんて、三十になって生きてる自分が想像できないよ」
……やばい。口が滑った。
「なにそれ、怖」
もしかしてちょっと引いてる?
でも本当の本当に、想像ができない。
いつか生きているのが嫌になって。ふとした思いつきでこの世から姿を消す未来の方が、安易に想像ができる。
「冗談だよ。そんな顔しないでよ」
引きつった顔は、僕が黙っている時間が長くなればなるほど心配を纏い始めて、そっと左手が伸びてくる。
それを止めるように、僕は笑った。
「なんだよ。マジで一瞬本気かと思ったから」
「ごめんごめん」
「でも祐朔が安治川くらいはしゃぐのは、今でも想像できないけどな」
軽く笑われるけど、嫌な気はしない。
僕のことを、見てくれている。
もっと見てくれとは言わないし、思わないけど。
わかってくれていることがただ嬉しくて仕方ない。
「僕のこと、よくわかってるね」
「それはっ……。俺たち、親友だからな」
照れたのか、それを誤魔化すように片手で夏休み課題を開きながら、そっぽを向いてしまった。
僕もなにか話すことがあるかと言われれば、思いつくものが見当たらなかったので、同じように課題を開く。
追試はないし、成績に大きく反映されるわけじゃないから、そこまでやる気が出ない。
パラパラと書き込まれた古典のワークを軽く読み、重要そうなところだけ頭に入れていく。
やる気は出なくても、それなりにいい点数を取らないと生きずらくなっていくのは自分なのだ。
それは十七年間生きてきた僕が、誰よりも一番身をもって感じている。
「相変わらずテストとなると顔、変わるよね」
そうそうに飽きたのか、稔が僕の机の角をコンと叩いて軽い音を立てる。
「やる気が出なくても、やらないといけないからね。押し付けられた義務だよ」
「誰に?大人に?」
……ここで本当のことを言うと、めんどくさい。
さて、なんて返そうか……。
「先生よく言うでしょ。いい点取らないとーって」
「それ、真摯に受け止める奴初めて見たんだけど。意外と真面目だよね、祐朔」
「そうなのかな?」
どうなんだろう。
正直僕は、自分のことを真面目だとは思ったことがない。
ただのめんどくさい人で、めんどくさいことが嫌いな人だ。
要するに、周りから見ても自分から見ても、ただただめんどくさい。
めんどくさくて、空気みたいな透明人間なんだ。
「でもそれ、いつも思うんだけどさ。しんどそうだよ」
「……え?しんどそう?」
真面目って言うから、勝手にガチの受験モードみたいな感じかと思っていたけど。
どうやらそういう表情の変化ではないらしい。
「テスト勉強となると、なんか顔色悪くなるし。なにかに必死になって食らいついてる感じ」
「……全然、気付かなかった」
言われてみたら、顔色がどんなのかはわからないけど、呼吸が若干浅くなったりすることはそれなりにあった。
「無意識に苦しくなるなら、一旦放り出してもいいんじゃないの?」
「……は?」
「実力テストくらい、楽したらいいよ。いつもちゃんとしてるし、成績には大きく影響しないし」
いつも、僕のことを見てくれている。
ハッキリしていて、素直で。
誰よりも僕のことをわかってくれている稔が、誰よりも大切だ。
僕がここで、上辺だけでも納得したふりをして頷けば。
お互い気まずくならなくて済む。
僕はこれまで通りいればいいし、稔もいつもと変わらない日々が送れる。
「____稔には、わかんないよ」
気付いたときにはもう、そう口にしていた。
ハッとして、稔の目を見たときにはもう、遅かった。
ふっと目の中の光が消えて、下手な作り笑いだけが取り残されていた。
「そうだよな。いつも、確実な何かを隠して話してるの、知ってるし。俺には言いたくないってことだよな」
人と人との繋がりは脆い。
繋がるのは時間がかかるくせに崩れるのは一瞬だって、ちゃんとわかっていたはずなのに。
僕はどうしても、大人になりきれない。
パタンと課題のワークを閉じて、早足でどこかへ行ってしまう稔の背中を追いかけられなかった。
教卓に手をついた担任の安治川先生が目を輝かせていた。
体育会系国語教師の安治川先生は、イベント事が大好きな女性教師だ。
このあとの長期休み明け恒例の実力テストを前にした僕らの地獄を見るような目に比べると、その輝きは天と地ほどの差がある。
そういえば、夏休み前のホームルームで各コンテスト出場者を決めるときも、先生自ら出場するのかと思うほど前のめりだったことを思い出した。
「テストが終わったあとの自習時間でクラスの模擬店で何をやるか決めるので、各自考えておいてください」
挨拶もなしで教室を出て行く姿をなんとなく見届けると、稔が肘をつき、手で右頬を支えながらこちらを見ていた。
「安治川って、俺らと同じくらいに見えるよな」
「うん。なんか、クラス委員みたいな立ち位置だよね」
「あれでいくつだっけ?三十?」
「確かそれくらいだったと思うけど」
今どき自分の年齢を自ら話す先生はあまり見ない。
だからこの年齢の話も自己紹介のときに聞いた、どこの大学を卒業して、何年目になります。というヒントから指折りで導き出したものだ。
「俺、三十であんなに元気な自分を想像できないわ」
いい意味なのか鬱陶しいという意味なのか、どっちつかずな顔をしているからどっちの意味なのかは仲が良くてもよくわからない。
「僕なんて、三十になって生きてる自分が想像できないよ」
……やばい。口が滑った。
「なにそれ、怖」
もしかしてちょっと引いてる?
でも本当の本当に、想像ができない。
いつか生きているのが嫌になって。ふとした思いつきでこの世から姿を消す未来の方が、安易に想像ができる。
「冗談だよ。そんな顔しないでよ」
引きつった顔は、僕が黙っている時間が長くなればなるほど心配を纏い始めて、そっと左手が伸びてくる。
それを止めるように、僕は笑った。
「なんだよ。マジで一瞬本気かと思ったから」
「ごめんごめん」
「でも祐朔が安治川くらいはしゃぐのは、今でも想像できないけどな」
軽く笑われるけど、嫌な気はしない。
僕のことを、見てくれている。
もっと見てくれとは言わないし、思わないけど。
わかってくれていることがただ嬉しくて仕方ない。
「僕のこと、よくわかってるね」
「それはっ……。俺たち、親友だからな」
照れたのか、それを誤魔化すように片手で夏休み課題を開きながら、そっぽを向いてしまった。
僕もなにか話すことがあるかと言われれば、思いつくものが見当たらなかったので、同じように課題を開く。
追試はないし、成績に大きく反映されるわけじゃないから、そこまでやる気が出ない。
パラパラと書き込まれた古典のワークを軽く読み、重要そうなところだけ頭に入れていく。
やる気は出なくても、それなりにいい点数を取らないと生きずらくなっていくのは自分なのだ。
それは十七年間生きてきた僕が、誰よりも一番身をもって感じている。
「相変わらずテストとなると顔、変わるよね」
そうそうに飽きたのか、稔が僕の机の角をコンと叩いて軽い音を立てる。
「やる気が出なくても、やらないといけないからね。押し付けられた義務だよ」
「誰に?大人に?」
……ここで本当のことを言うと、めんどくさい。
さて、なんて返そうか……。
「先生よく言うでしょ。いい点取らないとーって」
「それ、真摯に受け止める奴初めて見たんだけど。意外と真面目だよね、祐朔」
「そうなのかな?」
どうなんだろう。
正直僕は、自分のことを真面目だとは思ったことがない。
ただのめんどくさい人で、めんどくさいことが嫌いな人だ。
要するに、周りから見ても自分から見ても、ただただめんどくさい。
めんどくさくて、空気みたいな透明人間なんだ。
「でもそれ、いつも思うんだけどさ。しんどそうだよ」
「……え?しんどそう?」
真面目って言うから、勝手にガチの受験モードみたいな感じかと思っていたけど。
どうやらそういう表情の変化ではないらしい。
「テスト勉強となると、なんか顔色悪くなるし。なにかに必死になって食らいついてる感じ」
「……全然、気付かなかった」
言われてみたら、顔色がどんなのかはわからないけど、呼吸が若干浅くなったりすることはそれなりにあった。
「無意識に苦しくなるなら、一旦放り出してもいいんじゃないの?」
「……は?」
「実力テストくらい、楽したらいいよ。いつもちゃんとしてるし、成績には大きく影響しないし」
いつも、僕のことを見てくれている。
ハッキリしていて、素直で。
誰よりも僕のことをわかってくれている稔が、誰よりも大切だ。
僕がここで、上辺だけでも納得したふりをして頷けば。
お互い気まずくならなくて済む。
僕はこれまで通りいればいいし、稔もいつもと変わらない日々が送れる。
「____稔には、わかんないよ」
気付いたときにはもう、そう口にしていた。
ハッとして、稔の目を見たときにはもう、遅かった。
ふっと目の中の光が消えて、下手な作り笑いだけが取り残されていた。
「そうだよな。いつも、確実な何かを隠して話してるの、知ってるし。俺には言いたくないってことだよな」
人と人との繋がりは脆い。
繋がるのは時間がかかるくせに崩れるのは一瞬だって、ちゃんとわかっていたはずなのに。
僕はどうしても、大人になりきれない。
パタンと課題のワークを閉じて、早足でどこかへ行ってしまう稔の背中を追いかけられなかった。



