月曜日の朝、空は少し早めに家を出た。いつもより軽やかな足取りで坂道を下りながら、心の中では様々な思いが交錯していた。昨日の葉山との会話、星との和解の一歩。まだすべてが解決したわけではないが、長い間心に閉じ込めていた感情を解放した後の清々しさがあった。
だが、一つ大きな課題が残っていた。美咲との関係。葉山への告白が拒絶された後、二人の間に生まれた微妙な距離。それを埋めるために、今日こそ美咲と正直に向き合おうと決めていた。
坂の途中で立ち止まり、海を見た。朝日に照らされた水面が金色に輝いている。美しい景色。これを誰かと共有したいという思いが湧いてきた。
学校への道を歩いていると、前方に見慣れた後ろ姿が見えた。肩までかかる茶色の髪、小さなリボンのついたヘアピン。美咲だ。
「美咲」
呼びかけると、美咲は振り返った。少し驚いたような、そして少し緊張したような表情。
「おはよう」
「おはよう、空」
二人は並んで歩き始めた。最初は沈黙が続いたが、やがて空が勇気を出して口を開いた。
「美咲……話したいことがあるんだ」
「私も」
美咲も同じことを考えていたようだった。二人は学校の近くの小さな公園に寄り、ベンチに座った。
「まずは私から言わせて」
美咲が真剣な表情で空を見つめた。
「この前は、ちょっと感情的になっちゃって……ごめん」
「謝らなくていいよ。むしろ私が……」
「違うの」
美咲は首を横に振った。
「私、葉山くんのこと好きだったのは本当。でも、それと同時に空のことも大切に思ってる。だから、自分の気持ちを整理する時間が必要だっただけ」
その優しい言葉に、空の胸が熱くなった。美咲はいつも、こんな風に正直で素直だった。
「美咲……」
「空と葉山くんがどうなるかは知らないけど、私はずっと空の味方だから」
美咲の目には、真っ直ぐな友情が宿っていた。
「私も……美咲の味方だよ」
空は声を詰まらせながら言った。
「葉山くんと私は...まだよくわからないんだ。でも、美咲と離れたくない。これだけは確かなの」
「空……」
美咲の目に涙が光った。
「私たち、小学生の頃からずっと一緒だもんね」
「うん」
「あの時から、空は何も変わってない。いつも無理して、自分を押し殺して、周りのために頑張ってる」
美咲の言葉が、空の胸に刺さった。
「でも、最近少し違う空を見るようになった。自分の気持ちを少しずつ出すようになった空を」
美咲は優しく微笑んだ。
「その変化、嬉しいよ。だって、空にはずっと素直になってほしかったから」
空の目から涙がこぼれた。美咲の言葉は、長い間心の奥底で欲していたものだった。誰かに自分の変化を認めてほしい、それを喜んでほしいという思い。
「美咲、ありがとう……」
「何が?」
「いつも私のことを見ていてくれて、わかってくれて……」
美咲は空の肩を軽く抱いた。
「それが友達でしょ?」
二人は抱き合い、長い間抱えていた緊張がほぐれていくのを感じた。美咲との間に生まれた距離は、思ったよりもずっと簡単に埋まった。それは、二人の絆が本物だったからこそだと、空は思った。
「さて、学校行こうか」
美咲が立ち上がり、手を差し伸べた。空はその手を取り、立ち上がった。
「うん」
二人は再び並んで歩き始めた。少し前までの重たい空気はどこにもなく、昔のような自然な関係が戻ってきていた。
「そういえば、鹿島先輩のことは?」
美咲の質問に、空の表情が少し曇った。
「まだ入院中……でも、少し良くなってきてるみたい」
それは半分の真実だった。確かに容態は安定しているものの、根本的な病気は変わらない。でも、今はその暗い話題を避けたかった。
「そっか。良かった。お見舞い行く時は、私も一緒に行ってもいい?」
「うん、もちろん」
美咲の優しさに、空は再び胸が熱くなった。
教室に入ると、葉山の姿があった。窓際の席で、外を見ている。空が入ってくるのに気づくと、彼は小さく微笑んだ。その笑顔に、空は少し顔が熱くなるのを感じた。
美咲は自分のクラスへと別れ、空は自分の席に向かった。
「おはよう」
葉山の挨拶に、空も笑顔で返した。
「おはよう」
「佐伯さんと一緒だったの?」
「うん。色々……話したんだ」
「そっか。うまくいったみたいだね」
葉山の声には安堵があった。彼もまた、空と美咲の関係を気にかけていたのだろう。
「葉山くん……昨日はありがとう。話を聞いてくれて」
「俺こそ……」
彼の言葉は途中で切れたが、その意味は伝わってきた。二人の間には、言葉以上の理解があった。
授業が始まり、一日がいつもの流れで過ぎていった。でも、空の心の中はいつもと違っていた。少しずつ変わりつつある人間関係、そして自分自身の変化。それらが少しずつ形になってきているような感覚があった。
放課後、空は美術室に向かった。今日は鹿島のために、約束の絵を持っていくつもりだった。
美術室に入ると、森田先生が迎えてくれた。
「桜井さん、ちょうど良かった。鹿島さんからメッセージがあるの」
先生の表情は明るかった。それは良い知らせの予感がした。
「鹿島先輩から?」
「ええ、容態が安定して、明日からまた短い面会ができるようになったそうよ」
その言葉に、空の顔に笑顔が広がった。
「本当ですか?行けますか?」
「ええ、放課後なら大丈夫みたい」
空はスケッチブックを握りしめた。明日、鹿島に会える。約束の絵を見せられる。その思いだけで、心が軽くなる気がした。
「先生、ありがとうございます!」
空は深々と頭を下げた。森田先生は優しく微笑んだ。
「桜井さん、最近変わったわね」
「え?」
「表情が豊かになった。目が輝いてる」
その言葉に、空は少し恥ずかしくなった。自分でも気づいていなかった変化を、周りは見ていたのだ。
「鹿島さんもきっと喜ぶわ。桜井さんの新しい絵を」
「はい、必ず見せます」
空は決意を新たにした。鹿島に見せる絵、それは自分の変化の証でもあった。
その夜、空は自分の部屋で絵の最後の仕上げをしていた。灯台で描いた家族の絵と、迷路の絵。どちらも自分の内面を表現したもの。鹿島に見せることで、自分の変化を伝えたかった。
絵に集中していると、ドアをノックする音がした。
「入って」
ドアが開き、星が顔を覗かせた。
「お姉ちゃん、何してるの?」
「絵を描いてる。見る?」
星はおずおずと近づき、空のスケッチブックを覗き込んだ。
「わぁ……すごい」
家族の絵を見た星の目が輝いた。
「これ、私たち?」
「うん、パパと星と私。そして...」
空は透明に描かれた母親の姿を指さした。
「お母さん」
星の目が潤んだ。
「お母さん、見守ってくれてるんだね」
「うん、きっとどこかで」
星はしばらく絵を見つめていた。その目には様々な感情が交錯していた。
「お姉ちゃん……私、この前言ったこと...」
「もう気にしないで」
空は星の肩を抱いた。
「私も言わなかったことがたくさんあるから。お互い様だよ」
「でも……」
星の表情が歪み、突然涙が溢れ出した。
「私、ひどいこと言った……お姉ちゃんを責めて……」
号泣する星を見て、空も胸が詰まった。
「星……」
「本当はね、お姉ちゃんのことすごく尊敬してたの。いつも強くて、何でもできて、文句一つ言わないで私の面倒見てくれて……」
星は泣きながら言葉を紡いだ。
「でも、それがつらかった。だって、私、お姉ちゃんみたいになれない。だから……意地悪言っちゃった」
その告白に、空は星をぎゅっと抱きしめた。
「星、私は強くなんかないよ。むしろ、弱くて...何も言えなくて...本当の気持ちを隠してばかりいた」
「うそ……お姉ちゃんは強いよ」
「いいえ、強がってただけ」
空は正直に言った。
「でも、最近気づいたんだ。強がるより、素直な方がずっと楽なんだって」
星は涙で濡れた顔を上げた。
「お姉ちゃん……」
「これからは、二人とも正直に言い合おう。嬉しいことも、悲しいことも、辛いことも、全部」
星は大きく頷いた。
「うん、約束する」
二人は再び抱き合った。長い間隠してきた感情が、ようやく解放される瞬間だった。
星が部屋を出た後、空はベッドに横になった。天井を見つめながら、今日一日を振り返る。美咲との和解、葉山との新しい関係、星との心の壁の崩壊。多くのことが変わり始めていた。
ただ、まだ一つ残された課題があった。父との関係。建前と本音の狭間で揺れる父との距離をどう縮めるか。それはまだ解決していない問題だった。
そんなことを考えていると、階下から父の声が聞こえてきた。いつもより早く帰宅したようだ。
空は部屋を出て、階段を降りた。リビングでは、父が星と話していた。二人とも笑顔だった。久しぶりに見る、穏やかな家庭の風景。
「あ、空」
父が空に気づき、笑顔で呼びかけた。
「今日は早かったね」
「うん、ちょっと仕事を調整してきたんだ」
父の言葉に、空は少し驚いた。父が仕事を調整するというのは珍しいことだった。
「実は、土曜日に三人で出かけようと思って。どこか行きたいところある?」
その提案に、星が目を輝かせた。
「海!行きたい!」
「海か、いいね。空はどう?」
父の優しい目が空に向けられた。空は言葉に詰まった。父が家族のために時間を作ってくれた。それは嬉しいことなのに、なぜか言葉が出てこない。
「空?」
父の声に、空はハッとした。
「うん、海……いいね」
精一杯の返事。心の中では、もっと言いたいことがあった。父に本当の気持ちを伝えたい。「一緒にいてくれて嬉しい」「もっと家族の時間が欲しい」「私も甘えたい」そんな言葉が喉まで出かかっていた。でも、長年の習慣は簡単には変えられなかった。
「じゃあ、決まりだね」
父は満足げに言った。空はただ頷くことしかできなかった。
夕食の準備を始めながら、空は自分の中の矛盾に悩んでいた。人に対して正直になりたいと思っているのに、なぜ父には言えないのか。美咲にも、葉山にも、星にも自分の気持ちを少しずつ表現できるようになったのに。
包丁で野菜を切りながら、空の目に涙が溢れた。父への言葉にできない複雑な思い。それは尊敬と愛情、そして少しの距離感と寂しさが混ざったもの。
「空?」
背後から父の声がした。空は急いで目元を拭った。
「なに?」
「手伝おうか?」
父の申し出に、空は少し戸惑った。
「いいよ、私一人でできるから」
言いながら、自分の言葉が習慣的に出たことに気づいた。「一人でできる」その言葉で、また壁を作ってしまったのだ。
父は少し残念そうな表情を見せたが、すぐに笑顔に戻った。
「そうか。でも、何か手伝えることがあったら言ってね」
「……うん」
父がリビングに戻った後、空は包丁を置き、深く息を吸った。心の中で何度も自分に言い聞かせる。「正直になれ」「本当の気持ちを言おう」でも、その言葉は形にならなかった。
翌日の放課後、空は病院に向かった。鹿島を訪ねるためだ。スケッチブックを抱え、少し緊張しながらも、楽しみな気持ちで歩いていた。
病室の前に立ち、空は深呼吸した。ノックをして、ドアを開ける。
「こんにちは……」
ベッドの上の鹿島は、前回よりも元気そうに見えた。顔色も良くなり、笑顔も強くなっていた。
「桜井さん、来てくれたんだね」
「はい、約束通り」
空はベッドの横に立ち、鹿島の手を握った。前回より温かい手。それだけで安心感が広がった。
「見せたいものがあるんです」
空はスケッチブックを開き、灯台で描いた絵を見せた。
「これ……」
鹿島は絵をじっと見つめた。その目に、少しずつ理解の色が広がる。
「桜井さん……すごく変わったね」
「先輩のおかげです」
「違うよ。これは全部、桜井さん自身の力だよ」
鹿島は静かに言った。
「この絵には、感情がこもってる。悲しみも、痛みも、そして希望も。まさに桜井さんそのものだ」
その言葉に、空の胸が熱くなった。鹿島は理解してくれた。自分の変化を、絵を通して感じ取ってくれた。
「先輩……ありがとうございます」
「何が?」
「私に、本当の自分を表現する大切さを教えてくれて」
鹿島は優しく微笑んだ。
「それは、桜井さんが自分で見つけたものだよ」
二人は静かに見つめ合った。言葉以上の理解があった。
「先輩、具合はどうですか?」
空の質問に、鹿島は少し視線を逸らした。
「まあ……良くなったり悪くなったり」
その言葉の裏にある現実を、空は感じ取った。しかし、今はその暗い話題に触れたくなかった。
「先輩の新しい絵、見せてください」
「ああ、そうだね」
鹿島はベッドの横の小さなテーブルを指さした。そこにはスケッチブックが置かれていた。
「病室でも、少しずつ描いてるんだ」
空がスケッチブックを開くと、そこには風景画が描かれていた。灯台からの景色。でも、前に見たものとは少し違っていた。より明るく、希望に満ちた風景。
「きれい……」
「これは、桜井さんが見た景色よ」
鹿島の言葉に、空は驚いて顔を上げた。
「私が?」
「うん。私が見ていた景色は、もっと暗くて孤独だった。でも、桜井さんと会ってから、少しずつ明るく見えるようになった」
その言葉に、空は言葉を失った。自分が鹿島に影響を与えていたなんて、考えもしなかった。
「先輩……」
「互いに影響し合うのが、人間関係の面白いところだね」
鹿島は静かに笑った。その笑顔には、何か悟りのようなものが宿っていた。
しばらく二人は絵の話をしたり、学校の話をしたりした。普通の会話。でも、その背後には深い理解と絆があった。
面会時間が終わりに近づき、空は立ち上がった。
「また来ます」
「待ってるよ」
鹿島の言葉には、希望と少しの不安が混じっていた。空にはそれが分かった。鹿島の病状は決して楽観できるものではない。それでも、二人は希望を持とうとしていた。
病室を出る時、空は振り返った。窓から差し込む夕日に照らされた鹿島の姿が、どこか神々しく見えた。
「桜井さん」
ドアを開けた空を、鹿島が呼び止めた。
「なんですか?」
「完成した絵……必ず見せに来てね」
その言葉には、深い意味が込められていた。空はしっかりと頷いた。
「必ず」
それは固い約束。絶対に果たすべき約束だと、空は心に誓った。
家に帰る途中、空は灯台の前で立ち止まった。夕日に染まった灯台は、いつも以上に美しく見えた。少し迷った後、空は灯台に向かって歩き始めた。
扉を開け、らせん階段を上る。心臓の鼓動が早くなる。
展望室に着くと、そこからの景色が広がっていた。夕日が水平線に沈みかけ、海を赤く染めている。息を呑むような美しさ。
空はスケッチブックを取り出し、描き始めた。今日の鹿島との会話、美咲との和解、そして父への言えない思い。全てを絵に込めようとした。
描いていると、階段を上がってくる足音が聞こえた。空は振り返り、そこに葉山が立っていることに驚いた。
「桜井さん……」
「葉山くん、どうして?」
「なんとなく……ここにいるような気がして」
葉山は少し恥ずかしそうに笑った。
「邪魔だったら言って」
「ううん、いいよ」
空は葉山を隣に招いた。二人は並んで窓から景色を見つめた。
「鹿島先輩のお見舞い、行ってきたの?」
「うん、元気そうだった……けど」
言葉が途切れた。葉山は空の表情を見て、何かを察したようだった。
「病気、良くならないんだね」
空は小さく頷いた。
「でも、先輩はすごく前向きで...私に希望をくれる」
「すごい人だね」
「うん……」
二人は静かに夕日を見つめた。言葉がなくても、心が通じ合うような感覚があった。
「桜井さん」
「なに?」
「何か、俺にできることある?」
その優しい申し出に、空は少し驚いた。
「ただそばにいてくれるだけで……十分」
思わず出た言葉。自分でも驚くような正直な気持ち。
葉山は少し顔を赤らめた。
「わかった。ずっとそばにいるよ」
その言葉に、空の心が温かくなった。二人は再び景色に目を向けた。夕日が完全に沈み、空が少しずつ暗くなっていく。
「帰ろうか」
葉山が言った。空は頷き、二人は灯台を後にした。
夜の道を歩きながら、空は考えていた。父に対する気持ち、それをどう伝えるべきか。美咲にも、葉山にも、星にも正直になれたのに、なぜ父にだけは言えないのか。
「悩んでる?」
葉山の声に、空は我に返った。
「うん……父のことで」
「何かあったの?」
「ううん、何もないの。それが問題なの」
空は静かに言った。
「父には何も言えなくて……本当の気持ちを伝えられなくて」
葉山は黙って聞いていた。
「美咲にも、星にも、葉山くんにも少しずつ本当のことを言えるようになったのに……父だけは」
「難しいよね、親って」
葉山の言葉には共感があった。彼も父親との複雑な関係を抱えているのだ。
「でも、言わないと始まらないんじゃない?」
美咲の言った言葉を、今葉山が口にした。それは真実だった。言わなければ何も始まらない。
「うん……そうだね」
空は決意を新たにした。今度こそ、父に本当の気持ちを伝えよう。土曜日の家族旅行、それが良い機会かもしれない。
「ありがとう、葉山くん」
「何が?」
「いつも、私の背中を押してくれて」
葉山は照れくさそうに笑った。
「それが友達でしょ?」
その言葉に、空は少し複雑な思いを抱いた。友達。それだけなのだろうか。二人の関係は。
分かれ道に来て、二人は立ち止まった。
「じゃあ、また明日」
葉山が手を振った。空も手を振り返す。
「うん、また明日」
葉山の後ろ姿を見送りながら、空の心は少し揺れていた。友達以上の何か。それがどんな形なのか、まだ明確ではなかったが、確かに何かが芽生えていた。
家に帰る途中、空は夜空を見上げた。満天の星。その中で、一つだけ特別に輝く星を見つける。
(お母さん、見ていますか?私、少しずつ変わろうとしています)
静かな祈りを胸に、空は家路を急いだ。
だが、一つ大きな課題が残っていた。美咲との関係。葉山への告白が拒絶された後、二人の間に生まれた微妙な距離。それを埋めるために、今日こそ美咲と正直に向き合おうと決めていた。
坂の途中で立ち止まり、海を見た。朝日に照らされた水面が金色に輝いている。美しい景色。これを誰かと共有したいという思いが湧いてきた。
学校への道を歩いていると、前方に見慣れた後ろ姿が見えた。肩までかかる茶色の髪、小さなリボンのついたヘアピン。美咲だ。
「美咲」
呼びかけると、美咲は振り返った。少し驚いたような、そして少し緊張したような表情。
「おはよう」
「おはよう、空」
二人は並んで歩き始めた。最初は沈黙が続いたが、やがて空が勇気を出して口を開いた。
「美咲……話したいことがあるんだ」
「私も」
美咲も同じことを考えていたようだった。二人は学校の近くの小さな公園に寄り、ベンチに座った。
「まずは私から言わせて」
美咲が真剣な表情で空を見つめた。
「この前は、ちょっと感情的になっちゃって……ごめん」
「謝らなくていいよ。むしろ私が……」
「違うの」
美咲は首を横に振った。
「私、葉山くんのこと好きだったのは本当。でも、それと同時に空のことも大切に思ってる。だから、自分の気持ちを整理する時間が必要だっただけ」
その優しい言葉に、空の胸が熱くなった。美咲はいつも、こんな風に正直で素直だった。
「美咲……」
「空と葉山くんがどうなるかは知らないけど、私はずっと空の味方だから」
美咲の目には、真っ直ぐな友情が宿っていた。
「私も……美咲の味方だよ」
空は声を詰まらせながら言った。
「葉山くんと私は...まだよくわからないんだ。でも、美咲と離れたくない。これだけは確かなの」
「空……」
美咲の目に涙が光った。
「私たち、小学生の頃からずっと一緒だもんね」
「うん」
「あの時から、空は何も変わってない。いつも無理して、自分を押し殺して、周りのために頑張ってる」
美咲の言葉が、空の胸に刺さった。
「でも、最近少し違う空を見るようになった。自分の気持ちを少しずつ出すようになった空を」
美咲は優しく微笑んだ。
「その変化、嬉しいよ。だって、空にはずっと素直になってほしかったから」
空の目から涙がこぼれた。美咲の言葉は、長い間心の奥底で欲していたものだった。誰かに自分の変化を認めてほしい、それを喜んでほしいという思い。
「美咲、ありがとう……」
「何が?」
「いつも私のことを見ていてくれて、わかってくれて……」
美咲は空の肩を軽く抱いた。
「それが友達でしょ?」
二人は抱き合い、長い間抱えていた緊張がほぐれていくのを感じた。美咲との間に生まれた距離は、思ったよりもずっと簡単に埋まった。それは、二人の絆が本物だったからこそだと、空は思った。
「さて、学校行こうか」
美咲が立ち上がり、手を差し伸べた。空はその手を取り、立ち上がった。
「うん」
二人は再び並んで歩き始めた。少し前までの重たい空気はどこにもなく、昔のような自然な関係が戻ってきていた。
「そういえば、鹿島先輩のことは?」
美咲の質問に、空の表情が少し曇った。
「まだ入院中……でも、少し良くなってきてるみたい」
それは半分の真実だった。確かに容態は安定しているものの、根本的な病気は変わらない。でも、今はその暗い話題を避けたかった。
「そっか。良かった。お見舞い行く時は、私も一緒に行ってもいい?」
「うん、もちろん」
美咲の優しさに、空は再び胸が熱くなった。
教室に入ると、葉山の姿があった。窓際の席で、外を見ている。空が入ってくるのに気づくと、彼は小さく微笑んだ。その笑顔に、空は少し顔が熱くなるのを感じた。
美咲は自分のクラスへと別れ、空は自分の席に向かった。
「おはよう」
葉山の挨拶に、空も笑顔で返した。
「おはよう」
「佐伯さんと一緒だったの?」
「うん。色々……話したんだ」
「そっか。うまくいったみたいだね」
葉山の声には安堵があった。彼もまた、空と美咲の関係を気にかけていたのだろう。
「葉山くん……昨日はありがとう。話を聞いてくれて」
「俺こそ……」
彼の言葉は途中で切れたが、その意味は伝わってきた。二人の間には、言葉以上の理解があった。
授業が始まり、一日がいつもの流れで過ぎていった。でも、空の心の中はいつもと違っていた。少しずつ変わりつつある人間関係、そして自分自身の変化。それらが少しずつ形になってきているような感覚があった。
放課後、空は美術室に向かった。今日は鹿島のために、約束の絵を持っていくつもりだった。
美術室に入ると、森田先生が迎えてくれた。
「桜井さん、ちょうど良かった。鹿島さんからメッセージがあるの」
先生の表情は明るかった。それは良い知らせの予感がした。
「鹿島先輩から?」
「ええ、容態が安定して、明日からまた短い面会ができるようになったそうよ」
その言葉に、空の顔に笑顔が広がった。
「本当ですか?行けますか?」
「ええ、放課後なら大丈夫みたい」
空はスケッチブックを握りしめた。明日、鹿島に会える。約束の絵を見せられる。その思いだけで、心が軽くなる気がした。
「先生、ありがとうございます!」
空は深々と頭を下げた。森田先生は優しく微笑んだ。
「桜井さん、最近変わったわね」
「え?」
「表情が豊かになった。目が輝いてる」
その言葉に、空は少し恥ずかしくなった。自分でも気づいていなかった変化を、周りは見ていたのだ。
「鹿島さんもきっと喜ぶわ。桜井さんの新しい絵を」
「はい、必ず見せます」
空は決意を新たにした。鹿島に見せる絵、それは自分の変化の証でもあった。
その夜、空は自分の部屋で絵の最後の仕上げをしていた。灯台で描いた家族の絵と、迷路の絵。どちらも自分の内面を表現したもの。鹿島に見せることで、自分の変化を伝えたかった。
絵に集中していると、ドアをノックする音がした。
「入って」
ドアが開き、星が顔を覗かせた。
「お姉ちゃん、何してるの?」
「絵を描いてる。見る?」
星はおずおずと近づき、空のスケッチブックを覗き込んだ。
「わぁ……すごい」
家族の絵を見た星の目が輝いた。
「これ、私たち?」
「うん、パパと星と私。そして...」
空は透明に描かれた母親の姿を指さした。
「お母さん」
星の目が潤んだ。
「お母さん、見守ってくれてるんだね」
「うん、きっとどこかで」
星はしばらく絵を見つめていた。その目には様々な感情が交錯していた。
「お姉ちゃん……私、この前言ったこと...」
「もう気にしないで」
空は星の肩を抱いた。
「私も言わなかったことがたくさんあるから。お互い様だよ」
「でも……」
星の表情が歪み、突然涙が溢れ出した。
「私、ひどいこと言った……お姉ちゃんを責めて……」
号泣する星を見て、空も胸が詰まった。
「星……」
「本当はね、お姉ちゃんのことすごく尊敬してたの。いつも強くて、何でもできて、文句一つ言わないで私の面倒見てくれて……」
星は泣きながら言葉を紡いだ。
「でも、それがつらかった。だって、私、お姉ちゃんみたいになれない。だから……意地悪言っちゃった」
その告白に、空は星をぎゅっと抱きしめた。
「星、私は強くなんかないよ。むしろ、弱くて...何も言えなくて...本当の気持ちを隠してばかりいた」
「うそ……お姉ちゃんは強いよ」
「いいえ、強がってただけ」
空は正直に言った。
「でも、最近気づいたんだ。強がるより、素直な方がずっと楽なんだって」
星は涙で濡れた顔を上げた。
「お姉ちゃん……」
「これからは、二人とも正直に言い合おう。嬉しいことも、悲しいことも、辛いことも、全部」
星は大きく頷いた。
「うん、約束する」
二人は再び抱き合った。長い間隠してきた感情が、ようやく解放される瞬間だった。
星が部屋を出た後、空はベッドに横になった。天井を見つめながら、今日一日を振り返る。美咲との和解、葉山との新しい関係、星との心の壁の崩壊。多くのことが変わり始めていた。
ただ、まだ一つ残された課題があった。父との関係。建前と本音の狭間で揺れる父との距離をどう縮めるか。それはまだ解決していない問題だった。
そんなことを考えていると、階下から父の声が聞こえてきた。いつもより早く帰宅したようだ。
空は部屋を出て、階段を降りた。リビングでは、父が星と話していた。二人とも笑顔だった。久しぶりに見る、穏やかな家庭の風景。
「あ、空」
父が空に気づき、笑顔で呼びかけた。
「今日は早かったね」
「うん、ちょっと仕事を調整してきたんだ」
父の言葉に、空は少し驚いた。父が仕事を調整するというのは珍しいことだった。
「実は、土曜日に三人で出かけようと思って。どこか行きたいところある?」
その提案に、星が目を輝かせた。
「海!行きたい!」
「海か、いいね。空はどう?」
父の優しい目が空に向けられた。空は言葉に詰まった。父が家族のために時間を作ってくれた。それは嬉しいことなのに、なぜか言葉が出てこない。
「空?」
父の声に、空はハッとした。
「うん、海……いいね」
精一杯の返事。心の中では、もっと言いたいことがあった。父に本当の気持ちを伝えたい。「一緒にいてくれて嬉しい」「もっと家族の時間が欲しい」「私も甘えたい」そんな言葉が喉まで出かかっていた。でも、長年の習慣は簡単には変えられなかった。
「じゃあ、決まりだね」
父は満足げに言った。空はただ頷くことしかできなかった。
夕食の準備を始めながら、空は自分の中の矛盾に悩んでいた。人に対して正直になりたいと思っているのに、なぜ父には言えないのか。美咲にも、葉山にも、星にも自分の気持ちを少しずつ表現できるようになったのに。
包丁で野菜を切りながら、空の目に涙が溢れた。父への言葉にできない複雑な思い。それは尊敬と愛情、そして少しの距離感と寂しさが混ざったもの。
「空?」
背後から父の声がした。空は急いで目元を拭った。
「なに?」
「手伝おうか?」
父の申し出に、空は少し戸惑った。
「いいよ、私一人でできるから」
言いながら、自分の言葉が習慣的に出たことに気づいた。「一人でできる」その言葉で、また壁を作ってしまったのだ。
父は少し残念そうな表情を見せたが、すぐに笑顔に戻った。
「そうか。でも、何か手伝えることがあったら言ってね」
「……うん」
父がリビングに戻った後、空は包丁を置き、深く息を吸った。心の中で何度も自分に言い聞かせる。「正直になれ」「本当の気持ちを言おう」でも、その言葉は形にならなかった。
翌日の放課後、空は病院に向かった。鹿島を訪ねるためだ。スケッチブックを抱え、少し緊張しながらも、楽しみな気持ちで歩いていた。
病室の前に立ち、空は深呼吸した。ノックをして、ドアを開ける。
「こんにちは……」
ベッドの上の鹿島は、前回よりも元気そうに見えた。顔色も良くなり、笑顔も強くなっていた。
「桜井さん、来てくれたんだね」
「はい、約束通り」
空はベッドの横に立ち、鹿島の手を握った。前回より温かい手。それだけで安心感が広がった。
「見せたいものがあるんです」
空はスケッチブックを開き、灯台で描いた絵を見せた。
「これ……」
鹿島は絵をじっと見つめた。その目に、少しずつ理解の色が広がる。
「桜井さん……すごく変わったね」
「先輩のおかげです」
「違うよ。これは全部、桜井さん自身の力だよ」
鹿島は静かに言った。
「この絵には、感情がこもってる。悲しみも、痛みも、そして希望も。まさに桜井さんそのものだ」
その言葉に、空の胸が熱くなった。鹿島は理解してくれた。自分の変化を、絵を通して感じ取ってくれた。
「先輩……ありがとうございます」
「何が?」
「私に、本当の自分を表現する大切さを教えてくれて」
鹿島は優しく微笑んだ。
「それは、桜井さんが自分で見つけたものだよ」
二人は静かに見つめ合った。言葉以上の理解があった。
「先輩、具合はどうですか?」
空の質問に、鹿島は少し視線を逸らした。
「まあ……良くなったり悪くなったり」
その言葉の裏にある現実を、空は感じ取った。しかし、今はその暗い話題に触れたくなかった。
「先輩の新しい絵、見せてください」
「ああ、そうだね」
鹿島はベッドの横の小さなテーブルを指さした。そこにはスケッチブックが置かれていた。
「病室でも、少しずつ描いてるんだ」
空がスケッチブックを開くと、そこには風景画が描かれていた。灯台からの景色。でも、前に見たものとは少し違っていた。より明るく、希望に満ちた風景。
「きれい……」
「これは、桜井さんが見た景色よ」
鹿島の言葉に、空は驚いて顔を上げた。
「私が?」
「うん。私が見ていた景色は、もっと暗くて孤独だった。でも、桜井さんと会ってから、少しずつ明るく見えるようになった」
その言葉に、空は言葉を失った。自分が鹿島に影響を与えていたなんて、考えもしなかった。
「先輩……」
「互いに影響し合うのが、人間関係の面白いところだね」
鹿島は静かに笑った。その笑顔には、何か悟りのようなものが宿っていた。
しばらく二人は絵の話をしたり、学校の話をしたりした。普通の会話。でも、その背後には深い理解と絆があった。
面会時間が終わりに近づき、空は立ち上がった。
「また来ます」
「待ってるよ」
鹿島の言葉には、希望と少しの不安が混じっていた。空にはそれが分かった。鹿島の病状は決して楽観できるものではない。それでも、二人は希望を持とうとしていた。
病室を出る時、空は振り返った。窓から差し込む夕日に照らされた鹿島の姿が、どこか神々しく見えた。
「桜井さん」
ドアを開けた空を、鹿島が呼び止めた。
「なんですか?」
「完成した絵……必ず見せに来てね」
その言葉には、深い意味が込められていた。空はしっかりと頷いた。
「必ず」
それは固い約束。絶対に果たすべき約束だと、空は心に誓った。
家に帰る途中、空は灯台の前で立ち止まった。夕日に染まった灯台は、いつも以上に美しく見えた。少し迷った後、空は灯台に向かって歩き始めた。
扉を開け、らせん階段を上る。心臓の鼓動が早くなる。
展望室に着くと、そこからの景色が広がっていた。夕日が水平線に沈みかけ、海を赤く染めている。息を呑むような美しさ。
空はスケッチブックを取り出し、描き始めた。今日の鹿島との会話、美咲との和解、そして父への言えない思い。全てを絵に込めようとした。
描いていると、階段を上がってくる足音が聞こえた。空は振り返り、そこに葉山が立っていることに驚いた。
「桜井さん……」
「葉山くん、どうして?」
「なんとなく……ここにいるような気がして」
葉山は少し恥ずかしそうに笑った。
「邪魔だったら言って」
「ううん、いいよ」
空は葉山を隣に招いた。二人は並んで窓から景色を見つめた。
「鹿島先輩のお見舞い、行ってきたの?」
「うん、元気そうだった……けど」
言葉が途切れた。葉山は空の表情を見て、何かを察したようだった。
「病気、良くならないんだね」
空は小さく頷いた。
「でも、先輩はすごく前向きで...私に希望をくれる」
「すごい人だね」
「うん……」
二人は静かに夕日を見つめた。言葉がなくても、心が通じ合うような感覚があった。
「桜井さん」
「なに?」
「何か、俺にできることある?」
その優しい申し出に、空は少し驚いた。
「ただそばにいてくれるだけで……十分」
思わず出た言葉。自分でも驚くような正直な気持ち。
葉山は少し顔を赤らめた。
「わかった。ずっとそばにいるよ」
その言葉に、空の心が温かくなった。二人は再び景色に目を向けた。夕日が完全に沈み、空が少しずつ暗くなっていく。
「帰ろうか」
葉山が言った。空は頷き、二人は灯台を後にした。
夜の道を歩きながら、空は考えていた。父に対する気持ち、それをどう伝えるべきか。美咲にも、葉山にも、星にも正直になれたのに、なぜ父にだけは言えないのか。
「悩んでる?」
葉山の声に、空は我に返った。
「うん……父のことで」
「何かあったの?」
「ううん、何もないの。それが問題なの」
空は静かに言った。
「父には何も言えなくて……本当の気持ちを伝えられなくて」
葉山は黙って聞いていた。
「美咲にも、星にも、葉山くんにも少しずつ本当のことを言えるようになったのに……父だけは」
「難しいよね、親って」
葉山の言葉には共感があった。彼も父親との複雑な関係を抱えているのだ。
「でも、言わないと始まらないんじゃない?」
美咲の言った言葉を、今葉山が口にした。それは真実だった。言わなければ何も始まらない。
「うん……そうだね」
空は決意を新たにした。今度こそ、父に本当の気持ちを伝えよう。土曜日の家族旅行、それが良い機会かもしれない。
「ありがとう、葉山くん」
「何が?」
「いつも、私の背中を押してくれて」
葉山は照れくさそうに笑った。
「それが友達でしょ?」
その言葉に、空は少し複雑な思いを抱いた。友達。それだけなのだろうか。二人の関係は。
分かれ道に来て、二人は立ち止まった。
「じゃあ、また明日」
葉山が手を振った。空も手を振り返す。
「うん、また明日」
葉山の後ろ姿を見送りながら、空の心は少し揺れていた。友達以上の何か。それがどんな形なのか、まだ明確ではなかったが、確かに何かが芽生えていた。
家に帰る途中、空は夜空を見上げた。満天の星。その中で、一つだけ特別に輝く星を見つける。
(お母さん、見ていますか?私、少しずつ変わろうとしています)
静かな祈りを胸に、空は家路を急いだ。



