日曜日の朝、空は目を覚ますとすぐにベッドから飛び起きた。汗で濡れた髪が額に貼りついている。悪夢を見ていたのだ。母の事故、鹿島の病室、泣く美咲、そして怒りの表情の星。全てが混ざり合い、渦を巻いていた。
 窓を開けると、五月の爽やかな風が入ってきた。空は深呼吸をしたが、胸の締め付けは解消されなかった。
 ここ数日、家の中の空気は重かった。星は依然として部屋に閉じこもりがちで、会話は最小限。父は仕事に追われ、家にいる時間も少ない。そして空自身も、心ここにあらずという状態だった。
 キッチンに降りると、父が珍しく朝食を作っていた。休日だからか、それとも家庭の雰囲気の変化を感じ取ったからか。
「おはよう」
「おはよう……珍しいね」
「たまには俺も家事をしないとね」
 父は少し照れくさそうに言った。その姿に、空は少し安心感を覚えた。
「星はまだ寝てるの?」
「うん、起こしてくる」
 空は星の部屋のドアをノックした。返事はなかったが、中から物音がした。起きてはいるようだ。
「星、朝ごはんできてるよ。パパが作ってくれたんだ」
 しばらくして、ドアが開いた。星の顔色は良くないが、少なくとも出てきてくれたことに、空は安堵した。
「おはよう」
 空の挨拶に、星は小さく頷いただけだった。それでも、一緒に食卓に着くだけでも良しとするしかなかった。
 三人での朝食は、ぎこちない沈黙に包まれていた。父は時折話題を振ったが、会話は続かない。星は黙々と食べ、空も言葉を探せなかった。
「今日は何をする予定?」
 父の質問に、空は答えを迷った。本当は、鹿島のお見舞いに行きたかった。でも、それを言うと父が心配するだろう。
「ちょっと、絵を描きに行こうと思って」
「そうか。星は?」
「友達と公園で遊ぶ」
 星の短い返事。彼女は空の顔を見ようとしなかった。
 食事を終え、片付けを済ませると、空は自分の部屋に戻った。スケッチブックを鞄に入れ、灯台に行く準備をする。心の中は混乱していたが、絵を描くことで少しでも整理できればと思った。
 玄関で靴を履いていると、父が近づいてきた。
「空」
「なに?」
「大丈夫?最近元気がないように見えるんだけど」
 父の心配そうな目に、空は一瞬言葉に詰まった。「大丈夫」と言うつもりだったのに、口から出てきたのは別の言葉だった。
「わからない」
 その正直な答えに、父の表情が変わった。驚きと心配が混じったような顔。
「何かあったの?」
「いろいろ……」
 それ以上は言えなかった。全てを話し始めたら、堰を切ったように溢れ出してしまいそうで怖かった。
「そうか……」
 父は空の肩に手を置いた。温かい手。久しぶりに感じる父の温もり。
「無理しないでね。何かあったら、いつでも話してほしい」
 その優しさに、空の目に涙が溜まった。でも、まだ話す準備はできていなかった。
「ありがとう」
 そう言って、空は家を出た。

 灯台に着くと、空は深呼吸した。ここが今の自分にとって一番落ち着ける場所だった。鹿島と出会い、自分の気持ちと向き合い始めた場所。
 扉を開け、らせん階段を上る。足音が灯台内に響く。まるで自分の心の奥へと降りていくような感覚。
 展望室に着くと、窓からの景色が広がっていた。晴れた空の下、海が青く輝いている。風が窓から入り込み、空の髪を揺らした。
 スケッチブックを広げ、鉛筆を手に取る。何を描こう。頭の中は様々な思いで混乱していたが、手は自然と動き始めた。
 線が紙の上を走り、少しずつ形になっていく。それは迷路のような形。複雑に入り組んだ道。その中心に小さな人影。それが自分自身だということが、描きながら分かってきた。
(私は今、迷路の中にいる)
 様々な道が交差し、どこに進めばいいのか分からない状態。それが今の自分の心だった。
 描き続けるうちに、涙が頬を伝い落ちた。止めようとしても止まらない。今まで溜め込んできた感情が、少しずつ解放されていく。
「お母さん……」
 小さくつぶやく。母の顔を思い出そうとするが、記憶の中の母の顔は少しずつ薄れていた。でも、温かな手の感触だけは鮮明に覚えている。
(私のせいで死んだの?)
 星の言葉が脳裏に浮かぶ。忘れ物を取りに行く途中の事故。あの日、もし忘れ物をしていなければ、母は今も生きていただろうか。
 涙で視界が滲み、絵が見えなくなる。鉛筆を置き、窓際に寄りかかった。堰を切ったように、泣き続けた。今まで一度も人前で泣かなかった自分が、ここでは涙が止まらなかった。
 どれくらい泣いていただろう。やがて、少し落ち着いてきた時、空は再びスケッチブックに向かった。今度は、別の絵を描き始める。
 三人の人物。父と星と自分。そして、その上に透明な存在として母の姿。家族の絵。長い間完成できなかった絵。でも今は、母がいないことを受け入れながらも、三人の絵に母の存在を感じさせる方法が見つかった。
 描きながら、空は考えていた。星との関係、父との距離、そして自分自身の罪悪感。全てが複雑に絡み合っているが、少しずつほぐしていくしかない。
(一人で抱え込まないこと)
 鹿島の言葉を思い出す。自分の感情を表現すること。それは絵だけではなく、言葉でも必要なのかもしれない。
 描き終えた時、空は少し心が軽くなったように感じた。まだ答えは見つからないけれど、少しずつ前に進む道が見えてきたような気がした。

 灯台を出ると、すでに夕方になっていた。一日中絵を描いていたことに、自分でも驚いた。でも、それだけ没頭できたことは良いことだった。
 海岸線に沿って歩きながら、空は星のことを考えていた。彼女の言葉は確かに傷ついたが、それは星自身も長い間抱えてきた傷だったのだろう。空だけが辛かったわけではない。星も、父も、それぞれの形で母の死と向き合ってきたのだ。
 ふと足を止めると、砂浜に降りた。波打ち際に立ち、寄せては返す波を見つめる。繰り返す波のように、感情も押し寄せては引いていく。
「桜井さん?」
 突然の声に、空は振り返った。そこには葉山が立っていた。驚いた表情で空を見つめている。
「葉山くん……どうして」
「散歩してたんだ。桜井さんがここにいるとは思わなかった」
 葉山は空の横に立った。二人は黙って海を見つめた。
「泣いてたの?」
 葉山の質問に、空は顔を上げた。目が赤くなっているのだろう。隠そうとしたが、もう遅かった。
「うん……ちょっと」
 正直に答えると、葉山はそっと空の肩に手を置いた。
「何かあった?」
 その優しい問いかけに、空の中で何かが崩れた。今まで誰にも話せなかったことが、なぜか葉山なら話せるような気がした。
「いろいろ……全部、うまくいかなくて」
「話してみる?」
 葉山は砂浜に座り込み、隣に空を促した。二人は波の音を聞きながら、砂の上に座った。
「鹿島先輩が……重い病気で」
 空は話し始めた。鹿島の病状、余命宣告のこと。そして美咲との距離、星との言い争い。母の死についての罪悪感。全てを言葉にするのは難しかったが、少しずつ話していった。
葉山は黙って聞いていた。時折頷いたり、驚いたりしたが、遮ることはなかった。
「星ちゃんがそんなこと言ったんだ……」
 話し終えると、葉山は静かに言った。
「うん……多分、小さい頃からずっと思ってたんだと思う」
「でも、それは桜井さんのせいじゃない」
「わからない……もし私が忘れ物をしていなかったら...」
「そういう『もし』は無限にあるよ。でも、それを責めても何も変わらない」
 葉山の言葉は、厳しさと優しさが混じっていた。
「俺だって、『もし』を考えたことがある。もし俺がもっと父さんを止められていたら、母さんは出て行かなかったんじゃないかって。でも……」
 彼は砂を手で掬い、そっと落とした。砂粒が風に舞う。
「過去は変えられない。でも、これからは変えられる」
  その言葉に、空は強く頷いた。
「星とちゃんと話したいんだ。でも、どう話せばいいのかわからなくて」
「正直に言えばいいんじゃないかな。桜井さんも辛かったこと、星ちゃんの気持ちを知りたいこと」
葉山の率直なアドバイスは、シンプルだけど的を射ていた。
「葉山くんは……すごいね。私なんかより、ずっと強くて」
「強くなんかないよ」
 葉山は少し悲しそうに笑った。
「俺だって、毎日怖いんだ。家に帰るのが怖い。父さんの顔色を伺うのも怖い。でも、逃げられないから、ただ立ち向かうしかない」
 その正直な言葉に、空は心打たれた。葉山も自分と同じように、毎日戦っていたのだ。
「葉山くん……」
「なに?」
「私ね、本当は……」
 言葉が詰まる。でも、今なら言えるような気がした。
「本当は、強がってるだけなんだ。本当はすごく寂しくて、誰かに甘えたくて、でも、それを言ったら迷惑をかけると思って……ずっと我慢してた」
 初めて口にする本音。言葉にした瞬間、涙が溢れた。
「だから、『大丈夫』って言い続けてた。でも、本当は大丈夫じゃなかった」
 葉山は静かに頷いた。
「わかるよ。俺も同じだから」
 彼の目にも、涙が光っていた。
「俺も、『大丈夫』って言ってたけど、本当はすごく怖かった。誰かに助けてほしかった」
 二人は互いの痛みを理解し合っているという実感があった。それは不思議な一体感だった。
「葉山くん、ありがとう……話を聞いてくれて」
「俺こそ……桜井さんが話してくれて嬉しかった」
 夕日が二人を赤く照らしていた。海は金色に輝き、波の音が優しく響いている。
「桜井さん」
「なに?」
「俺、ずっと言えなかったんだけど……」
 葉山は少し緊張した様子で、言葉を探しているようだった。
「桜井さんのこと、最初に見た時から気になってた。なんていうか……同じ孤独を感じたんだ」
 その告白に、空は少し驚いた。
「孤独?」
「うん。桜井さんの目が、俺と同じように寂しさを隠してるように見えたんだ」
 心を見透かされたような感覚。でも、不思議と恥ずかしさはなかった。むしろ、理解されている安心感があった。
「私も……葉山くんのこと、気になってた」
 思わず口にした言葉。自分でも驚いたが、それは本当だった。
 二人は視線を合わせた。その瞬間、互いの心が通じ合ったような気がした。同じ痛みを抱え、同じ寂しさを知る者同士。言葉にならない理解があった。
「帰ろうか」
 葉山が立ち上がり、空に手を差し伸べた。空はその手を取り、砂浜から立ち上がった。手の温もりが心地よかった。
「明日、学校でも話せる?」
 葉山の問いに、空は笑顔で頷いた。
「うん、明日も」
 二人は並んで歩き始めた。夕暮れの海岸線を、肩が時々触れ合うくらいの距離で。

 家に帰ると、星はすでに戻っていた。リビングでテレビを見ている。空が玄関に入ると、星はちらりと見ただけで、また画面に目を戻した。
「ただいま」
「……おかえり」
 小さな返事。でも、昨日よりは少し柔らかい声に聞こえた。
 空はリビングに入り、星の隣に座った。しばらく黙ってテレビを見ていたが、やがて勇気を出して口を開いた。
「星、ちょっといい?」
 星は少し驚いたように空を見た。
「……なに?」
「あのね、前に言ってたこと……お母さんのことなんだけど」
 星の表情が固くなった。でも、空は続けた。
「私も……ずっと思ってたんだ。もし私が忘れ物をしていなかったら、お母さんはあの事故に遭わなかったかもしれないって」
 その言葉に、星の目が大きく開いた。
「お姉ちゃん……」
「だから、星が言ったことは、私自身も思ってたことだったの。でも、葉山くんっていう友達が言ってくれたんだ。過去は変えられないけど、これからは変えられるって」
 空は星の手を取った。星は拒まなかった。
「星の気持ち、もっと知りたい。星がお母さんのことをどう思ってるのか、寂しいときどう感じてるのか……全部聞きたい」
 星の目に涙が溜まっていた。
「私……お母さん、ほとんど覚えてない」
 小さな声で星が言った。
「写真で見るだけで...どんな声だったか、どんな匂いがしたか……覚えてない」
 その言葉に、空の胸が痛んだ。星が5歳の時に母は亡くなった。確かに、記憶はほとんどないだろう。
「私はね、お母さんの声は覚えてるよ。優しい声だった。そして、いつもいい匂いがした。料理の匂いと、お花の匂いが混ざったような」
 星は黙って聞いていた。涙が頬を伝う。
「星には、お母さんのことをもっと教えてあげられなくてごめん。私自身が辛くて……話せなかった」
「お姉ちゃん…… 私も言ったことごめんなさい」
星が突然謝った。
「お母さんのことは、お姉ちゃんのせいじゃないって、本当はわかってた。でも、誰かのせいにしないと……納得できなくて」
 二人は抱き合った。互いの温もりを感じながら、長い間抱えてきた痛みを少しずつ解放していく。
「これからは……もっと話そうね。お母さんのこと、私たちのこと、全部」
 星は空の胸に顔をうずめながら、小さく頷いた。
 その時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
 父の声がする。
「お帰りなさい」
 二人は口を揃えて答えた。久しぶりに揃った声。父はそれを聞いて、少し驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかな笑顔になった。
「今日は何か特別なことでもあった?」
「うん、ちょっとね」
 空はそう答えて、星と顔を見合わせた。小さな笑顔が交わされる。言葉にはならないけれど、何かが変わり始めた瞬間だった。

 その夜、空は自分の部屋で窓際に立っていた。星空が広がり、月が海面を照らしている。
 今日一日で、多くのことが変わった。葉山に本音を打ち明けたこと、星と向き合い始めたこと。まだ全ての問題が解決したわけではないが、一歩前進した感覚があった。
 スケッチブックを開き、今日灯台で描いた絵を見つめる。迷路の中の小さな人影。でも、その迷路にも出口がある。必ず見つかる。
 もう一枚のページをめくると、家族の絵が現れる。透明な母の存在を含む四人の姿。これは完成した絵だった。
(お母さん、見ていますか?)
 心の中で問いかける。答えはないけれど、どこかで見守っていてくれているような気がした。
 明日からまた学校が始まる。美咲との関係、葉山との新たな関係、そして鹿島の病状。まだ多くの問題が残っているが、今日の自分なら少しずつ向き合っていける。そんな自信が生まれていた。
 窓を開け、夜風を感じる。新鮮な空気が肺に入り込む。深呼吸して、空は微笑んだ。
 迷宮の中にいても、進み続ければ、いつか出口は見つかる。一歩ずつ、自分のペースで歩いていけばいい。
 そう思いながら、空はベッドに横になった。明日はどんな日になるだろう。不安と期待が入り混じる中で、久しぶりに安らかな眠りに落ちていった。