翌朝、空が目を覚ますと、窓の外は雨だった。五月の柔らかな雨が、ガラスを伝って流れ落ちている。水滴が作る筋が、まるで誰かの流した涙のようにも見えた。
起き上がり、カーテンを開ける。灰色の空が広がり、遠くの海も鉛色に染まっていた。何となく不安な予感がする朝。空は深呼吸して、その感覚を振り払おうとした。
星を起こし、朝食を作り、いつも通りの朝を過ごす。ただ、星の様子がいつもと少し違っていた。黙って食事をし、空の問いかけにも短い返事しか返さない。
「何かあった?」
食器を片付けながら、空が尋ねた。星は少し顔を上げ、それからまた俯いた。
「別に」
そっけない返事。十二歳になった星は、最近少しずつ変わり始めていた。反抗的な言動や、以前よりも無口になることが増えてきた。思春期の始まりだと分かってはいるが、空にとっては戸惑いの対象だった。
「学校、傘持った?」
「持ってる」
短い会話だけで、星は家を出て行った。挨拶もなく閉まるドア。空は小さくため息をついた。
(私が何か、気に触ることをしたのかな)
考えながらも、答えは見つからなかった。空も準備を済ませ、雨の中を学校へと向かった。
教室に着くと、すでに葉山の姿があった。窓際の席で、雨粒の流れる窓ガラスを見つめている。空が近づくと、彼は少し緊張した表情で顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう……」
二人の間に、微妙な空気が流れた。昨日の告白のことを、お互いが意識している。
「昨日は……ありがとう、聞いてくれて」
葉山の言葉に、空は小さく頷いた。
「大丈夫だった? 昨日、家に」
小さな声で尋ねると、葉山は少し視線を逸らした。
「まあ……父さん、酔ってなかったから」
彼の言葉には安堵があったが、同時に明日への不安も潜んでいた。慢性的な恐怖の中で生きているのだと、空は痛感した。
「何かあったら……」
言いかけた時、教室のドアが開いた。美咲が立っていた。彼女は二人を見ると、少し表情を硬くした。それから、決意したように近づいてきた。
「おはよう、空。葉山くん」
「おはよう」
空が答えると、美咲は葉山の方を見た。その目には決意の色があった。
「葉山くん、放課後、ちょっといい?」
その言葉に、空の胸がギュッと締め付けられた。予定通り、美咲は葉山に告白するつもりだ。葉山は少し困ったような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「いいよ」
「じゃあ、放課後、中庭で待ってる」
美咲はそう言うと、自分のクラスへと戻っていった。その背中を見送りながら、空は複雑な思いに包まれた。美咲が好きな人に告白すること。それを応援したい気持ち。でも同時に、葉山の抱える問題を知る身として、今はそんな状況ではないことも分かっている。
「桜井さん……」
葉山の声に、空は顔を上げた。彼の表情には迷いがあった。
「私……」
言いかけた言葉は、チャイムによって遮られた。授業が始まる。葉山は何か言いたげな表情で空を見つめたが、それ以上は何も言わなかった。
その日の授業中、空は何度も美咲のことを考えた。放課後の告白。葉山の返事。そして、その後の三人の関係。全てが不安で、胸が重かった。
放課後、空は美術室へと向かった。今日は鹿島のお見舞いに行くつもりだった。でも、その前に少し時間があったので、美術室で絵を描くことにした。
美術室に入ると、森田先生が一人で作業をしていた。
「あら、桜井さん」
「こんにちは」
「鹿島さんのお見舞いに行くんでしょ?」
空は驚いて顔を上げた。
「先生も知ってたんですか?」
「ええ、病院から連絡があったの」
森田先生の表情が暗くなった。
「実は……今朝、病院から連絡があったわ。鹿島さん、容態が急変して、集中治療室に入ったそうよ」
その言葉に、空の心臓が止まりそうになった。
「え……」
「今は安定したって聞いたけど、お見舞いはしばらく無理かもしれないわ」
空は言葉を失った。昨日まで話していた鹿島が、急に遠くなったような感覚。
「病名は……先生、知ってますか?」
森田先生は少し迷った表情を見せた後、小さく頷いた。
「希少な血液の疾患よ。彼女は前から通院していて……」
先生は言葉を切った。そこには言いにくいことがあるようだった。
「先生……鹿島先輩、良くなりますよね?」
切実な問いに、森田先生は答えられないような表情をした。その沈黙が、全てを物語っていた。
「桜井さん、座りなさい」
森田先生は静かな声で言った。空は言われるまま椅子に座った。
「鹿島さんは去年、余命宣告を受けていたの」
その言葉に、空の世界が一瞬で崩れ落ちたように感じた。
「そんな……」
「一年から一年半と言われていたわ。でも彼女は、最後まで絵を描きたいと言って、学校に通い続けていたの」
涙が溢れ出した。止めようとしても、止まらない。
「先輩……知ってて、何も言わなかったんですね」
「きっと、桜井さんを心配させたくなかったのよ」
森田先生の言葉に、空は思わず苦笑した。「心配させたくない」。自分もよく使う言葉。鹿島もそうだった。お互いに心配させまいとして、本当の気持ちを隠し合っていた。
「彼女、桜井さんのことをとても信頼していたわ。よく話してたの、『桜井さんには才能がある、でもまだ自分の殻に閉じこもっている』って」
その言葉に、空の胸が熱くなった。
「私……先輩に会いたいです」
「落ち着いたら、面会できるかもしれないわ。それまでは……彼女の分まで、絵を描き続けて」
森田先生の優しい言葉に、空は黙って頷いた。
美術室を出た空は、ふと足を止めた。今頃、美咲は葉山に告白しているだろうか。何となく、中庭の方へ足が向いた。
校舎の窓から中庭を覗くと、そこには美咲と葉山の姿があった。雨は上がり、湿った空気の中で二人は向かい合っていた。美咲の表情は見えなかったが、背中が震えているようだった。葉山は申し訳なさそうな表情で、何かを言っている。
(断られたんだ……)
空はそっと窓から離れた。見てはいけないものを見てしまったような気がした。美咲の気持ちを考えると、胸が痛んだ。
帰り支度をして校舎を出ると、校門で葉山が立っていた。まるで空を待っていたかのように。
「桜井さん」
葉山が近づいてきた。その表情には疲れが見えた。
「美咲……告白したの?」
空の質問に、葉山は小さく頷いた。
「断ったの?」
再び頷く葉山。
「優しい人だけど……俺には今、そんな気持ちになれなくて」
その言葉に、空は複雑な思いを抱いた。葉山の置かれた状況を考えれば当然のことかもしれない。でも、美咲のことを思うと心が痛む。
「佐伯さん、泣いてた……でも、『友達でいよう』って言ってくれた」
葉山の声には、申し訳なさと安堵が混じっていた。
「美咲は優しいから……」
空はそれ以上言葉が続かなかった。友達の傷ついた気持ちを思うと、胸が締め付けられる。
「桜井さん、俺のこと嫌いになった?」
突然の質問に、空は驚いて顔を上げた。
「そんなことないよ」
「でも、佐伯さんは桜井さんの大切な友達でしょ?」
「うん……だからこそ、美咲の気持ちを大事にしたい」
空の言葉に、葉山は少し寂しそうな表情を見せた。
「そうだよね……」
彼は空の顔をじっと見つめた後、小さく微笑んだ。
「俺、もうちょっと学校に残るから。先に帰って」
そう言って、葉山は学校の方へ戻っていった。その背中を見送りながら、空は何とも言えない気持ちに包まれた。
家に帰ると、星はまだ戻っていなかった。友達の家に行くと言っていたことを思い出す。父も仕事で遅いと連絡があった。
珍しく一人の時間。でも、心は落ち着かなかった。鹿島の病状、美咲の告白、葉山との会話。全てが混ざり合って、頭の中が混乱していた。
キッチンで夕食の準備を始めながら、空は考え事をしていた。今の自分に何ができるだろう。鹿島のために、美咲のために、そして葉山のために。
玄関のドアが開く音がした。星が帰ってきたようだ。
「ただいま」
小さな声の挨拶。星はリビングに入ってきた。顔色が悪く、目が赤い。泣いていたような……。
「おかえり。何かあったの?」
星は黙って首を振った。その仕草には、何か言いたいけど言えないような様子があった。
「星?」
空が近づくと、星は後ずさりした。その反応に、空は傷ついた。
「何でもない」
「でも、泣いてたみたいだけど……」
「関係ない!」
突然の強い口調に、空は驚いた。星がこんな風に怒鳴ることは、ほとんどなかった。
「星……何かあったら、話してくれてもいいんだよ?」
優しく声をかけると、星の表情が急に歪んだ。
「お姉ちゃんは何も分かってない!」
「どういうこと……?」
「いつも『大丈夫』って言って、私のこと分かった気になってる。でも、本当は私の気持ちなんて何も分かってないくせに!」
星の目から涙が溢れ出した。怒りと悲しみが混じった表情。
「私だって……お母さんに会いたいんだよ。私だって寂しいんだよ」
その言葉に、空は胸が突き刺されるような痛みを感じた。ずっと星を守ろうとしてきた。母親代わりになろうとしてきた。でも、それは星の本当の気持ちに蓋をすることになっていたのかもしれない。
「星……」
「私、小さい時……思ってた」
星は泣きながら言った。
「お母さんが死んだのは、お姉ちゃんのせいだって」
その言葉に、空の世界が一瞬で凍りついた。
「え……」
「だって……あの日、お姉ちゃんが学校に忘れ物しなければ、お母さんは迎えに行かなくて済んだのに。あの事故に遭わなくて済んだのに」
子供ながらに抱いていた思い。それを星は今、初めて口にした。
空は言葉を失った。確かに、母が交通事故に遭ったのは、空の忘れ物を学校に取りに行く途中だった。でも、それを星がずっと知っていて、そんな風に思っていたなんて……。
「星、そんなこと……」
「ごめんなさい!」
星は大きな声で謝ると、自分の部屋へと駆け上がっていった。ドアが激しく閉まる音。
空はその場に立ち尽くした。足から力が抜け、床に座り込む。胸が痛くて、息ができないような感覚。
(お母さんの死は……私のせい?)
その思いが、心の奥底から湧き上がってきた。自分でも気づかないうちに抑え込んでいた罪悪感。星の言葉によって、それが一気に解き放たれた。
震える手で顔を覆う。涙が指の間から滴り落ちる。
(星……そんな風に思っていたんだ)
小さな妹の心の中に、そんな大きな傷があったなんて。空は何も気づいていなかった。いや、気づかないようにしていたのかもしれない。
しばらく床に座ったまま、空は泣き続けた。全てが崩れていくような感覚。鹿島の病気、美咲との距離、そして今、星との関係。大切なものが、次々と砂のように指の間から零れ落ちていく。
やがて、空は立ち上がった。星の部屋に向かいたい気持ちと、このまま一人になりたい気持ちの間で揺れた。結局、キッチンに戻り、機械的に夕食の準備を続けた。
料理をしながら、涙は止まらなかった。包丁で野菜を切る手が震える。それでも、日常を続けなければという強迫観念のような思いが、空を動かし続けていた。
その夜、星は部屋から出てこなかった。父が帰ってきた時、空は平静を装って夕食を出した。
「星は?」
「体調が悪いみたいで、部屋で休んでる」
嘘をつく自分が嫌だった。でも、今は父に心配をかけたくなかった。
「そう……様子を見てくるよ」
父が星の部屋に行っている間、空は一人でテーブルに座っていた。頭の中は空っぽのようで、でも同時に様々な思いが渦巻いていた。
父が戻ってきた。
「寝てたよ。明日、様子を見て、熱があるようなら病院に連れていこう」
空は黙って頷いた。父には、二人の間に何があったのか言えなかった。それは、空と星だけの問題のような気がした。
食事を終え、空は自分の部屋に戻った。窓際に立ち、夜空を見上げる。星が瞬いている。でも今夜は、その美しさを感じることができなかった。
心の中は嵐のように荒れていた。鹿島の余命宣告、美咲の傷ついた気持ち、そして星の言葉。全てが一度に押し寄せてきて、空は息苦しさを感じた。
(私は……何をすればいいの)
答えの見つからない問いを、空は夜空に投げかけた。
翌朝、空が目を覚ますと、すでに父は出勤した後だった。昨夜は疲れて、いつもより遅くまで眠っていたようだ。
星の部屋のドアをノックしたが、返事はなかった。そっと開けると、星はまだ寝ていた。または、寝たふりをしているのかもしれない。
「星……」
小さく呼びかけたが、反応はなかった。
「朝ごはん、置いておくね」
それだけ言って、空は部屋を出た。今は無理に話そうとしても、星の心は開かないだろう。時間が必要なのかもしれない。
朝食を食べながら、空は考えていた。今日、学校でどう振る舞えばいいのか。美咲にどう接すればいいのか。葉山との関係はどうなるのか。そして一番気がかりな鹿島のこと。
重い足取りで家を出た空は、いつもの道を歩いていた。頭の中は混乱していたが、体は機械的に動いていた。
学校への坂道を上っていると、前方に見慣れた姿が見えた。美咲だった。彼女はゆっくりと歩いていて、その背中は何となく寂しげに見えた。
「美咲」
空が声をかけると、美咲は振り返った。彼女の顔には無理な笑顔が浮かんでいた。
「おはよう、空」
「おはよう……」
二人並んで歩き始めたが、何を話していいのか分からなかった。昨日のことを知っているのに知らないフリをするべきか、それとも率直に話すべきか。
「ねえ……」
二人が同時に口を開いて、互いに顔を見合わせた。
「先に言って」
美咲が言うので、空は深呼吸した。
「昨日のこと……ごめん」
「え?何で空が謝るの?」
「葉山くんのこと……」
「あ……知ってたんだ」
美咲の表情が少し曇った。
「見かけちゃって……ごめん」
「いいよ。別に隠すことじゃないし」
美咲は強がって笑った。でも、その目には悲しみが残っていた。
「大丈夫?」
「うん……まあ、振られるって分かってたんだけどね」
「そんなこと……」
「分かってたよ。だって葉山くん、空のこと見てるもの」
その言葉に、空は足を止めた。
「何それ……違うよ」
「違わないよ。葉山くんの目、空を見る時だけ違うの。私じゃなくて、空に惹かれてるんだよ」
美咲の声には苦さがあった。
「そんなことない。私たちはただ……」
言いかけて、空は言葉に詰まった。ただの何だろう?クラスメイト?友達?言葉が見つからなかった。
「いいの、空を責めてるわけじゃないから」
美咲は再び歩き始めた。
「ただ……しばらく二人のことを見るのは、ちょっと辛いかも」
「美咲……」
「友達だよ、これからも。でも、少し時間が欲しいな」
美咲の正直な言葉に、空は何も言えなかった。彼女の優しさと強さに、ただ感謝することしかできなかった。
「うん……」
二人は沈黙の中、学校への道を歩き続けた。美咲との距離。それは物理的なものではなく、心の距離。それが少しずつ広がっていくような感覚があった。
教室に入ると、葉山はまだ来ていなかった。空は自分の席に着き、窓の外を見つめた。雨上がりの空は晴れ渡り、青く広がっていた。でも、空の心は晴れることなく、重い雲が覆ったままだった。
葉山がやってきたのは、チャイムが鳴る直前だった。彼は空に小さく会釈しただけで、自分の席に着いた。いつもの明るい挨拶はなかった。彼もまた、美咲との一件で気まずさを感じているのだろう。
一日の授業が始まった。空は教科書を開き、ノートを取る。でも、頭の中には授業内容が入ってこなかった。鹿島のこと、美咲のこと、星のこと。そして母の死と自分の関係。全てが混ざり合って、心が落ち着かなかった。
昼休み、空は屋上に一人で行った。誰とも話したくない気分だった。弁当を開けたが、食欲はなかった。空っぽの青空を見上げながら、空は考え事をしていた。
(私は、どうすればいいんだろう)
全てが一度に崩れていくような感覚。今まで必死に保ってきた日常が、砂の城のように崩れ落ちていく。
屋上のドアが開く音がした。振り返ると、葉山が立っていた。
「ここにいると思った」
彼はそう言って、空の隣に座った。二人は黙って空を見上げた。
「佐伯さん……元気なかったね」
葉山の言葉に、空は小さく頷いた。
「俺のせいだよね」
「そんなことない。葉山くんは正直に答えただけだよ」
「でも……」
葉山は何か言いたげな表情をしたが、言葉にはしなかった。代わりに、彼は別の話題を持ち出した。
「鹿島先輩、容態が悪化したって聞いた」
「うん……」
空の声は小さかった。
「見舞いに行けるようになったら、一緒に行こうか」
その優しい申し出に、空は少し驚いた。
「葉山くん……鹿島先輩のこと、知ってるの?」
「いや、直接話したことはないけど……桜井さんが大切にしてる人だってことは分かるから」
その言葉に、空の胸が熱くなった。葉山は空の気持ちを理解しようとしている。でも同時に、美咲の言葉も思い出した。「葉山くん、空のこと見てるもの」
「ねえ、葉山くん」
「なに?」
「美咲のこと……どう思ってるの?」
突然の質問に、葉山は少し困った表情をした。
「佐伯さんは、優しくて明るくて、素直な人だと思う。でも……」
「でも?」
「好きになれなかった。理由は分からないけど、そうなんだ」
その正直な言葉に、空は複雑な思いを抱いた。
「じゃあ……私のことは?」
さらに踏み込んだ質問。自分でも驚くような言葉だった。葉山も明らかに驚いた様子で、空を見つめた。
「桜井さんは……」
言いかけた時、チャイムが鳴った。昼休みの終わりを告げる音。
葉山は言葉を切り、立ち上がった。
「行こうか、授業始まるよ」
その言葉で話題は終わった。答えは得られなかったが、もしかしたらそれは良かったのかもしれない。今の空には、新たな感情を受け止める余裕がなかった。
放課後、空は病院に向かった。鹿島の容態が少し安定したと連絡があり、短時間なら面会できるという。
病室のドアの前で、空は深呼吸した。どんな姿の鹿島が待っているのか、不安だった。でも、会いたい気持ちの方が強かった。
ノックをして、ドアを開ける。
ベッドの上の鹿島は、昨日よりもさらに痩せたように見えた。顔色は青白く、腕には点滴の針が刺さっていた。でも、空を見ると、彼女は小さく微笑んだ。
「桜井さん……来てくれたんだ」
「先輩……」
空はベッドの横に立ち、鹿島の手を握った。冷たい手。でも、確かな命の温もりがあった。
「具合はどうですか?」
「うん……まあね」
鹿島は弱々しく笑った。その姿に、空の目に涙が溢れた。
「泣かないで。私、まだここにいるよ」
鹿島の優しい言葉に、空はますます涙が止まらなくなった。
「先輩、どうして言ってくれなかったの?病気のこと……余命のこと……」
鹿島は少し視線を逸らした。
「言えなかった……あなたに心配をかけたくなかったから」
「でも……」
「それに、私自身も認めたくなかったの。この病気のことも、残された時間のことも」
鹿島の正直な言葉に、空は黙って頷いた。
「先輩の絵……すごく好きです」
突然の告白に、鹿島は少し驚いた表情をした。
「ありがとう」
「感情がこもってて、見る人の心を動かす……私もそんな絵が描きたい」
「桜井さんなら、できるよ。もう始まってる」
鹿島は弱い声で言った。
「最近の桜井さんの絵、少しずつ変わってきてる。自分の気持ちを表現するようになってきてる」
その言葉に、空は胸が熱くなった。
「先輩のおかげです」
「違うよ。桜井さん自身が変わろうとしてるから」
二人は静かに見つめ合った。言葉がなくても、心が通じ合うような感覚。
「桜井さん、灯台で描いた絵、持ってきて」
「え?」
「次に来る時、持ってきて。私に見せてほしい」
その言葉には、「次もある」という希望が込められていた。空は涙をぬぐって頷いた。
「はい、必ず」
「約束だよ」
鹿島は微笑んだ。その笑顔は弱々しかったが、確かな光を放っていた。
面会時間が終わり、空は病室を後にした。廊下で振り返ると、窓から差し込む夕日が鹿島のベッドを優しく照らしていた。うつろいやすい光。でも、その瞬間の美しさは永遠に心に残るもの。
家に帰る途中、空は灯台の前で立ち止まった。夕日に染まった灯台が、静かに佇んでいる。鹿島との約束を思い出し、空は灯台に向かって歩き始めた。
扉を開け、らせん階段を上る。心臓の鼓動が早くなる。ここで鹿島と出会ったあの日から、どれだけのことが変わったのだろう。
展望室に着くと、そこには誰もいなかった。当たり前のことだけど、何となく寂しさを感じた。窓際に立ち、夕日に染まる海を見つめる。
スケッチブックを取り出し、描き始めた。今日の出来事、全ての感情を込めて。画面には徐々に形が現れていく。壊れた鳥籠。その中から飛び立とうとする鳥。でも、その翼は傷ついている。飛べるのか、飛べないのか。
描きながら、空の頬を涙が伝った。全てを描く。悲しみも、痛みも、そして希望も。
描き終えて、空は自分の絵を見つめた。これが今の自分の気持ち。言葉では表現できないものを、絵に込めた。
(これを、鹿島先輩に見せよう)
そう思いながら、空は灯台を後にした。
家に着くと、星はまだ部屋に閉じこもったままだった。父からは仕事で遅くなるという連絡があった。
空は星の部屋のドアの前で立ち止まった。ノックするか迷ったが、やはり声をかけた。
「星……晩ごはん、何か食べる?」
返事はなかった。
「昨日は……ごめん」
それでも返事はない。空はため息をついた。今は星の気持ちを尊重するしかないのかもしれない。
キッチンに立ち、夕食の準備を始める。包丁で野菜を切りながら、空は考えていた。これからどうすればいいのか。崩れた日常をどう立て直せばいいのか。
答えは見つからなかった。でも、一つだけ分かったことがある。これまでのように、全てを抱え込んで「大丈夫」と言い続けることはできない。自分の気持ちに正直に向き合わなければ、何も始まらない。
鹿島の言葉を思い出す。「自分の感情をすべて描く」。絵だけではなく、人生そのものもそうなのかもしれない。自分の感情を認め、表現すること。それが、鳥籠から飛び立つための第一歩なのだろう。
キッチンの窓から、夜空を見上げた。星が瞬き始めていた。小さな光。でも、確かに存在する光。
(明日は、どうなるんだろう)
分からない。でも、今日一日を生き抜いたように、明日もまた一歩ずつ進んでいくしかない。空はそう思いながら、料理を続けた。
起き上がり、カーテンを開ける。灰色の空が広がり、遠くの海も鉛色に染まっていた。何となく不安な予感がする朝。空は深呼吸して、その感覚を振り払おうとした。
星を起こし、朝食を作り、いつも通りの朝を過ごす。ただ、星の様子がいつもと少し違っていた。黙って食事をし、空の問いかけにも短い返事しか返さない。
「何かあった?」
食器を片付けながら、空が尋ねた。星は少し顔を上げ、それからまた俯いた。
「別に」
そっけない返事。十二歳になった星は、最近少しずつ変わり始めていた。反抗的な言動や、以前よりも無口になることが増えてきた。思春期の始まりだと分かってはいるが、空にとっては戸惑いの対象だった。
「学校、傘持った?」
「持ってる」
短い会話だけで、星は家を出て行った。挨拶もなく閉まるドア。空は小さくため息をついた。
(私が何か、気に触ることをしたのかな)
考えながらも、答えは見つからなかった。空も準備を済ませ、雨の中を学校へと向かった。
教室に着くと、すでに葉山の姿があった。窓際の席で、雨粒の流れる窓ガラスを見つめている。空が近づくと、彼は少し緊張した表情で顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう……」
二人の間に、微妙な空気が流れた。昨日の告白のことを、お互いが意識している。
「昨日は……ありがとう、聞いてくれて」
葉山の言葉に、空は小さく頷いた。
「大丈夫だった? 昨日、家に」
小さな声で尋ねると、葉山は少し視線を逸らした。
「まあ……父さん、酔ってなかったから」
彼の言葉には安堵があったが、同時に明日への不安も潜んでいた。慢性的な恐怖の中で生きているのだと、空は痛感した。
「何かあったら……」
言いかけた時、教室のドアが開いた。美咲が立っていた。彼女は二人を見ると、少し表情を硬くした。それから、決意したように近づいてきた。
「おはよう、空。葉山くん」
「おはよう」
空が答えると、美咲は葉山の方を見た。その目には決意の色があった。
「葉山くん、放課後、ちょっといい?」
その言葉に、空の胸がギュッと締め付けられた。予定通り、美咲は葉山に告白するつもりだ。葉山は少し困ったような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「いいよ」
「じゃあ、放課後、中庭で待ってる」
美咲はそう言うと、自分のクラスへと戻っていった。その背中を見送りながら、空は複雑な思いに包まれた。美咲が好きな人に告白すること。それを応援したい気持ち。でも同時に、葉山の抱える問題を知る身として、今はそんな状況ではないことも分かっている。
「桜井さん……」
葉山の声に、空は顔を上げた。彼の表情には迷いがあった。
「私……」
言いかけた言葉は、チャイムによって遮られた。授業が始まる。葉山は何か言いたげな表情で空を見つめたが、それ以上は何も言わなかった。
その日の授業中、空は何度も美咲のことを考えた。放課後の告白。葉山の返事。そして、その後の三人の関係。全てが不安で、胸が重かった。
放課後、空は美術室へと向かった。今日は鹿島のお見舞いに行くつもりだった。でも、その前に少し時間があったので、美術室で絵を描くことにした。
美術室に入ると、森田先生が一人で作業をしていた。
「あら、桜井さん」
「こんにちは」
「鹿島さんのお見舞いに行くんでしょ?」
空は驚いて顔を上げた。
「先生も知ってたんですか?」
「ええ、病院から連絡があったの」
森田先生の表情が暗くなった。
「実は……今朝、病院から連絡があったわ。鹿島さん、容態が急変して、集中治療室に入ったそうよ」
その言葉に、空の心臓が止まりそうになった。
「え……」
「今は安定したって聞いたけど、お見舞いはしばらく無理かもしれないわ」
空は言葉を失った。昨日まで話していた鹿島が、急に遠くなったような感覚。
「病名は……先生、知ってますか?」
森田先生は少し迷った表情を見せた後、小さく頷いた。
「希少な血液の疾患よ。彼女は前から通院していて……」
先生は言葉を切った。そこには言いにくいことがあるようだった。
「先生……鹿島先輩、良くなりますよね?」
切実な問いに、森田先生は答えられないような表情をした。その沈黙が、全てを物語っていた。
「桜井さん、座りなさい」
森田先生は静かな声で言った。空は言われるまま椅子に座った。
「鹿島さんは去年、余命宣告を受けていたの」
その言葉に、空の世界が一瞬で崩れ落ちたように感じた。
「そんな……」
「一年から一年半と言われていたわ。でも彼女は、最後まで絵を描きたいと言って、学校に通い続けていたの」
涙が溢れ出した。止めようとしても、止まらない。
「先輩……知ってて、何も言わなかったんですね」
「きっと、桜井さんを心配させたくなかったのよ」
森田先生の言葉に、空は思わず苦笑した。「心配させたくない」。自分もよく使う言葉。鹿島もそうだった。お互いに心配させまいとして、本当の気持ちを隠し合っていた。
「彼女、桜井さんのことをとても信頼していたわ。よく話してたの、『桜井さんには才能がある、でもまだ自分の殻に閉じこもっている』って」
その言葉に、空の胸が熱くなった。
「私……先輩に会いたいです」
「落ち着いたら、面会できるかもしれないわ。それまでは……彼女の分まで、絵を描き続けて」
森田先生の優しい言葉に、空は黙って頷いた。
美術室を出た空は、ふと足を止めた。今頃、美咲は葉山に告白しているだろうか。何となく、中庭の方へ足が向いた。
校舎の窓から中庭を覗くと、そこには美咲と葉山の姿があった。雨は上がり、湿った空気の中で二人は向かい合っていた。美咲の表情は見えなかったが、背中が震えているようだった。葉山は申し訳なさそうな表情で、何かを言っている。
(断られたんだ……)
空はそっと窓から離れた。見てはいけないものを見てしまったような気がした。美咲の気持ちを考えると、胸が痛んだ。
帰り支度をして校舎を出ると、校門で葉山が立っていた。まるで空を待っていたかのように。
「桜井さん」
葉山が近づいてきた。その表情には疲れが見えた。
「美咲……告白したの?」
空の質問に、葉山は小さく頷いた。
「断ったの?」
再び頷く葉山。
「優しい人だけど……俺には今、そんな気持ちになれなくて」
その言葉に、空は複雑な思いを抱いた。葉山の置かれた状況を考えれば当然のことかもしれない。でも、美咲のことを思うと心が痛む。
「佐伯さん、泣いてた……でも、『友達でいよう』って言ってくれた」
葉山の声には、申し訳なさと安堵が混じっていた。
「美咲は優しいから……」
空はそれ以上言葉が続かなかった。友達の傷ついた気持ちを思うと、胸が締め付けられる。
「桜井さん、俺のこと嫌いになった?」
突然の質問に、空は驚いて顔を上げた。
「そんなことないよ」
「でも、佐伯さんは桜井さんの大切な友達でしょ?」
「うん……だからこそ、美咲の気持ちを大事にしたい」
空の言葉に、葉山は少し寂しそうな表情を見せた。
「そうだよね……」
彼は空の顔をじっと見つめた後、小さく微笑んだ。
「俺、もうちょっと学校に残るから。先に帰って」
そう言って、葉山は学校の方へ戻っていった。その背中を見送りながら、空は何とも言えない気持ちに包まれた。
家に帰ると、星はまだ戻っていなかった。友達の家に行くと言っていたことを思い出す。父も仕事で遅いと連絡があった。
珍しく一人の時間。でも、心は落ち着かなかった。鹿島の病状、美咲の告白、葉山との会話。全てが混ざり合って、頭の中が混乱していた。
キッチンで夕食の準備を始めながら、空は考え事をしていた。今の自分に何ができるだろう。鹿島のために、美咲のために、そして葉山のために。
玄関のドアが開く音がした。星が帰ってきたようだ。
「ただいま」
小さな声の挨拶。星はリビングに入ってきた。顔色が悪く、目が赤い。泣いていたような……。
「おかえり。何かあったの?」
星は黙って首を振った。その仕草には、何か言いたいけど言えないような様子があった。
「星?」
空が近づくと、星は後ずさりした。その反応に、空は傷ついた。
「何でもない」
「でも、泣いてたみたいだけど……」
「関係ない!」
突然の強い口調に、空は驚いた。星がこんな風に怒鳴ることは、ほとんどなかった。
「星……何かあったら、話してくれてもいいんだよ?」
優しく声をかけると、星の表情が急に歪んだ。
「お姉ちゃんは何も分かってない!」
「どういうこと……?」
「いつも『大丈夫』って言って、私のこと分かった気になってる。でも、本当は私の気持ちなんて何も分かってないくせに!」
星の目から涙が溢れ出した。怒りと悲しみが混じった表情。
「私だって……お母さんに会いたいんだよ。私だって寂しいんだよ」
その言葉に、空は胸が突き刺されるような痛みを感じた。ずっと星を守ろうとしてきた。母親代わりになろうとしてきた。でも、それは星の本当の気持ちに蓋をすることになっていたのかもしれない。
「星……」
「私、小さい時……思ってた」
星は泣きながら言った。
「お母さんが死んだのは、お姉ちゃんのせいだって」
その言葉に、空の世界が一瞬で凍りついた。
「え……」
「だって……あの日、お姉ちゃんが学校に忘れ物しなければ、お母さんは迎えに行かなくて済んだのに。あの事故に遭わなくて済んだのに」
子供ながらに抱いていた思い。それを星は今、初めて口にした。
空は言葉を失った。確かに、母が交通事故に遭ったのは、空の忘れ物を学校に取りに行く途中だった。でも、それを星がずっと知っていて、そんな風に思っていたなんて……。
「星、そんなこと……」
「ごめんなさい!」
星は大きな声で謝ると、自分の部屋へと駆け上がっていった。ドアが激しく閉まる音。
空はその場に立ち尽くした。足から力が抜け、床に座り込む。胸が痛くて、息ができないような感覚。
(お母さんの死は……私のせい?)
その思いが、心の奥底から湧き上がってきた。自分でも気づかないうちに抑え込んでいた罪悪感。星の言葉によって、それが一気に解き放たれた。
震える手で顔を覆う。涙が指の間から滴り落ちる。
(星……そんな風に思っていたんだ)
小さな妹の心の中に、そんな大きな傷があったなんて。空は何も気づいていなかった。いや、気づかないようにしていたのかもしれない。
しばらく床に座ったまま、空は泣き続けた。全てが崩れていくような感覚。鹿島の病気、美咲との距離、そして今、星との関係。大切なものが、次々と砂のように指の間から零れ落ちていく。
やがて、空は立ち上がった。星の部屋に向かいたい気持ちと、このまま一人になりたい気持ちの間で揺れた。結局、キッチンに戻り、機械的に夕食の準備を続けた。
料理をしながら、涙は止まらなかった。包丁で野菜を切る手が震える。それでも、日常を続けなければという強迫観念のような思いが、空を動かし続けていた。
その夜、星は部屋から出てこなかった。父が帰ってきた時、空は平静を装って夕食を出した。
「星は?」
「体調が悪いみたいで、部屋で休んでる」
嘘をつく自分が嫌だった。でも、今は父に心配をかけたくなかった。
「そう……様子を見てくるよ」
父が星の部屋に行っている間、空は一人でテーブルに座っていた。頭の中は空っぽのようで、でも同時に様々な思いが渦巻いていた。
父が戻ってきた。
「寝てたよ。明日、様子を見て、熱があるようなら病院に連れていこう」
空は黙って頷いた。父には、二人の間に何があったのか言えなかった。それは、空と星だけの問題のような気がした。
食事を終え、空は自分の部屋に戻った。窓際に立ち、夜空を見上げる。星が瞬いている。でも今夜は、その美しさを感じることができなかった。
心の中は嵐のように荒れていた。鹿島の余命宣告、美咲の傷ついた気持ち、そして星の言葉。全てが一度に押し寄せてきて、空は息苦しさを感じた。
(私は……何をすればいいの)
答えの見つからない問いを、空は夜空に投げかけた。
翌朝、空が目を覚ますと、すでに父は出勤した後だった。昨夜は疲れて、いつもより遅くまで眠っていたようだ。
星の部屋のドアをノックしたが、返事はなかった。そっと開けると、星はまだ寝ていた。または、寝たふりをしているのかもしれない。
「星……」
小さく呼びかけたが、反応はなかった。
「朝ごはん、置いておくね」
それだけ言って、空は部屋を出た。今は無理に話そうとしても、星の心は開かないだろう。時間が必要なのかもしれない。
朝食を食べながら、空は考えていた。今日、学校でどう振る舞えばいいのか。美咲にどう接すればいいのか。葉山との関係はどうなるのか。そして一番気がかりな鹿島のこと。
重い足取りで家を出た空は、いつもの道を歩いていた。頭の中は混乱していたが、体は機械的に動いていた。
学校への坂道を上っていると、前方に見慣れた姿が見えた。美咲だった。彼女はゆっくりと歩いていて、その背中は何となく寂しげに見えた。
「美咲」
空が声をかけると、美咲は振り返った。彼女の顔には無理な笑顔が浮かんでいた。
「おはよう、空」
「おはよう……」
二人並んで歩き始めたが、何を話していいのか分からなかった。昨日のことを知っているのに知らないフリをするべきか、それとも率直に話すべきか。
「ねえ……」
二人が同時に口を開いて、互いに顔を見合わせた。
「先に言って」
美咲が言うので、空は深呼吸した。
「昨日のこと……ごめん」
「え?何で空が謝るの?」
「葉山くんのこと……」
「あ……知ってたんだ」
美咲の表情が少し曇った。
「見かけちゃって……ごめん」
「いいよ。別に隠すことじゃないし」
美咲は強がって笑った。でも、その目には悲しみが残っていた。
「大丈夫?」
「うん……まあ、振られるって分かってたんだけどね」
「そんなこと……」
「分かってたよ。だって葉山くん、空のこと見てるもの」
その言葉に、空は足を止めた。
「何それ……違うよ」
「違わないよ。葉山くんの目、空を見る時だけ違うの。私じゃなくて、空に惹かれてるんだよ」
美咲の声には苦さがあった。
「そんなことない。私たちはただ……」
言いかけて、空は言葉に詰まった。ただの何だろう?クラスメイト?友達?言葉が見つからなかった。
「いいの、空を責めてるわけじゃないから」
美咲は再び歩き始めた。
「ただ……しばらく二人のことを見るのは、ちょっと辛いかも」
「美咲……」
「友達だよ、これからも。でも、少し時間が欲しいな」
美咲の正直な言葉に、空は何も言えなかった。彼女の優しさと強さに、ただ感謝することしかできなかった。
「うん……」
二人は沈黙の中、学校への道を歩き続けた。美咲との距離。それは物理的なものではなく、心の距離。それが少しずつ広がっていくような感覚があった。
教室に入ると、葉山はまだ来ていなかった。空は自分の席に着き、窓の外を見つめた。雨上がりの空は晴れ渡り、青く広がっていた。でも、空の心は晴れることなく、重い雲が覆ったままだった。
葉山がやってきたのは、チャイムが鳴る直前だった。彼は空に小さく会釈しただけで、自分の席に着いた。いつもの明るい挨拶はなかった。彼もまた、美咲との一件で気まずさを感じているのだろう。
一日の授業が始まった。空は教科書を開き、ノートを取る。でも、頭の中には授業内容が入ってこなかった。鹿島のこと、美咲のこと、星のこと。そして母の死と自分の関係。全てが混ざり合って、心が落ち着かなかった。
昼休み、空は屋上に一人で行った。誰とも話したくない気分だった。弁当を開けたが、食欲はなかった。空っぽの青空を見上げながら、空は考え事をしていた。
(私は、どうすればいいんだろう)
全てが一度に崩れていくような感覚。今まで必死に保ってきた日常が、砂の城のように崩れ落ちていく。
屋上のドアが開く音がした。振り返ると、葉山が立っていた。
「ここにいると思った」
彼はそう言って、空の隣に座った。二人は黙って空を見上げた。
「佐伯さん……元気なかったね」
葉山の言葉に、空は小さく頷いた。
「俺のせいだよね」
「そんなことない。葉山くんは正直に答えただけだよ」
「でも……」
葉山は何か言いたげな表情をしたが、言葉にはしなかった。代わりに、彼は別の話題を持ち出した。
「鹿島先輩、容態が悪化したって聞いた」
「うん……」
空の声は小さかった。
「見舞いに行けるようになったら、一緒に行こうか」
その優しい申し出に、空は少し驚いた。
「葉山くん……鹿島先輩のこと、知ってるの?」
「いや、直接話したことはないけど……桜井さんが大切にしてる人だってことは分かるから」
その言葉に、空の胸が熱くなった。葉山は空の気持ちを理解しようとしている。でも同時に、美咲の言葉も思い出した。「葉山くん、空のこと見てるもの」
「ねえ、葉山くん」
「なに?」
「美咲のこと……どう思ってるの?」
突然の質問に、葉山は少し困った表情をした。
「佐伯さんは、優しくて明るくて、素直な人だと思う。でも……」
「でも?」
「好きになれなかった。理由は分からないけど、そうなんだ」
その正直な言葉に、空は複雑な思いを抱いた。
「じゃあ……私のことは?」
さらに踏み込んだ質問。自分でも驚くような言葉だった。葉山も明らかに驚いた様子で、空を見つめた。
「桜井さんは……」
言いかけた時、チャイムが鳴った。昼休みの終わりを告げる音。
葉山は言葉を切り、立ち上がった。
「行こうか、授業始まるよ」
その言葉で話題は終わった。答えは得られなかったが、もしかしたらそれは良かったのかもしれない。今の空には、新たな感情を受け止める余裕がなかった。
放課後、空は病院に向かった。鹿島の容態が少し安定したと連絡があり、短時間なら面会できるという。
病室のドアの前で、空は深呼吸した。どんな姿の鹿島が待っているのか、不安だった。でも、会いたい気持ちの方が強かった。
ノックをして、ドアを開ける。
ベッドの上の鹿島は、昨日よりもさらに痩せたように見えた。顔色は青白く、腕には点滴の針が刺さっていた。でも、空を見ると、彼女は小さく微笑んだ。
「桜井さん……来てくれたんだ」
「先輩……」
空はベッドの横に立ち、鹿島の手を握った。冷たい手。でも、確かな命の温もりがあった。
「具合はどうですか?」
「うん……まあね」
鹿島は弱々しく笑った。その姿に、空の目に涙が溢れた。
「泣かないで。私、まだここにいるよ」
鹿島の優しい言葉に、空はますます涙が止まらなくなった。
「先輩、どうして言ってくれなかったの?病気のこと……余命のこと……」
鹿島は少し視線を逸らした。
「言えなかった……あなたに心配をかけたくなかったから」
「でも……」
「それに、私自身も認めたくなかったの。この病気のことも、残された時間のことも」
鹿島の正直な言葉に、空は黙って頷いた。
「先輩の絵……すごく好きです」
突然の告白に、鹿島は少し驚いた表情をした。
「ありがとう」
「感情がこもってて、見る人の心を動かす……私もそんな絵が描きたい」
「桜井さんなら、できるよ。もう始まってる」
鹿島は弱い声で言った。
「最近の桜井さんの絵、少しずつ変わってきてる。自分の気持ちを表現するようになってきてる」
その言葉に、空は胸が熱くなった。
「先輩のおかげです」
「違うよ。桜井さん自身が変わろうとしてるから」
二人は静かに見つめ合った。言葉がなくても、心が通じ合うような感覚。
「桜井さん、灯台で描いた絵、持ってきて」
「え?」
「次に来る時、持ってきて。私に見せてほしい」
その言葉には、「次もある」という希望が込められていた。空は涙をぬぐって頷いた。
「はい、必ず」
「約束だよ」
鹿島は微笑んだ。その笑顔は弱々しかったが、確かな光を放っていた。
面会時間が終わり、空は病室を後にした。廊下で振り返ると、窓から差し込む夕日が鹿島のベッドを優しく照らしていた。うつろいやすい光。でも、その瞬間の美しさは永遠に心に残るもの。
家に帰る途中、空は灯台の前で立ち止まった。夕日に染まった灯台が、静かに佇んでいる。鹿島との約束を思い出し、空は灯台に向かって歩き始めた。
扉を開け、らせん階段を上る。心臓の鼓動が早くなる。ここで鹿島と出会ったあの日から、どれだけのことが変わったのだろう。
展望室に着くと、そこには誰もいなかった。当たり前のことだけど、何となく寂しさを感じた。窓際に立ち、夕日に染まる海を見つめる。
スケッチブックを取り出し、描き始めた。今日の出来事、全ての感情を込めて。画面には徐々に形が現れていく。壊れた鳥籠。その中から飛び立とうとする鳥。でも、その翼は傷ついている。飛べるのか、飛べないのか。
描きながら、空の頬を涙が伝った。全てを描く。悲しみも、痛みも、そして希望も。
描き終えて、空は自分の絵を見つめた。これが今の自分の気持ち。言葉では表現できないものを、絵に込めた。
(これを、鹿島先輩に見せよう)
そう思いながら、空は灯台を後にした。
家に着くと、星はまだ部屋に閉じこもったままだった。父からは仕事で遅くなるという連絡があった。
空は星の部屋のドアの前で立ち止まった。ノックするか迷ったが、やはり声をかけた。
「星……晩ごはん、何か食べる?」
返事はなかった。
「昨日は……ごめん」
それでも返事はない。空はため息をついた。今は星の気持ちを尊重するしかないのかもしれない。
キッチンに立ち、夕食の準備を始める。包丁で野菜を切りながら、空は考えていた。これからどうすればいいのか。崩れた日常をどう立て直せばいいのか。
答えは見つからなかった。でも、一つだけ分かったことがある。これまでのように、全てを抱え込んで「大丈夫」と言い続けることはできない。自分の気持ちに正直に向き合わなければ、何も始まらない。
鹿島の言葉を思い出す。「自分の感情をすべて描く」。絵だけではなく、人生そのものもそうなのかもしれない。自分の感情を認め、表現すること。それが、鳥籠から飛び立つための第一歩なのだろう。
キッチンの窓から、夜空を見上げた。星が瞬き始めていた。小さな光。でも、確かに存在する光。
(明日は、どうなるんだろう)
分からない。でも、今日一日を生き抜いたように、明日もまた一歩ずつ進んでいくしかない。空はそう思いながら、料理を続けた。



