放課後の校舎は、夕日に染まり始めていた。生徒たちは部活や帰宅準備で忙しく、廊下を行き交う足音が響いている。空は美術部の活動を終え、約束通り教室に戻った。
 葉山は既にそこにいた。窓際に立ち、オレンジ色に染まる空を見つめている。その横顔が、夕日に照らされて切なく見えた。
「葉山くん」
 空の声に、葉山は振り返った。彼の表情には緊張が混じっていた。
「桜井さん、来てくれたんだ」
「話があるって……」
 空が言うと、葉山は少し視線を落とした。
「うん。でも、ここじゃなくて……」
 彼は窓の外を指差した。校舎の裏手にある小さな丘。誰もあまり行かない場所だった。
「あそこで話せないかな」
 空は黙って頷いた。何か重要な話があるのだろう。そんな予感がしていた。

 丘の上に着くと、二人は並んで腰掛けた。草の香りが風に乗って運ばれてくる。遠くには海が見え、水平線が夕日に赤く染まっていた。
 しばらくの沈黙の後、葉山が口を開いた。
「実は、俺……家に帰りたくないんだ」
 突然の告白に、空は驚いて顔を上げた。
「どうして……?」
 葉山は深く息を吐き出し、膝を抱えるように体を丸めた。
「父親が……」
 言葉が途切れる。葉山の表情が暗くなり、彼は自分の腕をそっと撫でた。長袖の制服に隠れた部分。空が見たあざのある場所。
「お父さんが、暴力をふるうの?」
 空の静かな問いかけに、葉山はわずかに目を見開いた。驚いたように空を見つめる。
「……気づいてたの?」
「あざを見たから。それに、お母さんの写真のこと…」
 葉山は苦笑した。どこか諦めたような、でも少し安堵したような表情。
「鋭いね、桜井さんは」
 彼は空を見つめ、決意したように話し始めた。
「俺の父親は、母さんが出て行ってから変わったんだ。酒に溺れて……そして、俺に当たるようになった」
 空の胸が締め付けられるような感覚があった。葉山の母親は亡くなったのではなく、「出て行った」のだ。
「東京にいた時も酷かった。だから、転校してきたんだ。父親の仕事の都合もあったけど、実は……逃げるようにして」
 葉山の声は淡々としていたが、その瞳には深い悲しみが宿っていた。
「でも、ここでも同じことが始まった。酒を飲むと、母さんに似てるって俺を殴る。お前のせいで母さんは出て行ったんだって」
 葉山は自分の手をじっと見つめた。震える手。
「本当は……俺のせいなのかもしれない。母さんはいつも父さんと喧嘩してて。俺のことで」
「違う」
 空は思わず声を上げた。葉山は驚いて顔を上げた。
「葉山くんのせいじゃない。絶対に」
 自分でも驚くような強い口調だった。でも、言わずにはいられなかった。葉山の自責の念が、あまりにも空の心に響いた。
「……ありがとう」
 葉山は小さく微笑んだ。どこか儚い笑顔。
「なんで、私に話してくれたの?」
 空の問いに、葉山は少し考え込んだように黙った。
「分からない……でも、桜井さんなら聞いてくれる気がした。桜井さんも何か抱えてるでしょ?だから、分かってくれるんじゃないかって」
 その言葉に、空の胸が熱くなった。葉山は空の内側を見ていたのだ。誰にも見せない部分を。
「それで……これからどうするの?」
「分からない。でも、もうすぐ高校卒業したら、独り立ちするつもりだった。バイトして、お金貯めて」
「でも、まだ一年以上ある……」
「大丈夫。俺、強いから」
 葉山は明るく笑ったが、その笑顔は心から来ているものではなかった。空にはそれが分かった。「大丈夫」という言葉の裏側にある、本当の気持ち。自分もよく使う言葉だから。
「……誰かに相談した方がいいんじゃないかな。先生とか、カウンセラーとか」
「無理だよ。父親は町じゃ結構有名な人だし、俺が言い出したら面倒なことになる。それに……」
 葉山は言葉を切った。その表情には複雑な感情が混ざっていた。
「それに、父親のことは嫌いじゃないんだ。酒を飲まない時は、普通の優しい父親だから」
 その矛盾に満ちた愛情に、空は言葉を失った。家族とは、そういうものなのかもしれない。憎むことも、見捨てることもできない存在。
「……心配しないで。話せただけで、少し楽になったよ」
 葉山は立ち上がり、夕日を見つめた。その姿は逆光で、顔の表情が見えなかった。
「桜井さんには、もっと別のことを話そうと思ってたんだけど……なんか違う方向に行っちゃったね」
「別のこと?」
「うん、でもそれはまた今度」
 葉山は振り返り、微笑んだ。今度は、少し本物の笑顔に近かった。
「秘密にしておいて欲しい。特に、佐伯さんには」
 美咲のことだ。空は少し胸が痛んだ。美咲は葉山に好意を持っている。そして、葉山はそれを知っているのかもしれない。
「分かった」
 空は静かに答えた。葉山の秘密を守ること。それは友情と葛藤する約束だったが、空には他に選択肢がなかった。
 二人は静かに丘を降り、校門へと向かった。夕暮れの学校は、オレンジ色の光に包まれていた。

 翌日の昼休み、空は美咲と中庭のベンチで弁当を食べていた。いつもの風景。でも、空の心の中は昨日の葉山の告白でいっぱいだった。
「ねえ、空」
 美咲の声で、空は我に返った。
「なに?」
「葉山くんと、昨日何か話した?」
 鋭い質問に、空は一瞬言葉に詰まった。美咲は空の表情の変化を見逃さなかった。
「やっぱり……」
 美咲の声には、少し寂しさが混じっていた。
「違うの、ただの……」
「いいよ、詳しく聞かないから。でも、空が何か知ってるなら、それは大事なことなんだと思う」
 美咲の洞察力に、空は驚いた。彼女はいつも人の気持ちに敏感だった。
「美咲……」
「私、葉山くんのこと好きだって言ったけど、それより大事なことがあるなら、私は応援するよ」
 美咲の優しさに、空は胸が詰まる思いがした。美咲は自分よりずっと心が広い。
「ありがとう。でも、そういうわけじゃないの」
「そう……」
 美咲は少し安心したように微笑んだ。空は彼女に嘘をついているような気がして、罪悪感に駆られた。でも、葉山との約束がある。
「私、今度葉山くんに告白するつもりなんだ」
 唐突な美咲の言葉に、空は息を呑んだ。
「明日」
「明日?」
「うん。これ以上待てない気がして。どうなるか分からないけど、言わないと始まらないよね」
 美咲の決意に、空は何も言えなかった。葉山の秘密を知っている今、美咲の気持ちがこれ以上深まる前に止めるべきだろうか。でも、それは約束を破ることになる。
「応援してるよ」
 結局、空はそれしか言えなかった。心の中では、葉山が美咲にどう応えるのか、不安と期待が入り混じっていた。

 放課後、空は美術室へと向かった。今日は何を描こうか。最近は筆が進むようになったとはいえ、まだ自分の本当に描きたいものは見えていなかった。
 美術室のドアを開けると、静かな空間が広がっていた。まだ誰も来ていないようだった。
空が自分の場所に向かおうとした時、奥から物音がした。振り返ると、鹿島が座り込んでいた。
「先輩……?」
 空は驚いて駆け寄った。鹿島は顔色が悪く、冷や汗をかいていた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……桜井さん」
 鹿島の声は弱々しかった。彼女は無理に微笑もうとしたが、その顔には痛みの色が浮かんでいた。
「少し、気分が悪くて……」
「保健室に行きましょう」
 空は鹿島の腕を取り、彼女を支え上げた。鹿島は思ったより軽かった。痩せているとは知っていたが、この軽さは異常だった。
 保健室へと向かう途中、鹿島がつぶやいた。
「ごめんね……迷惑かけて」
「そんなことないです」
 空は必死に鹿島を支えながら、彼女の体の熱さを感じていた。熱があるようだった。
保健室に着くと、養護教諭の佐々木先生が驚いて立ち上がった。
「鹿島さん、どうしたの?」
「倒れていました。熱があるみたいです」
 空が説明すると、佐々木先生は素早く鹿島をベッドに寝かせ、体温を測った。
「三十九度もある。すぐに病院に連れて行かないと」
 佐々木先生の声には緊張感があった。彼女は電話を取り、救急車を呼んだ。
「鹿島さん、前から具合が悪かったの?」
 空は鹿島のベッド脇に座り、彼女の手を握った。鹿島の手は冷たく、震えていた。
「ずっと……」
鹿島の小さな声。空は胸が痛んだ。
「なんで言ってくれなかったんですか」
「心配……かけたくなかった」
 その言葉に、空は自分自身を重ねた。いつも「大丈夫」と言って、周りに心配をかけないようにする自分。鹿島も同じだった。
「先輩……」
 言葉が見つからなかった。救急車のサイレンが近づいてくる音が聞こえた。

 空は病院の廊下のベンチに座っていた。授業や部活を抜け出して鹿島に付き添ってきたのだ。鹿島の両親は仕事で遠方にいて、急いで戻る途中だという。
 診察室のドアが開き、医師が出てきた。空は立ち上がった。
「お友達?」
「はい」
「鹿島さんは今、点滴を受けています。体調は安定しましたが、しばらく入院が必要です」
 医師の言葉に、空は安堵と不安が入り混じった気持ちになった。
「面会は短時間であれば大丈夫です。彼女、あなたに会いたがっていますよ」
 医師に導かれ、空は病室に入った。白い壁に囲まれたベッドで、鹿島は静かに横たわっていた。顔色は少し良くなっているようだった。
「桜井さん……来てくれたんだ」
 鹿島は小さく微笑んだ。空はベッドの横に立ち、言葉を探した。
「先輩、体調が悪かったなら、言ってくれれば良かったのに」
 鹿島は少し視線を逸らした。
「言えなかったの……自分でも認めたくなかった」
「認めたくなかった?」
 鹿島は深呼吸し、空を見つめた。
「私、前から体の調子が悪かったの。でも、絵を描くことに集中していたかった。病気のことを考えたくなかった」
 その言葉に、空は何か重大なことが隠されているのを感じた。
「先輩……何か、重い病気なんですか?」
 鹿島はしばらく黙っていた。窓の外を見つめ、やがて小さく頷いた。
「難病なの……あまり知られていないけど、進行性の」
 その告白に、空は言葉を失った。鹿島の儚い雰囲気、時折見せる疲れた表情、全てが繋がった。
「治るんですよね?」
 希望を込めた問いに、鹿島は答えなかった。それが答えだった。空の目に涙が溢れた。
「泣かないで」
 鹿島は優しく言った。
「私はね、桜井さんと出会えて本当に良かったと思ってる。あなたの中に、才能を見たの。まだ眠っている、大きな可能性を」
「先輩……」
「だから、灯台で会ったのも偶然じゃなかったの。私、あなたを見つけるために行ったんだよ」
 驚きの告白に、空は目を見開いた。
「私の時間は限られているかもしれない。でも、あなたはこれからよ。自分の感情を、絵に込められるようになってきた。それを大切にして」
 鹿島の言葉は、深い愛情と優しさに満ちていた。空は涙を拭いながら頷いた。
「必ず良くなりますよ。私も……もっと絵を描きます」
 空は精一杯の言葉を紡いだ。鹿島は満足げに微笑んだ。
「灯台、また行くといいよ。私の代わりに……あの場所を大切にしてほしい」
 まるで別れのような言葉に、空は首を振った。
「先輩も必ず戻ってきてください。一緒に描きましょう」
 鹿島は答える代わりに、空の手を握った。温かな手。その温もりが、空の心に染み渡った。

 夕暮れ時、空は病院を後にした。頭の中は様々な思いで混乱していた。葉山の家庭の問題、鹿島の病気、美咲の告白の決意。全てが一度に押し寄せてきて、心が重かった。
 家に帰る途中、空は灯台の前で立ち止まった。夕日に照らされた灯台は、赤く染まっていた。鹿島の言葉が蘇る。「あの場所を大切にしてほしい」
 空は灯台に向かって歩き始めた。扉を開け、らせん階段を上る。展望室に着くと、そこからの景色が広がっていた。水平線まで続く海、夕日に染まる空、そして遠くに見える町並み。
 空はスケッチブックを取り出し、描き始めた。今日の出来事、全ての感情を絵に込めようとした。悲しみ、不安、そして希望。鹿島に教わったように、自分の感情を色と形にする。
 筆が滑るように動く。色が混ざり合い、形が生まれていく。空が描いていたのは、二つの人影だった。一人は窓から外を見ている少女、もう一人は扉の前に立ち、手を差し伸べる少年。その間には、透明な壁がある。でも、その壁には小さな亀裂が入り始めていた。
 描き終えて、空は自分の絵を見つめた。これが自分の今の気持ち。言葉では表現できない複雑な感情が、絵になっていた。
(今度、鹿島先輩に見せよう)
 そう思いながら、空は灯台を後にした。

 家に帰ると、星が心配そうに玄関で待っていた。
「お姉ちゃん、遅かったね。心配したよ」
「ごめんね、友達が具合悪くなって、病院に付き添ってたの」
 星の表情に安堵の色が広がった。
「大丈夫だった?」
「うん……」
 本当は大丈夫じゃないかもしれない。でも、今はそれを星に言うことはできなかった。
 二人で夕食の準備を始めると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
 父の声。約束通り、早く帰ってきたのだ。
「お帰りなさい」
 空が応えると、父はリビングに入ってきた。疲れた顔だったが、微笑んでいた。
「今日は早く帰れたよ。何か手伝おうか?」
「いいよ、もう準備できてるから」
 空は笑顔を見せた。家族が揃う夕食。それだけで、少し心が軽くなる気がした。
 食卓を囲み、三人で食事をする。星が学校での出来事を楽しそうに話し、父も相槌を打つ。普通の風景。でも、空にとっては特別な時間に感じられた。
「空、学校はどう?」
 父の質問に、空は一瞬言葉に詰まった。今日の出来事を話すべきか、迷った。
「友達が……病気になって」
 少しだけ、本当のことを話してみた。
「大丈夫なの?」
 父の声には心配が混じっていた。
「まだ分からない。でも、また見舞いに行くつもり」
「そうか。何か必要なことがあれば言ってね」
 父の優しさに、空は胸がいっぱいになった。もっと話したいことがあった。葉山のこと、美咲のこと、自分の気持ちのこと。でも、まだ言葉にする準備ができていなかった。
「ありがとう」
 それだけを言うことができた。小さな一歩。でも、空にとっては大きな変化だった。

 その夜、空は窓際で月を見つめていた。今日一日で、世界が変わったような感覚があった。鹿島の病気、葉山の秘密、そして自分自身の変化。
 明日、美咲は葉山に告白する。それがどうなるのか。空の心は複雑だった。美咲のことを応援したい気持ち。でも同時に、葉山の抱える問題を考えると、今は恋愛どころではないのかもしれない。
(私に何ができるだろう)
 空は自問自答していた。鹿島を支えること、葉山を助けること、美咲の友情を守ること。全てが大切で、でも難しいことばかり。
 スケッチブックを開き、灯台で描いた絵を見つめる。壁に入った亀裂。それは、自分の心の殻にも入り始めた亀裂なのかもしれない。
(明日はどうなるんだろう)
 不安と期待が入り混じる中、空はベッドに横になった。明日もまた、新しい一日が始まる。そして、何かが変わるという予感があった。