朝の教室に、葉山の姿はなかった。二日連続の欠席。空は窓際の席に着きながら、ふと隣の空席を見た。昨日までは気にならなかったのに、今は何だか教室に穴が空いているような感覚があった。
「空ちゃん、おはよう」
 美咲が教室に顔を出した。自分のクラスがあるのに、毎朝空に会いに来てくれる。幼い頃からの変わらぬ習慣だった。
「おはよう」
「葉山くん、今日も来てないんだね」
 美咲の視線も、葉山の席に向けられていた。
「うん」
「どうしたんだろう……心配」
 美咲の声には、素直な懸念が混じっていた。空は小さく頷いた。自分も心配していることを認めるのは、何だか気まずかった。
「ねえ、空。今日、お昼一緒に食べない?」
「うん、いつものところで」
「放課後も待っててね。話したいことがあるの」
 美咲はそう言って、自分のクラスへと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、空は少し胸が締め付けられる感覚を覚えた。
(話したいこと……)
 それが何か、なんとなく予想がついた。

 授業中、空は窓の外を見つめていた。五月の爽やかな風が校庭の木々を揺らし、若葉が光を反射して輝いている。国語の先生の声が遠くから聞こえてくるようだった。
(葉山くん、大丈夫かな)
 気づけば、そんな思いが頭をよぎっていた。彼の腕のあざ、母親の写真、そして時折見せる暗い表情。それらが繋がっているような気がして、でもその全容は見えない。
「桜井さん」
 先生の声に、空は我に返った。
「はい」
「今の質問に答えてください」
 空は困惑した表情を浮かべた。質問が聞こえていなかった。クラスメイトたちの視線が一斉に集まり、顔が熱くなる。
「すみません、聞いていませんでした」
 正直に謝ると、クラスから小さなざわめきが起きた。いつも真面目な桜井空が授業を聞いていないなんて珍しい、という雰囲気だった。
「集中してください。では次の人」
 先生は少し不満そうな表情で、別の生徒を指名した。空は恥ずかしさで俯いた。
(何してるんだろう、私)
 最近、自分の中に生まれた変化に戸惑いを感じていた。今までは学校でも家でも、ただ目の前のことをこなすだけだった。考えすぎることなく、感じすぎることなく。でも今は違う。色々なことを考え、色々なことを感じている。それは新鮮でもあり、少し怖くもあった。

 昼休み、中庭のベンチで美咲と二人、弁当を広げた。桜の花は散り、若葉が生い茂る季節になっていた。木漏れ日が二人の間に落ちる。
「空」
 美咲が突然、真剣な表情で空の名前を呼んだ。
「なに?」
「葉山くんのこと、どう思ってる?」
 予想していた質問だった。でも、実際に聞かれると答えに窮した。どう思っているのか。自分でもよく分からなかった。
「特に……何も」
 言葉が口から出る。でも、それは本当だろうか。本当に「何も」思っていないのだろうか。
「そう……」
 美咲は少し安堵したような、でも何か別の感情も混じった表情を見せた。
「実は、私……葉山くんのこと、好きかもしれない」
 美咲の告白は、予想していたとはいえ、空の胸に小さな痛みを生んだ。なぜだろう。自分には関係ないはずなのに。
「そうなんだ」
 精一杯平静を装って答える。
「うん。でも、葉山くんって空のことをよく見てるし、気にかけてるみたいだから……空はどう感じているのか知りたくて」
 美咲の正直な言葉に、空は少し息を呑んだ。葉山が自分のことを気にかけている?そんなことはないはずだ。単なる偶然。隣の席だから。それだけのこと。
「気のせいだよ。私たち、ただクラスメイトだし、隣の席だから話すだけ」
 そう言いながらも、心の中では別の声が聞こえていた。本当にそれだけなのか。彼との会話、共有した秘密、見せてくれた写真。それらは「ただのクラスメイト」の関係を超えているのではないか。
「そっか……」
 美咲は少し安心したように笑った。
「それなら、私、頑張ってみようかな」
「うん」
 空は微笑んで見せた。でも、その笑顔は少し無理があった。
「もし空が好きなら、私は諦めるつもりだったんだよ。だって、空はいつも一人で頑張ってるから、誰かに支えてもらえたらいいなって思って」
 美咲の言葉に、空は驚いた。美咲はそんな風に自分のことを見ていたのか。
「ありがとう」
 それしか言えなかった。本当は、もっと言いたいことがあったのに。本当は、自分の中にある混乱した感情を打ち明けたかったのに。でも、言葉にならなかった。
「でも、空が何も思ってないなら、私、葉山くんに好きって伝えようかな」
 美咲の言葉に、空は小さく頷いた。それが友達としての正しい反応だと思ったから。自分の奇妙な感情は、きっと一時的なものだろう。美咲の方が葉山に相応しい。明るく、素直で、感情表現が豊かな美咲。
「応援してる」
 その言葉が、自分の口から出るのが不思議だった。
 美咲は嬉しそうに笑った。そして、二人は普段の会話に戻った。学校の話、テレビの話、他愛もない日常の話。でも、空の心の中には小さな違和感が残っていた。

 放課後、空は美術室に向かった。今日は何を描こうか。最近は、何となく筆が進むようになっていた。まだ自分の本当に描きたいものは見つかっていないけれど、少なくとも前より筆が止まることは少なくなっていた。
 美術室に入ると、いつものように部員たちが思い思いに制作を始めていた。空は自分の定位置に向かった。美咲の姿はまだなかった。生徒会の仕事で少し遅れると言っていた。
 鹿島の姿もなかった。最近、彼女の出席は不安定だった。体調を崩しやすいのかもしれない。空はキャンバスの前に立ち、筆を手に取った。
 何を描こう。
 頭の中に浮かんだのは、葉山の顔だった。でも、それは描けない。美咲に対して、何だか申し訳ない気持ちになる。
 代わりに、空は灯台を描き始めた。夕日に照らされた灯台。赤く染まった空と海。そして、灯台の窓から見える一羽の鳥。
 筆が自然に動く。色が混ざり合い、形が生まれていく。
「綺麗な絵ね」
 背後から声がした。振り返ると、顧問の森田先生が立っていた。
「ありがとうございます」
「桜井さんの絵、最近変わってきたわね」
「変わった……ですか?」
「うん、前より感情が出てきた」
 森田先生の言葉に、空は少し驚いた。自分でも気づかなかった変化を、先生は見抜いていたのだ。
「鹿島さんの影響かしら」
「え?」
「最近、二人でよく話してるでしょう?鹿島さんの絵には感情がこもっている。桜井さんも、その影響を受けたのかな」
 空は黙って頷いた。確かに、鹿島から多くのことを学んでいた。
「そういえば、鹿島さん今日は?」
「……体調が優れないそうです」
「そう……」
 森田先生の表情に、何か心配そうな影が過ぎった。空は不思議に思ったが、それ以上は聞けなかった。
「桜井さんも無理しないでね」
 そう言って、森田先生は他の生徒たちの様子を見に行った。空は再び絵に向き合った。
筆を動かしながら、心はさまざまな思いで満たされていた。美咲のこと、葉山のこと、そして鹿島のこと。自分の周りの人々が、少しずつ自分の心に入り込んできている感覚。それは新しい経験だった。
 しばらくして、美咲が美術室に入ってきた。彼女は空の隣に自分のキャンバスを設置し、作業を始めた。いつもなら二人でおしゃべりをしながら描くのに、今日は何となく言葉が少なかった。
「空、私、決めたよ」
 突然、美咲が小さな声で言った。
「なに?」
「葉山くんが学校に戻ってきたら、告白する」
 美咲の決意に、空は何も言えなかった。ただ、小さく頷くことしかできなかった。
「怖いけど…….でも、言わないと始まらないよね」
 美咲の言葉に、空は自分自身のことを考えていた。言わないと始まらない。そうだ。でも、何を言えばいいのだろう。自分の中にある混乱した感情を、どう言葉にすればいいのだろう。
「美咲は勇気があるね」
 素直な感想を伝えると、美咲は少し照れたように笑った。
「そんなことないよ。ただ……好きになったら、言わないと後悔しそうで」
 その言葉に、空は何かを考えさせられた。後悔しないために、言葉にする。それは大切なことかもしれない。

 美術部の活動が終わり、空は一人で帰路についた。美咲は生徒会の用事でまだ学校に残っていた。
 夕暮れの町を歩きながら、空は考え事をしていた。美咲の決意。葉山の秘密。自分の中の変化。全てが混ざり合い、頭の中で渦を巻いていた。
 ふと、父の建築事務所が近いことに気がついた。いつもは寄らないけれど、今日は何となく足が向いた。父に会いたいような、何か話したいような、そんな気持ちが湧いていた。
 事務所は駅から少し離れた小さなビルの3階にあった。「桜井建築設計事務所」という小さな看板がドアに掛かっている。空はそっとドアを開けた。
 中は静かで、受付の女性は既に帰ったようだった。奥の小さな個室が父の執務室。その扉も少し開いていた。
「お父さん」
 空は小さく声をかけようとした、その時。
 父の小さな嗚咽が聞こえた。
 驚いて、空は足を止めた。泣いている?父が?
 扉の隙間から、かすかに中の様子が見える。父は椅子に座り、一枚の写真を手に持っていた。母の写真だった。小さな星を抱き、空が傍らに立つ家族写真。母が亡くなる一年前に撮ったもの。
 父の肩が小刻みに震えている。静かに、でも確かに泣いていた。
 空は息を呑んだ。父が泣いているところなど、見たことがなかった。母が亡くなった時でさえ、父は涙を見せなかった。「お前たちが頼りにしているんだから」と言って、強い姿を見せ続けた。
 今、目の前にいるのは、強い父ではなく、一人の悲しみを抱えた男性だった。妻を失った悲しみを、五年経った今でも抱えている人。
 空は静かに後ずさりした。父の私的な時間を邪魔するべきではない。そっと事務所を出て、空は階段を下りた。
 外に出ると、空は深く息を吐いた。胸が締め付けられるような感覚があった。父も、自分と同じだったのだ。感情を抑え込み、強がって生きていた。本当は心の中で泣いていたのに。
(私たちは皆、何かを隠している)
 鹿島の言葉が蘇ってきた。
 父も、葉山も、そして自分自身も。皆、心の奥底に言えない思いを抱えている。

 家に帰ると、星が宿題をしていた。リビングのテーブルで、数学のドリルに向かっている。
「ただいま」
「お帰り、お姉ちゃん!」
 星は明るく笑顔を見せた。その無邪気な笑顔に、空は少し救われる思いがした。
「宿題、手伝おうか?」
「うん!この問題、分からなくて……」
 星が指差した問題を見ながら、空は優しく説明を始めた。星の真剣な顔を見ていると、不思議と心が落ち着く。
「お姉ちゃん、今日遅かったね」
「うん、美術部があったから」
「何描いてるの?」
「灯台」
「見せて欲しいな」
「うん、いつか」
 本当は今はまだ見せたくなかった。自分の絵が、自分の心の内側を映し出していることが、少し怖かった。星には、まだ見せる準備ができていなかった。
「パパ、今日も遅いの?」
「うん、多分」
 父の姿を思い出して、空は少し胸が痛んだ。今日見た父の姿。それは決して星に話せることではなかった。
「お姉ちゃん、顔色悪いよ?」
 星の素直な言葉に、空は少し驚いた。
「そう?大丈夫だよ」
 いつもの「大丈夫」という言葉。でも今日は、その言葉自体が空しく感じられた。本当に大丈夫なのだろうか。

 夕食を終え、星が風呂に入っている間、空は自分の部屋で窓際に立っていた。夜空には星が瞬き、遠くの灯台の光が定期的に回っている。
 心の中は、様々な思いが入り混じっていた。
 美咲の告白の決意。葉山への微妙な感情。泣いていた父の姿。
(私は何がしたいんだろう)
 自問しても、答えは見つからなかった。でも、一つだけ分かったことがある。自分も、父も、そして多分葉山も、皆「大丈夫」という仮面の下に本当の感情を隠している。それは強さなのか、それとも弱さなのか。
 空はスケッチブックを取り出し、新しいページを開いた。そして、描き始めた。海を見下ろす崖の上に立つ人影。後ろ姿だけど、それは明らかに父だった。夕日に照らされ、長く伸びる影。そして、その影は母の形に似ていた。
 描きながら、空の頬を一筋の涙が伝った。
 なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。でも、何かが少しずつ溶けていくような感覚があった。固く閉ざしていた心の氷が、少しずつ解けていくような。

 翌朝、空が朝食の準備をしていると、父が台所に入ってきた。
「おはよう」
「おはよう」
 普段と変わらない挨拶。でも、空の中では何かが違っていた。昨日見た父の姿が、まだ鮮明に残っている。
「今日は早く帰れるかな?」
 突然、そんな言葉が空の口から出た。父は少し驚いたように空を見た。
「そうだね、今週のプロジェクトが一段落したから、早く帰れるかもしれないよ」
「そう……」
 空はそれ以上何も言えなかった。本当は「一緒に夕食を食べよう」と言いたかった。でも、その言葉は喉に引っかかったまま出てこなかった。
「空、何かあったの?」
 父の優しい問いかけに、空は少し動揺した。
「ううん、何も……」
 それが精一杯の返事だった。本当は言いたいことがあった。「お父さんも無理しないで」「泣きたい時は泣いていいんだよ」「私たちは家族だから、一緒に悲しんでもいいんだよ」。
 でも、そんな言葉は言えなかった。代わりに、空は小さく微笑んだ。
「ただ、たまには早く帰ってきてほしいなって思って」
 その言葉に、父の表情がわずかに柔らかくなった。
「そうだね。今度の休みは、どこか一緒に出かけようか。三人で」
「うん」
 その約束に、空の心は少し明るくなった。小さな一歩かもしれないけれど、何かが変わり始めている感覚があった。

 学校に着くと、空は教室に入る前に立ち止まった。今日も葉山は来ているだろうか。胸がドキドキする。
 深呼吸して、ドアを開けた。
 すると、そこには葉山がいた。いつもの席に座り、窓の外を見ていた。空の姿に気づくと、彼は少し照れたように微笑んだ。
「おはよう」
「……おはよう」
 空は自分の席に着いた。葉山は少し痩せたようにも見えたが、顔色は悪くなかった。
「心配した?」
 突然の質問に、空は言葉に詰まった。
「少し……」
 正直に答えると、葉山の表情が柔らかくなった。
「ごめんね。風邪引いちゃって」
 彼の説明は、どこか嘘のように聞こえた。でも、空はそれ以上追及しなかった。
「大丈夫? もう」
「うん、完全復活」
 葉山は元気よく答えたが、その目はどこか虚ろに見えた。空はじっと彼の顔を見た。言葉にはしなかったが、「本当のことを話してくれてもいいんだよ」という思いを込めて。
 葉山はその視線に気づいたのか、少し視線を逸らした。
「ねえ、桜井さん」
「なに?」
「放課後、ちょっといいかな。話したいことがあって」
 その言葉に、空の心臓が早く打ち始めた。何を話したいのだろう。彼の秘密? それとも別のこと?
「うん」
 空はシンプルに答えた。その時、教室のドアが開き、美咲が顔を覗かせた。
「おはよう! あ、葉山くん、戻ってきたんだ!」
 美咲は嬉しそうに葉山に声をかけた。葉山も笑顔で応えた。
「ごめんね、心配かけて」
「大丈夫? もう具合は」
「うん、問題ない」
 美咲と葉山の会話を聞きながら、空は複雑な思いに包まれていた。美咲は葉山に告白すると言った。葉山は空に話があると言った。そして空自身の心の中には、まだ整理できていない感情がある。
 この関係は、これからどうなっていくのだろう。
 チャイムが鳴り、美咲は自分のクラスへと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、空は深いため息をついた。
(私、どうしたいんだろう)
 自問自答しながら、空は授業の準備を始めた。窓の外では、爽やかな五月の風が木々を揺らしていた。今日も一日が始まる。変化の兆しを感じながらも、空の日常はいつも通り続いていく。