日曜日の午後、空は一人で家の近くの海岸線を歩いていた。父は出張中で、星は友達の家に遊びに行っている。珍しく誰の世話もしなくていい時間。そんな時間が訪れても、空は特にやりたいことがあるわけではなかった。
 波の音が規則正しく砂浜に打ち寄せる。潮の香りが鼻をくすぐり、風が髪をなびかせる。空は深く息を吸い込んだ。塩辛い空気が肺に入り込む感覚。
(お母さんと一緒に歩いた浜辺)
 かすかな記憶が蘇る。母の手を握り、この浜辺で貝殻を拾った日々。それは、まるで昨日のようでもあり、遠い昔のことのようでもあった。
 空は歩きながら、ふと目の前に立つ建物に気づいた。古い灯台。浜風町のシンボルとして知られる建物だが、今は使われていない。白と赤のストライプの塗装は色あせ、窓ガラスの一部は割れたままだった。でも、どこか風格のある佇まい。
 立ち止まって灯台を見上げる。どうしてだか分からないが、今日はその扉の方へ足が向いていた。普段なら絶対に近づかない場所。でも、何かに導かれるように、空は灯台の入り口まで歩いた。
 錆びた扉は、意外にも簡単に開いた。軋む音と共に、薄暗い内部が現れる。空は一瞬躊躇ったが、何かに突き動かされるように一歩踏み出した。
 内部は想像よりも広く、らせん階段が上へと続いている。壁には古いポスターや注意書きが貼られ、床には埃が積もっていた。薄暗い空間に、小さな光の筋が天井の隙間から差し込んでいる。
 空は静かにらせん階段を上り始めた。階段の一段一段が軋み、その音が灯台内に響く。上へ、上へと登るにつれ、心臓の鼓動が速くなる。自分が何をしているのか、なぜここに来たのか、分からなかった。ただ、登り続けることしかできなかった。
 階段を上り切ると、円形の部屋に出た。かつて灯りがあった場所だろう。大きな窓が海に向かって開かれ、午後の日差しが部屋を黄金色に染めていた。波の音がここまで聞こえ、潮風が窓から流れ込んでくる。
 そして、部屋の中央に、一人の人影があった。
「……鹿島先輩?」
 空の声に、イーゼルの前に立っていた人物が振り返った。驚いた表情の鹿島奏が、そこにいた。
「桜井さん……どうしてここに?」
 鹿島の声には警戒心が混じっていた。空は言葉に詰まった。確かに、なぜ自分がここにいるのか、説明できなかった。
「ごめんなさい……邪魔をするつもりはなくて……」
 空は後ずさりしようとした。その時、鹿島の表情が和らいだ。
「いいよ。驚いただけ」
 鹿島はそう言って、イーゼルの前から少し離れた。空はそっと近づき、鹿島が描いていた絵を見た。
 息を呑む。
 それは海の絵だった。でも、ただの海ではない。波の一つ一つが感情を持っているかのように描かれ、空と海が溶け合う地平線は、まるで別の世界への入り口のように輝いていた。色彩は鮮やかでありながら、どこか儚さを感じさせる。見ているだけで、胸が締め付けられるような、奇妙な痛みと喜びが混ざった感覚が湧き上がった。
「すごい……」
 思わず漏れた言葉に、鹿島は小さく微笑んだ。
「ここからの景色が好きなんだ」
 鹿島は窓の外を指した。確かに、ここからの眺めは素晴らしかった。水平線まで広がる青い海、白い波頭、遠くに見える小さな島々。夕日が海面を赤く染め始めていた。
「よく、ここに来るんですか?」
「ここだけが、私の場所だから」
 鹿島の言葉に、空は何か共感するものを感じた。自分だけの場所。誰にも邪魔されない、本当の自分でいられる場所。空にもそんな場所が欲しかった。
「座る?」
 鹿島は窓の下の小さな段差を指差した。二人はそこに腰掛け、しばらく黙って海を眺めた。鹿島は空より一つ学年が上だが、今は同い年の友達のように感じられた。
「桜井さんも絵を描くよね」
 鹿島の声が静かに響く。
「はい……でも、先輩みたいには……」
「何を描きたいの?」
 鹿島の質問に、空は答えられなかった。確かに絵を描くのは好きだけど、何を描きたいのか。本当に描きたいものは何なのか。そんなことを考えたこともなかった。
「……分からないです」
 空は正直に答えた。鹿島はそれを聞いて、少し悲しそうな表情を浮かべた。
「私は、自分の感じることをすべて描くようにしてる。楽しいこと、悲しいこと、誰にも言えないこと……全部」
 鹿島の言葉は、静かに空の心に染み込んでいった。
「言葉にできないことを、色と形にする。それが私にとっての絵」
 空は黙って聞いていた。自分の感じること。誰にも言えないこと。それを表現する方法。
「桜井さんはいつも、何かを閉じ込めてるように見える」
 突然の言葉に、空は驚いて顔を上げた。鹿島の真剣な眼差しが、まっすぐに空を見つめていた。
「私のことを……見ていたんですか?」
「美術部にいれば、皆の絵を見るでしょう。あなたの絵は、技術はあるのに、何も語ってない」
 鹿島の言葉は痛みを伴ったが、嘘ではなかった。空は自分の絵が「何も語っていない」ことを、うすうす感じていた。
「言いたいことがあるのに、言えないんだと思う」
 鹿島の声は優しかった。空は膝を抱えるように体を丸めた。なぜかわからないが、涙が溢れそうになる。
「……どうすれば」
 空の声は震えていた。
「どうすれば、言えるようになりますか」
 鹿島はしばらく黙っていた。やがて、彼女は立ち上がり、イーゼルの前に戻った。
「私にも分からない。でも……」
 彼女は筆を手に取り、優しく微笑んだ。
「描いているうちに、少しずつ見えてくるんだと思う」
 鹿島が再び絵に向かう姿を、空は静かに見つめていた。その背中は小さいのに、なぜか強さを感じさせた。
 空はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。すでに太陽は西の空に傾き、海を赤く染めていた。帰らなければ。星がもうすぐ帰ってくるはずだ。
「……失礼します」
 空が言うと、鹿島は振り返らずに小さく頷いた。
「また来ていいよ、ここに」
 その言葉は、まるで風のようにふわりと空に届いた。

 灯台を出た空は、海岸線に沿って家路を急いだ。風が強くなり、波の音も大きくなっていた。頭の中は、鹿島の言葉でいっぱいだった。
(自分の感じることをすべて描く)
(言葉にできないことを、色と形にする)
 そして、もう一つ。
(あなたは何かを閉じ込めてる)
 それは空自身も薄々感じていたことだ。感情を、言葉を、すべて自分の中に閉じ込めて生きてきた。「大丈夫」「問題ない」そんな言葉の裏に、本当の気持ちを隠して。
 頭の中でぐるぐると思考が巡る。そのせいか、空は前方から歩いてくる人影に気づくのが遅れた。
「あれ、桜井さん?」
 聞き慣れた声に、空は顔を上げた。そこに立っていたのは葉山だった。カジュアルな服装で、首にイヤホンをかけている。明らかに驚いた表情を浮かべていた。
「葉山……くん」
「こんな所で何してるの?」
 葉山は空の後ろの灯台を見た。空は一瞬言葉に詰まった。
「散歩……してただけ」
「灯台から出てきたよね? 中に入ったの?」
 葉山の好奇心に満ちた質問に、空は少し体を強張らせた。
「少し……見てただけ」
「へえ、中ってどうなってるの? 入れるんだ」
 葉山の目が輝いていた。空は困惑した表情を隠せなかった。鹿島との時間は、なぜか誰にも知られたくない秘密のように感じていた。
「別に……何もないよ」
「そっか」
 葉山は少し首をかしげたが、それ以上は追及しなかった。その代わりに、彼は空の隣を歩き始めた。
「俺も帰るところ。一緒に行こう」
 空は断る理由を見つけられず、黙って頷いた。二人は並んで歩き始めた。
「桜井さんって、いつも一人で何してるの?」
 突然の質問に、空は少し戸惑った。
「特に……何も」
「美術部でしょ? 絵とか描くの?」
「うん……」
「見せてよ、今度」
 葉山の無邪気な笑顔に、空は何と答えていいか分からなかった。自分の絵を誰かに見せるなんて、考えたこともなかった。
「あ、でも無理に言ってるわけじゃないから」
 葉山は空の表情を見て、急に言い足した。
「ごめん、図々しかった?」
「ううん……そういうわけじゃ……」
 空は言葉を選びながら、ゆっくりと話した。
「ただ……私の絵、つまらないから」
「そんなことないと思うよ」
 葉山の即答に、空は驚いて顔を上げた。
「俺、桜井さんのノートの落書き見たけど、上手いと思った。鳥とか、すごく生き生きしてた」
 数学の時間に描いた鳥のこと。空は葉山がそんなことを覚えていたことに驚いた。
「あれ、鳥籠から飛び立とうとしてるみたいで、なんか印象的だったんだ」
 鳥籠から飛び立つ鳥。空は自分でも意識していなかった。でも言われてみれば、確かに描いた鳥はそんな姿だった。
(私は……鳥籠から飛び立ちたいの?)
 自分自身の思いが無意識に絵に現れていたのかもしれない。鹿島の言葉が再び頭に浮かぶ。「あなたは何かを閉じ込めてる」
「ねえ、明日、学校?」
 葉山が話題を変えた。空はゆっくり我に返り、「うん」と答えた。
「じゃあ、また学校で」
 分かれ道に来て、葉山は手を振った。空も小さく手を振り返す。
 葉山の後ろ姿を見送りながら、空の心には奇妙な感覚が広がっていた。今日出会った二人の人間。鹿島と葉山。二人とも、空の心に何かを残していった。特に鹿島の言葉は、空の中に小さな揺らぎを生み出していた。
 自分の本当の気持ち。言葉にできないもの。それを表現する方法。
 空は家路を急ぎながら、心の中に芽生えた小さな変化を感じていた。

「お姉ちゃん、おかえり!」
 家に帰ると、星がすでに戻っていた。友達の家からの帰り道で、コンビニでアイスを買ってきたらしく、嬉しそうに見せてくる。
「これ、お姉ちゃんの分」
 星が一本のアイスを差し出した。空はそれを受け取り、「ありがとう」と微笑んだ。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと、海の方を散歩してた」
「一人で?寂しくないの?」
 星の素直な質問に、空は少し考え込んだ。
「うん……少し、寂しかったかな」
 自分でも驚くような正直な答えだった。星も予想外だったようで、大きな目を見開いた。
「わたしも連れてってよ、今度!」
「うん、いいよ」
 空はそっと星の頭を撫でた。こんな何気ない会話でも、今日は少し違って感じられた。自分の気持ちを素直に言葉にするということ。それはとても小さな一歩だったけれど、空にとっては大きな変化だった。
「晩ご飯、何がいい?」
「えっと……オムライス!」
 星の笑顔に、空も自然と笑顔になった。

 その夜、空は自分の部屋でスケッチブックを開いていた。新しいページに、今日見た灯台の風景を描き始める。鉛筆の線が紙の上を滑る音だけが部屋に響く。
 灯台。窓。そこから見える海。そして、イーゼルの前に立つ鹿島の後ろ姿。
 それから、空は自分でも意識せずに、もう一枚のページをめくり、何か別のものを描き始めた。それは人物画だった。小さな少女が、大きな鳥籠の中に座っている。鳥籠の扉は開いているのに、少女は出ようとしない。少女の表情は悲しげで、でも目は強い光を湛えている。
 描き終えて、空は自分が何を描いたのか、じっと見つめた。これは……自分自身なのか?
 ふと、鹿島の絵を思い出す。あの絵には、感情がこもっていた。鹿島自身の魂が宿っているような絵。空は自分の絵を見つめ直した。まだ足りない何か。でも、今までよりは少し、自分の気持ちが表れているような気がした。
 空はスケッチブックを閉じ、窓際に立った。夜空には星が瞬き、海はその光を静かに反射している。明日からまた学校。また日常が始まる。
 でも、何かが違う。空の心の中に、小さな光が灯ったような気がした。

 翌日の朝、空はいつもより少し早く目覚めた。カーテンを開けると、朝日が水平線から昇り始めていた。美しい光景に、空の胸が少し締め付けられる。
 朝の準備を整え、星を起こし、いつも通りの朝が始まった。でも、空の中では何かが変わり始めていた。
「お姉ちゃん、今日も遅くなるの?」
 朝食を食べながら、星が尋ねた。
「美術部があるから、少し遅くなるかも」
「そっか……」
 星の声には少しの寂しさが混じっていた。空は星の表情をじっと見た。
「でも、できるだけ早く帰るね」
「約束する?」
「うん、約束する」
 星の顔が明るくなった。こんな小さな約束でも、星にとっては大切なことなのだと、空は改めて気づいた。

 学校に着くと、教室はすでにざわめいていた。空は静かに自分の席に着き、教科書を出した。
「おはよう」
 隣から声がした。葉山が笑顔で挨拶してきた。
「おはよう……」
 空も小さく答えた。葉山は何か言いかけたが、その時ちょうどチャイムが鳴り、授業が始まった。
 一日の授業が進む中、空は何度か葉山の視線を感じた。彼が空に対して特別な興味を持っていることは明らかだった。でも、なぜだろう?空には分からなかった。自分には特別なところなど何もないのに。
 昼休み、美咲が空の席に来た。
「空、お昼食べに行こう?」
「うん」
 空が立ち上がると、隣の葉山も立ち上がった。
「俺も一緒にいい? まだ学校のこと、よく分かんなくて」
 唐突な申し出に、美咲は驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔になった。
「もちろん! 葉山くんよね。私、佐伯美咲。空の親友です」
「よろしく」
 葉山は明るく答え、三人は一緒に中庭へと向かった。
 木陰のベンチに座り、弁当を広げる。美咲は葉山に次々と質問を投げかけた。東京での生活、転校の理由、趣味のこと。葉山は気さくに答えるが、時々話題を空に向けた。
「桜井さんは、この町ずっと住んでるの?」
「うん……生まれてからずっと」
「いいよね、海が近くて。東京じゃ、こんな景色見られないから」
 葉山は中庭から見える海を指差した。確かに、浜風町の高台にある学校からは、美しい海が一望できる。空は小さくうなずいた。
「空ちゃんのお父さんは建築家なんだよね?」
 美咲が会話に入った。
「すごいね、建築家って。どんな建物設計してるの?」
 葉山の質問に、空は少し戸惑った。父の仕事について、詳しく話したことはなかった。
「マンションとか……オフィスビルとか」
「へえ、格好いいな。俺の親は……」
 葉山は一瞬言葉を切った。彼の表情に、何か暗いものが過ぎったように見えた。
「……まあ、普通のサラリーマンだよ」
 空は葉山の表情の変化を見逃さなかった。何か隠しているような感じがした。でも、それ以上は聞けなかった。自分だって、家族のことを詳しく話したくない時があるのだから。
 昼休みが終わり、三人は教室に戻った。美咲は自分のクラスへと別れていく時、空に小さく耳打ちした。
「葉山君、かっこいいね。空に興味あるみたい」
 空は何も答えられず、顔が熱くなるのを感じた。

 放課後、空は美術室へと向かった。今日は何を描こうか。昨日の灯台での出来事が、まだ鮮明に心に残っている。
 美術室に入ると、すでに何人かの部員が来ていた。空は静かに自分の定位置に向かい、キャンバスを準備する。
 そして、意外なことに、鹿島の姿があった。普段は遅れて来るか、来ない日もある先輩だが、今日は早くから来ていた。空と目が合うと、鹿島は小さく頷いた。
 空は自分のキャンバスに向かい、筆を取った。今日は何を描こう。昨日見た灯台からの景色? 鹿島の後ろ姿?それとも、自分自身の心の中?
 迷いながらも、空は筆を動かし始めた。青い色から。空の色。そして、少しずつ海の青へ。波の形が生まれ、光の反射が加わる。
「桜井さん」
 集中している時、後ろから声がした。振り返ると、鹿島が立っていた。
「先輩……」
「昨日の続き、描いてるの?」
「はい……でも、うまくいきません」
 鹿島は空のキャンバスをしばらく見つめた。
「技術はあるわ。でも、まだ自分が見えていない」
 空は黙ってうなずいた。鹿島の言うことは、何となく分かった。自分の感情が、まだ絵に表れていない。
「時間はかかるよ。自分を見つけるのは」
 鹿島はそう言って、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます」
 空は小さく答えた。鹿島は何か言いかけたが、そのとき美咲が駆け込んできた。
「空! 大変! 今すぐ来て!」
 美咲の興奮した声に、空は驚いて立ち上がった。
「どうしたの?」
「葉山君が、校庭で倒れたんだって!」
 空の心臓が跳ねた。葉山が? どうして?
「私、行ってくる」
 鹿島に一瞥を送り、空は美咲について走り出した。

 保健室に着くと、葉山はベッドに横たわっていた。顔色は悪く、額に冷たいタオルが置かれている。
「大丈夫?」
 空が小さく声をかけると、葉山は目を開け、苦笑いした。
「ごめん、心配させて。ちょっと貧血みたい」
「何があったの?」
「校庭でバスケしてたら、急に目の前が真っ暗になって……」
 葉山は言葉を切った。空の視線が、彼の腕に向けられていたからだ。ベッドから出ている彼の腕には、青あざがあった。
「それ……」
 空が言いかけると、葉山は急いで腕を引っ込めた。
「ぶつけただけ。心配ないよ」
 彼の声には、僅かな緊張が混じっていた。空は何も言わず、ただ葉山の表情を見つめた。
「見に来てくれてありがとう」
 葉山は話題を変えるように笑顔を見せた。
「美術部、途中で抜けてきたんでしょ? 戻らなきゃ」
「……大丈夫?」
「うん、保健の先生が言うには、少し休めばいいって。心配しないで」
 葉山は明るく言ったが、その目は少し寂しげに見えた。空はどうすべきか迷った。美術部に戻るべきか、ここに残るべきか。
「じゃあ……また明日」
 空は小さく言い、保健室を出た。廊下に出ると、美咲が待っていた。
「どう? 大丈夫だった?」
「うん……貧血だって」
「よかった、大事じゃなくて」
 美咲はほっとした表情を見せた。空は黙って頷いたが、心の中では葉山の腕のあざが気になっていた。あれは本当に「ぶつけた」だけなのだろうか。
 二人は美術室に戻ったが、空の心はもはや絵に集中できなかった。鹿島の言葉、灯台での出来事、そして葉山の腕のあざ。様々な思いが、空の心の中でぐるぐると回っていた。
 絵筆を持つ手が止まってしまう。今日はもう描けそうにない。空は早めに片付けを始めた。
「もう帰るの?」
 美咲が驚いた声で尋ねた。
「うん……星に早く帰るって約束したから」
 それは嘘ではなかったが、本当の理由は別にあった。心が落ち着かなくて、もう描けない。そんな気持ちだった。
 片付けを終え、空は美術室を出た。廊下では、鹿島と鉢合わせた。
「もう帰るの?」
「はい……」
 鹿島は空の表情をじっと見つめた。
「また灯台に来る?」
 突然の誘いに、空は驚いた。
「はい……行ってもいいですか?」
「いつでも。私の場所だけど、桜井さんにも分けてあげる」
 鹿島の言葉には、優しさがこもっていた。空は小さく頭を下げた。
「今度、スケッチブック持ってきて。見せてほしいものがある」
 そう言い残して、鹿島は歩き去った。空は不思議な気持ちで、その後ろ姿を見送った。

 帰り道、空は保健室の前で立ち止まった。葉山はまだいるのだろうか。少し迷った後、空はそっとドアを開けた。
 中は静かで、葉山はベッドで眠っていた。顔色は先ほどよりも良くなっていたが、まだ少し青白い。空は静かに近づき、彼の腕を見た。Tシャツの袖からは、やはり青あざが見えていた。
(あれは本当に……)
 考えながら、空は葉山の横顔を見つめた。いつもの明るさとは違う、無防備な表情。何か秘密を抱えているような、そんな印象を受けた。
 空は小さくため息をつき、そっと保健室を出た。
 夕暮れの校舎を出ると、西の空が赤く染まっていた。空は高台への坂道を上りながら、今日一日のことを考えていた。
 鹿島との会話。美術部での時間。葉山の腕のあざ。全てが繋がっているような、でも何か重要なピースが欠けているような、そんな感覚。
 灯台が見える海岸線を通りながら、空は昨日のことを思い出していた。灯台の中で、鹿島が描いていた絵。あの絵には、言葉にできない感情が込められていた。
(私も、そんな風に描けるようになりたい)
 そう思いながら、空は家路を急いだ。星との約束を守るために。